ピエール=オーギュスト・ルノワールPierre-Auguste Renoir
ルノワールは「幸福の画家」と呼ばれる。木漏れ日の下で笑う人々、薔薇色の肌、パリの休日。ところが本人の人生は、そう呼ばれるには過酷すぎる。17歳で産業革命に職を奪われ、30歳で戦争に召集され、40歳近くまで絵が売れず、そして62歳から死ぬまで重度の関節リウマチに蝕まれた。手指が変形して筆を握れなくなってからも、彼は絵筆を手に包帯で縛りつけて描き続けている。「楽しくないのなら、描きません」という有名な言葉は、享楽の宣言ではない。現実の苦痛に対して、画面の内側にだけ調和を築くという意志の表明である。この記事では、リモージュの仕立て屋の子として生まれてから南仏カーニュで死ぬまでの78年を、14章で年代順にたどる。

- 画家になる前は磁器の絵付職人だった。4年の修業で一人前になった直後、産業革命による機械式プリント技術の普及で17歳にして失職している。この職人時代に身につけた筆先の精緻なコントロールと透明感のある薄塗りが、後年の油彩における軽やかな筆触の基盤になった。
- 印象派の旗手として出発しながら、1880年前後にその手法に見切りをつけた。イタリアでラファエロとポンペイの壁画に触れ、輪郭線と堅牢なフォルムを重んじる「アングル時代」へ移行する。印象派を捨てた印象派画家、という矛盾が彼の中期を決めている。
- 1903年頃から重度の関節リウマチに侵され、1912年頃には車椅子生活になった。手指が変形して筆が握れなくなると、絵筆を手に包帯で縛りつけて描いた。肉体が衰弱するのと反比例して、カンヴァスはますます巨大化し、色彩は燃え上がるような赤を基調としていく。
ピエール=オーギュスト・ルノワールの生涯
リモージュの仕立て屋の家から、南仏カーニュのアトリエまで。78年を14章で。
リモージュの仕立て屋の子
1841年2月25日、ピエール=オーギュスト・ルノワールはフランス中南部の町リモージュに生まれた。リモージュは陶磁器の産地として知られる町である。この生まれた土地の産業が、後に彼の最初の職業を決めることになる。
父は仕立て屋、母はお針子だった。手を動かして布を裁ち、縫う。工房的な労働が日常だった家である。
一家はほどなくパリへ移り、ルーヴル美術館の近くの下町に住んだ。裕福ではなく、むしろ貧しい環境だったと記録されている。
ただし、この立地は結果的に決定的な意味を持った。少年ルノワールはルーヴルに通い詰めることができたのである。入館料を払う必要のない時間帯に、彼は宮殿だった建物の中を歩き回り、絵を見た。
彼が強く惹かれたのは、フランソワ・ブーシェやジャン=オノレ・フラゴナールといった18世紀ロココ美術である。淡い色彩、柔らかい肉体、装飾的な優美さ。後年、彼が印象派の実験を経てなお官能的な女性像へ回帰していったのは、この十代の刷り込みと無縁ではないだろう。

磁器絵付け職人、17歳で失職
13歳になったルノワールは、家計を助けるために磁器の絵付職人の見習いとなった。
仕事は、白い磁器の表面に花や人物を筆で描き込むことである。曲面に、細い筆で、均質な薄い層を重ねていく。少しでも筆圧が乱れれば、焼成後にムラとして残る。やり直しがきかない。
4年間の厳しい修業を経て、彼は1日6フランを稼ぐ一人前の職人(一般労働者の日給が2~3フラン)としての地位を確立しつつあった。10代半ばの少年としてはかなり高い稼ぎである。このまま職人として生きる道が、目の前に開けていた。
ところが、そこへ19世紀の技術革新が押し寄せる。
産業革命の進展により、機械式のプリント絵付け技術が発明され、普及した。安価な大量生産品が市場を席巻し、手描きの繊細な磁器への需要は激減する。
結果、ルノワールはわずか17歳にして職を失った。人生最初の社会的挫折である。しかも、努力や才能の不足が原因ではない。技術が職種そのものを消したのである。
以後の数年、彼は職人として多様な仕事を転々とした。扇子の装飾、メダルの紋章描き、窓の日除け、カフェの壁面装飾。注文があるところへ行き、注文どおりに描く。芸術家ではなく、手を売る労働者としての時期である。
だが、この職人時代に培われたものは大きい。
第一に、筆先の精緻なコントロール。第二に、透明感のある色彩の薄塗り技法。第三に、職人的な労働倫理——毎日決まった時間、決まった量を仕上げる習慣である。
この三つが、後年の油彩画における独特の軽やかさと流麗な筆触の基盤を形成することになる。ルノワールの絵の肌が、他の印象派の画家と比べて明らかに滑らかで陶器めいて見えるのは、彼が実際に陶器に絵を描いていた人間だからである。

グレールのアトリエ
本格的な職業画家を志したルノワールは、1862年、エコール・デ・ボザール(官立美術学校)に登録するとともに、スイス出身の画家シャルル・グレールのアトリエに入門した。21歳である。
このアトリエで、彼は生涯を決める出会いをする。
クロード・モネ(1840–1926)、アルフレッド・シスレー(1839–1899)、フレデリック・バジール(1841–1870)。のちに印象派の核心を担うことになる面々が、同時期にここにいた。
彼らに共通していたのは、アカデミスムへの不満である。当時の官学が求めたのは、神話や歴史を主題とし、褐色の下地で暗く沈んだ画面を持つ「歴史画」だった。構図には規則があり、輪郭は明確でなければならず、筆跡は見えてはならない。
若い4人はこれを拒絶した。彼らが志向したのは、戸外制作(プラン・エール)による明るい陽光の表現である。アトリエの薄暗い室内ではなく、実際の屋外に出て、そこに満ちている光そのものを描く。
この志向を支えた条件が、当時いくつも揃っていた。チューブ入り絵具の普及によって画材の持ち運びが可能になり、鉄道網の拡張によってパリ近郊への日帰りが容易になった。技術と交通が、絵の主題を変えたのである。
1867年、ルノワールはリーズ・トレオをモデルにした《日傘を持つリーズ》を描き、翌1868年のサロンに入選する。ほぼ等身大の女性像で、顔は日傘の影に沈み、白いドレスの上で木漏れ日が踊っている。顔より、光と布地のほうが主役になっている——この主題の転倒に、すでに後年のルノワールが現れている。

ラ・グルヌイエールの午後
1869年、ルノワールはモネとともに、パリ郊外セーヌ河畔の行楽地ラ・グルヌイエール(「蛙の池」の意)へ出かけた。水上レストランと貸しボート、水浴場を備えた、当時の中産階級の遊び場である。
二人はここで、並んでカンヴァスを立てた。同じ対象を、同じ時刻に、隣り合って描いたのである。
この日、彼らが実践した手法が、美術史を書き換えることになる。
水面に反射する光は、一秒ごとに形を変える。従来の方法——対象の輪郭を取り、面を塗り、陰影をつける——では、この動きは絶対に捉えられない。乾く前に対象が変わってしまう。
そこで彼らは、細かな筆触を並置するという方法をとった。パレット上で絵の具を混ぜず、純色に近い色を短い筆跡としてカンヴァスに置いていく。青の隣に白、その隣に緑。混色はカンヴァスの上ではなく、鑑賞者の網膜の上で起きる。
これが筆触分割であり、視覚的混合である。絵具を混ぜないので明度が落ちない。画面は明るいまま、複雑な色を表現できる。
印象派絵画の歴史的誕生の瞬間は、通常この1869年夏のラ・グルヌイエールに置かれる。宣言も綱領もなく、ただ二人の若い画家が水面を描こうとして苦労した結果として、新しい技法が成立した。
なおモネ版とルノワール版では、同じ場所を描きながら性格がはっきり違う。モネが水と光の運動に集中したのに対し、ルノワールは人物のほうへ視線を向けている。この差は生涯続く。ルノワールは最後まで、風景よりも人間を描く画家だった。

普仏戦争とパリ・コミューン
新しい芸術の探求は、戦争によって中断される。
1870年、普仏戦争が勃発した。ルノワールは騎兵として召集され、ピレネー山中で軍馬の調教に従事することになった。前線には出ていないが、画業は完全に停止している。29歳から30歳にかけての、画家として最も伸びるはずの時期である。
この戦争は、印象派の仲間にも直接の影響を与えた。
フレデリック・バジールが戦死した。1870年11月、ボーヌ=ラ=ロランドの戦いにおいてである。29歳だった。
バジールは裕福なブルジョワの出身で、経済的に困窮していたルノワールに自分のアトリエを無償で提供し、彼の絵を買い取るなど、最大の支援者でもあった。同時に、サロンの審査制度に不満を抱き、独自のグループ展の構想を積極的に温めていた人物でもある。
つまりバジールは、後の「印象派展」という発想の起点にいた。しかし彼自身は、1874年の第1回展を見ることなく死んだ。この喪失は、ルノワールに深い痛みを残している。
1871年、ルノワールはパリに帰還する。だが、待っていたのは平穏ではなかった。パリ・コミューンの激しい動乱期である。市街戦、政府軍の侵入、「血の一週間」。社会の極度の混乱は、彼の制作環境を物理的にも精神的にも脅かした。
ここで押さえておきたいのは、ルノワールの作品にこの時期の惨状がまったく描かれていないという事実である。戦争画も、廃墟も、暴力も、彼は一枚も残していない。
これを「現実逃避」と呼ぶことはできる。しかし、後の章で見るように、彼の場合それは方針として選ばれたものだったと考えるほうが整合する。

第1回印象派展と「腐った肉」
戦後の1874年、ルノワールたちは保守的なサロンに見切りをつけ、独立したグループ展を開催した。第1回印象派展である。バジールが構想し、見ることのできなかった展覧会が、ようやく実現した。
ルノワールはこれに参加し、《桟敷席(ラ・ロージュ)》などを出品する。
1876年の第3回展では、彼は野心作を発表した。《ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏会》である。
舞台はパリのモンマルトルにあった屋外のダンスホール。日曜の午後、庶民が集まって踊り、飲み、談笑している。画面は人でびっしり埋まっているのに、雑然としていない。そして、全面に木漏れ日が落ちている。
この絵は縦131cm×横175cmという大画面で、しかも屋外の情景である。ルノワールはカンヴァスを現地へ運び、友人たちにモデルを頼んで制作したと伝えられる。大きな達成感を得た仕事だった。
ところが、当時の保守的な批評家と大衆は、彼らの革新性をまったく理解しなかった。
とりわけ集中砲火を浴びたのが、人物の肌に落ちる青や紫の木漏れ日である。批評家はこれを「腐った肉」と酷評した。
この非難は、実は的外れではない。日陰に入った肌は、物理的に空の青を反射して青みを帯びる。ルノワールが描いたのは観察の結果である。しかし当時の目には、肌は肌色でなければならなかった。固有色の否定という印象派の核心が、そのまま拒絶の理由になった。
絵は売れなかった。1870年代後半のルノワールは、30代半ばにして経済的にきわめて苦しい状態にある。
そして彼は、印象派の手法と集団的活動の限界を深く痛感することになった。ここが重要である。彼は外部からの攻撃だけで折れたのではない。自分の絵の造形的な弱さを、自分で認めはじめていた。


シャルパンティエ夫妻という転機
行き詰まったルノワールを救ったのは、思想でも技法でもなく、一件の肖像画の注文だった。
ジョルジュ・シャルパンティエは裕福な出版業者である。エミール・ゾラをはじめとする自然主義文学の版元であり、同時に印象派の初期からの収集家でもあった。妻マルグリットは、パリでも有数の文学サロンを主宰していた。
1878年、ルノワールは《シャルパンティエ夫人とその子どもたち》を制作する。夫人と、娘ジョルジェット、そして息子ポール=エミール。当時の慣習として男児も長い髪と女児風の服を着せられており、二人の子どもは一見どちらも少女に見える。
この絵は、翌1879年のサロンで大きな成功を収めた。しかも、有力な文学サロンの主宰者が描かれているという事情から、掛けられた位置も良かった。
結果として何が起きたか。
第一に、ルノワールはサロンへの復帰を果たした。印象派のグループ展ではなく、官展という主流の舞台に戻ったのである。当然、印象派の仲間たちは離反と受け取った。彼は事実上、グループから距離を置いた。
第二に、パリのブルジョワジーの社交界において、肖像画家としての名声と経済的な安定を獲得した。注文が入るようになり、絵で食べられるようになった。40歳を目前にして、ようやくである。
この転換をどう評価するかは難しい。前衛からの後退と見ることもできる。しかし、注文肖像画は「顔をきちんと描く」ことを要求する。輪郭を曖昧にしたままでは仕事にならない。デッサンの精度を上げざるを得ない状況に、彼は自ら入っていった。
そしてこの要求が、次の「アングル時代」への直接の助走になる。
1881年には、シャトゥーのフルネーズ・レストランのテラスで《舟遊びをする人々の昼食》を制作した。友人や常連客、そして後に妻となるアリーヌ・シャリゴ(画面左手前で犬を抱く女性)がモデルを務めている。集団肖像でありながら屋外の光を扱った、印象派期の総決算のような一枚である。


イタリア旅行と「アングル時代」
1870年代末、ルノワールは印象派の手法——形態の溶解と光の絶対視——に、造形的な限界と危機感を抱きはじめていた。
輪郭を溶かせば溶かすほど、画面から構築性が失われる。人物が背景に溶けて、絵として立たなくなる。彼は後年、「行き止まりに来ていた」という趣旨のことを述べている。
決定的だったのが、1881年から1882年にかけてのイタリア旅行である。
ローマ、ナポリ、フィレンツェを巡り、彼はラファエロをはじめとするルネサンスの巨匠たちのフレスコ画、そしてポンペイの壁画に直接触れた。
そこにあったのは、印象派とは正反対の原理だった。明快な輪郭線。単純化された堅牢なフォルム。時間の経過に耐える永続的な構築性。彼は深い衝撃を受けた。
帰国後のルノワールは、印象派の曖昧な輪郭線を明確に放棄する。厳格なデッサンを取り戻し、絵具の扱いを平滑にした。
この時期の作風は、新古典主義の巨匠ドミニク・アングルに倣って「アングル時代」と呼ばれる。あるいは、絵具の扱いが乾いた平滑さを持つことから「ドライの時代(枯渇の時代)」とも呼ばれる。
その典型が《海辺にて》(1883年)である。
注目すべきは、この作品が実際のノルマンディーの海岸で描かれたものではないという点だ。ルノワールはアトリエで籐椅子に座らせたモデルを描き、背景の海岸線は事前に作成した風景の習作を合成して構成した。
戸外制作を旗印にした画家が、屋外の絵をアトリエで組み立てている。印象派の原則を、彼は意識的に破っている。ルネサンス美術の「壮大さと単純さ」に感銘を受けた結果、輪郭線を極めて明確に引き、絵の具を平滑に扱うことで、印象派の光の表現と古典的威厳の統合を試みたのである。
この統合は簡単ではなかった。造形的苦闘の痕跡が、モデルの精緻な顔の造作と、背景の印象派的な筆致との落差として、そのまま画面に残っている。
同じ時期の《ブージヴァルのダンス》(1883年)は、「ダンス三部作」の一点である。他の二点《田舎のダンス》《都会のダンス》とともに、屋外/屋内、庶民/上流という対比で構成されている。
そして「アングル時代」の到達点が、《大水浴図(Les Grandes Baigneuses)》(1884–1887年)である。3年をかけ、多数の習作を重ねて制作された。ヴェルサイユのフランソワ・ジラルドンによる浮彫《ニンフの水浴》に着想を得たとされ、ラファエロの影響も指摘される。印象派の画家が、3年かけて1枚を仕上げたという事実そのものが、この時期の性格を語っている。






「真珠の時代」と国家買い上げ
1890年代に入ると、ルノワールは「ドライの時代」の硬質な輪郭線を次第に和らげていく。
イタリアで学んだ構築性は保持したまま、そこへ再び豊かな色彩と流麗で官能的な筆触を戻す。硬い骨格の上に、柔らかい皮膚を張り直すような操作である。
こうして到達した独自の温和なスタイルが、「真珠の時代(虹色の時代)」と呼ばれる。肌が真珠のような光沢を帯び、輪郭が溶けずに、しかし固まってもいない。印象派と古典主義の折衷が、ようやく安定した。
1890年、彼はアリーヌ・シャリゴと正式に結婚する。長男ピエールはすでに5歳になっていた。
そして1892年、51歳のときに描いた《ピアノに向かう娘たち》が評判を呼ぶ。これはリュクサンブール美術館のための事実上の注文であり、フランス政府に買い上げられた。
この意味は大きい。国家がその存命中の画家の作品を購入するというのは、公的に「代表的画家」と認定したということである。「腐った肉」と嘲笑されてから、16年が経っていた。
ルノワールは同じ構図で油彩の異なるヴァージョンを複数点、さらに油彩とパステルの下絵を制作している。画商やコレクターからの注文に応じるためで、彼自身はこれらを「repetitions(反復)」と呼んでいた。同じ主題を繰り返し描いて売るという、職人的な生産様式が、ここでも生きている。
1894年、次男ジャンが誕生する。のちに『大いなる幻影』『ゲームの規則』を撮る映画監督である。1901年には三男クロード(通称ココ)が生まれた。
この時期のルノワールは、経済的にも社会的にも安定していた。画家として最も幸福な10年だったと言っていい。だが、その安定はすでに内側から崩されはじめていた。




リウマチ、そして南仏へ
芸術的な頂点を極めたまさにその時、1903年頃から深刻な関節リウマチがルノワールを襲いはじめる。62歳である。
関節リウマチは自己免疫疾患で、関節の滑膜に慢性的な炎症が起き、軟骨と骨が破壊されていく。進行すると関節が変形し、可動域が失われる。当時、有効な治療法は存在しなかった。
痛みを和らげるため、彼は南仏の温暖な気候を求めた。1903年4月からカーニュのマゾン・ド・ラ・ポスト(旧郵便局の建物)の一室を借り、冬をこの地で過ごすようになる。
そして1907年、妻アリーヌとともにカーニュ=シュル=メールの「レ・コレット」の土地を購入した。オリーブの古木が茂る大きな敷地と農家がある。翌1908年、建築家ジュール・フェーヴルに依頼してネオ・プロヴァンス様式の家を建て、一家はここへ移り住んだ。
当時としては破格の設備だった。水道、電気、暖房がある。ルノワールは絵を描くためのアトリエを2つ建て、数年後には庭にもう1つ追加している。農家は友人を泊めるために改修された。
「幸福の画家」の家は、実際には痛みを抱えた人間が仕事を続けるための設備として設計されている。
この地の光は、彼の色彩をさらに変えた。地中海の強い日差しの下では、影ですら明るい。晩年の赤とオレンジの多用は、病理だけでなく、この土地の光そのものの反映でもある。
1911年、レジオン・ドヌール勲章4等を受章。国家からの栄誉は、この時期に集中しはじめる。




包帯で筆を縛る
1912年頃、病状が悪化した。手足の自由が完全に奪われ、車椅子での生活を余儀なくされる。
手指は変形し、筆を握ることすらできなくなった。
そこで彼が採った方法が、絵筆を手に包帯で縛り付けることだった。握れないなら、固定すればいい。手首と腕、そして体幹の動きで筆を運ぶ。助手がカンヴァスを上下に動かし、彼の手の届く範囲に画面を送り込んだ。
驚くべきことは、この状況で作品が縮小しなかった点である。
肉体が衰弱していくのと反比例して、彼のカンヴァスはますます巨大化した。色彩は燃え上がるような赤を基調とし、神話的主題や豊満な裸婦像といった、モニュメンタルで生命力に溢れる作品が次々と生み出されていく。
1913年頃からは、彫刻にも取り組みはじめた。自分では粘土を扱えないため、若い彫刻家リシャール・ギノを助手として雇い、口頭と身振りで指示を出しながら制作する。身体を他人に外注して造形するという、極端な方法である。
私生活では喪失が続いた。1915年、妻アリーヌが死去する。第一次世界大戦では長男ピエールと次男ジャンがともに従軍し、二人とも負傷して帰還した。アリーヌは負傷した息子たちを見舞う旅の疲労が重なって体調を崩したとされる。
戦争、妻の死、負傷した息子たち、そして自身の激痛。1915年前後のルノワールの現実は、これ以上ないほど暗い。
にもかかわらず、この時期に描かれた絵には、暗いものが一枚もない。裸婦は健康で、果実は熟し、庭は光で満ちている。
1919年、レジオン・ドヌール勲章3等を受章。同年、彼はルーヴル美術館を訪れ、自作が古典絵画と並んで掛けられているのを車椅子から見ている。
そして1919年12月3日、死の直前まで「この絵で何かが分かり始めた……」とつぶやきながら、78歳でその生涯を閉じた。
60年近く絵を描き続けた人間の、最後の言葉が「分かり始めた」である。この一言に、彼の職人としての性格が凝縮されている。





支えた画商とパトロン
ルノワールの芸術は、孤立した天才の産物ではない。支援者のネットワークがなければ、彼は40歳になる前に画業を諦めていた可能性が高い。
ポール・デュラン=リュエルは、印象派の価値を歴史上初めて評価した画商である。彼が定期的にルノワールたちの作品を買い取り、ロンドンやニューヨークで展覧会を開催し続けたことで、ルノワールは辛うじて経済的破綻を免れた。
とりわけ大きかったのはアメリカ市場の開拓である。フランス国内で理解されなかった作品が、新興の富裕層を抱えるアメリカで売れた。デュラン=リュエルを通じた市場の開拓がなければ、印象派という運動自体が存続し得なかったと言っていい。そしてルノワールにこの画商を紹介したのは、モネである。
ギュスターヴ・カイユボット(1848–1894)は、自らも優れた画家でありながら、莫大な遺産を相続した資産家だった。彼は《ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏会》をはじめとする代表作を購入し、印象派展の資金を援助した。作品を買うだけでなく、展覧会の運営費を出したという点で、彼の役割は単なるコレクターを超えている。
フレデリック・バジールについては前章で触れたが、経済的支援という面でも決定的だった。自分のアトリエを無償で提供し、ルノワールの絵を買い取った。裕福な家に生まれた画家が、貧しい仲間を支える。この関係は1870年の戦死まで続いた。
ジョルジュ・シャルパンティエ夫妻は、注文を出しただけでなく、社交界への回路そのものを開いた。彼らの金曜サロンには、パリで最も有名な作家、芸術家、音楽家、政治家が集まっていた。そこで顔を知られることが、次の注文につながった。
晩年には画商アンブロワーズ・ヴォラールが重要な役割を果たす。ヴォラールはセザンヌやピカソを扱ったことで知られるが、ルノワールとも深く関わり、彼の肖像を何度も描かせている。晩年の彫刻制作でリシャール・ギノを紹介したのもヴォラールである。
こうして並べると、ルノワールの生涯には「絵を買う人」が常にいたことがわかる。それでも40歳近くまで生活は苦しかった。前衛芸術家の経済的困窮とは、支援者がいてなお成立する状態のことである。

アリーヌとジャン
のちに妻となるアリーヌ・シャリゴ(1859–1915)は、シャンパーニュ地方エソワの出身で、パリでお針子として働いていた。ルノワールとは1880年頃に知り合っている。
彼女は《舟遊びをする人々の昼食》で、画面左手前で小犬を抱く女性としてモデルを務めた。以後、彼の画面に繰り返し現れる。
そしてアリーヌは、ルノワールの芸術における「理想の女性像」の決定的な原型となった。豊満で、健康的で、母性に溢れる美。晩年の裸婦像が一貫してこの体型を持つのは、彼の美意識がこの女性を基準に固まったからである。
正式な結婚は1890年。長男ピエールが生まれてから5年後のことである。1894年に次男ジャン、1901年に三男クロード(ココ)が生まれた。
ジャン・ルノワール(1894–1979)は、後に『大いなる幻影』(1937)『ゲームの規則』(1939)などを監督し、映画史に残る世界的な巨匠となった。
美術史にとって重要なのは、彼が晩年の父の制作過程と芸術観を、極めて間近で観察していたという点である。第一次世界大戦で負傷して帰還したジャンは、レ・コレットで療養しながら、車椅子の父が包帯で筆を縛って描く様子を毎日見ている。
その記憶をもとに、彼は後年『わが父ルノワール』を書いた。晩年の父との会話を軸に、父の幼少期、当時のパリの風物、印象派の画家たちの素顔、家庭の日常が語られる。
この本の価値は二重である。一次資料としての価値と、映画監督が書いた文章としての価値である。訳者の粟津則雄は、絵画と映画という異なる世界で同じくイメージを追った父子の深い類似が読み取れると指摘している。
ルノワールの人間的な輪郭を知るうえで、この一冊に代替はない。

科学が覆した「直感の画家」像
ルノワール研究は、20世紀半ばまでの印象批評的・伝記的な段階から、科学的分析機器を用いた材料工学・保存修復学的アプローチへと大きくパラダイムシフトを遂げている。
国際的な研究で近年最も画期的な成果をもたらしたのが、アメリカのゲティ財団の支援を受け、シカゴ美術館が主導した「OSCI(Online Scholarly Catalogue Initiative)」プロジェクトである。
シカゴ美術館が所蔵する25点のルノワール作品(油彩および素描)を対象に、かつてない高解像度画像技術に加え、X線透過撮影、赤外線リフレクトグラフィー、顕微鏡による顔料の断面分析などの技術的写真撮影が駆使された。
明らかになったのは、次の二点である。
第一に、作品表面の下に隠された下絵(アンダー・ドローイング)の痕跡。第二に、制作過程における構図の大幅な変更(ペンティメント)。
この科学的データが意味するところは重い。
従来の印象派的な神話——「ルノワールは光の移ろいを直感的に素早くキャンバスに定着させた」——は、これによって覆された。実際の彼は、アトリエ内で極めて計算された多層的な技法を用い、時間をかけてフォルムを練り上げていたのである。
言い換えれば、彼は網膜の画家ではなく、工房の画家だった。13歳から4年間、磁器工房で層を重ねる訓練を受けた人間が、油彩でも同じことをしていた、というだけの話でもある。
日本国内の研究も、この方向と呼応する。大阪教育大学のリポジトリ等に収録されている造形分析の論文では、ルノワールの絵画における「量塊の起伏」が、いかにして筆致の重なりによって構築されているかが論じられている。
具体的な指摘として、画面中央に描かれた女性の帽子やドレスに用いられた藍色は、黒味を帯びて見えるほど厚く塗布されているのに対し、顔や手首の肌の表現には薄く赤味が差した白が用いられ、顔料の透層効果(グレーズ)が精緻に計算されていることが実証的に示されている。
つまり、同じ画面の中で塗膜の厚さが意図的に変えられている。厚く盛った布地と、薄く透かせた肌。この落差が、平面のカンヴァスに肉体の立体感を生む。
「幸福の画家」の柔らかい肌は、直感ではなく塗膜構造の設計の結果である。

CHRONOLOGY & WORKS / 年譜と作品人生と作品を一緒に見る
ルノワールの生涯では、社会的な出来事と画風の転換がしばしば重なっている。職人としての出発と失職、戦争、印象派展、イタリア旅行、国家買い上げ、そして発病と南仏移住まで、出来事と主要作品を同じ時間軸で追う。
2月25日、フランス・リモージュに生まれる。父は仕立て屋、母はお針子
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一家がパリへ移住。ルーヴル美術館近郊の下町で育つ
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磁器の絵付職人の見習いとなる
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機械式プリント絵付け技術の普及により失職
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エコール・デ・ボザールに登録し、シャルル・グレールのアトリエに入門
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《日傘を持つリーズ》(翌1868年サロン入選)
モネとラ・グルヌイエールで並んでカンヴァスを立てる
《ラ・グルヌイエール》
普仏戦争に騎兵として召集。ピレネー山中で軍馬の調教に従事
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パリに帰還。パリ・コミューンの動乱期に直面する
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《庭で制作するクロード・モネ》
第1回印象派展に参加
《桟敷席(ラ・ロージュ)》/《モネ夫人と息子》
第3回印象派展に《ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏会》を出品
《ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏会》
シャルパンティエ夫妻の肖像画を制作
《シャルパンティエ夫人とその子どもたち》/《ジャンヌ・サマリー》
イタリア旅行(〜1882年)。ローマ、ナポリ、フィレンツェを巡る
《舟遊びをする人々の昼食》/《テラスにて(姉妹)》/《菊》
「アングル時代(ドライの時代)」
《海辺にて》/《ブージヴァルのダンス》
《大水浴図》の制作を開始(〜1887年)
《大水浴図》/《水をはねる人物(習作)》
長男ピエール誕生
《輪を持つ少女》
アリーヌ・シャリゴと正式に結婚
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《ピアノに向かう娘たち》がフランス政府に買い上げられる
《ピアノに向かう娘たち》
—
《髪を整える浴女》
次男ジャン誕生
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三男クロード(ココ)誕生
—
深刻な関節リウマチが始まる。カーニュのマゾン・ド・ラ・ポストに滞在
—
カーニュ=シュル=メールの「レ・コレット」の土地を購入
《レ・コレットの農家、カーニュ》(〜1914年)
レジオン・ドヌール勲章4等を受章
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病状が悪化し、車椅子での生活となる
《座る浴女》(1913年)
彫刻家リシャール・ギノを助手に迎え、彫刻制作を開始
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妻アリーヌが死去
—
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《ギターを持つ女》
レジオン・ドヌール勲章3等を受章。12月3日、カーニュにて死去
晩年の《浴女たち》
レ・コレット邸がルノワール美術館として開館
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ジャン・ルノワール『わが父ルノワール』刊行(邦訳1964年、みすず書房)
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ルノワール美術館がニューヨークの競売で archive と写真原板100点以上を取得
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シカゴ美術館がゲティ財団支援のもとOSCIプロジェクトを実施
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NETWORK / 人物影響を与え合った人びと
ルノワールの芸術は、同時代を共に戦った画家たち、支援を惜しまなかった画商やパトロン、そして家族との密接なネットワークの中で形成された。
クロード・モネ
1840–1926グレールのアトリエで出会う。戸外制作の重要性を教え、パレットから黒や茶を追放する契機を与えた。画商ポール・デュラン=リュエルを紹介したのもモネである
フレデリック・バジール
1841–1870裕福なブルジョワ出身。自身のアトリエを無償提供し、ルノワールの絵を買い取った。独自のグループ展を構想したが、普仏戦争で戦死し印象派展を見ることはなかった
アルフレッド・シスレー
1839–1899裕福なイギリス人貿易商の家に生まれるが、普仏戦争で家業が破産。ターナーの影響を受けた風景画、特に雪景色の「白」の豊かな表現がルノワールにも影響した
カミーユ・ピサロ
1830–1903印象派グループの最年長。農村風景を愛し、印象派の色彩理論を体系化した。個性派揃いのメンバー間の対立を調整する精神的支柱の役割を果たした
ベルト・モリゾ
1841–1895マネの影響を受けつつ、繊細なタッチと魅力的な速筆で、風景の中の人物を光の中から浮き上がらせる画風を確立した
メアリー・カサット
1844–1926アメリカ出身。ドガの勧めで印象派展に参加し、日本美術(浮世絵)の平面的構図と大胆なトリミングを取り入れた
ポール・セザンヌ
1839–1906印象派の視覚的混合に限界を感じ、事物の堅牢な構築性を求めてグループを離脱。この問題意識は「アングル時代」のルノワールと完全に一致していた。ルノワールは南仏エスタック滞在中のセザンヌを訪ね、造形思想について議論を交わしている
ポール・デュラン=リュエル
—印象派の価値を歴史上初めて評価した画商。定期的に作品を買い取り、ロンドンやニューヨークで展覧会を開催し続けた。この市場開拓がなければ印象派という運動自体が存続し得なかった
ギュスターヴ・カイユボット
1848–1894莫大な遺産を相続した資産家であり、自らも優れた画家。《ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏会》などを購入し、印象派展の資金を援助した
ジョルジュ・シャルパンティエ/マルグリット夫妻
—裕福な出版業者夫妻。肖像画を依頼し、その成功がルノワールのサロン復帰と経済的安定をもたらした。金曜サロンは当時のパリの文化的中心のひとつだった
アンブロワーズ・ヴォラール
—晩年の重要な取引相手。肖像を何度も描かせ、彫刻制作にあたって助手リシャール・ギノを仲介した
アリーヌ・シャリゴ
1859–1915《舟遊びをする人々の昼食》などでモデルを務め、「理想の女性像(豊満で健康的、母性に溢れる美)」の決定的な原型となった
ガブリエル・ルナール
—アリーヌの従妹。ジャンの子守として一家に入り、長年にわたり晩年のモデルを務めた
ジャン・ルノワール
1894–1979映画監督。『大いなる幻影』『ゲームの規則』などの巨匠。晩年の父の制作過程と芸術観を間近で観察し、伝記『わが父ルノワール』を残した
リシャール・ギノ
—手の自由を失ったルノワールの指示を受けて彫刻を制作した。ヴォラールの仲介による
BOOKS & FILM / 書籍・映像もっと知りたい人へ
わが父ルノワール【新装版】
- 著者
- ジャン・ルノワール(著)/粟津則雄(訳)
- 出版社
- みすず書房
- ASIN
- 4622073552
映画史に屹立する巨匠である次男ジャン・ルノワールが執筆した、私的かつ文学的価値の高い伝記の傑作。単なる回想録にとどまらず、幼少期から晩年のカーニュでの生活、さらには「教育」や「芸術の真実性」に対する画家の哲学が、親密な会話の引用を通して立体的に描写されている。訳者の粟津則雄は「絵画と映画というように世界は異なるが、同じくイメージを追ったこの芸術家父子の深い類似を見てとることも出来る」と述べている。画家の人間的輪郭を形成するうえで代替のきかない第一級の文献。
Amazonで見るもっと知りたいルノワール 生涯と作品(アート・ビギナーズ・コレクション)
- 著者
- 島田紀夫
- 出版社
- 東京美術(2009年12月20日)
- ASIN
- 4808708728
日本の西洋近代美術史研究の泰斗による著作。ルノワールがカンヴァス上に構築した「幸福な市民生活」という絵画世界と、彼自身が生きた過酷な現実社会とのあいだに存在した乖離に鋭く切り込んでいる。磁器絵付職人としての原点から、印象派の旗手への飛躍、古典主義(アングル時代)における苦闘、そして豊かな色彩を放つ晩年に至るまでの様式論的変遷を、19世紀の社会史的コンテクストに位置づけながら解き明かす。《陽光の中の裸婦》の肌の描き方をクローズアップで解説するなど、図版の使い方も具体的。
Amazonで見るルノワール作品集
- 著者
- 大橋菜都子
- 出版社
- 東京美術
- ASIN
- 4808713217
「幸福の画家」と称されるルノワールの画風の変遷を、7章の時代区分でたどる作品集。①1861–1873年 サロンでの入選をめざして ②1874–1877年 印象派展の時代 ③1878–1883年 新たな表現を求めて ④1884–1887年 古典と装飾への関心 ⑤1888–1900年 評価の確立 ⑥1901–1909年 カーニュとエッソワ ⑦1910–1919年 アルカディアを描く、という構成で、本記事の章立てとほぼ対応する。印象派の一言では括りきれない画風の推移を、図版で確認したい場合に向く。
Amazonで見るルノワール 陽だまりの裸婦 [DVD]
- 監督
- ジル・ブルドス
- 出演
- ミシェル・ブーケ、クリスタ・テレ、ヴァンサン・ロティエ
- ASIN
- B00IEXHUBW
第一次世界大戦下の1915年、南仏コート・ダジュール(カーニュ)を舞台とした伝記映画。重篤なリウマチに苦しみながら車椅子で絵筆を手に縛りつける晩年のルノワールと、戦傷を負って帰還した次男ジャン、そして二人にインスピレーションを与える最後のモデル、通称デデ(のちのカトリーヌ・エスラン)の関係を描く。原作は画家の曾孫ジャック・ルノワールによる伝記。「私の絵に、暗い色はいらない」という画家の姿勢が、死と戦争という「生の破壊」の淵でどう機能したかを視覚化した作品。
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REFERENCES / 出典参考文献
学術研究・分析プロジェクト
- Art Institute of Chicago/The Getty Foundation「OSCI(Online Scholarly Catalogue Initiative)」:Renoir: Paintings and Drawings at the Art Institute of Chicago
https://www.artic.edu/digital-publications/12/renoir-paintings-and-drawings-at-the-art-institute-of-chicago - 「ルノワールのデッサンに見られる表現特質」大阪教育大学リポジトリ
https://osaka-kyoiku.repo.nii.ac.jp/record/2074445/files/BK23_pb1-20.pdf - CiNii 図書「ルノワール」 https://ci.nii.ac.jp/ncid/BA44988331
- CiNii Research「原色版美術ライブラリー」 https://ci.nii.ac.jp/ncid/BN05334836
- CiNii Research「ルノワールと印象派の巨匠たち展」 https://ci.nii.ac.jp/ncid/BA6775360X
- artscape「ピエール=オーギュスト・ルノワール《ムーラン・ド・ラ・ギャレット》」
https://artscape.jp/study/art-achive/10174731_1982.html
所蔵館・オープンアクセス
- The Metropolitan Museum of Art(オープンアクセス)
- By the Seashore https://www.metmuseum.org/art/collection/search/437430
- In the Meadow https://www.metmuseum.org/art/collection/search/437434
- The Farm at Les Collettes, Cagnes https://www.metmuseum.org/art/collection/search/437433
- Versailles https://www.metmuseum.org/art/collection/search/459113
- Young Girl Bathing https://www.metmuseum.org/art/collection/search/459110
- Landscape https://www.metmuseum.org/art/collection/search/459968
- Figures on the Beach https://www.metmuseum.org/art/collection/search/459109
- The Art Institute of Chicago(CC0)
- Two Sisters (On the Terrace) https://www.artic.edu/artworks/14655/two-sisters-on-the-terrace
- Near the Lake https://www.artic.edu/artworks/95654/near-the-lake
- Young Woman Sewing https://www.artic.edu/artworks/14647/young-woman-sewing
- Chrysanthemums https://www.artic.edu/artworks/16617/chrysanthemums
- Seated Bather https://www.artic.edu/artworks/110798/seated-bather
- Musée Renoir(カーニュ=シュル=メール市) https://musees.cagnes.fr/
- Wikimedia Commons:File:Pierre-Auguste Renoir – By the Seashore.jpg ほか
https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Pierre-Auguste_Renoir_-_By_the_Seashore.jpg
書籍・出版社情報
- みすず書房『わが父ルノワール【新装版】』 https://www.msz.co.jp/book/detail/07355/
- みすず書房『ジャン・ルノワール自伝【新装版】』 https://www.msz.co.jp/book/detail/04998/
- 東京美術『もっと知りたいルノワール 生涯と作品』 https://www.tokyo-bijutsu.co.jp/np/isbn/9784808708726/
- 東京美術『ルノワール作品集』 https://www.tokyo-bijutsu.co.jp/np/isbn/9784808713218/
一般情報
- 「苦境のなかで“幸福”を描いた光の画家」 https://qui.tokyo/art-design/pierre-auguste-renoir
- 「ルノワールの生涯」 https://art-whitecanvas.com/renoir-life/



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