ルノワール ゆかりの地

ピエール=オーギュスト・ルノワールゆかりの地|4つの土地が、4つの様式を作った|アーティストの人生
ゆかりの地パリ・イル=ド=フランス・シャンパーニュ・南仏13か所ルート3案
ARTIST · PLACES

ピエール=オーギュスト・ルノワールゆかりの地In the Footsteps of Pierre-Auguste Renoir

ルノワールの様式が4回変わったことはよく知られている。あまり知られていないのは、その4回が、彼が拠点にした4つの土地とほぼ一致していることである。モンマルトルの木漏れ日、シャトゥーの水面反射、シャンパーニュ地方の農村、そして南仏の地中海光線。土地の光の性質が変われば、パレットが変わった。しかも幸運なことに、この4か所はいずれも現存し、うち3か所はフランスの歴史的建造物または「著名人の家(Maisons des Illustres)」として保護され、公開されている。この記事では、各拠点の現況と当時の作品を並べながら13章でたどる。

カーニュ=シュル=メールのルノワール美術館(レ・コレット邸)外観
レ・コレット邸(現・ルノワール美術館)。1907年に購入し、翌1908年に建てられた終の棲家。フランスの歴史的建造物(ベース・メリメ参照番号 PA06000001)/Wikimedia Commons(CC BY-SA 3.0)
DATAゆかりの地データ
生誕地フランス・リモージュ(1841年)
少年期以降パリ(ルーヴル美術館近くの下町)
モンマルトル1876年、コルトー通りにアトリエを構える
シャトゥー1870年代後半〜1880年代初頭に通う(メゾン・フルネーズ)
エソワ1888年に発見、1896年に最初の不動産を購入。以後、夏を過ごす
カーニュ=シュル=メール1903年から滞在、1907年にレ・コレットを購入、1919年に没する
パリの住所サン・ジョルジュ通り35番地(パリ9区)に住んでいた時期がある
墓所エソワの墓地(妻アリーヌ、三人の息子ピエール・ジャン・クロードとともに)
歴史的建造物指定【幅広】メゾン・フルネーズ:ベース・メリメ PA00087403/IA00027747 / レ・コレット:PA06000001 / エソワのアトリエ:Maisons des Illustres 認定(メリメID MI049)
現在の公開施設【幅広】モンマルトル美術館(2003年にフランス国立博物館の認定)/メゾン・フルネーズ/「Du côté des Renoir」(エソワ/2011年開設、2017年に家とアトリエを公開)/ルノワール美術館(カーニュ/1960年開館)
土地と様式の対応【幅広】モンマルトル=木漏れ日と近代都市の余暇 / シャトゥー=川面の反射光とブルジョワジーの行楽 / エソワ=農村と古典的フォルムへの回帰 / カーニュ=地中海の光と赤を基調とする晩年様式
3点でわかるルノワールゆかりの地
  1. ルノワールの様式転換は、拠点の移動とほぼ一致している。モンマルトルの木漏れ日、シャトゥーの水面反射、エソワの農村、カーニュの地中海光線。土地の光の性質が変わるたびに、彼のパレットも変わった。
  2. 主要拠点の多くが現存し、保護されている。シャトゥーのメゾン・フルネーズとカーニュのレ・コレットはフランスの歴史的建造物(ベース・メリメ)に登録され、エソワの家とアトリエは「Maisons des Illustres」の認定を受けて公開されている。
  3. カーニュのレ・コレットは、樹齢数百年のオリーブの森が伐採される危機を知ったルノワールが、その森ごと買い取った土地である。描く対象を守るために不動産を購入したことになる。
PLACES

ピエール=オーギュスト・ルノワールゆかりの地をたどる

パリのモンマルトルから、セーヌ河畔、シャンパーニュの農村、そして地中海へ。

総論OVERVIEW01

4つの土地が、4つの様式を作った

ルノワールの作品群は、アトリエという閉鎖空間での思弁的な産物ではない。具体的な地理的・社会的環境と不可分に結びついている

彼が反応したのは、大きく4種類の環境である。

第一に、パリの近代化に伴う都市空間の変容。オスマンによる大改造を経たパリと、その周縁に残るモンマルトルの丘。

第二に、郊外の行楽地における新しい余暇文化。鉄道網の発達によって、パリ市民が週末に川辺へ出かけるという習慣が生まれた。

第三に、シャンパーニュ地方の伝統的な農村の風土。妻アリーヌの故郷エソワである。

第四に、南フランス地中海沿岸部が放つ根源的な光と気候。カーニュ=シュル=メール。

そしてこの4つは、彼の画業の4区分とほぼそのまま対応する。

拠点主な時期その土地の条件対応する画風
パリ・モンマルトル1870年代樹木の多い丘、庶民の社交場、木漏れ日印象派の斑状の光。筆触分割の全面採用
シャトゥー(イル=ド=フランス)1870年代後半–1880年代初頭セーヌ川の中州、川面の反射光、階級の混交こんこう明るい色彩と集団肖像。過渡期の総決算
エソワ(シャンパーニュ地方)1888年以降の夏農村、川、畑、安価なモデル古典的フォルムへの回帰(アングル期)の土壌
カーニュ=シュル=メール(南仏)1903–1919年地中海の強い光、オリーブの森、温暖な気候冷たい色調の排除。赤とオレンジの晩年様式

順序に注目したい。都市の中心から、郊外へ、農村へ、そして南の海辺へ。移動の方向は一貫して「パリから遠ざかる」である。

理由は単純なものもある。エソワへ行ったのは、パリのモデル代が高かったからである。カーニュへ行ったのは、リウマチの痛みが寒さで悪化したからである。芸術上の決断ではなく、生活上の必要が、結果として様式を動かしている

《陽光の中の裸婦(習作、トルソ、陽光の効果)》1875年 油彩・カンヴァス、81×55cm。木漏れ日が肌に落ちる効果を単独で主題化した実験的な一枚。この青紫の斑点が「腐った肉」と酷評された。オルセー美術館所蔵。 Wikimedia Commons
ルーヴシエンヌ(モンビュイソン)の家 パリ西郊ルーヴシエンヌに残る、ルノワール家ゆかりの建物。両親が移り住んだ土地で、初期のルノワールがしばしば訪れた場所にあたる。 Wikimedia Commons
1876年〜MONTMARTRE / RUE CORTOT02

モンマルトル ─ コルトー通り12番地

19世紀末のパリ・モンマルトルは、都市の喧騒けんそうとボヘミアンの熱気が交錯する場所だった。ルノワールにとってここは、近代生活の視覚的記録を行うための巨大な野外スタジオである。

中心になったのが、コルトー通りに位置する歴史的な建造物群である。オテル・ドマルヌメゾン・デュ・ベル・エール。この敷地は、17世紀の俳優ロジモンが1680年に取得したという長い歴史を持つ。

ルノワールは1876年、この場所にアトリエを構えた。35歳のときである。

なぜここだったのか。丘の上にあるモンマルトルは、当時まだパリ市内でありながら田園的な景観を残していた。庭には木があり、葡萄畑ぶどうばたけがあり、風車が残っていた。そして地価と家賃が安かった。

同時に、庶民の社交場が集中していた。ダンスホール、キャバレー、居酒屋。描く対象と、それを描く場所が、徒歩圏内に揃っていた

この敷地は、ルノワール以後も芸術拠点であり続ける。シュザンヌ・ヴァラドンとモーリス・ユトリロが1912年から1926年にかけて居住した。母子の画家がここにアトリエを構えていたことになる。

そして現在、この場所はモンマルトル美術館として保存されている。2003年にフランス国立博物館の認定を受けた施設である。所在地は 8-14 rue Cortot, 75018 Paris。

モンマルトル美術館(現在) コルトー通りに面した建物。17世紀の俳優ロジモンが1680年に取得した敷地に建つ。ルノワールは1876年にここにアトリエを構えた。2003年にフランス国立博物館の認定を受けている。 Wikimedia Commons
ヴァラドンとユトリロのアトリエ(同敷地内) 1912年から1926年にかけて、シュザンヌ・ヴァラドンと息子モーリス・ユトリロがこの敷地に居住した。ルノワールの後もこの場所が芸術拠点であり続けたことを示す空間。 Wikimedia Commons
シュザンヌ・ヴァラドン《コルトー通りの庭から見たサクレ・クール》 同じ庭を、後の世代の画家が描いたもの。ルノワールが1876年に見た庭と、ヴァラドンが1910年代に見た庭を比較できる数少ない材料。ポンピドゥー・センター所蔵。 Wikimedia Commons(Flickr / dalbera)
1876年JARDINS RENOIR03

ルノワールの庭で描かれたもの

コルトー通りのアトリエに付属していた庭は、そのまま制作現場になった。ルノワールはこの庭園の豊かな緑と木漏れ日を活用して、印象派時代の記念碑的作品を生み出している。

《ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏会》(1876年)。舞台はモンマルトルの屋外ダンスホールだが、大画面の制作には近くのアトリエと庭が不可欠だった。

《ぶらんこ》(1876年)。庭でぶらんこに乗る女性と、それを取り囲む数人。地面と衣服に落ちる斑点状はんてんじょうの光が、この作品の主題そのものである。

《コルトー通りの庭》(1876年)。敷地そのものを直接描いた一枚。

これらの作品において、葉の隙間から人物の衣服や地面に落ちる斑点状の光は、移ろいゆく時間の瞬間的な現前げんぜんを捉えている。木漏れ日は数十秒で位置が変わる。それを描くには、対象の前に立ち続けられる場所が要る。アトリエの庭は、その条件を満たす唯一の空間だった。

現在、この庭は「ルノワールの庭(Jardins Renoir)」としてモンマルトル美術館の敷地内に整備されている。画家がイーゼルを立てた物理的な空間が、庭園デザインとして維持されていることになる。

《コルトー通りの庭》1876年 アトリエに付属していた庭そのものを描いた一枚。現在は「ルノワールの庭」として整備されており、ほぼ同じ位置に立つことができる。 Wikimedia Commons
ルノワールの庭(現在) 2015年撮影の高解像度写真。『ぶらんこ』などが制作された空間が、現代のパリ市街地のなかで庭園として維持されている。 Wikimedia Commons
《ぶらんこ》1876年 油彩・カンヴァス。女性の白いドレスと地面に、青紫の光斑が散っている。木漏れ日を主題化した作品の代表例。オルセー美術館所蔵。 Wikimedia Commons
《ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏会》1876年 油彩・カンヴァス、131×175cm。モンマルトルの屋外ダンスホールの日曜午後。庶民の余暇と木漏れ日が同じ画面に収められている。オルセー美術館所蔵。 Wikimedia Commons
1870年代後半–1880年代初頭CHATOU / MAISON FOURNAISE04

シャトゥー ─ メゾン・フルネーズ

パリの西、イル=ド=フランス地域圏のシャトゥーは、鉄道網の発展にともなってパリ市民の週末の行楽地として急速に発展した空間である。

セーヌ川の中州に位置するこの地に、1857年に設立された「メゾン・フルネーズ」というレストランがあった。所在地は 1, rue du Bac, 78400 Chatou。

ここがルノワールをはじめとする印象派の画家たちの重要な溜まり場になった。ボートを借り、川で漕ぎ、テラスで食事をする。フルネーズ一家は画家たちに好意的で、店の常連には画家、作家、ボート愛好家、そして働く女性たちが混じっていた。

ルノワールがこのテラスで描いたのが、《舟遊びをする人々の昼食》(1881年)と《フルネーズ館での昼食》(1879年)である。

この二枚に記録されているのは、川面の反射光がもたらす明るい色彩と、ブルジョワジーや労働者階級が混ざり合う近代的な余暇の風景である。

当時の社会状況を考えると、これは小さくない。同じテーブルに、富裕な収集家(ギュスターヴ・カイユボット)と、お針子だった女性(アリーヌ・シャリゴ)が座っている。行楽地という空間が、一時的に階級の混交を許していた

この建物は現在も残る。フランス文化省の建築遺産データベース(ベース・メリメ)に、参照番号「PA00087403」および「IA00027747」として登録されており、歴史的建造物として厳格に保護されている。

メゾン・フルネーズ(現在) 1857年設立。セーヌ川の中州に立つ。ベース・メリメ参照番号 PA00087403/IA00027747 として歴史的建造物に登録されている。 Wikimedia Commons
赤い日除けのテラス 2011年撮影。メゾン・フルネーズと隣接するメゾン・ルヴァヌールの全景。印象派の画家たちが集ったテラスの赤い日除けが復元されている。 Wikimedia Commons(CC BY-SA)
《舟遊びをする人々の昼食》1881年 油彩・カンヴァス、129.9×172.7cm。上の写真と同じテラスで描かれた。左手前で小犬を抱くのが、のちに妻となるアリーヌ・シャリゴ。フィリップス・コレクション(ワシントンD.C.)所蔵。 Wikimedia Commons
《テラスにて(姉妹)》1881年 同じフルネーズ館のテラスで描かれた一枚。手すりの向こうに川と樹木が見える。シカゴ美術館所蔵。 Wikimedia Commons
1869–1880年代SEINE RESORTS05

鉄道が作った行楽地

シャトゥーだけが特別だったわけではない。19世紀後半のセーヌ河畔には、パリから鉄道で日帰りできる行楽地が点在していた

ラ・グルヌイエール(「蛙の池」の意)は、クロワシー=シュル=セーヌにあった水上レストランと貸しボート場である。1869年の夏、ルノワールはここでモネと並んでカンヴァスを立てた。印象派技法の出発点とされる制作である。

中央に浮かぶ小島は、その丸い形から「カマンベール」と呼ばれていた。板を渡した細い桟橋で岸とつながっている。

アルジャントゥイユは、セーヌ川沿いのボート競技が盛んな町だった。モネが一時期住み、ルノワールも通っている。

これらの場所に共通するのは、それ自体が新しかったという点である。中産階級が週末に郊外へ出かけて水遊びをするという習慣は、鉄道網の拡張によって19世紀後半に成立したものだった。

つまりルノワールたちは、新しい技法で、新しい社会現象を描いていたことになる。主題が同時代的だったことは、当時の批評の反発を強める要因でもあった。歴史画でも神話画でもなく、日曜日の行楽が大きな画面で描かれることに、アカデミーは価値を認めなかった。

土地の条件が技法を規定した面も見ておきたい。水面は一秒ごとに形を変える。輪郭を取ってから塗るという手順では間に合わない。短い筆致を並置する方法は、水を描こうとした結果として要請された

《ラ・グルヌイエール》1869年 油彩・カンヴァス、66×81cm。クロワシー=シュル=セーヌの行楽地。中央の小島は「カマンベール」と呼ばれた。ストックホルム国立美術館所蔵。 Wikimedia Commons
《アルジャントゥイユのレガッタ》1874年 セーヌ川のボート競技。帆の白と水面の青が、短い筆致の並置で処理されている。ワシントン・ナショナル・ギャラリー所蔵。 Wikimedia Commons
《アントニーおばさんの旅館》1866年 油彩・カンヴァス、194×131cm。フォンテーヌブローの森に近いブーロン=マルロットの宿。バルビゾン派以来、画家たちが滞在した土地で、25歳のルノワールもここに通っていた。ストックホルム国立美術館所蔵。 Wikimedia Commons
1872–1886年PARIS06

パリ市内の足跡

モンマルトルは丘の上の周縁部である。一方、パリの中心部にもルノワールの足跡がある

《ポン・ヌフ、パリ》(1872年、74×93cm)は、セーヌ川に架かる最古の橋を描いたものである。橋を渡る人々は数筆の点として置かれているが、それぞれに歩く方向と速度がある。都市風景でありながら、視線は建築ではなく人の動きに向いている

住所としては、パリ9区のサン・ジョルジュ通り35番地に住んでいた時期が記録されている。この通りで、彼はお針子として働いていたアリーヌ・シャリゴと出会っている。後の妻であり、生涯最大のモデルである。

《雨傘》(1880–86年頃、180.3×114.9cm)は、雨の街路に人々が傘を広げる場面を描いた大作である。舞台はパリの街路とされる。

この作品は、制作が二段階に分かれていることで知られる。右側の母娘は1880–81年に印象派的な筆致で、左側の主人公の女性は1885–86年に硬質な様式で描かれている。同じ街路の場面のなかに、5年の時間差が物理的に埋め込まれていることになる。

パリはルノワールにとって、生活の場であり、市場の場であり、そして最後は展示の場になった。1919年、死の年に彼は車椅子でルーヴル美術館を訪れ、自作が古典絵画と並んで掛けられているのを見ている。

《ポン・ヌフ、パリ》1872年 油彩・カンヴァス、74×93cm。セーヌ川最古の橋(1607年完成)を上から見下ろす構図。ワシントン・ナショナル・ギャラリー所蔵。 Wikimedia Commons
《雨傘》1880–1886年頃 油彩・カンヴァス、180.3×114.9cm。雨のパリの街路。右側の母娘と左側の女性で、5年をまたぐ二段階の制作が行われている。ロンドン・ナショナル・ギャラリー所蔵。 Wikimedia Commons
ルノワールの記念プレート ゆかりの建物に掲げられた記念銘板。フランスでは著名人の居住地に銘板を設置する慣習があり、住居跡をたどる手がかりになる。 Wikimedia Commons
1888年〜ESSOYES, AUBE07

エソワ ─ 妻の故郷で農民になる

エソワは、シャンパーニュ地方オーブ県の村である。トロワから南へ約50km、ウルス川のほとりにある。人口700人ほどの、シャンパーニュのブドウ畑に囲まれた集落である。

ここは妻アリーヌ・シャリゴの故郷だった。彼女は1859年、エソワで生まれている。母は仕立て屋、父はパン屋だった。

ルノワールがエソワを発見したのは1888年である。当時彼はパリ9区のサン・ジョルジュ通りに住んでいた。

この村に来た動機を、彼自身がベルト・モリゾ宛の手紙で書いている。要約すると、パリの高価なモデルから逃れるためにシャンパーニュで農民をやっている、川辺で洗濯女を描いているという内容である。

これは重要な証言である。エソワ行きは芸術的な巡礼ではなく、経済的な合理化だった。パリでプロのモデルを雇えば1日あたりの費用がかかる。村なら、洗濯女も、子どもたちも、村の女性も、そこにいる。

そして結果として、この村の環境が様式を動かした。都会の喧騒から離れた農村風景は、ルノワールに印象派技法からの一時的な離脱を促し、より堅牢で古典的なフォルムの探求へと彼を向かわせている。

理由は推測できる。行楽地の川面は絶えず動くが、農村の風景と労働は、同じ形を長時間保つ。刻々変わる光を追う必要がなければ、形を作り込む時間が生まれる。

1896年、ルノワールはエソワで最初の不動産を購入した。以後、主に夏をこの村で過ごすようになる。

村で彼のモデルを務めた人物のなかには、ガブリエル・ルナールがいる。エソワ出身の若い女性で、次男ジャンの子守として一家に入り、そのまま晩年まで最も多く描かれるモデルになった。

エソワの記念プレート 村に設置されたルノワール関連の銘板。エソワには「ルノワールの道」と呼ばれる村内の巡回ルートが整備されており、赤い標識をたどると家、アトリエ、墓地、文化センターを順に回れる。 Wikimedia Commons
1906–1919年ATELIER & CEMETERY08

エソワのアトリエと墓地

エソワのルノワール家には、母屋とは別に庭の奥に建つアトリエがある。

このアトリエが建てられたのは1906年である。建設の理由が具体的で、子どもたちの遊びを邪魔しないためだったと伝えられる。母屋で描けば子どもが静かにしなければならない。別棟を建てれば、双方が自由になる。

ルノワールはこのアトリエで多数のカンヴァスを描いた。所在地は 7 Rue de l’Extra。母屋は 31 Rue Auguste Renoir にある。

保存の経緯も記録されている。1986年、画家の孫クロード・ルノワールと妻エヴァンジェリーヌが設立した「ルノワール協会」により、1990年にアトリエが修復された

さらに2013年、画家の曾孫にあたるソフィー・ルノワールが、一家の家を寄贈している。母屋は2012年まで子孫の所有だったが、エソワ市とフランス文化遺産財団によって大規模な改修が行われた。

現在、アトリエは2011年から、母屋は2017年から、それぞれ「Maisons des Illustres(著名人の家)」の認定を受けて一般公開されている。アトリエには彫刻の原作、個人の所持品、書き物などが残されている。

村の中心、ウルス川のほとりにある旧・エソワ城の厩舎きゅうしゃを改装した文化センター「Du côté des Renoir(ルノワール家のかたわらで)」は、2011年5月7日に開設された。常設展示、短編映像、企画展示室、ショップを備える。

そして村の墓地には、ルノワールと妻アリーヌ、そして三人の息子ピエール、ジャン、クロードが眠っている

つまりこの村では、アトリエ、住居、そして墓が徒歩圏内に揃っている。ルノワールのゆかりの地のなかで、生活と死の両方をひとつの場所で見られるのはエソワだけである。

エソワのアトリエ(現在) 1906年に庭の奥に建てられたアトリエ。1990年にルノワール協会によって修復され、2011年から「Maisons des Illustres」認定施設として公開されている。 Wikimedia Commons
自宅のルノワール(写真家ドルナック撮影) 写真家ドルナックによる連作『Nos contemporains chez eux(わが同時代人、その自宅にて)』の一葉。同時代の著名人を自宅で撮影したシリーズで、画家の制作環境が記録されている。フランス国立図書館(BnF)由来の資料。 Wikimedia Commons
ドルナックによる同シリーズのもう一葉 同じ連作の別カット。アトリエの調度、イーゼルの位置、壁に掛けられた作品の様子など、絵画からは読み取れない制作空間の情報が残されている。 Wikimedia Commons
1903–1919年CAGNES-SUR-MER / LES COLLETTES09

カーニュ ─ オリーブの森を買う

晩年、リウマチの激しい痛みに苛まれるようになったルノワールは、温暖な気候による療養を求めて南仏カーニュ=シュル=メールへ移住した。

1903年4月から、彼はまずカーニュ旧市街のマゾン・ド・ラ・ポスト(旧郵便局の建物)の一室を借り、冬をこの地で過ごすようになる。この建物を彼は何度も描いている。

そして1907年、決定的な出来事が起きた

彼は、ある地所にある樹齢数百年のオリーブの森が伐採の危機にあることを知る。開発のために切られようとしていた。

そこでルノワールは、その広大な地所「レ・コレット」を買い取った。木を守るために、土地ごと購入したのである。

翌1908年、建築家ジュール・フェーヴルに依頼してネオ・プロヴァンス様式の家を建て、一家はここへ移り住んだ。水道、電気、暖房を備えた、当時としては破格の設備である。絵を描くためのアトリエを2つ建て、数年後には庭にもう1つ追加した。敷地内の古い農家は、友人を泊めるために改修されている。

ここがルノワールの終の棲家になった。1919年12月3日、彼はこの家で没している。

地中海の眩い光と神話的な自然環境は、彼のパレットから冷たい色調を排除した。赤やオレンジを基調とする、燃え上がるような色彩表現がここから生まれる。

この建物もベース・メリメの参照番号「PA06000001」として歴史的建造物に指定されている。所在地は 19 Chemin des Collettes, 06800 Cagnes-sur-Mer。1960年、ルノワール美術館として開館した。

レ・コレット(現・ルノワール美術館) 南仏特有の堅牢な石造りの壁面と赤茶色の屋根。背後には作品に頻出するオリーブの木々(コレットの森)が広がる。ベース・メリメ参照番号 PA06000001。 Wikimedia Commons
レ・コレットの農場(現在) 敷地内に残る古い農家。ルノワールが《コレットの農場》として描いた対象そのものであり、絵画空間と現実空間の直接比較ができる数少ない例。 Wikimedia Commons
《マゾン・ド・ラ・ポスト(カーニュ)》 レ・コレットへ移る前、1903年から借りていたカーニュ旧郵便局の建物。ルノワールはこの建物を繰り返し描いている。 Wikimedia Commons
1908–1919年INSIDE LES COLLETTES10

レ・コレットで描かれたもの

レ・コレットの内部は、驚くほど当時の姿を留めている。

CC BY-SA 4.0ライセンスで公開されているアトリエ室内の写真(2019年撮影)には、画家がリウマチに苦しみながらも絵筆を握り続けた椅子や画架がかなどの調度品ちょうどひんが、当時の配置のまま保存されている空間が記録されている。

ここで押さえておきたいのは、この家が療養施設として設計されているという点である。水道、電気、暖房。アトリエは3つ。1912年頃に車椅子生活になってからは、助手がカンヴァスを上下に動かして、彼の手の届く範囲に画面を送り込んだ。

「幸福の画家」の家は、実際には痛みを抱えた人間が仕事を続けるための設備である。

この地で描かれた作品は、それまでの近代の風俗画から明確に離脱している。《コレットの農場》(1915年)や晩年の《大水浴図》は、ティツィアーノやルーベンスの系譜に連なる、普遍的・古典的な美への到達を示している。

風景画も多い。オリーブの木、農家、カーニュの家並み、コレット周辺の景観。同じ敷地内のモチーフが、年代を変えて繰り返し描かれている

そして重要なのは、それらの対象が現在も同じ場所にあることである。絵画空間と現実空間を地誌的ちしてきに比較する研究が容易になっている、という条件は、ルノワールのゆかりの地のなかでもここが突出している。

レ・コレットのアトリエ室内 2019年撮影。画家が使用した椅子、画架、道具類が当時の配置のまま保存されている。制作環境の物理的条件を記録した資料。 Wikimedia Commons(CC BY-SA 4.0)
《レ・コレットの農家、カーニュ》1908–1914年 油彩・カンヴァス、54.6×65.4cm。オリーブの木ごしに農家を捉えている。手前の木々を視覚的なスクリーンとして使う構成には、セザンヌの手法との共通性が指摘される。メトロポリタン美術館所蔵。 Wikimedia Commons
《カーニュのレ・コレット》 自分の敷地を描いた一枚。同じ場所を年代を変えて繰り返し描いており、パレットの推移を追う材料になる。ラ・ショー=ド=フォン美術館(スイス)所蔵。 Wikimedia Commons
《カーニュ=シュル=メールのオリーブの木》 買い取って守ったオリーブの古木そのものが主題。銀色に反射する葉と、乾いた土地の赤茶色。 Wikimedia Commons
カーニュ=シュル=メールの風景 晩年の風景画。パレットから冷たい色調が消え、暖色に寄っていることが確認できる。 Wikimedia Commons
1901年2月REDON’S VISIT11

南仏で交差した象徴派

カーニュ=シュル=メールという空間は、印象派の内部だけで完結していたわけではない。

実践女子大学等のリポジトリに収録された研究論文では、1901年2月に象徴主義の画家オディロン・ルドンが南仏のルノワールを訪問した際の知的交歓こうかんについて、詳細な分析がなされている。

このときルドンは、ルノワールが愛したカーニュのミモザの花に強い感銘を受けた。ミモザは冬の終わりに黄色い房状の花をつける。地中海沿岸で特徴的な植物である。

そしてルドンは、その後のパリでの壁画制作にこのモチーフを直接的に採り入れた。ブルゴーニュ地方のドムシー男爵の城館じょうかんを装飾する連作、たとえば《黄色い花咲く枝》などの作品である。

ここに示されているのは、一見相反する二つの前衛運動の接触である。

印象派は、外光の物理的な性質を追求する。網膜に届いた光をどう記録するかという問題である。

象徴派は、内面世界の神秘性を探求する。目に見えないものをどう可視化するかという問題である。

方向はまったく逆に見える。にもかかわらず、南仏の自然というトポス(場)を介して、両者が共鳴し合っていた。ルドンはルノワールの絵の技法を学んだのではなく、ルノワールが暮らす土地の植物を見て、自分の装飾画のモチーフを得た。

この事例は、ゆかりの地を調べる意味をよく示している。画家が住んだ場所は、その画家一人のものではない。訪問者があり、そこで見たものが別の場所へ運ばれていく。土地は情報の中継点として機能する。

《レ・コレット周辺の風景、カーニュ近郊》1919年 没年に描かれた風景。輪郭は溶け、色面の重なりだけで空間が成立している。ルドンが訪れたのと同じ一帯の景観にあたる。 Wikimedia Commons
研究ACADEMIC STUDIES12

学術研究から見るゆかりの地

現代の学術研究において、ルノワールは「美しいものを描いた快楽主義的な画家」という一元的な評価を超え、社会学的、造形論的、美学的な視点から分析の対象になっている。日本の大学機関や美術館のリポジトリにも、関連する研究が蓄積されている。

社会学と美術制度論の観点。明治学院大学の卒業論文リストには「『アカデミック・システム』の変容から見る印象派の成功」「ルノワールが描く幸福」といった論題が確認できる。

ここで論じられるのは、ルノワールがカンヴァスから暗闇や悲哀を徹底的に排除したことの意味である。それはリウマチの苦痛や階級的緊張からの逃避ではなく、「苦痛は過ぎ去るが、美は残る」という信念に基づく意図的な美学的選択だったと解釈される。

同時に、サロン(官展)という硬直化こうちょくかしたアカデミック・システムに対して印象派展というオルタナティヴな空間を提示したことは、パトロン層が伝統的貴族から新興ブルジョワジーへ交代する美術市場の構造転換と連動している。シャトゥーやモンマルトルという「新しい余暇の場」を描くことは、新しい買い手の生活を描くことでもあった。

時間論と光線の美学の観点。青山学院大学に関連する論文資料では、絵画空間における時間概念の表現が考察されており、ルノワールの画題において「正午から午後14時」にかけての時間帯がいかに意図的に選択されていたかが分析されている。

太陽の高度が徐々に下がり始める午後の光線は、被写体の肌に特有の柔らかな陰影と質感を与える。近代都市の気怠い余暇の空気感を演出するための、色彩論的な基礎にあたる。

ゆかりの地を訪ねる際、この指摘は実用的でもある。同じ場所でも、午後の早い時間に行くと、絵に近い光に出会える可能性が高い

所蔵作品の実証的分析の観点。国立西洋美術館の年報(Bulletin)に掲載された論文では、同館所蔵の《帽子の女》(G.1987-423)および《木かげ》(G.1959-183 / cat. no. 75)について、詳細なカタログ的精査せいさと論文審査が行われている。

【表1】ゆかりの地に関連する学術研究

研究テーマ分析の主眼情報源URL
社会学と美術制度論アカデミック・システムの変容、新興ブルジョワジーと「幸福」の意図的構築https://www.meijigakuin.ac.jp/art/courses/art/thesis/
他流派との交錯(南仏)オディロン・ルドンとのカーニュでの交流、ミモザのモチーフを通じた象徴派への影響と共鳴https://jissen.repo.nii.ac.jp/record/2000079/files/%E7%BE%8E%E5%AD%A638-%E6%A8%AA9.pdf
時間論と光線の美学画題における「午後(14時等)」の光線入射角にゅうしゃかくと、肌の質感・余暇の空気感の相関https://opac.agulin.aoyama.ac.jp/iwjs0011opc/bdyview.do?bodyid=TF01308269&elmid=Body&fname=50096.pdf
所蔵作品の実証的分析《帽子の女》《木かげ》の物理的状態、カタログ・レゾネに基づく造形的精査https://nmwa.repo.nii.ac.jp/record/173/files/No.43.pdf
《レ・コレットの風景》1914年 同じ敷地の風景を年代を変えて描いた作例のひとつ。制作年の異なる作品を並べると、光の扱いとパレットの推移が定量的に比較できる。 Wikimedia Commons
1900年頃/現在THEN AND NOW13

古写真と現在を並べる

デジタルアーカイブの整備によって、ゆかりの地の「現在」と「過去」を並べて比較することが容易になった。

シャトゥーのメゾン・フルネーズには、パブリックドメインとして提供されている1900年頃の古写真がある。ヴィンテージ・ポストカード由来の資料で、橋の上から撮影されたものである。

この一枚が記録しているのは、ルノワールが《舟遊びをする人々の昼食》を描いた当時の河岸のインフラストラクチャーと植生しょくせいの状況である。桟橋の形、係留けいりゅうされたボートの数、岸の樹木。絵画のなかで色の斑になっている部分が、写真では具体的な構造物として写っている。

一方、2011年に撮影されたCC BY-SAライセンスの写真には、メゾン・フルネーズと隣接するメゾン・ルヴァヌールの全景が収められ、赤い日除けのテラスが復元されていることがわかる。

同じ場所の、1900年頃と2011年。この二枚を絵画と並べると、何が保存され、何が変わり、そして絵画が何を省略していたかが具体的に見える。

カーニュのレ・コレットについても同様である。CC BY-SA 3.0ライセンスのヴィラ外観写真(2011年等の撮影)からは、南仏特有の堅牢な石造りの壁面と赤茶色の屋根、そして作品に頻出する背後のオリーブの木々が、現在も静謐せいひつな景観を形成していることが確認できる。

モンマルトルのコルトー通り12番地についても、2015年撮影の「ルノワールの庭」の高解像度写真が公開されている。

これら三か所に共通するのは、画家がイーゼルを立てた物理的な空間が、現代の都市や村のなかで、記憶装置として維持されているという点である。

メゾン・フルネーズと中州(1900年頃の古写真) 橋の上から撮影された歴史的景観。ヴィンテージ・ポストカード由来。《舟遊びをする人々の昼食》が描かれた当時の河岸の構造物と植生を直接証拠立てる資料。パブリックドメイン。 Wikimedia Commons(Public Domain)
《カーニュの家並み》1908年 レ・コレットへ移り住んだ年の作。丘の上に重なる家々の屋根は、現在のカーニュ旧市街(オー・ド・カーニュ)でもほぼ同じ形で見ることができる。 Wikimedia Commons
《レ・コレットのオリーブの木》1910–15年頃 敷地内のオリーブの古木。買い取って守った木そのものが、いまも同じ場所に立っている。 Wikimedia Commons
ルートROUTES14

ルート3案

4つの主要拠点は、地理的に3つのブロックに分かれる。滞在日数に応じた回り方を3案挙げる。いずれもパリを起点とする。

ルートA

パリと近郊 1日
  1. AMモンマルトル美術館コルトー通り。「ルノワールの庭」と、ヴァラドン・ユトリロのアトリエ。丘の上まで坂を上るのでケーブルカーの利用も検討
  2. ムーラン・ド・ラ・ギャレット跡徒歩圏。現存する風車と、当時のダンスホールの位置関係を確認する
  3. PMオルセー美術館地下鉄で移動。《ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏会》《ぶらんこ》《陽光の中の裸婦》の実物。2時間以上は見ておきたい

オルセーは非常に混雑するため、オンライン予約を推奨。午後の早い時間にモンマルトルの庭にいると、作品に近い光の状態に出会いやすい。

ルートB

パリ+シャトゥー+シャンパーニュ 2泊3日
  1. DAY 1パリ → シャトゥーRER A線で約30分。メゾン・フルネーズのテラスで《舟遊びをする人々の昼食》の視点に立つ。橋の上からの眺めは1900年頃の古写真と比較できる
  2. DAY 1パリへ戻るオルセー美術館、またはモンマルトル
  3. DAY 2パリ → トロワ → エソワ約200km。トロワから南へ約50km。公共交通が薄いためレンタカーが現実的
  4. DAY 2エソワ滞在「Du côté des Renoir」文化センター、ルノワールの庭、アトリエ、母屋。赤い標識をたどる村内の巡回ルートがある
  5. DAY 3エソワの墓地 → パリ一家五人の墓。午前中に村を歩き、午後にパリへ戻る

エソワは人口700人ほどの村で、施設の開館期間が限られる。冬季休館の可能性があるため、renoir-essoyes.fr で事前確認すること。

ルートC

通しで 6泊7日
  1. DAY 1–2パリモンマルトル、オルセー、ルーヴル。ポン・ヌフとサン・ジョルジュ通りも歩ける
  2. DAY 2シャトゥー半日。メゾン・フルネーズ
  3. DAY 3–4エソワ(シャンパーニュ)レンタカーで往復。家、アトリエ、墓地、文化センター
  4. DAY 5パリ → ニースTGVまたは空路。移動日
  5. DAY 6カーニュ=シュル=メールルノワール美術館(レ・コレット)。母屋、アトリエ、農場、オリーブの森。丸一日を充てる
  6. DAY 7オー・ド・カーニュ旧市街 → 帰路マゾン・ド・ラ・ポストの建物と、《カーニュの家並み》の丘

この順序だと、モンマルトルの木漏れ日 → シャトゥーの水面 → エソワの農村 → カーニュの地中海光線、という土地の光の変化を時系列どおりに体験できる。逆順でも成立するが、晩年の赤から始めると初期の青紫が意外に見える。

ゆかりの地一覧

現況は2026年8月時点。開館日・時間・料金は変更されることがあるため、訪問前に各施設の公式サイトで確認してください。

場所所在地ルノワールとの関係いま何があるか公式サイト等
モンマルトル美術館(旧オテル・ドマルヌ/メゾン・デュ・ベル・エール)8-14 rue Cortot, 75018 Paris1876年にアトリエを構える美術館。「ルノワールの庭」、ヴァラドンとユトリロのアトリエ。2003年にフランス国立博物館の認定museedemontmartre.fr
ムーラン・ド・ラ・ギャレットモンマルトル(rue Lepic 周辺)1876年の代表作の舞台風車が現存。周辺は住宅・飲食店
サン・ジョルジュ通り35番地35 rue Saint-Georges, 75009 Paris居住地。アリーヌ・シャリゴと出会う一般の建物。外観のみ
ポン・ヌフPont Neuf, 75001 Paris1872年の風景画の舞台現役の橋(1607年完成)。ほぼ同じ角度で見られる
オルセー美術館1 rue de la Légion d’Honneur, 75007 Paris主要作品の所蔵先《ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏会》《ぶらんこ》《陽光の中の裸婦》ほかmusee-orsay.fr
メゾン・フルネーズ1, rue du Bac, 78400 Chatou1870年代後半〜80年代初頭の制作拠点レストラン・美術館として営業。赤い日除けのテラスを復元。ベース・メリメ PA00087403/IA00027747
ラ・グルヌイエール跡(クロワシー=シュル=セーヌ)Croissy-sur-Seine, 782901869年、モネと並んで制作当時の建物は現存せず。跡地周辺と博物館(Musée de la Grenouillère)
アルジャントゥイユArgenteuil, 95100セーヌ河畔のレガッタを描く川沿いの景観。モネの家(2022年開館)もある
ブーロン=マルロット(フォンテーヌブロー近郊)Bourron-Marlotte, 777801866年《アントニーおばさんの旅館》の舞台村と森。バルビゾン派以来の画家の土地
ルーヴシエンヌ(モンビュイソン)Louveciennes, 78430両親が移り住んだ土地建物が現存。外観のみ
エソワ:ルノワールの家31 Rue Auguste Renoir, 10360 Essoyes1896年に購入。以後、夏を過ごす2017年から公開。Maisons des Illustres 認定renoir-essoyes.fr
エソワ:ルノワールのアトリエ7 Rue de l’Extra, 10360 Essoyes1906年建設1990年に修復、2011年から公開。彫刻の原作、所持品、書き物を展示renoir-essoyes.fr
エソワ:Du côté des Renoir(文化センター)9 Place de la Mairie, 10360 Essoyesルノワール家に関する展示施設2011年5月開設。旧・城の厩舎を改装。常設展示、短編映像、企画展示室renoir-essoyes.fr
エソワの墓地Essoyes, 10360墓所ルノワール、妻アリーヌ、息子ピエール・ジャン・クロードが眠る
ルノワール美術館(レ・コレット)19 Chemin des Collettes, 06800 Cagnes-sur-Mer1907年購入、1908年入居、1919年に没する1960年開館。母屋、アトリエ、農場、オリーブの森。ベース・メリメ PA06000001musees.cagnes.fr
オー・ド・カーニュ旧市街(マゾン・ド・ラ・ポスト)Haut-de-Cagnes, 06800 Cagnes-sur-Mer1903年から冬を過ごした借家旧市街の建物と丘の家並み

BOOKS & FILM / 本と映像旅の前に読むために

絵を旅する ― 印象派の旅から 表紙
ゆかりの地の紀行文集

絵を旅する ― 印象派の旅から

著者
藤谷千恵子
出版社
求龍堂

10数年にわたって繰り返された著者の「絵の旅」の集大成となる紀行文集。南仏でゴッホ、ドーデ、ロートレック、セザンヌのゆかりの土地を訪れ、モネの足跡を追ってジヴェルニーからルーアン、ノルマンディーへ、そしてパリと近郊に戻ってセザンヌ、ドラクロワ、ルノワールを偲ぶ。描かれた風景の前に実際に立ち、画家がどのような境遇にあり何を見たのかを追体験するという姿勢が一貫しており、本記事と同じ関心で書かれた一冊。

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フランス初心者でも楽しめる 印象派を巡る旅 ― 心を揺さぶる風景を求めて 表紙
旅程を組むために

フランス初心者でも楽しめる 印象派を巡る旅 ― 心を揺さぶる風景を求めて

著者
広弥翠穂(Miho Hiroya)
形式
Kindle版

現役の海外添乗員による、印象派ゆかりの地を巡るための実用ガイド。「印象派の足跡を訪れる旅プラン」として、ジヴェルニーのモネの家、ルーアン、エトルタ、オンフルール、パリ、そしてパリ・モンマルトルが取り上げられている。美術館巡りのための情報収集方法や、チケット購入などの基本フランス語フレーズ集も収録されており、実際に旅程を組む段階で役立つ。

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わが父ルノワール【新装版】 表紙
現地の生活の一次資料

わが父ルノワール【新装版】

著者
ジャン・ルノワール(著)/粟津則雄(訳)
出版社
みすず書房

次男で映画監督のジャン・ルノワールが、晩年の父との会話をもとに執筆した伝記。エソワの村での夏、カーニュのレ・コレットでの生活が、家族の内側から具体的に描かれている。ガブリエル・ルナールをはじめとする村の人々、庭、食事、日課。ゆかりの地を訪ねる前後に読むと、建物と庭が生活の場としてどう機能していたかが立体的に立ち上がる。

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もっと知りたいルノワール 生涯と作品(アート・ビギナーズ・コレクション) 表紙
土地と様式の対応を確認する

もっと知りたいルノワール 生涯と作品(アート・ビギナーズ・コレクション)

著者
島田紀夫
出版社
東京美術(2009年12月20日)

日本の西洋近代美術史研究の権威による解説書。磁器絵付職人としての原点から、印象派の旗手への飛躍、古典主義(アングルの時代)における苦闘、そして晩年に至るまでの様式変遷を、19世紀の社会史的コンテクストに位置づけて解説する。どの土地でどの様式が生まれたのかを、作品の図版とともに確認する用途に向く。

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印象派、記憶への旅 表紙
日本で実物を見る

印象派、記憶への旅

編者
ポーラ美術館/ひろしま美術館

日本有数のフランス近代美術コレクションを持つポーラ美術館(箱根)とひろしま美術館(広島)の二館から、名品74点を厳選収録した図録。パリ大改造に代表される都市への視点、画家たちを魅了した海景やセーヌ河の水辺の景観という切り口で構成されており、本記事の各章と対応する。最新の文献研究と科学調査による「絵画に残された痕跡=モノの記憶」の解読も収める。フランスまで行けない場合、日本国内でルノワールの実物に会うための手がかりになる。

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ルノワール作品集 表紙
時代区分でたどる

ルノワール作品集

著者
大橋菜都子
出版社
東京美術

画風の変遷を7章の時代区分でたどる作品集。第6章「1901–1909年 カーニュとエッソワ 親しき人びと」、第7章「1910–1919年 アルカディアを描く」というように、章立てそのものが土地の名前で区切られている。ゆかりの地を訪ねる順番を決める際、どの土地でどの作品が描かれたかを一覧できる。

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ルノワール 陽だまりの裸婦 [DVD](原題:Renoir、2012年フランス) 表紙
カーニュが舞台の伝記映画

ルノワール 陽だまりの裸婦 [DVD](原題:Renoir、2012年フランス)

監督
ジル・ブルドス
出演
ミシェル・ブーケ、クリスタ・テレ、ヴァンサン・ロティエ

1915年、南仏コート・ダジュール(カーニュ=シュル=メール)を舞台とした伝記映画。本記事の第9章・第10章で扱ったレ・コレットの環境が、映像として再現されている。重度のリウマチと闘いながら手に筆を縛り付けて制作を続けるルノワールと、戦傷を負って帰還した次男ジャン、そして最後のモデル(のちにジャンの妻となるアンドレ)の関係を描く。オリーブの木、光、庭の空気感が、訪問前のイメージ形成に役立つ。

別フォーマット:Blu-ray版 ASINPrime Video(字幕版)ASIN

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REFERENCES / 出典参考文献

学術研究

施設・所蔵館

画像アーカイブ(Wikimedia Commons)

旅行情報

最終更新:2026年8月25日

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