ゴッホ 生涯

フィンセント・ファン・ゴッホ|10年で2,000点を描いた男の、論理的な生涯|アーティストの人生
生涯1853–1890年オランダ/フランスポスト印象派
ARTIST · BIOGRAPHY

フィンセント・ファン・ゴッホVincent van Gogh

ファン・ゴッホは、狂気に支配された衝動的な天才として語られてきた。しかし数字を見ると別のことが見えてくる。彼が画家として活動したのは27歳から37歳までの、わずか10年である。その10年で油彩約860点を含む2,000点以上を制作した。単純計算で2日に1点を超える。衝動でこの量は出ない。そして彼が遺した膨大な書簡には、補色理論の検討、浮世絵の構図原理の分析、文学からの引用が延々と綴られている。近年の研究が示すのは、同時代の芸術運動を意図的かつ体系的に自分の造形言語へ統合していった、高度に知的な画家の姿である。この記事では、ズンデルトの牧師館からオーヴェールの麦畑までの37年を、14章で年代順にたどる。

フィンセント・ファン・ゴッホ《自画像》1889年9月 オルセー美術館
《自画像》1889年9月。油彩・カンヴァス、65×54cm。サン=レミを離れる直前に描かれた、最後の自画像とされる一点。オルセー美術館所蔵/Wikimedia Commons/CC BY-SA 4.0
PROFILE基本情報
生年1853年3月30日
出身オランダ・北ブラバント州ズンデルト(牧師館)
没年1890年7月29日
没地フランス・オーヴェール=シュル=オワーズ
享年37
画業の期間1880年(27歳)〜1890年(37歳)の約10年
総制作点数2,000点以上(うち油彩約860点)
ジャンル油彩・素描(人物・風景・静物・自画像・模写)
運動ポスト印象派
収集した浮世絵約350点以上
主な代表作《馬鈴薯(ばれいしょ)を食べる人々》(1885)/《ファン・ゴッホの寝室》(1888)/《ひまわり》(1888–89)/《星月夜》(1889)/《オリーブの木々》(1889)/《カラスのいる麦畑》(1890)
生涯の4区分①職業遍歴期(1853–1880)/②オランダ暗色期(1880–1886)/③パリ・色彩の獲得(1886–1888)/④南仏と最期(1888–1890)
主な支援者弟テオドルス(テオ)・ファン・ゴッホ(画商)/義妹ヨー・ファン・ゴッホ=ボンゲル/画材商ジュリアン・タンギー(タンギー爺(じい)さん)/医師ポール・ガシェ
主な所蔵館ファン・ゴッホ美術館(約5,000点のコレクション)/クレラー・ミュラー美術館/オルセー美術館/ニューヨーク近代美術館(MoMA)/メトロポリタン美術館/ロンドン・ナショナル・ギャラリー/J・ポール・ゲティ美術館
3点でわかるフィンセント・ファン・ゴッホの生涯
  1. 画家として活動したのは27歳から37歳までの約10年にすぎない。その短期間に油彩約860点を含む2,000点以上を制作している。それ以前の彼は、画商の店員、語学教師、書店員、そして炭鉱地帯の伝道師として職を転々としていた。
  2. パリ時代に約350点以上の浮世絵版画を収集し、その造形原理――遠近法の解体、明瞭な輪郭線、平面的で鮮やかな色彩、主役を端に寄せる大胆な構図――を論理的に分析して自身の画風に統合した。彼は南仏アルルを「私の日本」と呼んでいる。
  3. アルルでゴーギャンと共同生活を送ったのはわずか63日間である。この間にファン・ゴッホは約40点、ゴーギャンは約20点を制作した。決裂の核心は「芸術の源泉を自然の観察に求めるか、記憶と想像力に求めるか」という原理的な対立にあった。
BIOGRAPHY

フィンセント・ファン・ゴッホの生涯

オランダの牧師館から、オーヴェールの麦畑まで。37年を14章で。

1853–1869ZUNDERT01

ズンデルトの牧師館

フィンセント・ウィレム・ファン・ゴッホは、1853年3月30日、オランダ南部・北ブラバント州の村ズンデルトに生まれた。父テオドルスはオランダ改革派教会の牧師である。

この誕生には、生涯つきまとうことになる事情がある。その1年前の同じ3月30日に、両親は最初の息子を死産で失っていた。その子の名も「フィンセント・ウィレム」だった。

つまり彼は、死んだ兄とまったく同じ名前を、同じ誕生日に与えられて生まれたことになる。教会の墓地には、自分と同じ名前が刻まれた墓石が立っていた。

この事実が彼の心理に与えた影響については、研究者のあいだで解釈が分かれる。過度に神話化された読みも多い。ただ、牧師の家庭という宗教的環境が彼の思考の骨格を作ったことは、後の書簡から確認できる。彼は生涯にわたって聖書を引用し続けた。

一家は決して裕福ではなかったが、文化的な資本は持っていた。父方には美術商を営む伯父たちがおり、なかでも「セント伯父さん」と呼ばれた人物は、国際的画商グーピル商会の共同経営者だった。この縁が、彼の最初の職業を決めることになる。

弟テオドルス(テオ)は1857年に生まれた。4歳下である。この兄弟関係が、後の美術史を成立させる。

フィンセント・ファン・ゴッホが生まれたズンデルトの牧師館
ズンデルトの牧師館(1900年撮影)ファン・ゴッホが1853年3月30日に生まれた牧師館。父テオドルスはこの地でオランダ改革派教会の牧師を務めていた。Wikimedia Commons
1869–1878THE HAGUE / LONDON / PARIS02

画商、教師、書店員

1869年、16歳でフィンセントは画商グーピル商会ハーグ支店に就職した。伯父の口利きである。

最初の数年は順調だった。ハーグ支店の支店長テルステーフは、「画廊では誰もが――美術愛好家も顧客も画家も――フィンセントが応対するのを好んでいる。彼はきっとこの職業で成功するだろう」という趣旨の評価を残している。

つまり彼は、もともと誰からも好かれる青年だった。この点は、後年のイメージとかなり食い違う。

1873年、ロンドン支店へ栄転。20歳である。しかしこの地での失恋が、彼を変えたとされる。以後、彼は宗教に深く傾倒し、接客中に顧客と美術の価値について議論するようになる。

1875年にパリ本店へ異動となるが、勤務態度は改善しなかった。そして1876年、グーピル商会を解雇される。23歳。7年間勤めた職を失った。

以後の2年間、彼は職を転々とする。イギリスで寄宿学校の語学教師、次いで牧師助手。オランダに戻って書店員。いずれも長続きしなかった。

1877年、彼は牧師になることを決意し、アムステルダムで神学部の受験勉強を始める。ラテン語とギリシャ語。しかし1年余りで断念した。翌1878年、ブリュッセル近郊の伝道師養成学校に入るが、ここも3か月の試用期間で正式採用に至らなかった。

16歳から25歳までの9年間で、彼は5つの進路に失敗している。

ハーグのグーピル商会旧画廊
ハーグのグーピル商会旧画廊16歳のファン・ゴッホは1869年に同商会ハーグ支店へ就職し、画商として最初の職業生活を始めた。OSeveno / Wikimedia Commons / CC BY-SA 3.0
1878–1880BORINAGE, BELGIUM03

ボリナージュの伝道師

1878年末、フィンセントはベルギー南部の炭鉱地帯ボリナージュへ向かった。正式な資格を持たないまま、伝道師として働き始める。25歳。

ここで彼がやったことは、当時の教会組織の想定を大きく超えていた。

彼は自分の給料と持ち物をほとんど貧しい坑夫たちに与え、自らも小屋に住み、粗末な食事をとり、彼らと同じ姿になろうとした。負傷した坑夫を看病し、爆発事故の後には自分のシャツを包帯として裂いた。

聖職者としての体面は完全に失われた。教会当局はこれを「聖職者の威厳を損なうもの」と判断し、1879年、彼の任期は更新されなかった。

献身しすぎたことで解任された、という逆説的な結末である。

そしてこの直後、彼は決定的な転身をする。1880年、27歳で画家になることを決意した。

なぜ絵だったのか。手がかりは書簡にある。彼は坑夫たちの姿を素描し続けていた。言葉で福音を伝えることに失敗した人間が、線で何かを伝えようとした。

以後の10年、彼は一度も画家であることをやめない。5つの職業に失敗した男が、6つ目でようやく定住したことになる。

補足として、この時期の関心の中心にいた画家がジャン=フランソワ・ミレーである。詳細は第5章で扱う。

フィンセント・ファン・ゴッホ《雪の中の炭鉱労働者》1880年9月
《雪の中の炭鉱労働者》1880年9月鉛筆・色チョーク・透明水彩、紙、44×55cm。ボリナージュで、雪の中を鉱山へ向かう坑夫たちを描いた。クレラー=ミュラー美術館所蔵(KM 111.966)。Wikimedia Commons
1881–1883ETTEN / THE HAGUE / DRENTHE04

ハーグとドレンテ

画家になると決めてから、彼はまず素描の基礎訓練に取り組んだ。

1881年、両親が住むオランダのエッテンに戻り、遠近法や人体比例の教則本を使って独学を進める。同年末、ハーグに移り、遠縁にあたるハーグ派の画家アントン・マウフェに短期間の指導を受けた。油彩と水彩の初歩を教わっている。

しかしこの師弟関係は数か月で破綻する。原因のひとつが、彼の私生活だった。

1882年、彼はシーン・ホールニクという女性と同棲を始める。元娼婦で、幼い子どもがおり、妊娠していた。フィンセントは彼女と子どもたちを引き取って生活を始めた。

家族と親戚は激しく反対した。マウフェも距離を置いた。彼は美術界の縁故と家族の支援を、ほぼ同時に失う。

この時期に描かれた素描が《悲しみ(Sorrow)》(1882年)である。裸の女性が膝を抱えてうずくまる姿を、線だけで描いた。モデルはシーンである。

結局、経済的に立ちゆかず、1883年に彼はシーンと別れた。そしてオランダ北部の泥炭地ドレンテへ向かう。荒涼とした風景のなかで農民と労働者を描くが、孤独と貧困に耐えられず、3か月ほどで両親のもとへ帰った。

この2年半で彼が獲得したものは、人物の量感を線で捉える能力である。派手な成果はない。しかし後年の画面で人物が「重い」のは、この時期の反復による。

フィンセント・ファン・ゴッホ《悲しみ》1882年
《悲しみ(Sorrow)》1882年ハーグ時代の素描。モデルは同棲していたシーン・ホールニク。画面下部にはミシュレの一節「どうしてこの世に、たった一人の、見捨てられた女がいるのか」が書き込まれている。宗教的な主題を人物の姿勢だけで暗示するという、後年まで続く方法がここに現れている。Wikimedia Commons
1883–1886NUENEN / ANTWERP05

ニューネンと『馬鈴薯(ばれいしょ)を食べる人々』

1883年末、フィンセントは父が牧師を務める村ニューネンに移り、実家の物置をアトリエに改造した。ここで約2年を過ごす。

この時期の精神的支柱になったのが、フランス・バルビゾン派の画家ジャン=フランソワ・ミレーである。

ミレーは田園風景と農民の生活を叙情的に描いた画家として知られる。正統な聖職者としての道を挫折したファン・ゴッホにとって、ミレーが描く労働と大地に根ざした生活は、神聖さの新たな体現だった。

教会で福音を説くことができなかった人間が、畑を耕す人間の姿のなかに神聖さを見出した。この置き換えが、彼の画題を決定している。

1885年、この思想が結晶した作品が生まれる。《馬鈴薯を食べる人々》である。

薄暗いランプの下で、農民の一家が食卓を囲み、ジャガイモを食べている。ファン・ゴッホはあえて「皮をむいていない、泥だらけのジャガイモの色」のような暗い土の色を用い、農民たちの骨張った手や粗野な顔立ちを意図的に誇張して描いた。

彼にとって重要だったのは、解剖学的な正確さや技術的な完璧さではなかった。彼らがその手で大地を耕し、自らの糧を誠実に稼ぎ出したという「過酷な現実と労働の尊厳」をカンヴァスに定着させることである。

近年の学術研究では、この時期の彼を、一般的な「種播く人(たねまくひと)」というメタファーだけでなく、自ら大地を掘り起こす「耕す人(Tiller)」としての視点から再評価する動きがある。

そしてこの労働を重んじる身体的感覚は、後の時代において、絵の具を厚く塗り込めるインパスト(厚塗り)技法へと昇華されていく。カンヴァスに絵具を盛るという行為が、土を掘る行為と同じ身体性を持つ、という読み方である。

1885年3月、父テオドルスが急死する。1885年末、彼はアントウェルペン(アントワープ)へ移り、美術学校に籍を置いた。ここでルーベンスの色彩と日本の浮世絵に初めて本格的に触れる。

そして1886年2月、彼は予告もなくパリのテオのもとへ現れる。

フィンセント・ファン・ゴッホ《馬鈴薯を食べる人々》1885年
《馬鈴薯を食べる人々》1885年油彩・カンヴァス、82×114cm。ニューネンで制作された初期オランダ時代の代表作。挫折続きだった青年が画家として最初に到達した地点にあたる。ファン・ゴッホ美術館所蔵(F82/JH764)。Wikimedia Commons
1886–1888PARIS / MONTMARTRE06

パリでの2年間

1886年、ファン・ゴッホは弟テオを頼って芸術の都パリへ移住する。33歳。予告のない到着だったため、テオは自分の小さなアパルトマンに兄を迎え入れることになった。

ここからの2年間が、彼の画風を根本から変える。

パリで彼が交流したのは、ジョルジュ・スーラ、ポール・シニャック、エミール・ベルナール、アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレックら、新印象派の画家たちである。彼らから色彩の分割理論を吸収した。

補色を並置すれば互いを引き立てる。絵具を混ぜずに並べれば明度が落ちない。オランダ時代の暗い土色のパレットは、この2年で完全に置き換わった。

ニューネンの《馬鈴薯(ばれいしょ)を食べる人々》とパリ時代の自画像を並べると、同じ画家の作品とは思えない。色数、明度、筆致の方向、すべてが違う。

もうひとつ、パリで決定的だったのが画材商ジュリアン・タンギー、通称「タンギー爺(じい)さん」との出会いである。彼は貧しい画家たちに画材を掛け売りし、作品を預かって店に飾った。セザンヌもゴーギャンも、この店を経由している。

ファン・ゴッホは彼の肖像を3度描いた。三点を並べると、パリ到着後の画風の進行がそのまま見える。最初は暗く単純な構図、二番目に日本の版画が背景に入り、三番目では日本美術・印象派・パリの画家仲間からの影響が完全に統合されている。

とはいえ、パリの生活は彼を消耗させた。都市の陰鬱(いんうつ)な気候、酒、テオとの同居によるいさかい。1888年2月、彼はより強い光を求めて南仏へ発つ。

フィンセント・ファン・ゴッホ 1887年の自画像
《自画像》1887年パリ時代の自画像。細かな筆致を放射状に並置する手法が、新印象派からの吸収を示している。オランダ時代の褐色は完全に消えている。Wikimedia Commons
フィンセント・ファン・ゴッホ《タンギー爺さんの肖像》1887年
《タンギー爺さんの肖像》1887年油彩・カンヴァス、65×51cm。背景の壁一面に浮世絵が貼られている。人物の正面性と、平面的に扱われた背景の版画。日本美術と印象派の統合が同一画面で行われている。ロダン美術館(パリ)所蔵(F363/JH1351)。Wikimedia Commons
1886–1888JAPONISME07

浮世絵350点

パリ時代のファン・ゴッホを語るうえで欠かせないのが、当時のパリを席巻していたジャポニスム(日本趣味)である。

彼は画材商のタンギー爺(じい)さんらを通じて、およそ350点以上もの浮世絵版画を収集した。この数は、一介の貧しい画家の収集としては相当に多い。

可能だった理由がある。収集品のなかには、生涯に1万点以上の作品を残し廉価で流通していた三代目歌川豊国(さんだいめうたがわとよくに)(歌川国貞(うたがわくにさだ))などの役者絵も含まれていた。大量生産された版画は、経済的に豊かでなくとも容易に入手できたのである。

重要なのは、彼が浮世絵を単なる異国情緒として消費しなかったことだ。彼はその造形原理を論理的に分析し、自身の画風へ統合していった。

抽出された原理は4つに整理できる。

第一に、遠近法の解体。西洋の一点透視図法に代わり、複数の視点や極端な俯瞰が用いられる。

第二に、明瞭な輪郭線。形を線で囲い、内部を平坦に塗る。

第三に、平面的で鮮やかな色彩の配置。陰影による立体表現を減らし、色面そのものを画面の構成要素にする。

第四に、主役を端に寄せて余白を活かす大胆な構図。中心を空けたまま画面を成立させる。

これらは、後年のアルル時代の作品でそのまま確認できる。

そしてもうひとつ、造形とは別の次元がある。ファン・ゴッホが日本に対して抱いていた強烈な「心理的投影」である。

パリの陰鬱(いんうつ)な気候と都市生活に疲弊した彼は、明るい光に満ちた世界を求めて1888年に南仏アルルへ向かう。そして彼はアルルを「私の日本」と見なしていた。

弟テオへの手紙で、彼は「時が経つにつれ物の見方が変わり、ますます日本人のような見方をするようになった」という趣旨のことを記している。

つまり浮世絵から学んだ自然との一体化は、彼にとって理想郷の構築と同義だった。実在する日本ではなく、版画から逆算して組み立てた日本である。その理想郷を、彼は南仏の風景に重ねた。

フィンセント・ファン・ゴッホ《花魁(渓斎英泉による)》1887年
《花魁(おいらん)(渓斎英泉(けいさいえいせん)による)》1887年渓斎英泉の版画を油彩で拡大模写した一点。原画は雑誌『パリ・イリュストレ』の日本特集号の表紙に使われたもので、ファン・ゴッホはそれを写して周囲に竹・蓮(はす)・鶴(つる)・蛙(かえる)を配した独自の枠を加えている。ファン・ゴッホ美術館所蔵。Wikimedia Commons
1888年2月–10月ARLES / THE YELLOW HOUSE08

アルルの黄色い家

1888年2月、ファン・ゴッホは南仏アルルに到着した。34歳。

到着直後は雪が降っていたが、やがて南仏の春が来る。彼は爆発的な速度で描き始めた。花咲く果樹園、跳ね橋、麦畑、海辺の漁船。この年だけで200点近くを制作している。

同年5月、彼はラマルティーヌ広場2番地の「黄色い家」を借りた。当初はアトリエとして使い、家具を揃えてから住み始めている。

彼がここで構想したのは、単なる住居ではない。芸術家たちが協同して制作を行うユートピアである。「南のアトリエ(アトリエ・デュ・ミディ)」と彼が呼んだ共同体だった。

この構想のために、彼は室内装飾のシリーズを描き始める。《ファン・ゴッホの椅子》《ファン・ゴッホの寝室》《夜のカフェ》《夜のカフェテラス》《ローヌ川の星月夜》《ひまわり》――いずれも黄色い家を飾るために構想された。

《ファン・ゴッホの寝室》(1888年)は、その中心にある一枚である。

この作品でファン・ゴッホは、日本の浮世絵に倣い、意図的に遠近法を歪めた。ただし興味深いことに、実際の部屋も歪んでいたことが後の調査で分かっている。建物の構造上、壁が直角ではなかった。

さらに彼は影を消して平面的に描くことで、「絶対的な休息」を表現しようとした。書簡でも、この絵は休息を表すものだと説明している。

なお現在この作品を見るとき、注意が必要な点がある。経年劣化により、当初の紫色の壁が青に変色している。ファン・ゴッホが意図した色のバランスは、現在の画面とは違っていた可能性がある。

そして《ひまわり》の連作。単一の色彩(黄色)の無数のバリエーションだけで、圧倒的な生命力と雄弁なイメージを創造できることを証明した作品群である。これらはゴーギャンを迎える部屋を飾るために描かれた。

フィンセント・ファン・ゴッホ《黄色い家》1888年
《黄色い家》1888年アルル、ラマルティーヌ広場2番地。左手前の緑の鎧戸(よろいど)の建物がファン・ゴッホの借りた部分にあたる。背後には鉄道橋と、走る蒸気機関車の煙が描かれている。ファン・ゴッホ美術館所蔵(F464)。Wikimedia Commons
フィンセント・ファン・ゴッホ《ファン・ゴッホの寝室》1888年
《ファン・ゴッホの寝室》1888年黄色い家の自室。遠近法が意図的に歪められ、影が排除されている。当初は紫だった壁が、経年劣化により現在は青く見えている。ファン・ゴッホ美術館所蔵。Wikimedia Commons
フィンセント・ファン・ゴッホ《ひまわり(12本のひまわり)》1888年8月
《ひまわり(12本のひまわり)》1888年8月黄色い花、黄色い花瓶、黄色い背景。単一色相の階調だけで画面を成立させている。ゴーギャンを迎える部屋の装飾として描かれた。ノイエ・ピナコテーク(ミュンヘン)所蔵。Wikimedia Commons
フィンセント・ファン・ゴッホ《夜のカフェテラス》1888年9月
《夜のカフェテラス》1888年9月油彩・カンヴァス、80.7×65.3cm。フォルム広場のカフェ。黒を使わずに夜を描くという課題に対する解答で、星空の青とガス灯の黄が補色として拮抗(きっこう)している。クレラー・ミュラー美術館所蔵(F467/JH1580)。Wikimedia Commons
フィンセント・ファン・ゴッホ《ローヌ川の星月夜》1888年9月
《ローヌ川の星月夜》1888年9月油彩・カンヴァス、72.5×92cm。黄色い家から歩いて1〜2分のローヌ川岸で描かれた。水面に伸びるガス灯の反射が縦の線として置かれている。オルセー美術館所蔵(F474/JH1592)。Wikimedia Commons
フィンセント・ファン・ゴッホ《アイリスの咲くアルル風景》1888年
《アイリスの咲くアルル風景》1888年手前に紫のアイリスの群れ、奥に町の建物。前景を大きく取り、主役を画面の端へ寄せる構図に、浮世絵から抽出した原理が現れている。Wikimedia Commons
1888年10月–12月ARLES / GAUGUIN09

ゴーギャンとの63日

共同アトリエ構想を実現するため、ファン・ゴッホが招いたのがポール・ゴーギャンである。

招致の条件は具体的だった。彼は弟テオに頼み込み、ゴーギャンの借金をすべて肩代わりさせる条件で彼をアルルに呼び寄せた。テオはゴーギャンに月150フランを支払い、その代わり毎月1点の作品を受け取るという取り決めを結んでいる。

1888年10月23日、ゴーギャンがアルルに到着する。共同生活は約2か月続いた。

この短期間の密度は異常である。このわずかな期間にファン・ゴッホは約40点、ゴーギャンは約20点もの作品を制作している。二人合わせて60点。1日あたり1点に達する。

しかし同時に、対立も急速に深まった。

両者の最大の対立点は「芸術の源泉をどこに求めるか」という根本的なイデオロギーの違いにあった。

ファン・ゴッホは自然の観察と眼の前のモデルに固執した。実際にそこにあるものを見て描く。

ゴーギャンは記憶や想像力から内面の世界を描くべきだと主張した。目の前になくても構わない。

この対立が最も象徴的に現れたのが、ゴーギャンが描いた《ひまわりを描くファン・ゴッホ》である。この絵はひまわりの季節が終わった12月に記憶から描かれたものだった。制作手法の相違そのものが、2人の議論の象徴になっている。

一方でファン・ゴッホは、この時期に「顔のない肖像画」という方法を実践している。人物を描かずに、その人物の性格を描く。

《ゴーギャンの椅子》は、肘掛け(ひじかけ)のある立派な椅子を主役に据え、その上に知性と光を象徴する本とろうそくを配置して彼への尊敬を示した。対になる《ファン・ゴッホの椅子》は、藁(わら)を編んだ粗末な椅子にパイプと煙草入れ(たばこいれ)が置かれている。

二つの椅子の落差が、そのまま二人の自己認識の落差になっている。

そして1888年のクリスマス直前、決裂は最悪の形で訪れる。ファン・ゴッホが自らの左耳(または耳たぶ)をカミソリで切り落とし、娼婦に手渡すという事件が起きた。

ゴーギャンは去った。ファン・ゴッホの共同体構想は完全に破綻した。

だが、この極限の挫折と孤独こそが、後のサン=レミ療養所時代における爆発的な表現主義的傑作群を生み出す土壌となった。

フィンセント・ファン・ゴッホ《ゴーギャンの椅子》1888年11月
《ゴーギャンの椅子》1888年11月肘掛けと座面のある立派な椅子。その上に本とろうそくが置かれている。人物を描かずに人物を描くという方法の実践例。ファン・ゴッホ美術館所蔵。Wikimedia Commons
フィンセント・ファン・ゴッホ《ゴーギャンに捧げる自画像》1888年
《ゴーギャンに捧げる自画像》1888年9月共同生活を始める前、ゴーギャンとの自画像交換のために描かれた一点。剃り上げた頭と、緑がかった背景。日本の僧侶を意識したと書簡に記している。ハーバード大学フォッグ美術館所蔵。Wikimedia Commons
フィンセント・ファン・ゴッホ《包帯をした自画像》1889年1月
《包帯をした自画像》1889年1月耳切り事件の直後、退院してすぐに描かれた自画像。背後の壁には日本の版画が掛かっており、イーゼルが立っている。事件後ただちに制作に戻ったことが画面から読み取れる。コートールド・ギャラリー(ロンドン)所蔵。Wikimedia Commons
1889年5月–1890年5月SAINT-RÉMY-DE-PROVENCE10

サン=レミの療養所

耳切り事件のあと、ファン・ゴッホはアルルの病院に入退院を繰り返した。町の住民から嘆願書が出され、黄色い家には住めなくなる。

1889年5月8日、彼は自らの意志でサン=レミ=ド=プロヴァンスのサン=ポール=ド=モーゾール療養所に入った。かつての修道院を転用した施設である。

当時この施設は裕福な患者を対象としており、入所時点で定員の半分も埋まっていなかった。そのためファン・ゴッホは2階の寝室と、1階のアトリエの両方を使うことができた。

この1年間、彼は発作に襲われながらも極めて高い生産性を維持している。約150点の油彩を制作した。

そして1889年6月、彼はこの療養所で《星月夜》を描く。

制作の実態は、一般的なイメージとかなり違う。

彼は夜の暗闇のなかに明けの明星(金星)を観察し、それを圧倒的な渦巻きとして表現した。しかし実際の制作は日中の、まったく異なる大気条件の下で行われている。夜間に見た幻影を、昼間の複数のセッションを通じて再構築したのである。

さらに、背景に描かれた村の教会は、彼が滞在していた南仏のものではない。故郷オランダの建築様式を取り入れた想像上の産物である。

つまりこの作品において、彼は完全な「写生」から離れ、感情と記憶を総合して風景を構築する表現主義的な段階へ到達していたことになる。ゴーギャンと激しく対立した「記憶から描く」という方法に、彼自身が別の形で到達したとも読める。

画面のなかで最も目を引くのが、天へ向かって伸びる糸杉(いとすぎ)である。これは地上(生)と天空(死・天国)を結ぶ象徴的な架け橋として解釈される。

彼は手紙のなかで「死を星へ行くための手段」と語っている。夜の暗闇のなかにうごめく宇宙的なエネルギーを視覚化することで、彼は伝統的なキリスト教の枠組みを超えた独自の宗教的境地に達していた。

同じ時期に描かれた《オリーブの木々》は、『星月夜』の「昼の対(パートナー)」として制作されたとされる。強烈な緑色のオリーブの木が地中海の太陽の下で捻じれ(ねじれ)、風景全体が生き物のようにうねる生命力を放つ。

《アイリス》(1889年5月)は、療養所の庭で入所直後に描かれたものである。

フィンセント・ファン・ゴッホ《星月夜》1889年6月
《星月夜》1889年6月油彩・カンヴァス、73.7×92.1cm。療養所の東向きの窓からの眺めに、想像上の村を加えて構成されている。左手前の糸杉が地上と天空を結ぶ。ニューヨーク近代美術館(MoMA)所蔵(F612/JH1731、accession 472.1941)。Wikimedia Commons
フィンセント・ファン・ゴッホ《オリーブの木々》1889年6–7月
《オリーブの木々》1889年6–7月『星月夜』の「昼の対」として制作された。地面、幹、葉、空、雲――画面のすべての要素が同じうねりのリズムで描かれている。ニューヨーク近代美術館(MoMA)所蔵。Wikimedia Commons
フィンセント・ファン・ゴッホ《アイリス》1889年5月
《アイリス》1889年5月療養所に入所した直後、庭で描かれた一枚。輪郭線で花を囲い、色面を平坦に置く手法に浮世絵の原理が明確に現れている。J・ポール・ゲティ美術館(ロサンゼルス)所蔵。Wikimedia Commons
1890年5月–7月AUVERS-SUR-OISE11

オーヴェールの70日

1890年5月17日、ファン・ゴッホはサン=レミを離れてパリのテオのもとへ向かった。この年の1月、テオに息子が生まれており、フィンセントと同じ名前がつけられていた。

数日後、彼はパリ北西約27kmの村オーヴェール=シュル=オワーズに移る。ここで医師ポール・ガシェの監督下に置かれることになった。ガシェは同時代の画家たちと親交のあるアマチュア画家でもあった。

この村で過ごしたのは、5月20日から7月29日までの約70日間である。

その70日で、彼は約70点の油彩を描いた。1日1点のペースである。

主な作品を挙げると、《医師ガシェの肖像》(6月)、《オーヴェールの教会》(6月)、《カラスのいる麦畑》(7月)、《ドービニーの庭》(7月)。

《オーヴェールの教会》については、彼自身の書簡が残っている。妹ウィレミーナに宛てて1890年6月5日に書いた手紙で、この絵についてニューネン時代の仕事に似ていると述べている。実際、この作品は《オーヴェール市庁舎》や藁葺き屋根(わらぶきやね)の家の素描群とともに、故郷オランダのニューネン時代を想起させる。サン=レミを離れる数週間前の手紙で、彼は「病気のあいだも記憶から小さなカンヴァスを描いた。北の思い出だ」という趣旨のことを書いている。

《カラスのいる麦畑》(1890年7月)は、しばしば「最期の作品」と呼ばれる。しかしこれは俗説である。

この関連づけを広めたのは、1956年のヴィンセント・ミネリ監督による伝記映画『炎の人ゴッホ』で、そこではこの絵を描いた直後に自らを撃つ場面が描かれた。

実際には、書簡の証拠からこの作品は7月10日頃に完成しており、《オーヴェール市庁舎》(7月14日の場面)や《ドービニーの庭》はその後に描かれている。実際の最後の作品は《木の根》であるとされる。

作品そのものについては、極度の孤独や悲哀と同時に、田園地帯の「健康的で力強い生命力」を青と黄色の強烈なコントラストで描き出したものと評価される。彼自身、テオとその妻ヨーに宛てた7月10日頃の手紙で、この種の大画面について「悲しみと極度の孤独」を表現したと述べつつ、同時に田園の力強さを伝えようとしたとも書いている。単一の感情に還元できない画面である。

1890年7月27日、ファン・ゴッホは自らの胸を銃で撃った。彼は自力で宿に戻り、2日後の7月29日に死亡した。37歳だった。

フィンセント・ファン・ゴッホ《医師ガシェの肖像》1890年6月
《医師ガシェの肖像》1890年6月頬杖をつく医師と、テーブルの上のジギタリス(強心剤の原料となる薬草)。ファン・ゴッホは書簡で、この肖像に「われわれの時代の悲しげな表情」を込めたと記している。オルセー美術館所蔵。Wikimedia Commons
フィンセント・ファン・ゴッホ《オーヴェールの教会》1890年6月
《オーヴェールの教会》1890年6月油彩・カンヴァス、74×94cm。ノートルダム・ド・ラソンプション教会を後陣(こうじん)(シュヴェ)側から見た構図。石造建築の輪郭が波打ち、空の深い青が建物を押し包んでいる。オルセー美術館所蔵(F789/JH2006)。Wikimedia Commons
フィンセント・ファン・ゴッホ《カラスのいる麦畑》1890年7月
《カラスのいる麦畑》1890年7月油彩・カンヴァス、50.2×103cm。縦横比が1対2に近い横長の「ダブルスクエア」形式。オーヴェールでは他にもこの形式の大画面が描かれている。最期の作品とされることが多いが、書簡の証拠では7月10日頃の完成で、その後にも制作が続いている。ファン・ゴッホ美術館所蔵(F779/JH2117)。Wikimedia Commons
フィンセント・ファン・ゴッホ《オーヴェールの麦畑と家》1890年
《オーヴェールの麦畑と家》1890年オーヴェールの70日間に描かれた麦畑の一点。同じ主題を何度も反復しており、1日1点というペースの実態がこうした作品群から見える。Wikimedia Commons
フィンセント・ファン・ゴッホ《木の根》1890年7月
《木の根》1890年7月油彩・カンヴァス、50×100cm。オーヴェールの石灰岩採石場の斜面に露出した木の根と幹を描いた未完作で、最後の作品である可能性が高いとされる。ファン・ゴッホ美術館所蔵(F816)。Wikimedia Commons
1872–1891THEO / LETTERS12

弟テオという共犯者

ファン・ゴッホの芸術的成熟と生活のすべてを根底から支え続けたのが、画商であった弟テオドルス(テオ)・ファン・ゴッホである。

テオは兄より4歳下で、同じくグーピル商会に入り、こちらは画商として成功した。パリ支店で印象派の作品を扱っている。

彼は兄の才能を誰よりも深く理解し、生前ほとんど作品が売れることのなかった兄に対して、絶え間ない経済的・精神的援助を行った。毎月の送金は、フィンセントが画家になった1880年から死ぬまで、10年間途切れていない。

そしてテオ自身も無傷ではなかった。彼は梅毒(ばいどく)に侵され、経済的・身体的に追い詰められながらも兄への送金を続けた。妻ヨーとの結婚、子どもの誕生、自身の健康問題。それらを抱えたまま、兄を支え続けている。

兄の死からわずか半年後の1891年1月、テオは死亡した。33歳だった。

兄弟間で交わされた膨大な手紙――ファン・ゴッホ書簡――は、彼がどのように世界を知覚していたかを知るための、西洋美術史における第一級の一次資料である。

現存する書簡は約900通。うち650通以上がテオ宛である。内容は多岐にわたる。

色彩理論の検討。補色の組み合わせ、どの色をどこに置くか、実験の結果。文学的教養。ゾラ、ディケンズ、ミシュレ、シェイクスピア、聖書からの引用が頻出する。精神的な苦悩。発作の記録、経済的な負い目、将来への不安。

そして制作中の作品の素描が、手紙のなかに直接描き込まれていることも多い。どの絵をどの段階で構想していたかが、日付つきで追える。これほど制作過程が追跡可能な19世紀の画家は他にほとんどいない。

現在、全書簡はファン・ゴッホ美術館によってウェブ上で公開されている。原文(オランダ語・フランス語)、英訳、註釈(ちゅうしゃく)、関連図版が一体で参照できる。

彼の悲劇的な生涯は、テオという絶対的な理解者による献身があったからこそ芸術として昇華された。二人は単なる兄弟を超えた「共作者」としての関係にあったと結論づけられる。

なお、作品が世に出た経緯にはもう一人が関わっている。テオの妻ヨー・ファン・ゴッホ=ボンゲルである。夫の死後、彼女は残された作品と書簡を保管し、展覧会を組織し、書簡集を編纂(へんさん)して出版した。書簡が現存しているのは彼女の保管によるところが大きい。

フィンセント・ファン・ゴッホの手紙に描かれた《黄色い家》のスケッチ
書簡に描かれた《黄色い家》のスケッチ手紙の本文中に、制作中の作品の素描が直接描き込まれている(F1453/JH1590)。どの絵をいつ構想していたかが日付つきで追跡できる、書簡資料の性格をよく示す一例。Wikimedia Commons
1888年10月の手紙に描かれた《寝室》のスケッチ
書簡に描かれた《寝室》のスケッチ(1888年10月)完成作と並べると、構図がほぼ確定した状態で手紙に描かれていることがわかる。色の指定も文章で併記されており、当初の壁が紫だったことはこうした記述から確認できる。Wikimedia Commons
研究ACADEMIC STUDIES13

学術研究から見るファン・ゴッホ

ファン・ゴッホに関する学術研究は、日本の主要な論文データベース(CiNii、J-STAGE)等でも多角的に展開されている。生涯を読み解くうえで重要な論点を4つ挙げる。

第一に、自然と宗教の葛藤。

彼は模写を除いてキリストや天使といった宗教的主題を直接描かなかった。にもかかわらず、自然のモチーフと色彩だけで宗教的暗示を試みているという指摘がある。万物に神性を宿らせる汎神論(はんしんろん)的な世界観が、風景画のなかで機能しているという読み方である。牧師の家に生まれ、伝道師として挫折した人間が、教義の外側で信仰を継続したことになる。

第二に、『星月夜』の象徴的意味。

美学会で発表された圀府寺司(こうでらつかさ)の論考は、糸杉(いとすぎ)や星空の造形が持つ象徴的な意味を分析している。死と生を架橋するモティーフとしての糸杉の意味論、そして画家の内面世界と天文学的観測の融合が論じられる。実際に金星が観測できた位置と、画面上の星の配置を照合するという方向の研究もある。

第三に、「耕す人(Tiller)」という視座。

ファン・ゴッホはしばしばミレーの《種播く人(たねまくひと)》と結びつけて語られる。これに対し、初期の《馬鈴薯(ばれいしょ)を食べる人々》から続く「耕す人」としての労働の身体性が、彼の筆致にどう影響したかを提示する研究がある。種を播く人は立って腕を振る。耕す人は腰を落として土に鍬(くわ)を入れる。後者の身体感覚が、絵具を厚く盛るインパストに対応するという論である。

第四に、他宗教との比較。

オランダ改革派教会の背景を持つファン・ゴッホと、偶像礼拝を禁じるユダヤ教の背景を持つシャガールやバーネット・ニューマンを比較し、表現法の違いを生んだ信仰の構造を解き明かす研究がある。また、全書簡がウェブ公開されている事実に基づき、手紙のなかに現れる宗教観や東洋思想(仏教的真理など)への潜在的な接近を比較宗教学的に分析する試みもある。

【表1】ファン・ゴッホに関する主要学術資料

研究テーマ/タイトル データベース/形態 研究の要旨と学術的意義 URL
ゴッホの生涯のテーマ「自然と宗教の葛藤」 artscape(論考) 模写以外に宗教的主題を描かなかったファン・ゴッホが、自然のモチーフと色彩だけで宗教的暗示を試みた深層を分析。万物に神性を宿らせる汎神論的世界観を読み解く https://artscape.jp/study/art-achive/10151119_1982.html
ファン・ゴッホ作『星月夜』その象徴的意味(著:圀府寺司) J-STAGE(美学会) 『星月夜』における糸杉や星空の造形が持つ象徴的な意味を分析。死と生を架橋するモティーフとしての糸杉の意味論、画家の内面世界と天文学的観測の融合を論じる https://www.jstage.jst.go.jp/article/bigaku/39/3/39_KJ00003903101/_article/-char/ja/
ゴッホ=種播く人に対する「耕す人」としての視座 CiNii Research 一般的な「種播く人」というメタファーに対し、初期の『馬鈴薯を食べる人々』から続く「耕す人(Tiller)」としての労働の身体性が筆致にどう影響したかを提示 https://cir.nii.ac.jp/crid/1050001202933113088
ファン・ゴッホ書簡と東洋思想 J-STAGE 全書簡がファン・ゴッホ美術館によりウェブ公開されている事実に基づき、手紙に現れる宗教観や東洋思想(仏教的真理など)への潜在的な接近を比較宗教学的に分析 https://www.jstage.jst.go.jp/article/sprj/42/0/42_17/_html/-char/en
ゴッホとシャガール、ニューマンにおける宗教性 CiNii Research オランダ改革派教会の背景を持つゴッホと、偶像礼拝を禁じるユダヤ教の背景を持つシャガールやニューマンを比較し、表現法の違いを生んだ信仰の構造を解き明かす https://cir.nii.ac.jp/crid/1050003825007244416
結論CONCLUSION14

神話の解体

ここまでの経過を並べると、通俗的なイメージとは異なる像が立ち上がる。

彼は決して狂気のみに支配された衝動的な天才などではなく、極めて論理的な探求心と強靭(きょうじん)な意志を持った芸術家であった。

根拠は4つある。

ミレーから受け継いだ労働への畏敬。これは思想として一貫しており、ニューネン期からオーヴェール期まで農民と大地の主題が途切れない。

浮世絵からの構成原理の抽出。350点以上を収集し、遠近法・輪郭線・色面・構図という4つの原理を分解して自作に適用した。異国趣味の消費ではなく、分析である。

補色理論の適用。書簡には、どの色とどの色を隣接させるかについての検討が繰り返し登場する。

自然界の根源的エネルギーを可視化するための筆致の探求。うねる筆致は感情の垂れ流しではなく、対象の運動を記述するための手法として選ばれている。

これらはすべて、高度な知性と途方もない修練の賜物である。

同時に、生涯の事実として次のことも動かない。ゴーギャンとの決裂。度重なる精神発作。社会的な居場所の喪失。生前ほとんど売れなかった作品。37歳での死。

その状況でもカンヴァスに向かい続けた動機は何だったか。書簡から読み取れるのは、常に「他者とのコミュニケーション」と「世界に対する感謝」であった。彼は絵を、届かない言葉の代わりに使っていた。

生前、彼の作品はほとんど売れなかった。しかし「生前に一枚も売れなかった」というのは俗説である。近年の研究では、複数の取引記録が確認されている。この種の神話は、悲劇性を強調するために後から整えられた部分が大きい。

没後の評価の急上昇には、テオの妻ヨーの働きが決定的だった。夫と義兄を相次いで失った彼女は、残された作品と書簡を保管し、展覧会を組織し、1914年に書簡集を刊行した。作品が世に出る回路を作ったのは、画家本人でも弟でもなく、義妹である。

現在、ファン・ゴッホの遺産は美術館の物理的な壁を越え、デジタルアーカイブを通じて全世界に解放されている。作品画像、書簡の全文、研究論文が、いずれも無料で参照できる。

CHRONOLOGY & WORKS / 年譜と作品人生と作品を一緒に見る

ファン・ゴッホの場合、居住地の移動と画風の転換がほぼ完全に対応している。職業遍歴、拠点の移動、そして主要作品を同じ時間軸で追う。

凡例:`KEY` は転換点として強調表示(vg-is-key)、`死後` は没後の項目(vg-is-posthumous)。

18530歳
LIFE

3月30日、オランダ・ズンデルトの牧師館に生まれる

ちょうど1年前の同じ日に、同名の兄が死産で生まれていた
WORKS

—

18574歳
LIFE

弟テオドルス(テオ)誕生

後に画商となり、生涯にわたって兄を支える
WORKS

—

186916歳
LIFE

画商グーピル商会ハーグ支店に就職

伯父の縁故による。当初の評価は高く、支店長は将来を有望視していた
WORKS

—

187320歳
LIFE

ロンドン支店へ栄転

この地での失恋を境に、宗教への傾倒が強まったとされる
WORKS

—

187522歳
LIFE

パリ本店へ異動

顧客と美術の価値について議論するようになる
WORKS

—

187623歳
LIFE

グーピル商会を解雇される

以後2年、イギリスで語学教師・牧師助手、オランダで書店員と職を転々とする
WORKS

—

187724歳
LIFE

神学部受験のためアムステルダムで勉強を始める

ラテン語とギリシャ語。1年余りで断念
WORKS

—

187825歳
LIFE

ベルギーの炭鉱地帯ボリナージュで伝道師として働く

給料と持ち物を坑夫に与え、自らも小屋で暮らした
WORKS

—

187926歳
LIFE

「聖職者の威厳を損なう」として任期を更新されず

献身が過剰であるという理由での事実上の解任
WORKS

—

188027歳
LIFE

画家になることを決意

5つの職業に失敗した後の転身。以後10年間、一度も画家であることをやめない
WORKS

—

188128歳
LIFE

エッテンで素描の独学、ハーグでアントン・マウフェに師事

遠近法と人体比例の教則本で基礎訓練
WORKS

—

188229歳
LIFE

シーン・ホールニクと同棲。家族・親戚と断絶

元娼婦で子どもがおり妊娠していた。マウフェとの師弟関係も破綻
WORKS

《悲しみ(Sorrow)》

188330歳
LIFE

シーンと別れ、オランダ北部ドレンテへ。3か月ほどで帰郷

泥炭地の荒涼とした風景と農民を描く
WORKS

—

188330歳
LIFE

父が牧師を務めるニューネンへ移り、物置をアトリエにする

ミレーへの傾倒が深まる時期
WORKS

—

188532歳
LIFE

3月、父テオドルスが急死

年末にアントウェルペンへ移り、ルーベンスの色彩と浮世絵に触れる
WORKS

《馬鈴薯(ばれいしょ)を食べる人々》

188633歳
LIFE

2月、予告なくパリのテオのもとへ現れる

スーラ、シニャック、ベルナール、ロートレックと交流。色彩分割理論を吸収
WORKS

—

188734歳
LIFE

浮世絵の収集が本格化(生涯で350点以上)

遠近法の解体、輪郭線、平面的色彩、大胆な構図という4原理を分析
WORKS

《タンギー爺(じい)さんの肖像》/《花魁(おいらん)(渓斎英泉(けいさいえいせん)による)》/《自画像》

188835歳
LIFE

2月、南仏アルルへ。5月、「黄色い家」を借りる

アルルを「私の日本」と見なした。この年だけで200点近くを制作
WORKS

《黄色い家》/《ひまわり》/《ファン・ゴッホの寝室》/《夜のカフェテラス》/《ローヌ川の星月夜》

188835歳
LIFE

10月23日、ゴーギャンがアルルに到着し共同生活が始まる

テオがゴーギャンの借金を肩代わりする条件で招致。約2か月でゴッホ約40点、ゴーギャン約20点を制作
WORKS

《ゴーギャンの椅子》/《ファン・ゴッホの椅子》

188835歳
LIFE

12月、耳切り事件。ゴーギャンが去り、共同体構想が破綻

対立の核心は「芸術の源泉を自然に求めるか記憶に求めるか」だった
WORKS

—

188936歳
LIFE

1月、退院して制作を再開

アルルの住民から嘆願書が出され、黄色い家に住めなくなる
WORKS

《包帯をした自画像》

188936歳
LIFE

5月8日、サン=レミの療養所に自らの意志で入所

2階の寝室と1階のアトリエを使用。この1年で約150点を制作
WORKS

《アイリス》/《星月夜》/《オリーブの木々》/《自画像》(9月・オルセー)

189037歳
LIFE

1月、テオに息子が誕生。フィンセントと名づけられる

その祝いとして《花咲くアーモンドの木》を描く
WORKS

《花咲くアーモンドの木》

189037歳
LIFE

5月17日、サン=レミを離れ、5月20日にオーヴェール=シュル=オワーズへ

医師ポール・ガシェの監督下に置かれる。約70日で約70点を制作
WORKS

《医師ガシェの肖像》/《オーヴェールの教会》

189037歳
LIFE

7月27日、自らの胸を銃で撃つ。7月29日死去

《カラスのいる麦畑》は7月10日頃の完成で、その後にも制作は続いていた
WORKS

《カラスのいる麦畑》/《ドービニーの庭》/《木の根》

1891死後
LIFE

1月、弟テオが死去(33歳)

梅毒(ばいどく)に侵されながら10年間送金を続けた
WORKS

—

1914死後
LIFE

ヨー・ファン・ゴッホ=ボンゲルが書簡集を刊行

作品と書簡を保管し、展覧会を組織した。評価確立の回路を作ったのは義妹だった
WORKS

—

1973死後
LIFE

ファン・ゴッホ美術館(アムステルダム)開館

約5,000点のコレクションを所蔵する
WORKS

—

2010年代死後
LIFE

ファン・ゴッホ美術館が全書簡をウェブ公開

原文・英訳・註釈(ちゅうしゃく)・関連図版が一体で参照できる
WORKS

—

NETWORK / 人物影響を与え合った人びと

ファン・ゴッホの芸術的発展は、他者との激しい衝突と共鳴、そして自己の内部に渦巻く宗教的渇望と自然界への畏怖との摩擦から生み出された。

【表2】ファン・ゴッホをめぐる人物一覧

人物生没年関係ファン・ゴッホへの具体的な作用
テオドルス(テオ)・ファン・ゴッホ1857–1891弟・画商生涯にわたる経済的・精神的援助。1880年から死まで送金が途切れなかった。650通以上の書簡の宛先。兄の死の半年後に33歳で死去
ヨー・ファン・ゴッホ=ボンゲル1862–1925義妹(テオの妻)夫と義兄の死後、作品と書簡を保管し、展覧会を組織。1914年に書簡集を刊行し、評価確立の回路を作った
ジャン=フランソワ・ミレー1814–1875精神的支柱(面識なし)バルビゾン派の画家。労働と大地に根ざした生活を「神聖さの新たな体現」として提示。ファン・ゴッホは生涯にわたって模写と翻案を続けた
ポール・ゴーギャン1848–1903共同生活者・対立者1888年10月から約2か月アルルで同居。「芸術の源泉を自然に求めるか記憶に求めるか」で対立し、耳切り事件を経て決裂
アントン・マウフェ1838–1888短期の師(遠縁)ハーグ派の画家。1881年末に油彩と水彩の初歩を指導したが、シーンとの同棲を機に関係が断絶
シーン・ホールニク1850–1904同棲相手・モデル元娼婦。1882年から約1年半、子どもとともにファン・ゴッホと生活。《悲しみ》のモデル。この関係が家族との断絶を決定づけた
ジョルジュ・スーラ/ポール・シニャック—新印象派の画家パリ時代に交流し、色彩の分割理論を吸収。オランダ時代の暗い土色のパレットが2年で置き換わった
エミール・ベルナール1868–1941画家仲間パリ時代からの友人。書簡の重要な相手のひとりで、アルル時代にも文通が続いた
アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレック1864–1901画家仲間パリ時代の交流相手。コルモンのアトリエで知り合ったとされる
ジュリアン・タンギー(タンギー爺(じい)さん)1825–1894画材商貧しい画家に画材を掛け売りし、作品を店に飾った。ファン・ゴッホの浮世絵収集の経路のひとつ。3度肖像を描かれている
ジョゼフ・ルーラン1841–1903郵便配達人・友人アルル時代の数少ない親しい友人。家族ぐるみで何度もモデルを務めた
ポール・ガシェ1828–1909医師・アマチュア画家オーヴェールでファン・ゴッホを監督した医師。同時代の画家たちと親交があり、自らも制作していた
三代目歌川豊国(さんだいめうたがわとよくに)(歌川国貞(うたがわくにさだ))1786–1865浮世絵師(面識なし)生涯に1万点以上を残し廉価で流通していた役者絵の作者。ファン・ゴッホの収集品に含まれ、経済的制約のなかでの収集を可能にした
渓斎英泉(けいさいえいせん)1791–1848浮世絵師(面識なし)《花魁(おいらん)》の原画作者。雑誌『パリ・イリュストレ』日本特集号の表紙を経由して、ファン・ゴッホが油彩で拡大模写した

OPEN ACCESS / 画像公開高精細画像を無料で入手できる代表作

ファン・ゴッホの作品は、1931年1月1日以前に公表された平面的な美術の著作物であるため、アメリカ合衆国著作権法をはじめとする多くの法域においてパブリックドメインの状態にある。ファン・ゴッホ美術館、ニューヨーク近代美術館(MoMA)、メトロポリタン美術館などがオープンアクセス・イニシアティブの一環として超高精細画像を無料公開しており、学術的・教育的利用が広く認められている。利用条件は機関ごとに異なるため、各作品ページの表示を最終確認すること。

【表3】著作権フリーの代表作品と所蔵元URL

作品名(日/英)制作年/場所所蔵機関学術的・造形的特徴と文脈公式アーカイブURL
馬鈴薯(ばれいしょ)を食べる人々/The Potato Eaters1885年・ニューネンファン・ゴッホ美術館初期オランダ時代の代表作。暗い土の色調を用い、解剖学的な正確さよりも、骨張った手で誠実に糧を得る農民の過酷な現実と労働の神聖さを表現したhttps://www.vangoghmuseum.nl/en/collection/s0005v1962
ファン・ゴッホの寝室/The Bedroom1888年・アルルファン・ゴッホ美術館「黄色い家」の自室。日本の浮世絵に倣って意図的に遠近法を歪め(実際の部屋も歪んでいた)、影を消して平面的に描くことで「絶対的な休息」を表現した。経年劣化により当初の紫色の壁が青に変色しているhttps://www.vangoghmuseum.nl/en/collection/s0047v1962
ひまわり/Sunflowers1889年・アルルファン・ゴッホ美術館ゴーギャンへの感謝を示すために描かれた連作の一つ。単一の色彩(黄色)の無数のバリエーションだけで、圧倒的な生命力と雄弁なイメージを創造できることを証明したhttps://www.vangoghmuseum.nl/en/collection/s0031v1962
星月夜/The Starry Night1889年・サン=レミニューヨーク近代美術館(MoMA)療養所の窓からの風景に想像を交えて描かれた。生命と死を架橋する糸杉(いとすぎ)、うねる夜空など、夜間に見た幻影を昼間の複数のセッションを通じて再構築した近代美術の金字塔https://www.moma.org/collection/works/79802
オリーブの木々/The Olive Trees1889年・サン=レミニューヨーク近代美術館(MoMA)『星月夜』の「昼の対(パートナー)」として制作された。強烈な緑色のオリーブの木が地中海の太陽の下で捻じれ(ねじれ)、風景全体が生き物のようにうねる生命力を放つhttps://www.moma.org/collection/works/80013
カラスのいる麦畑/Wheatfield with Crows1890年・オーヴェールファン・ゴッホ美術館最期の作品という俗説があるが実際にはその後も制作している。極度の孤独や悲哀と同時に、田園地帯の「健康的で力強い生命力」を青と黄色の強烈なコントラストで描き出したhttps://www.vangoghmuseum.nl/en/collection/s0149v1962
エッテンの道/Road in Etten1881年・エッテンメトロポリタン美術館初期の素描。遠近法の教則本で独学していた時期の作例で、道が画面奥へ収束する構成が明確に意識されているhttps://www.metmuseum.org/art/collection/search/459193
ゴーギャン作《ひまわりを描くファン・ゴッホ》/The Painter of Sunflowers1888年・アルルファン・ゴッホ美術館ゴーギャンによるファン・ゴッホの肖像。ひまわりの季節が終わった12月に記憶から描かれており、二人の制作手法の相違そのものを示す資料になっているhttps://www.vangoghmuseum.nl/en/collection/s0225v1962

REFERENCES / 出典参考文献

学術論文・論考

  • 圀府寺司(こうでらつかさ)「フィンセント・ファン・ゴッホ《星月夜》 祈りの風景」(artscape) https://artscape.jp/study/art-achive/10151119_1982.html
  • 圀府寺司「ファン・ゴッホ作『星月夜』その象徴的意味」(美学会/J-STAGE) https://www.jstage.jst.go.jp/article/bigaku/39/3/39_KJ00003903101/_article/-char/ja/
  • 「フィンセント・ファン・ゴッホ、『耕す人』」(CiNii Research) https://cir.nii.ac.jp/crid/1050001202933113088
  • 「Gauguin and Buddhism」(J-STAGE) https://www.jstage.jst.go.jp/article/sprj/42/0/42_17/_html/-char/en
  • 「ユダヤ教と近代絵画:ゴッホ,シャガール,バーネット・ニューマン」(CiNii Research) https://cir.nii.ac.jp/crid/1050003825007244416
  • 「浮世絵版画の空間表現:浮絵(うきえ)と遠近法を中心として」(CiNii Research) https://cir.nii.ac.jp/crid/1050845762925133952
  • 「ゴッホの生涯」(CiNii Research) https://cir.nii.ac.jp/crid/1130282269672527488

所蔵館・公式資料

  • Van Gogh Museum「Inspiration from Japan」 https://www.vangoghmuseum.nl/en/art-and-stories/stories/inspiration-from-japan
  • Van Gogh Museum「Vincent’s Death」 https://www.vangoghmuseum.nl/en/art-and-stories/stories/all-stories/vincents-death
  • Van Gogh Museum「Vincent’s Illness and the Healing Power of Art」 https://www.vangoghmuseum.nl/en/art-and-stories/stories/vincents-illness-and-the-healing-power-of-art
  • Van Gogh Museum コレクション(The Potato Eaters/The Bedroom/Sunflowers/Wheatfield with Crows/Gauguin, Vincent van Gogh Painting Sunflowers) https://www.vangoghmuseum.nl/en/collection/s0005v1962 / s0047v1962 / s0031v1962 / s0149v1962 / s0225v1962
  • The Museum of Modern Art(The Starry Night/The Olive Trees) https://www.moma.org/collection/works/79802 / https://www.moma.org/collection/works/80013
  • The Metropolitan Museum of Art「Road in Etten」 https://www.metmuseum.org/art/collection/search/459193

書籍・出版社情報

  • みすず書房『ファン・ゴッホの手紙【新装版】』 https://www.msz.co.jp/book/detail/08637/
  • KADOKAWA『ファン・ゴッホ 日本の夢に懸けた画家』 https://www.kadokawa.co.jp/product/321905000143/

一般情報

  • フィンセント・ファン・ゴッホ(日本語版Wikipedia) https://ja.wikipedia.org/wiki/フィンセント・ファン・ゴッホ
  • フィンセント・ファン・ゴッホの手紙(日本語版Wikipedia) https://ja.wikipedia.org/wiki/フィンセント・ファン・ゴッホの手紙
  • 「ゴッホのパリ時代〜浮世絵、印象派との出会いと画風の変化」 https://art-bible.hatenadiary.jp/entry/gogh-paris-age
最終更新:2026年8月26日

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