ゴッホゆかりの地13か所In the Footsteps of Vincent van Gogh
アルルの黄色い家は、1944年の爆撃で消えた。彼が描いた跳ね橋も、もうない。サン=レミの病室はいまも稼働中の病棟の一部で、入ることはできない。それでもオーヴェールの宿屋の7平方メートルだけは、1890年から一度も人に貸されないまま残っている。生まれた村から死んだ村まで、彼が移り住んだ13の土地をたどる。

- ゴッホが暮らした建物のうち、内部まで残って公開されているのは2か所だけ。ロンドンのハックフォード・ロード87番地と、オーヴェールのラヴー亭5号室である。
- アルルは住んだ3か所すべてが1944年の爆撃で消えている。跳ね橋も現存せず、いま見られるのは1960年に別の場所へ復元されたものである。
- いちばん行きやすいのはオーヴェール=シュル=オワーズ。パリから乗り換え1回、片道約1時間半、7ユーロ前後で、村は徒歩圏に収まる。
ゴッホゆかりの地をたどる
生まれた村から、亡くなった村まで。彼が移り住んだ順に13の土地をたどる。
ゴッホゆかりの地 ─ 住んだ場所と、描かれた場所
パリの北へ30キロ、オワーズ川沿いの村に、7平方メートルの部屋がある。天窓がひとつあるだけの屋根裏で、床も壁も何もない。1890年7月29日の未明にひとりの男がそこで死んで以来、この部屋は一度も人に貸されていない。135年である。
同じ画家が2年前まで暮らしていた南フランスの家は、跡形もない。1944年6月25日、鉄道橋を狙った爆弾が落ちて、寝室は消えた。建物は再建できる状態だったが、そのまま取り壊された。
フィンセント・ファン・ゴッホは37年の生涯で、20か所以上に住んだ。オランダ、イギリス、ベルギー、フランス。転勤、解雇、家族との喧嘩、金、病気。理由はその都度違うが、どの土地でも彼は同じことをしている。歩いて、そこにあるものを描いた。
この記事でたどるのは、彼が住んだ場所と、彼の絵の舞台になった場所である。両方を兼ねる土地もあれば、住んだだけで一枚も描かなかった土地もある。そして、いま行ける場所と、行っても何も残っていない場所がある。
| 土地 | 滞在 | この地の作品 | いま |
|---|---|---|---|
| ズンデルト(蘭) | 1853–64 | なし | 跡地に美術センター |
| ハーグ(蘭) | 1869–73/1881–83 | 素描多数、街景12点 | 住居は残っていない |
| ロンドン(英) | 1873–74 | 《ハックフォード・ロード87番地》 | 建物・内装とも現存 |
| クエム(白) | 1879–80 | 坑夫の素描 | 博物館として公開 |
| エッテン=ルール(蘭) | 1881 | 農民の素描 | 牧師館は残っていない |
| ドレンテ(蘭) | 1883 | 泥炭地の風景 | 下宿が現存 |
| ニューネン(蘭) | 1883–85 | 《ジャガイモを食べる人々》ほか全作品の4分の1 | 21か所が現存 |
| アントウェルペン(白) | 1885–86 | アカデミーの習作 | 下宿に銘板 |
| パリ(仏) | 1886–88 | 200点超 | 建物は現存、内部非公開 |
| アルル(仏) | 1888–89 | 200点超 | 住居は3か所とも消失 |
| サン=レミ(仏) | 1889–90 | 約150点 | 稼働中の病院 |
| オーヴェール(仏) | 1890 | 74点 | 5号室が1890年のまま |
距離の感覚を先に置いておく。ズンデルトからニューネンまで約70キロ、ハーグからドレンテまで約200キロ、パリからアルルまで約700キロ。1888年に彼がパリからアルルへ向かったときは20時間かかった。いまTGVなら4時間で着く。
いまでは、これらの土地は国境を越えた組織で束ねられている。ファン・ゴッホ・ヨーロッパ財団という。4か国15都市以上の10美術館と10遺産地が加盟し、案内表示も開館情報も同じ基準で出す。
無料のルートアプリもある。ドレンテ、ブラバント、ベルギーのボリナージュ、ロンドンから、アルル、サン=レミ、オーヴェール=シュル=オワーズまで、音楽と映像と本人の言葉を連れて歩ける。アプリのインストールは不要で、ブラウザで開くだけ。自宅でも現地でも使える。オランダ語、フランス語、英語の3か国語で、日本語はない。
Van Gogh Europe Route App(紹介ページ)
整備が進んだのは、そう昔のことではない。1971年まで、ロンドンの下宿の番地さえ誰も知らなかった。
ズンデルト ─ 生まれた村
アルルの病院のベッドで、彼は故郷の家を歩いていた。
1889年1月、耳を切ったあとの手紙にこうある。病気のあいだ、ズンデルトの家の部屋という部屋、小道の一本ずつ、庭の草の一本ずつ、まわりの眺め、畑、隣人たち、墓地、裏の菜園を、また見た。墓地の高いアカシアにかかったカササギの巣まで。
35歳の男が、4歳から11歳までを過ごした村を、そこまで細かく覚えていた。
ズンデルトはベルギー国境まで十数キロ、砂地の畑と松林に囲まれた村である。住民の大半はカトリックで、プロテスタントの信徒は数10人しかいない。その少数を相手にする牧師がテオドルス・ファン・ゴッホだった。1853年3月30日、その牧師館で長男が生まれる。
家には版画が掛かり、ピアノがあり、子どもたちは音楽のレッスンを受けた。この教育はあとまで効いている。彼が生涯にわたって美術と文学の話を手紙に書き続けられたのは、この家の本棚があったからである。
もっとも、家での評判はよくなかった。女中は彼をきょうだいのなかで最も感じの悪い子だったと覚えており、「変わり者」という意味の方言で呼んでいた。
1871年、父の任期が終わって一家は村を出る。以後、彼はこの村に戻らなかった。それでも1885年の手紙には、ズンデルトのことを考えると、ときどき手に負えなくなる、という一行がある。
ズンデルトで描かれた絵は一枚もない。彼が絵筆を握ったのは27歳のときで、村を離れて16年が経っていた。それでも、彼が最後まで描き続けた砂地の畑と、そこで働く人々は、この村の風景そのものである。
生家は残っていない。跡地にはフィンセント・ファン・ゴッホ・ハウスという美術センターが建つ。いまの建物は1903年のもので、彼が育った家ではない。館内では音声劇が幼少期をたどる。
牧師館のすぐそばに、彼が洗礼を受けた教会が建っている。その墓地に、小さな墓石がひとつある。1852年3月30日生まれ、フィンセント・ファン・ゴッホ。死産した兄で、弟が生まれるちょうど1年前の日付である。名前も同じだった。毎週日曜、少年はその石の前を通って礼拝に向かった。
教会前の広場には、オシップ・ザッキンによる兄弟の像が立つ。1964年5月28日、ユリアナ女王が除幕した。高さ2・5メートルのブロンズで、台座の石はサン=レミ=ド=プロヴァンスから運ばれている。彼が最後の1年を過ごした療養所の土地の石である。
ブレダから車で20分。村には8キロの徒歩ルートが引かれ、6つのモニュメントをつなぐ。ブラバント州全体には総延長435キロ、10コースの自転車ルートがある。
ハーグ ─ 画商として、画家として
ハーグには2度来ている。一度目は16歳、2度目は28歳。同じ街に、まったく違う立場で入った。
1869年7月、伯父の口利きで画商グーピル商会のハーグ支店に就職した。複製版画を売る仕事である。当時のヨーロッパの中産階級は、油彩の本物を買う代わりに有名画家の複製を客間に飾った。彼が毎日扱っていたのはその複製で、どの主題がどの価格で売れるかを数字として見ていた。支店長は、画廊を訪れる客の誰もが彼に応対してもらうのを好んでいる、この職業で成功するだろう、と書き残している。
1872年の夏、休暇から戻る弟を駅まで送った。その直後に書かれたのが、現存する最初の手紙である。以後18年、2人の文通は途切れなかった。
2度目は1881年の暮れ。今度は画家として来た。従姉の夫にあたるハーグ派の画家アントン・マウフェに手ほどきを受け、生まれて初めて油絵の具に触れる。混ぜたときの喜びが手紙に何度も出てくる。
関係は数か月で壊れた。原因のひとつは、彼がシーン・ホールニクという路上で客を取る女性を家に入れ、その母子と暮らしはじめたことである。家族は激怒し、マウフェは絶交した。
ハーグ時代は素描の時代である。彼はシーンとその母、娘、赤ん坊を何10回となく描いた。座っている女、髪を梳く女、揺りかごを覗き込む老女。人物を描く技術はここで身についた。1882年(29歳)の夏には最初の独立した水彩と油彩の習作を制作し、同じ年、画商だった伯父コルネリスからハーグの街景12点の注文を受けている。生涯に数えるほどしかない、絵による収入だった。
この街に、彼のアトリエ兼住居は残っていない。ハーグに行って見られるのは、彼が働いた画廊の建物と、ハーグ派の作品を集めた美術館である。ゴッホ本人の絵を目当てに訪ねる街ではない。
ロンドン ─ 唯一内部が残る下宿、ハックフォード・ロード87番地
1971年、イギリスで郵便のストライキがあった。配達員のポール・チョークロフトは急に暇になり、前から気になっていたことを調べはじめる。ゴッホがロンドン南部に下宿していたのは知られていたが、番地が分からない。ロワイエ夫人という女性が部屋を貸したらしい、というところまでしか記録がなかった。
ちょうどその年、1871年の国勢調査記録が100年を経て公開されていた。彼は名簿をあたり、旧セント・アンズ・ロードという通りがハックフォード・ロードに改称されていたことに気づく。地名の変遷を知っていたのは、彼が地元の郵便配達員だったからである。
87番地。2年後の1973年、玄関の上に青い銘板が掲げられた。
1873年5月19日、20歳のヴィンセントはロンドン中心部サウサンプトン・ストリートのグーピル商会で働きはじめた。同年8月からこの家に下宿する。家主のウルスラ・ロワイエは前の部屋で小さな学校を営み、19歳の娘ウジェニーがそれを手伝っていた。彼の部屋は最上階の前面である。
ファン・ゴッホ家の書簡には、若いオランダ人がロワイエ家の女性の一人、おそらく娘のほうに恋をしたことをうかがわせる記述がある。実らなかった。この失恋を境に人が変わったと書く伝記は多い。
現存する彼の最初期の作品は、1873年か74年にこの家を鉛筆とチョークで描いた素描である。彼の手によるものと認定されたのは、ちょうど1世紀後の1973年だった。
1876年に商会を解雇されたあとも、彼はイギリスに戻っている。ケント州の港町ラムズゲートの男子寄宿学校で無給の助教師になり、その後ロンドン西郊のアイルワースへ移って給料の出る職を得た。同年10月には教会の講壇に立って初めて説教をしている。まだ画家になると決める4年前である。
この家がいまも建っているのは、運がよかったからでもある。周囲は戦争中の空襲で焼け、両隣は取り壊された。87番地だけが残った。1947年に買ったスミス夫妻が最初に修繕して以降、70年ほどほとんど手が入らず、1850年代の内装がそのまま保存された。1981年3月27日、国の歴史的建造物に登録された。
修復のさなかに、屋根の根太のあいだから書類の束が出てきた。広げるとウルスラ・ロワイエの署名がある。ヴィンセントが住んでいた年の火災保険証書だった。一緒に、1867年刊の小さな祈祷書が挟まれていた。よく読み込まれた跡がある。
館内にはゴッホの絵に見えるものが掛かっているが、これはチョークロフト自身が描いて署名した模写である。下の展示ケースが、彼の1971年の調査を追う。
ゴッホが暮らした建物のうち、内部まで残って公開されているのは、この家とオーヴェールの宿屋だけである。地下鉄オーヴァル駅から徒歩。美術館ではなくアーティスト・ハウスという位置づけで、新進作家の滞在制作を受け入れながら、木曜と日曜だけガイドツアーを行っている。予約が要る。ロンドンの日程を決める前に、開いている日を確かめたほうがいい。
クエム ─ 画家になると決めた家
ベルギー南部の村クエムに、小さな家がある。地元ではマゾン・デュ・マレ、沼の家と呼ばれてきた。ゴッホがそこに下宿したのは1880年のことで、家主は炭鉱夫のシャルル・ドクリュックだった。
この家で、彼は画家になると決めた。
そこに至るまでの2年が、彼の人生でいちばん苦しい時期にあたる。1878年12月、彼は神父の資格を持たないままボリナージュ炭鉱地帯へ入った。ワスムのプロテスタント孤児院で説教を始めたが、与えられた住まいが自分には贅沢すぎると言って出ていき、小屋に移った。持ち物を炭鉱夫に配り、坑内事故の負傷者を看護し、床に寝た。腸チフスの患者を見舞った。地元では「炭鉱のキリスト」というあだ名がついている。
1879年7月、伝道委員会は契約を更新しなかった。理由は、そのやり方が聖職者としての品位を欠いていたというものである。福音を文字どおり実行した男が、実行しすぎたという理由で信仰の組織から外された。
彼は徒歩でブリュッセルへ向かい、そこからまた歩いてクエムへ戻った。それから1年近く、記録が薄くなる。
ボリナージュで描かれた素描は多くない。技術も未熟で、人体の比率が崩れている。それでも彼は坑道から上がってくる男たちと、石炭袋を担いで雪のなかを歩く女たちを繰り返し描いた。10年後にアルルで郵便配達人や農婦を描くときの下地は、ここで始まっている。
この一帯はヨーロッパ大陸でいち早く産業革命を経験した地域のひとつで、サンブル川とムーズ川の谷に沿った石炭と鉄鋼の産業地帯の西端にあたる。彼がここを選んだのは、いちばん貧しい人々がいる場所だったからである。
マゾン・デュ・マレは博物館として公開されている。建物は当時の質素な雰囲気に整えられ、受付棟から絵入りの琺瑯板をたどって家に入る動線になっている。展示されているのは複製と書簡のファクシミリで、原画はない。滞在の初期に下宿した家は、隣のコルフォンテーヌに残っている。
いまも一帯にはボタ山がある。産業としては終わっているが、地形として残った。モンス市街から車で10分、ロータリーに置かれた巨大な鉱夫のランプが目印になる。マゾン・デュ・マレは、火曜から日曜の10時から16時開館、毎月第一日曜は無料である。
エッテン=ルール ─ 最初のアトリエ
1881年のクリスマス、28歳の男が父と怒鳴り合って家を出た。行き先はハーグだった。
その家がエッテンの牧師館である。両親は1875年から82年までここに住み、ヴィンセントは休暇や仕事の切れ目に帰ってきていた。1881年は4月から12月まで、8か月を過ごしている。この年、彼はエッテンで初めて公式に芸術家として登録し、最初のアトリエを持った。
喧嘩の遠因は、その夏にあった。母方の従姉ケー・フォス=ストリッケルが、幼い息子を連れて滞在していた。夫を亡くしたばかりである。ヴィンセントは求婚し、即座に断られた。それでも諦めず、アムステルダムの彼女の家を訪ねる。面会を拒まれると、ランプの炎に手をかざして、この炎に手を入れていられるあいだだけでも会わせてくれと言ったと伝わる。ケーは会わなかった。
8か月のあいだに、彼の素描は目に見えて上達している。種を蒔く人、畑を掘る人、庭。この時期の一枚である《エッテンの道》は、いまメトロポリタン美術館にある。
牧師館は残っていない。代わりに、ファン・ゴッホ教会と呼ばれる建物に常設展示が置かれ、画業の出発点とケーへの求婚に始まる家族との衝突を扱っている。新しい体験型施設の計画も進んでいる。
ロッテルダムから列車で40分、エッテン=ルール駅から徒歩圏。ズンデルトとは車で20分なので、同じ日にまわれる。
ドレンテ ─ 泥炭地の3か月
1883年9月、彼はシーンと2人の子を残してハーグを出た。行き先は北東部のドレンテ州である。
11日にホーヘフェーンへ列車で着き、2週間ほど宿に滞在した。それから運河船に乗ってニーウ・アムステルダムへ移り、10月2日からスホルテという家の一室に下宿する。泥炭地の広がる、当時のオランダでもっとも貧しい地方のひとつだった。彼は農民と、泥炭を切り出す人々を描くつもりでいた。
3か月ももたなかった。画材を売る店が近くになく、モデルになってくれる人間もいない。日が短くなり、雨が続いた。《泥炭船と2人の人物》のような暗い風景画を何点か残して、12月に彼は引き払っている。
その下宿がいまも残り、ファン・ゴッホ・ハウス・ドレンテとして公開されている。住所はVan Goghstraat 1。彼が去ったばかりのような状態に整えられた部屋を見られる。
ニーウ・アムステルダムとフェーノールトは境界を挟んだ双子の村で、合わせて人口7200人ほど。彼が絵を描いた場所には、割れないガラス製の絵画フレームが5基置かれている。9キロと6キロの徒歩・自転車コースの一部になっており、額縁越しに絵と実景を重ねて見る仕掛けである。
アムステルダムから列車とバスで3時間。オランダ北東部にあり、ブラバントの3拠点からは大きく離れている。まとめてまわるなら別に1泊が要る。
ニューネン ─ 村全体が屋外美術館
村全体が展示になっている場所がある。
1883年12月から85年11月まで、ゴッホはニューネンにいた。父が82年から牧師を務めていた村である。彼は牧師館に転がり込み、裏手の洗濯場をアトリエにし、のちに教会堂管理人の家に部屋を借りた。
この2年で描かれた作品は、全作品のおよそ4分の1にあたる。
村には手織りの職人が何10人も住んでいた。農家の土間に木製の織機を据え、薄暗いなかで一日中働いている。ヴィンセントは彼らの家に通い、織機と職人を繰り返し描いた。素描と油彩を合わせて数10点になる。手紙のなかで彼は、織機という道具が黒い獣のように見えると書いている。
1884年2月、大腿骨を折って寝たきりになった母のために教会を描いた。翌年の秋に手を入れ、礼拝を終えて出てくる人々を描き加えている。《ニューネンの改革派教会を出る会衆》として知られる小品だが、描いた本人はほとんど礼拝に出ていなかったとみられている。
同じ年の秋、隣家の娘マルホット・ベーヘマンが彼に恋をした。10歳年上である。両家が反対し、彼女は散歩の途中でストリキニーネ(毒物)を飲んだ。ヴィンセントが気づいて医師のもとへ運んでいる。
1885年3月26日の夕方、父テオドルスが牧師館の玄関先で倒れ、そのまま死んだ。62歳。その1か月後から、彼はそれまででいちばん大きな一枚に取りかかる。《ジャガイモを食べる人々》である。
《ジャガイモを食べる人々》のために描いた農民の頭部習作は40点を超える。冬のあいだ、彼は一軒ずつ農家を訪ね、暖炉のそばに座らせて顔を描かせてもらった。
ニューネンには、ゴッホと直接の関係を持つ建物と風景が21ある。牧師館、教会、水車小屋、機織り職人の家、墓地。それぞれに解説が置かれ、徒歩と自転車のルートでつながれている。《ジャガイモを食べる人々》が描かれた家もそのひとつで、実物はアムステルダムにあるが、その部屋の場所には立てる。
原画を見るなら、南西へ20キロのデン・ボスにあるノールトブラバント美術館になる。オランダ南部で唯一ゴッホの原画を持つ館である。アイントホーフェンから車かバスで20分。村を歩くだけで半日はかかる。
アントウェルペン ─ 浮世絵を買った港町
1885年11月、彼は3か月だけベルギーの港町にいた。
アントウェルペンには美術アカデミーがあった。人体デッサンの課程に入り、美術館でルーベンスの大作を見る。色彩に対する考え方が動きはじめたのはこの時期である。生活は荒れていて、歯がぐらついて痛み、治療を受けた。アカデミーの石膏像中心の教え方が肌に合わず、教師と衝突して、翌年2月末に誰にも知らせず街を出ている。
ここで描かれた作品は多くない。《骸骨と燃えるタバコ》のような習作が残る程度である。
それでも、この港町で彼は作品に影響を受けるものを手に入れた。日本の版画である。輸入品の緩衝材として使われていた浮世絵が、港近くの店で安く売られていた。彼は何枚も買い、下宿の壁に貼った。
のちにパリで400点以上を集め、アルルで「日本のようだ」と書くことになる。1888年9月の手紙で彼は、5スーの安い日本版画がルーベンスやヴェロネーゼと同じ理由で素晴らしいと思う、と書いた。原始的な芸術ではないと分かっていて、それでも好きだと言い切っている。
下宿していた建物はベーデケンス通り194番地に残り、銘板が掲げられている。美術アカデミーも現存し、いまも美術学校として使われている。中央駅から市電で行ける。
パリ・モンマルトル ─ 銘板しかない場所
1886年2月末の朝、テオはモンマルトルの職場で一枚の紙片を受け取った。ルーヴルで待っている、という兄からの短い伝言だった。予告はなかった。
最初の住まいはヴィクトル・マセ通り25番地。すぐ手狭になり、同年6月にモンマルトルのルピック通り54番地へ移った。
この部屋の様子は、のちにテオの妻になるヨハンナが書き残している。かなり大きな部屋が3つ、キャビネットと呼ばれる小部屋、小さな台所。居間にはテオの古い戸棚とソファ、そして大きなストーブがあった。兄弟はどちらも寒がりだったからである。ヴィンセントは奥の小窓のある一室をアトリエにし、キャビネットで寝た。壁は次第に絵で埋まっていく。2人は他の画家の作品を買い、あるいはヴィンセントの絵と交換で手に入れていた。 (階数については資料が食い違う。3階とするものと4階とするものがある。)
彼はフェルナン・コルモンの画塾に3か月ほど通い、エミール・ベルナール、ルイ・アンクタン、アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレックと知り合った。クロゼル通りの画材商ジュリアン・タンギーの店にも出入りしている。タンギーは絵の具と引き換えに画家の作品を受け取り、店の奥に積み上げていた。パリでセザンヌの絵を見られる数少ない場所でもあった。
2年間で200点以上。この土地で彼の色は入れ替わった。
ただし、彼が描いたモンマルトルは、いまのモンマルトルではない。1886年の時点でこの丘はまだパリに完全には組み込まれておらず、畑と風車が残る半農村だった。彼が繰り返し描いたムーラン・ド・ラ・ギャレットは、17世紀からの粉挽き小屋が、当時はガレットと呼ばれる黒パンで知られる酒場になっていたものである。
都市の風景よりも、彼は郊外の田園を好んだ。セーヌ川沿いのアニエールには何度も足を運び、ベルナールやシニャックと並んで描いている。当時は列車で行く行楽地で、いまはパリ北西の住宅地になった。
1887年3月には、クリシー大通りのカフェ「ル・タンブラン」で自ら浮世絵の展示を企画している。同じ年、雑誌の表紙に載っていた渓斎英泉の花魁図を拡大して油彩に置き換え、周囲を竹と蓮と鶴で囲んだ。
ルピック通り54番地の建物は残っているが、内部は見学できない。2人が住んだことを記した銘板が壁にあるだけである。
周辺の関連地も似たような状態にある。ロートレックのアトリエがトゥールラック通り5番地、タンギーの店がクロゼル通り14番地、ル・タンブランがクリシー大通り62番地、スーラのアトリエが同128bis。いずれも当時の営業はしていない。サクレ・クール裏の石畳のソール通りには、「旅人ファン・ゴッホ」と題した年譜の銘板が並んでいる。
絵を見るならオルセー美術館とロダン美術館になる。ロダン美術館は《タンギー爺さんの肖像》を所蔵している。地下鉄アベス駅、ブランシュ駅、ラマルク=コーランクール駅のいずれからも歩ける。ルピック通りは坂なので、上から下りる順路のほうが楽である。
アルル ─ 代表作を量産した街
1888年2月20日、彼がアルルで列車を降りた日、街は60センチの雪に埋まっていた。南フランスの光を求めて来た男が、まず描いたのは雪景色だった。
3月に気温が上がると、周辺の果樹園が一斉に花をつけた。杏、桃、梅、林檎。彼は畑に出て、2週間ほどのあいだに14点を描いている。日本の版画で見た花咲く枝が、目の前にあった。
同じ3月、街の南西の運河にかかる跳ね橋を描いた。《アルルの跳ね橋》である。オランダの跳ね橋への郷愁と、青い空と水だけでできた単純な構成が、浮世絵風の明確さを求めていた彼に合ったとみられる。
5月一日、ラマルティーヌ広場2番地の建物の右翼、4部屋を借りた。家賃は月15フラン。1階が台所とアトリエ、2階が自分の寝室と客用寝室である。修繕と家具の購入に金がかかり、実際に住みはじめたのは9月一日だった。
成人してからの彼は、下宿の一室か屋根裏か安宿でしか暮らしたことがなかった。一軒の家を借りるのは初めてである。
その夏から冬にかけて、代表作が次々に生まれる。8月に《ひまわり》4点。9月にフォーラム広場のカフェを描いた《夜のカフェテラス》と、ローヌ川の岸辺で描いた《ローヌ川の星月夜》。10月に《アルルの寝室》。10月23日にゴーギャンが到着し、11月に《赤い葡萄畑》、12月に2脚の椅子。そして12月23日、彼は自分の左耳を切り落とす。
アルルにいたのは15か月。この街で200点を超えるカンヴァスを描いた。
9月の手紙に、こういう一行がある。もしミストラルがもう少し弱ければ、この土地は日本と同じくらい美しく、日本と同じくらい絵に向いているだろう。
住んだ家は、3か所とも消えた
いまアルルへ行っても、彼が住んだ建物はひとつも見られない。
カヴァルリー通り30番地のホテル・カレル、ラマルティーヌ広場30番地のカフェ・ド・ラ・ガール、そして同広場2番地の黄色い家。3か所とも第二次大戦中に失われた。
1944年6月25日、連合軍がローヌ川の橋を破壊する作戦を実施した。ラマルティーヌ広場は駅と鉄道橋のすぐ近くにある。爆撃で広場一帯は壊滅し、隣の食料品店は完全に消えた。黄色い家は大きく損傷した。ヴィンセントの寝室は跡形もなくなり、右側のゴーギャンの寝室は一部だけ残った。アトリエと台所の壁は比較的軽傷だったが、天井が落ちた。
建物は再建できる状態だった。しかし、そのまま取り壊された。1922年にファサードに設置されていた滞在記念の銘板も失われ、2度と見つかっていない。
残っていれば、パリ以外ではフランス有数の観光地になり、アルルの経済を変えていただろうと言われている。
いま、ラマルティーヌ広場はロータリーになっている。ゴッホの絵を掲げた説明板が立ち、家が建っていた位置を示す。手がかりはいくつか残っていて、黄色い家の背後にあった建物は現存し、絵のなかにはっきり見える。いまはカフェ・テルミニュスが入っている。彼が「タラスコン街道」と呼んで毎日画材を担いで歩いた道は、赤軍の勝利を記念してスターリングラード通りという名になった。その先には彼が描いた2本の鉄道高架橋が残っている。
跳ね橋は、現存していない
ここは知っておいたほうがいい。
ゴッホが描いたラングロワ橋そのものは残っていない。1930年にコンクリート橋へ架け替えられた。いま「ヴァン・ゴッホ橋」として公開されているのは、1960年に別の場所へ移して復元されたものである。市街から南へ約3キロ、運河にかかっている。
橋のたもとには絵のパネルが設置されていて、絵と実景を見比べられる。観光客も少なく静かではある。ただ、周りには何もない。徒歩は現実的でなく、レンタカーか自転車かタクシーになる。
残っているもの
《夜のカフェテラス》の舞台になったフォーラム広場のカフェは、建物も黄色い外観もそのままである。長く「カフェ・ヴァン・ゴッホ」として営業してきたが、2023年7月から法的な理由で閉店している。絵と同じ構図で写真を撮る場所としては、変わらず残っている。
耳の事件のあと運ばれた市立病院は、いまエスパス・ヴァン・ゴッホになっている。彼が描いた中庭が復元され、無料で入れる。図書館とギャラリーが入っていて、観光地というより市民の場所である。
《ローヌ川の星月夜》を描いた岸辺は、夕方に行くと絵と同じ方向に光が並ぶ。
ちなみに、フォンダシオン・ヴァンサン・ヴァン・ゴッホ・アルルは、1983年にヨランド・クレルグが設立した協会を出発点とする財団で、現代美術館として運営されている。常設のゴッホ・コレクションはない。
パリ・リヨン駅からTGVでアヴィニョンまで約3時間、乗り換えて20分でアルル駅。マルセイユからは約50分。跳ね橋以外の主要スポットは駅から徒歩10分圏に収まる。半日から一日で足りるので、アヴィニョンと組み合わせる日程が定番になっている。
サン=レミ ─ 隔離された病室、密度の濃い制作期間
1889年5月8日、彼は付き添いの医師とアルルを発ち、25キロ離れた町の療養所に自分から入院した。
強制ではない。書類にサインしたのは本人である。
サン=ポール・ド・モーゾルは、11世紀から12世紀にかけて建てられた修道院を転用した施設だった。1605年から修道士が精神を病んだ人々を世話する場になり、フランス革命後に医師が買い取って民間の療養所になる。以来ずっと医療施設として使われてきた。担当医はテオフィル・ペイロン、もとは海軍の軍医で眼科が専門である。テオが月100フランを払い、兄が個室を2つ使えるよう手配した。ひとつは寝室、もうひとつはアトリエだった。
最初のうち、外に出る許可は下りなかった。画題は壁に囲まれた庭に限られる。5月の庭にはアイリスが咲いていた。ライラックも咲いていた。彼はそれを描いた。
数週間後、看護人が付くことを条件に外での制作が許される。オリーブ畑、糸杉、麦畑、遠くに横たわるアルピーユの山並み。7月には麦刈りの場面を、9月には星の下の糸杉を描いた。
《星月夜》は1889年6月の作である。東向きの病室の窓から見えた夜明け前の空をもとに、昼間に、記憶と想像を混ぜて描かれた。画面下の村はサン=レミではない。ゴシックの尖塔と灯る窓が並ぶその眺めは、プロヴァンスというより彼が生まれたブラバントの村に近い。実景は丘の稜線だけである。
この窓から見える景色を、彼は21回描いた。時刻も天候も違うが、どの絵にも遠くの丘の線が入っている。そして窓に付いていた鉄格子は、1点にも描かれていない。
53週間の滞在で、油彩は約150点。生涯でもっとも制作の密度が高い時期である。
行っても、彼の部屋には入れない
ここを訪ねるうえで、先に知っておくべきことがある。見学できるヴィンセントの部屋は、再現されたものである。実際に彼が使った部屋は、いまも稼働している病棟の一部にあり、入れない。
再現室はロマネスク様式の階段の最上部にある。開いた扉の向こうに、簡素なベッド、椅子、くすんだカーテン、何もない壁。階段の上からは、彼が繰り返し描いた麦畑が見える。窓から見えたその畑を彼は14回描き、いまは一般公開の庭園になっている。
町の中心から施設までの道沿いには、この時期の作品の複製が21点置かれている。多くは実際に描かれた場所そのものに設置されていて、絵と風景を同じ角度から見比べられる。「シャン・ヴァン・ゴッホ」と呼ばれる一帯には、大型の複製が20点以上並ぶ。歩くこと自体が見どころになる道である。
回廊の一角には、ヴァレチュド協会のアートセラピー工房がある。1995年、医師と職員と患者の発意で始まった。週4回の絵画ワークショップがアートセラピストの指導、精神科医の監督、心理士の補助のもとで行われ、選ばれた作品は文化センター内のギャラリーで展示・販売される。
施設はいまも非営利団体が運営する療養施設として140人以上を雇用し、日々130人以上を受け入れている。見学は、医療施設としての静けさを保つことが前提になる。
近年の修復で、長く非公開だった区画が公開された。そのなかに、神学者アルベルト・シュヴァイツァーが1914年から18年までこの施設にいたことを示す部屋がある。
アルルからバスで約45分、アヴィニョンからも同程度。町の中心から施設までは徒歩20分ほど。入場料はおよそ7ユーロから10ユーロ。すぐ隣にはグラヌムのローマ遺跡があり、修道院の名前はこの遺跡の霊廟に由来する。
オーヴェール=シュル=オワーズ ─ ゴッホ最期の地
1890年5月20日の午後、彼はオーヴェール=シュル=オワーズの駅に降りた。案内された宿は1泊6フランで、高すぎると判断した彼は、自分で歩いて別の宿を探している。村役場の向かいにあるラヴー亭に部屋を借りた。一日3・50フラン、食事つき。
部屋は5番。屋根裏の、小さな天窓がひとつあるだけの7平方メートルだった。隣の6番には、無名のまま終わった画家アントン・ヒルシフが住んでいた。
ここに70日いて、油彩74点と素描50点以上を描いた。一日に一枚以上のペースである。内訳は風景と村の眺めが49点、肖像が13点、静物が11点、動物画が1点。
茅葺きの家、村の教会、市庁舎、麦畑、オワーズ川、ガシェ医師の庭。《オーヴェールの教会》は6月の作で、いまオルセー美術館にある。7月14日には《オーヴェールの市庁舎》を描いた。彼は横長で細長い特殊な寸法のカンヴァスを使いはじめ、地平線の低い麦畑の絵を何点も残している。
ここは本物の田舎だ、深く美しい。手紙にそう書いた。
7月27日、彼は自分の胸を撃った。銃創は肋骨に当たって逸れ、即死には至らなかった。彼は自力で村を歩いて宿まで戻っている。翌日テオが駆けつけ、29日午前1時30分、5番の部屋で死んだ。
その部屋は、以後一度も貸し出されていない。「自殺者の部屋」として扱われたためである。他の6室は画家たちに貸し続けられた。
何もない部屋
いま見学できるのは、1890年から手つかずの空間である。家具も遺品もない。何も置かれていない。
ここには見るものは何もない、しかし感じるものはすべてある。現在の運営者はこの部屋をそう説明している。撮影は禁止で、見学は少人数のグループごとに区切られる。隣の6号室にはヒルシフが使っていた頃の家具が置かれ、19世紀末の画家がどう暮らしていたかが分かる。その先の屋根裏で、滞在を追う映像が上映される。
この宿が残ったのは、偶然に近い。
1985年、ダノン・グループのマーケティング部長だった37歳のドミニク=シャルル・ジャンサンが、宿の前の赤信号で停車中に飲酒運転の車に追突された。1年の休職期間に彼は200の芸術家の家を訪ね、この場所は生き返らせるべきだと結論する。翌年に買い取り、1年8か月の改修を経て、1993年9月17日に公開した。以来投じられた資金は2000万ユーロにのぼる。1987年にはファン・ゴッホ研究所が設立され、2003年からウーテル・ファン・デル・フェーン博士が学術顧問を務めている。
1階は当時に近い内装のレストランになっている。1876年の開業時の姿に戻すため、ワインの棚、10卓の樫のテーブル、流し場が復元された。1954年から56年には映画『炎の人ゴッホ』の撮影が村で行われ、この宿の存在を世界に知らせている。当時の経営者は、宿の娘だったアドリーヌ・ラヴーの記憶をもとに部屋を復元していた。
村のなかは徒歩でまわれる。ヴィンセントが描いた場所には絵のパネルが置かれ、実景と見比べられる。《オーヴェールの教会》のノートル=ダム・ド・ラソンプシオン教会は現存し、ドービニーの家と仕事場も残っている。
パリのサン・ラザール駅または北駅から、乗り換え1回で約1時間半。片道7ユーロ前後である。サン・ラザール駅からはJ線でポントワーズまで約40分、H線に乗り換えて約13分。無人駅なので、往復切符を先に買っておくといい。春から秋の週末には北駅からの直通が走る年もある。駅を出て斜め向かいに観光案内所があり、村の地図がもらえる。半日から一日で足りる。
ラヴー亭の見学は3月から11月、水曜から日曜の10時から18時。10ユーロ。
墓、麦畑、《木の根》の斜面
村のはずれの共同墓地に、同じ形の墓石が2つ並んでいる。入口を入って一番左の列、その中央にある。
1890年7月30日、ヴィンセントの葬儀が行われた。教会は自殺者の葬儀を断ったため、遺体はラヴー亭の1階に安置され、壁には彼の絵が掛けられた。ベルナール、タンギー、ガシェら十数人が参列している。棺は隣村から借りた霊柩車で運ばれ、共同墓地に葬られた。ガシェは墓の周りにひまわりを植えたと伝えられる。
隣の墓が来るまでには、24年かかった。
テオは兄の死から半年後の1891年1月25日、ユトレヒトで死に、当地に葬られた。1914年、妻のヨハンナが遺体をオーヴェールへ移し、兄の隣に埋葬する。ゴッホの書簡集を刊行したのと同じ年である。
2つの墓は蔦に覆われている。この蔦は、ガシェ医師の庭から株分けされたものだと伝えられている。
墓地の周りには麦畑が広がる。墓地まで続く一本道の両脇が、《カラスのいる麦畑》が描かれた場所である。
ただし、この絵は最後の絵ではない。手紙の日付から1890年7月10日ごろの制作と分かっており、死の2週間半前にあたる。7月14日の《オーヴェールの市庁舎》や7月下旬の《ドービニーの庭》のほうが後になる。最後の絵という通説を広めたのは、1956年の映画『炎の人ゴッホ』である。
本当に最後に描かれていたのは、《木の根》とみられている。50×100センチ、未完成のまま残された。彼の作品としては極めて異例で、死んだ時点でまだ描きかけだった証拠とされる。
その場所が分かったのは2020年である。
ファン・ゴッホ研究所の科学部長ウーテル・ファン・デル・フェーンは、村に住む高齢の女性から20世紀初頭の絵葉書を大量に譲り受け、ロックダウン中にそれをデジタル化していた。作業の途中で、一枚の白黒絵葉書に見覚えのある根の輪郭を見つける。題は「Rue Daubigny」。自転車に乗った人物の背後に、木の生えた急斜面が写っていた。
行ってみると、48番地のすぐ外だった。絵と絵葉書に写る最大の切り株は、いまも残っている。ラヴー亭から150メートルの距離である。ファン・ゴッホ美術館の研究者2人が比較調査を行い、特定は「きわめてもっともらしい」と結論した。2020年7月28日、現地で除幕式が行われている。
この斜面は2025年、所有をめぐる争いになった。土地を持つ夫妻と、下端部分を道路の一部として接収しようとした自治体が対立し、裁判所は所有者側の主張を認めている。
誰が見つけたのか
ゴッホの旧跡は、専門の研究機関が主導して特定されたわけではない。
ロンドンの下宿は郵便配達員が国勢調査の名簿から突き止めた。《木の根》の斜面は観光用の絵葉書から見つかった。失われた黄色い家の外観は、1904年頃の絵葉書が最古の写真として残っていたことで復元できた。
3つとも、決め手になったのは紙である。名簿、絵葉書、街並みの写真。ゴッホが生きた19世紀後半は、写真と印刷物が一般に広まった時期にあたる。彼の旧跡がここまで分かるのは、彼が写真の時代の入口にいた人物だからでもある。
逆に、紙が残らなかった場所は分からないままである。ハーグのアトリエ、エッテンの牧師館、ワスムの小屋。どれも位置の見当はついているが、外観を示す資料がない。
オーヴェールの村は全域が景観の指定を受け、ヴェクサン・フランセ地域自然公園に組み込まれている。ズンデルトやニューネンより当時の姿が凍結されている理由のひとつが、これである。
巡礼ルート3案と、日本でたどる1案
旧跡は4か国に散っている。全部を一度にまわるのは現実的ではない。地域ごとに区切ったほうがいい。
オランダ縦断 4泊5日
- DAY 1アムステルダムファン・ゴッホ美術館。18点の自画像を含む中核コレクション。市内泊。
- DAY 2オッテルロークレラー=ミュラー美術館。国立公園のなかにあり、入園と入館の二重料金。車が便利。
- DAY 3ニューネンファン・ゴッホ・ヴィレッジ美術館と21のロケーション。歩くだけで半日。アイントホーフェン泊。
- DAY 4エッテン=ルール → ズンデルトファン・ゴッホ教会の常設展示、続いて生地の8キロルートと6つのモニュメント。
- DAY 5デン・ボスノールトブラバント美術館。南部で唯一ゴッホの原画を持つ館。
ドレンテのファン・ゴッホ・ハウスは北東部にあり、この行程からは外れる。加えるなら初日か最終日に1泊足すことになる。
南仏アルル・サン=レミ 3泊4日
- DAY 1アルル着ラマルティーヌ広場の説明板、カフェ・テルミニュス、2本の高架橋。夕方にローヌ川の岸辺。アルル泊。
- DAY 2アルルエスパス・ヴァン・ゴッホの中庭、フォーラム広場、跳ね橋。アルル泊。
- DAY 3サン=レミバスで約45分。サン=ポール・ド・モーゾルと複製21点の道、シャン・ヴァン・ゴッホ。サン=レミ泊。
- DAY 4アヴィニョン経由で帰路時間があればアンジュラドン美術館。
跳ね橋は市街から約3キロ。徒歩は現実的でない。サン=ポール・ド・モーゾルは稼働中の医療施設で、彼が実際に使った部屋には入れない。
パリとオーヴェール 2泊3日
- DAY 1パリモンマルトル。ルピック通り54番地、ソール通りの年譜銘板、旧タンギー店の通り。市内泊。
- DAY 2オーヴェール=シュル=オワーズサン・ラザール駅から乗り換え1回で約1時間半。ラヴー亭5号室、教会、麦畑、墓地、ドービニー通りの斜面。日帰りで戻れる。
- DAY 3パリオルセー美術館とロダン美術館。
ロンドンを足すならユーロスターで約2時間20分。ハックフォード・ロードのガイドツアーは木曜と日曜のみ、事前予約が要る。
日本で彼が見ていた日本を見る─浮世絵、ひまわり
ゴッホは日本に来たことがない。それでも彼は、アルルの土地を日本になぞらえた。
比較の対象になっていたのは、実在の日本ではない。アントウェルペンの港で買い、パリで400点以上に増えた版画のなかの日本である。平らな色面、影のない画面、澄んだ空気。彼はそれを想像し、その像を南フランスの風景に重ねた。
だから日本で彼の足跡を追うことは、彼が見ていた日本を確かめる作業になる。
版画のほうは、浮世絵の専門館で見られる。東京の太田記念美術館、静岡市東海道広重美術館、岐阜県恵那市の中山道広重美術館。いずれも企画展ごとに展示替えがあるので、目当ての絵師が出ているかは公式サイトの展示予定で確かめてほしい。
油彩なら、新宿のSOMPO美術館に《ひまわり》がある。1987年3月30日、安田火災海上保険がロンドンのクリスティーズで落札した1点で、常設展示はこれのみ。上野の国立西洋美術館には《ばら》がある。サン=レミの療養院の庭に咲いていたばらを、しゃがみ込むような近さで描いた33×41・3センチの小品で、前章で歩いた庭がこの絵の現場になる。箱根のポーラ美術館は、アルル、サン=レミ、オーヴェールにまたがる3点を持っている。
東京・箱根 2泊3日
- DAY 1SOMPO美術館(新宿)常設は《ひまわり》1点のみ。滞在1時間ほど。午後は上野へ。
- DAY 1国立西洋美術館(上野)常設展示室で《ばら》。小品なので位置を確認しておくと迷わない。都内泊。
- DAY 2浮世絵専門館(原宿ほか)太田記念美術館などで、ゴッホが模写した絵師の版画を探す。午後、小田原へ。
- DAY 2小田原駅でレンタカー → 箱根強羅・仙石原方面は駐車場のある館が多い。箱根泊。
- DAY 3ポーラ美術館(箱根)アルル・サン=レミ・オーヴェールの3点を並べて見る。午後、小田原で返却。
浮世絵専門館は企画展ごとに展示替えがあり、目当ての絵師が出ていないこともある。ポーラ美術館の3点も、常設展示室の構成によって入れ替わる。
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LIST / 一覧ゆかりの地一覧
現況は2026年8月時点。開館日と料金は変更されることがあるため、訪問前に各施設の公式サイトで確認してください。
| 土地 | 滞在 | この地の作品 | いま何があるか | アクセス |
|---|---|---|---|---|
| ズンデルト(蘭) | 1853–64 | なし(生地) | 跡地に美術センター、洗礼を受けた教会、兄弟像 | ブレダから車20分 |
| ハーグ(蘭) | 1869–73/1881–83 | 素描多数、街景12点 | 住居は現存せず | アムステルダムから約50分 |
| ハックフォード・ロード87番地(英) | 1873–74 | 《ハックフォード・ロード87番地》 | 建物・内装とも現存。木・日のツアー、要予約 | 地下鉄オーヴァル駅 |
| ラムズゲート/アイルワース(英) | 1876 | 手紙の素描 | 学校の建物が現存 | ロンドンから列車 |
| クエム(白) | 1879–80 | 《坑夫たち》ほか素描 | マゾン・デュ・マレ(博物館) | モンスから車10分 |
| エッテン=ルール(蘭) | 1881 | 《エッテンの道》ほか素描 | 牧師館は現存せず。教会に常設展示 | ロッテルダムから40分 |
| ニーウ・アムステルダム(蘭) | 1883 | 泥炭地の風景 | 下宿が現存。絵画フレーム5基 | アムステルダムから3時間 |
| ニューネン(蘭) | 1883–85 | 《ジャガイモを食べる人々》ほか全作品の1/4 | 21か所が現存。村ぜんぶが屋外美術館 | アイントホーフェンから20分 |
| アントウェルペン(白) | 1885–86 | アカデミーの習作 | 下宿に銘板、アカデミーは現役 | 中央駅から市電 |
| パリ・モンマルトル(仏) | 1886–88 | 200点超、《花魁》《タンギー爺さん》 | 建物は現存、内部非公開。銘板のみ | 地下鉄アベス駅ほか |
| アルル(仏) | 1888–89 | 200点超、《ひまわり》《夜のカフェテラス》《寝室》 | 住居は3か所とも消失。カフェ・病院・高架橋は現存 | アヴィニョンから20分 |
| サン=レミ(仏) | 1889–90 | 約150点、《星月夜》《アイリス》 | 稼働中の病院。見学は再現室のみ | アルルからバス45分 |
| オーヴェール(仏) | 1890 | 74点、《オーヴェールの教会》《木の根》 | ラヴー亭5号室が1890年のまま。教会・墓・麦畑も現存 | パリから約1時間半 |
BOOKS & FILM / 本と映像旅の前に読む
ゴッホのあしあと 日本に憧れ続けた画家の生涯
- 著者
- 原田マハ
- 出版
- 幻冬舎新書、2018年5月/幻冬舎文庫、2020年8月
南仏アルル、サン=レミ、オーヴェール=シュル=オワーズなど、ゴッホが歩いた地を巡る旅行エッセイ。169頁と薄く、版元も「旅のお供にも最適」と位置づけている。狂気の天才という像を外し、努力家でインテリ、日本に憧れ続けた人間としてのゴッホを描く。この記事と同じ土地を、小説家の目で歩いた記録として読める。
Amazonで見るカラー版 ゴッホ〈自画像〉紀行
- 著者
- 木下長宏
- 出版
- 中央公論新社(中公新書2292)
自画像を手がかりに、10年の画家人生を土地ごとにたどる。カラー版なので図版が見やすく、新書サイズで持ち歩ける。ロンドンやボリナージュのように作品の少ない時期も同じ密度で扱っているのが、旅の資料として使いやすい。
Amazonで見るたゆたえども沈まず
- 著者
- 原田マハ
- 出版
- 幻冬舎/幻冬舎文庫
パリで画商のアシスタントとして働く加納重吉と、雇用主の林忠正、そしてゴッホ兄弟の交流を描いた長編。第10章のパリと第15章の浮世絵をつなぐ補助線になる。史実とフィクションの境目については、上の『ゴッホのあしあと』のなかで著者自身が説明している。
Amazonで見るファン・ゴッホの生涯 上・下
- 著者
- スティーヴン・ネイフ/グレゴリー・ホワイト・スミス
- 訳
- 松田和也
- 出版
- 国書刊行会
ピューリッツァー賞受賞コンビによる、現時点で最も詳細なゴッホ伝。上下巻で図版約200点。どの土地に何年何月から何月までいたかを確かめたいとき、この2冊が一番早い。値も重さもあるので、旅行に持っていく本ではなく、行く前と帰ってからの本。
Amazonで見るゴッホの眼 新版
- 著者
- 高階秀爾
- 出版
- 青土社、2019年5月25日
1984年の評論の新装版。ひまわり、椅子、古靴、寝室、種撒きと刈り入れ、糸杉、星月夜、麦畑と、ゴッホが好んだモティーフごとに章を立て、書簡を引きながら意味を読み解く。アルルからオーヴェールまでの土地で彼が何を見ていたのかを考えるための1冊。
Amazonで見るゴッホとヘレーネの森 クレラー・ミュラー美術館の至宝
- 内容
- 美術館ドキュメンタリー
ルートA・2日目のクレラー=ミュラー美術館を扱ったドキュメンタリー。ヘレーネ・クレラー=ミュラーがどのようにゴッホを集めたかを追う。国立公園のなかにある館の環境も映るので、行く前に見ておくと現地での時間の使い方が決めやすい。
Amazonで見る当サイトはAmazonアソシエイト・プログラムの参加者です。リンクから購入された場合、当サイトに紹介料が支払われます。
REFERENCES / 出典参考文献
一次資料
- Vincent van Gogh: The Letters(ファン・ゴッホ美術館/フイヘンス研究所 オンライン版)
- フィンセント・ファン・ゴッホ『ファン・ゴッホの手紙 I・II』ファン・ゴッホ美術館編、圀府寺司訳、新潮社、2020年
遺産団体・施設の資料
- Van Gogh Europe Foundation 公式サイト(加盟館・遺産地一覧、ルートアプリ)
- Van Gogh Sites Foundation/Van Gogh Brabant/VisitBrabant(徒歩・自転車ルート)
- Van Gogh House London(87 Hackford Road)公式サイト
- Maison Van Gogh, Cuesmes(Mons市)公式サイト
- Van Gogh Huis Drenthe/Van Gogh Village Museum Nuenen 公式サイト
- Maison de Van Gogh / Auberge Ravoux 公式サイト、Institut Van Gogh
- Monastère Saint-Paul-de-Mausole/Valetudo 資料
- Fondation Vincent van Gogh Arles 公式サイト
報道・研究
- The Art Newspaper「Did Van Gogh’s Yellow House turn blue after his death?」2026年3月
- The Art Newspaper「The story of Van Gogh in Brixton, 150 years on」2023年9月
- ファン・ゴッホ美術館「Does the Yellow House still exist?」
- L. van Tilborgh & T. Meedendorp による《木の根》制作地の比較調査(2020年)
- Historic England 87 Hackford Road SW9 指定資料(1981年)
- ARTnews「Van Gogh-Inspired Café La Nuit Remains Closed for Legal Reasons」2024年






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