クロード・モネClaude Monet
クロード・モネが最初に絵で金を稼いだのは、十五歳のときに描いた似顔絵だった。最後に描いたのは、自宅の池に浮かぶ睡蓮である。そのあいだの七十年を、彼は「見えているもの」を画面に定着させるためだけに使った。晩年には白内障で色が判別できなくなり、絵の具のチューブにラベルを貼って、記憶と論理で色を置いた。その結果生まれた輪郭のない画面は、当時「重大な芸術的過ち」と切り捨てられ、半世紀後にニューヨークで「二十世紀抽象絵画の起点」として拾い直される。この記事では、パリに生まれてジヴェルニーで死ぬまでの八十六年と、その死後に評価がひっくり返る過程までを、十四章で年代順にたどる。

- 「印象派」という名称は、1874年に批評家ルイ・ルロワがモネの《印象、日の出》を嘲るために使った言葉である。侮蔑として投げられた語を、画家たちが自分たちの定義として引き受けた。
- 1890年代以降のモネは、同じ主題を条件を変えて反復する「連作」に移行する。描いたのは物ではなく、物を包む空気だった。展示の際に一室を同じ主題で囲んだことで、鑑賞者は時間の経過を空間として体験することになった。
- 晩年の《睡蓮》は当時「重大な芸術的過ち」と酷評され、数十年間無視された。評価が反転するのは1950年代のニューヨークである。白内障が生んだ「形態の喪失」は、半世紀後に「純粋な視覚性の獲得」として読み直された。
クロード・モネの生涯
ル・アーヴルの浜辺から、1874年のカピュシーヌ大通り、そしてオランジュリーの楕円形の部屋まで。
ル・アーヴルの戯画描き
オスカー=クロード・モネは1840年11月14日、パリ9区のラフィット通り45番地の5階で生まれた。父クロード・アドルフと母ルイーズ・ジュスティーヌの次男である。翌1841年5月20日、地元のノートル=ダム・ド・ロレット教会で洗礼を受け、オスカー=クロードと登録された。家族は彼を単に「オスカー」と呼んでいた。
1845年、一家はノルマンディーの港町ル・アーヴルへ移る。父は船具と食料品の卸を営んでおり、息子にも家業を継がせたいと考えていた。母は歌手で、絵を描きたいという息子の希望を支持した。1851年4月1日、モネはル・アーヴルの美術学校に入学する。授業に身が入る生徒ではなかったが、絵の才能だけは早くから目立っていた。
15歳ごろから、彼は知人や町の名士の似顔絵を描いて売りはじめた。カリカチュア(戯画)である。人物の特徴を誇張して一枚の紙に落とし込むこの仕事で、彼は地元で一定の知名度を得た。1枚につき10〜20フランという強気の値段付けで(当時の労働者の日給が2フラン程度なので、似顔絵1枚で数日〜10日分の給料に相当)パリへ出るとき、その額はおよそ2000フランに達していたと伝えられる。
この時期、彼はジャック=フランソワ・オシャールという、ジャック=ルイ・ダヴィッドの弟子筋にあたる画家から最初のデッサンの手ほどきを受けている。ただし、モネの画業を決定づけたのは学校の授業ではなかった。
1858年ごろ、モネは画家ウジェーヌ・ブーダンと出会う。ブーダンは海と空を描き続けた風景画家で、モネの戯画に並外れたデッサン力を見て取った。そして、アトリエに閉じこもるのではなく、屋外に出て風景を描くこと——プレネール(外光派)の手法——を熱心に勧めた。
ブーダンは自らモネをノルマンディーの浜辺へ連れ出している。空と海の光が、雲が流れるたびに、波が返すたびに、絶え間なく変わっていく。その様子を目の前で示してみせた。ブーダンがモネに伝えたのは技法ではなく、自然を「瞬間として」見る視座そのものだった。
この教えを受けて、モネは戯画をやめ、風景画家へ転向する。1858年、18歳のモネはブーダンと共に屋外で描いた《ルエルの眺め》を地元の展覧会に出品した。後年、彼はブーダンについて「自分のすべてを負っている」という趣旨の言葉を残している。生涯を通じてアトリエでの人工的な制作を拒み、屋外で描き続けたモネの姿勢は、この浜辺の数日から始まっている。
1857年1月、母が死んだ。モネは16歳だった。彼は父と、子のない裕福な叔母マリー=ジャンヌ・ルカードルのもとで暮らすことになる。この叔母は、駆け出しの画家としてのモネを、その後何年も金銭的に支え続けた。
パリ、アルジェリア、そしてグレール画塾
1859年4月、モネはパリに着いた。プラス・デュ・アーヴルのホテル・デュ・ヌーヴォー・モンドに落ち着き、開幕したばかりのサロンをすぐに見に行っている。翌1860年の初め、彼はシテ島にあったアカデミー・シュイスに入る。ここでカミーユ・ピサロと知り合った。
1861年3月2日、20歳のモネはル・アーヴルで徴兵のくじを引き当てる。当時のフランスでは2500フランを払えば代人を立てられたが、モネはこれを拒み、同年4月29日、アフリカ猟兵第1連隊に7年の期限で入隊する。軍の記録には、身長165センチ、髪は茶色、目は栗色とある。6月、彼はアルジェリアへ渡った。
1862年春、腸チフスにかかり、夏のあいだサント=アドレスの叔母のもとで療養することを許される。叔母は3025フランを払って彼を除隊させた。アルジェリアでの経験について、モネは後年こう語っている。北アフリカの光と鮮烈な色彩は「私の将来の探求の萌芽を含んでいた」。
療養中の1862年夏、カップ・ド・ラ・エーヴ付近で絵を描いていた彼は、オランダ出身の画家ヨハン・バルトルト・ヨンキントに紹介される。ヨンキントの筆致は自由で荒く、水彩で大気の効果を素早く捉える技術に長けていた。ブーダンが与えたのが「見方」だったとすれば、ヨンキントが与えたのは「手つき」である。のちの印象派を特徴づける筆触分割への道は、この二人によって準備された。モネ自身、自分の眼を決定的に開いたのはヨンキントだと述懐している。
1862年11月21日、正式に除隊。12月にパリへ戻ったモネは、ノートル=ダム=デ=シャン通り70番地にあったシャルル・グレールの画塾に入る。ここでピエール=オーギュスト・ルノワール、フレデリック・バジールと出会った。バジールは後に彼の最も近い友人になる。
ただしモネはグレールと長くは続かなかった。自然をどう画面に置くかという点で意見が合わなかったのである。彼は画塾を出て、ルノワールやアルフレッド・シスレーと連れ立ってオンフルールへ行き、港と河口を描いた。
1865年、モネは《ラ・エーヴ岬、干潮》と《オンフルールのセーヌ河口》の2点でサロンにデビューし、高い評価を得る。翌1866年のサロンには大作《草上の昼食》で挑むつもりだったが、期日までに仕上がらなかった。代わりに出品した《緑衣の女》——モデルは後に妻となるカミーユ・ドンシューである——が入選する。
以後1870年まで毎年サロンへ送り続けたが、通ったのは1866年と1868年の二度だけだった。彼の絵は「急進的」と見なされ、官の側からはあらゆる水準で歓迎されなかった。
カミーユ、ラ・グルヌイエール、そして亡命
1867年、モデルとして知り合ったカミーユ・ドンシューとのあいだに長男ジャンが生まれた。父はこの関係を理由に仕送りを打ち切る。モネはサント=アドレスの叔母の家に身を寄せざるを得なくなった。この年、ストレスによると思われる一時的な視力の異常に見舞われ、日光の下で制作できない時期もあった。
1869年、モネはセーヌ川沿いのクロワシー=シュル=セーヌにあった水浴場兼行楽地ラ・グルヌイエールに通う。隣にはルノワールがイーゼルを立てていた。二人は同じ場所を同時に描いている。
ここでモネが取り組んだのは、水面の絶え間ない波立ちと、そこに砕ける光だった。絵の具をパレットで混ぜ合わせず、細かな筆触として画面上に並置する。離れて見たとき、鑑賞者の眼の中でそれが混ざる。後に筆触分割と呼ばれる技法の実験が、この水辺で始まった。印象派前夜である。
1870年6月28日(29歳)、モネはカミーユと結婚した。普仏戦争の勃発直前だった。戦時中、彼は徴兵を避けて家族とともにロンドンとオランダで暮らす。ロンドンでは旧友ピサロ、アメリカ人画家ホイッスラーと再会し、そして生涯にわたる画商ポール・デュラン=リュエルと出会った。この出会いが、モネのキャリアを決定づける。
ロンドンで彼はジョン・コンスタブルとJ・M・W・ターナーの作品を見た。とりわけターナーがテムズ川の霧を扱った手つきに強い印象を受けている。1871年春、モネの作品はロイヤル・アカデミー展への出品を拒否され、警察からは革命活動を疑われた。同じ年、父の死を知る。
1874年、ルイ・ルロワという名の逆説
デュラン=リュエルの支援が細りはじめると、モネ、ルノワール、ピサロ、シスレー、セザンヌ、ドガ、ベルト・モリゾらは、サロンを通さずに作品を見せる方法を選んだ。共同出資による「画家・彫刻家・版画家による匿名協会」である。名称に様式や運動を思わせる語を入れなかったのは、特定の主義に括られることを避けるためだった。
1874年4月15日、パリのカピュシーヌ大通り35番地(34番地)、写真家ナダールの旧写真館で、第一回展が開かれた。60フランを払えば誰でも出品できる仕組みで、審査員はいない。会期中の来場者はおよそ3500人と推定されている。
モネがここに出したうちの一点が、ル・アーヴルの港の朝霧を描いた《印象、日の出》だった。カタログを作る際に急いでこの題を付けたと伝えられる。値は1000フラン。売れなかった。
当時の美術批評家ルイ・ルロワは、4月25日発行の風刺紙『ル・シャリヴァリ』にこの展覧会の酷評を載せた。記事の見出しは「印象派の展覧会」。ルロワは《印象、日の出》を名指しし、印象という語をそのまま皮肉に転用してみせた。輪郭がなく、筆致が粗く、壁紙より未完成である——というのが彼の言い分だった。
印象——確かにそうだろう。私にも印象は残ったのだから、そこに何かの印象が描かれているには違いない。
ルイ・ルロワ『ル・シャリヴァリ』1874年4月25日(趣旨)ルロワの意図は完全な侮蔑である。ところが画家たちは、この「印象派(Impressionniste)」という呼称を自分たちの定義として引き受けた。以後の展覧会では公式に用いられ、1877年にはフランス語の辞典にも項目として収録される。
もっとも、当時の批評がすべて敵対的だったわけではない。ルイ・エドモン・デュランティは彼らの様式を「絵画における革命」と呼んでいる。ルロワ自身は後年、名付け親になったことを後悔したと伝えられる。彼の見るところ、あの集団の大半は印象派的でも何でもなかったのである。
アルジャントゥイユの水辺
1871年、一家はパリ近郊のアルジャントゥイユに移る。モネはここでセーヌ川とその周辺をひたすら描いた。舟を買い、水上に浮かぶ小さなアトリエを仕立てて川の上から絵を描いている。この5年間は、光と反射の効果を研究するうえで決定的な時期になった。彼は場面や物ではなく、色と形として画面を考えはじめる。
1874年、彼は「緑の鎧戸のついたばら色の家」に6年半の借地契約で移り住み、その庭をさまざまな角度から15点描いた。庭を絵のために造るという発想は、このとき初めて現れている。のちのジヴェルニーの水の庭は、ここに原型がある。
1875年、モネは《日傘をさす女——モネ夫人と息子》で人物画に戻った。強い逆光の中、風にあおられるベールと白い服、なびく草。低い位置から見上げる構図で、人物は空を背にして立っている。粗く速い筆致が、静止した一瞬にすべての動きを閉じ込めている。
彼はこの時期、批評家テオドール・デュレに宛てた手紙で、屋外の人物を自分の理解する形で描くことに取り組んでいると書いた。それは長年の夢であり、そして「あまりにも難しい」とも。
1877年4月5日に開かれた第三回展では、直前の3か月で描いたサン=ラザール駅の連作から7点を選んで出品した。同じ場所を複数のカンヴァスで、時間と条件を変えて描き、それらを揃えて見せたのはこれが最初である。批評家たちは、列車の到着と出発を捉えた手つきを高く評価した。連作という方法は、まずこの駅で試されている。
蒸気と煙は、あるときは不透明で、あるときは透ける。モネはそこに、後年の霧や雨の研究につながる問題を見ていた。物そのものではなく、物を包む空気を描くこと。彼が「エンヴェロップ(外被)」と呼ぶようになるものである。
ヴェトゥイユ、カミーユの死
1876年、カミーユが重い病にかかった。1878年に次男ミシェルが生まれると、彼女の容態はさらに悪化した。同じ年の秋、モネ一家はヴェトゥイユ村へ移り、百貨店主で美術のパトロンだったエルネスト・オシュデの家族と一つ屋根の下で暮らしはじめる。オシュデはモネに4点を注文していた人物である。
1878年、カミーユは子宮がんと診断された。翌1879年9月5日に死去。32歳だった。
モネは死んだ妻の顔を油彩で描いている。何年も後に、彼は友人ジョルジュ・クレマンソーに打ち明けた。色彩を分析せずにいられない自分の性質は、喜びであると同時に責め苦でもある、と。愛する妻の死に顔を前にして、自分は反射的に、機械的に、そこに現れる色を記録していた——そう語ったと伝えられる。
ジョン・バージャーはこの絵を、白と灰と紫の吹雪と評した。彼女の顔立ちを永久に消し去っていく喪失の吹雪である。臨終の床を描いた絵で、これほど強く感じられ、これほど主観的に表現されたものはほとんどない、と。
カミーユの死は、金銭的な困窮と同時に訪れた。オシュデは破産してパリへ去り、印象派への関心も冷えつつあった。モネは債権者を避けるために家を空けたことさえある。ヴェトゥイユの家主は家賃の遅れを理由に契約の更新を断り、1881年12月、モネはアリス・オシュデとその子どもたちを連れてポワシーへ移った。
この時期の彼の絵は暗くなる。明るいパステル調の色は後退し、荒天のセーヌ川のような、自然の元素的な側面が前に出てくる。1883年1月にエトルタへ戻ったとき、彼はアリスへの手紙に死にたいという意味のことを書いている。
海へ——エトルタとベリールの崇高
1883年4月、モネはヴェルノン近郊の村ジヴェルニーに家を借りる。到着から2日後、エドゥアール・マネの訃報が届いた。葬儀へ行く汽車賃も喪服も買えず、彼はデュラン=リュエルに金を無心している。同じ年、最初の大きな回顧展が開かれた。
1880年代のモネは、しばしば一人で旅に出ている。ノルマンディーの海岸、イタリアのボルディゲーラ、オランダのチューリップ畑、地中海沿岸。「混雑した観光地や洗練された都市から離れた孤独」を求めていたと、彼はアリス宛の手紙に繰り返し書いた。
エトルタの断崖と、そこに打ち寄せる波。モネはこの海岸に何度も通っている。1885年から86年にかけて描かれた一連の海景では、砂浜に引き上げられた漁船、波に削られた岩門、荒れる水面が主題になった。
1886年、彼はブルターニュ沖のベリール島に滞在する。ここで描かれた海の絵は、それまでの彼の風景表現とは調子が違う。穏やかな光の変奏ではなく、暴力的な自然の力そのものが画面を占めている。日本の研究では、この一群を美学上の「崇高(Sublime)」の概念から読み解く試みがなされている。
モネがベリールを選んだのは、既成の型を回避する新しい造形言語を探していたからだと考えられている。自然に忠実で、しかも他の誰のものでもない——そういう表現である。1887年と1889年に発表されたベリールの連作は、批評家から高い評価を受けた。当時の批評は、彼が印象派的な「近代の風俗」から離れ、原初的な自然へ向かおうとしていると読んだ。
1884年にボルディゲーラで38点を描き、1886年にオランダへ渡って以降、モネの経済的な苦境は終わる。作品はアメリカでも売れはじめた。1892年、彼は前年に夫を亡くしたアリス・オシュデと正式に結婚する。
『積みわら』——連作という装置
1890年、モネはジヴェルニーの家を買い取った。庭は年を追って拡張され、やがて7人の庭師を雇うまでになるが、設計は最後まで彼自身が握っていた。庭師には毎日、植え付けの指示書を書いて渡している。
印象派の枠に収まらなくなったモネが次に取り組んだのが、同じ主題を条件を変えて反復する「連作」である。その最初の本格的な試みが『積みわら』だった。
主題は、自宅のすぐ外の畑に立っていた麦の積みわらである。高さは15から20フィート、およそ4.5から6メートルに達した。1890年から91年にかけて、モネは野外に複数のカンヴァスを並べ、数分おきに変わる光と大気に合わせて描くカンヴァスを次々に取り替えるという方法をとった。多いときは8点を同時に進め、一点あたり1時間ほどを費やしている。
同じ物体が、時間帯と季節によってまったく違う色とテクスチャーを獲得する。秋の風景では積みわらの円錐形の頂部が地平線を突き抜けて空へ伸び、冬の風景では雪と丘の帯に包み込まれて、休眠しているように見える。シカゴ美術館が持つ一連の『積みわら』を並べると、その変形の過程がそのまま追える。
この主題の選択には理由がある。積みわらは人の手が積み上げたものでありながら、中身は自然が作ったものである。モネにとってそれは糧と生存の象徴だった。工業的なモチーフでも、風光明媚な名所でもない、生活の傍らにある巨大な塊。
1891年5月、モネはパリのデュラン=リュエル画廊の一室に15点の『積みわら』を並べて展示した。壁の四方を同じ主題が取り囲む。鑑賞者は部屋の中を歩きながら、時間の経過を空間として体験することになる。展示は批評的にも経済的にも大きな成功を収めた。
ここでモネの画家としての地位は確定する。そして彼は、この方法をポプラ並木、ルーアン大聖堂、ロンドンの橋、そして睡蓮へと展開していくことになる。
ポプラ並木と『ルーアン大聖堂』
1891年、モネはエプト川沿いのポプラ並木を主題に選ぶ。ところが制作の途中で、その並木が競売にかけられることになった。彼は材木商と交渉し、絵が仕上がるまで伐採を待ってもらうために自ら金を出している。主題を買い取ってでも描き切るという態度は、この時期の彼の執着をよく表している。
1892年から94年にかけて、モネはルーアン大聖堂の正面を26点描いた。向かいの建物の二階を借り、そこから同じファサードを、朝から夕方まで、晴れの日も霧の日も描き続けた。1895年、そのうち20点がまとめて展示される。
これらの絵の主題は、中世の壮大な建築ではない。石の表面を移動していく光と影である。堅固な石積みが、時刻によって溶けたり、燃えたり、青く沈んだりする。ヘレン・ガードナーはこれを、同一の形態の上を通過していく時間の、比類のない記録と評した。
この連作のためにモネは額縁まで自作を試みている。作品を単体で見せるのではなく、群として一つの空間に置くこと。展示形態そのものが作品の一部になりはじめていた。
1890年代の連作は、批評的にも商業的にも大きな成功を収めた。1898年にはプティ画廊で61点が展示されている。同じ時期、彼はセーヌ川の夜明けを描いた『セーヌ川の朝』の連作にも取り組んでいた。
水の庭と日本の橋——ジャポニスムの三次元化
19世紀後半のフランスを席巻したジャポニスムは、モネの空間認識にも根本的な変革をもたらした。万国博覧会や東洋美術商を通じて流入した葛飾北斎や歌川広重の浮世絵版画は、西洋の一点透視図法を無視した大胆な構図、非対称性、平坦な色面構成を特徴としていた。モネはこれらを自分の画面構造に取り込み、三次元的幻影の構築から離れていく。
この影響はカンヴァスの上にとどまらなかった。1893年、モネは隣接する土地を購入し、小川をせき止めて池を造る。1901年と1910年にはさらに拡張し、周囲にイーゼルを立てる場所をいくつも設けた。フランス在来の白い睡蓮に加えて、南米やエジプトから輸入した品種を植えている。黄、青、白——そして白は時とともに桃色に変わった。
そして彼は、この池に日本風の太鼓橋を架けた。ジヴェルニーの水の庭は、浮世絵から受け取った美学を三次元に翻訳した構築物である。モネの自宅には浮世絵版画のコレクションが残されており、現在も公開されている。
1899年、モネは睡蓮を描きはじめる。以後20年以上、これが彼の主題であり続けた。最初の一群は日本の橋を画面の中心に据えたもので、1900年に発表された。
1900年11月22日から12月15日まで、デュラン=リュエル画廊で睡蓮を10点ほど並べた展覧会が開かれ、翌1901年2月にはニューヨークでも同じ構成の展示が行われて成功を収めている。
1905年ごろから、モネは池の縁を画面から外しはじめる。水平線も、空も、岸辺も消える。残るのは水面と、そこに映る空と柳と、浮かぶ葉だけである。カンヴァスの形も長方形から正方形へ、さらに円形へと変わっていった。
1909年5月6日に開かれた『睡蓮』展には、1903年から08年までの48点が並んだ。批評家クロード・ロジェ=マルクスは、モネが「抽象と想像の究極の段階に、現実と結びついたまま到達した」と書いている。
ロンドンの霧、ヴェネツィアの光
1870年から71年の亡命時代を除けば、モネがロンドンに腰を据えて描いたのは1899年9月からである。サヴォイ・ホテルの6階に部屋を取り、テムズ川とロンドン南部を見下ろした。彼はこの街について、冬にしか愛せない、霧がなければ美しくない、霧こそがこの街に壮大な広がりを与えるのだ、という意味のことを述べている。
滞在は3回に分かれた。1899年秋、1900年2月から3月、1901年1月から3月。最後の滞在は胸膜炎で中断し、彼は3週間ホテルの部屋から出られなかった。
制作した数は、ウォータールー橋41点、チャリング・クロス橋34点、国会議事堂19点。国会議事堂はセント・トーマス病院の一角から、午後遅くと日没時に描かれた。アトリエでの加筆は1904年まで続き、『ロンドンのテムズ川の眺め』として同年5月から6月に発表されている。
1908年秋、モネとアリスはヴェネツィアへ行った。当初モネは乗り気ではなく、池と花を離れるのが辛いとアリスは娘への手紙に書いている。ところが着いてみると彼は魅了された。もっと若いとき、大胆さがあったころに来ればよかった、と彼は書いている。それでもここで至福の時を過ごし、自分が老人であることを忘れかけている、とも。
夫妻は毎朝8時前にゴンドラで出発し、昼食を挟んで夜7時まで描き続けた。3か月の滞在で37点。同じモチーフを時刻を変えて描く、いつもの方法である。
1911年、アリスが死んだ。1914年には長男ジャンが46歳で死ぬ。ジャンはアリスの娘ブランシュと結婚しており、そのブランシュがモネの世話をすることになった。相次ぐ死はモネを深い抑鬱に落とし込んだ。
そしてこの時期、彼は自分の眼に異変を感じはじめる。
白内障、1923年の手術、そして青視症
モネの芸術は視覚に全幅の信頼を置くものだった。だからこそ、眼の疾患は画家としての存在そのものを脅かした。
1908年ごろ、68歳の彼は視力の異常を感じはじめる。両眼の白内障だった。1913年、彼はロンドンへ渡り、ドイツ人眼科医リヒャルト・リーブライヒの診察を受けている。新しい眼鏡を処方されたが、右眼の手術は断った。
当時の白内障手術は、現在のように濁った水晶体を超音波で砕いて眼内レンズに置き換えるものではない。角膜を大きく切開し、グレーフェ刀という長いメスで、白濁した水晶体を包む嚢ごと物理的に摘出する。抗生物質はまだなく、局所麻酔にはコカインが用いられた。消毒は煮沸とヨードチンキに頼る綱渡りである。感染と失明のリスクは高かった。色彩を生命線とする画家にとって、これは恐怖以外の何物でもない。
水晶体の黄濁が進むにつれ、モネの視界には黄色と茶色の分厚いフィルターがかかっていった。1910年代後半から1920年代初頭の作品では、かつての精緻な青と緑が後退し、輪郭は溶け、赤と黄と褐色が画面を重く支配する。
彼は対処を工夫した。絵の具のチューブにラベルを貼り、パレット上に厳密な順序で並べる。麦わら帽子をかぶって眩しさを抑える。視力に頼るのではなく、記憶と論理で色を配置する。大きな塊としてモチーフを掴み、それを記憶と想像を通して転写する——近くで見たときの微妙な階調に「鈍感」になっていたためである。カンヴァスは次第に大きくなった。1920年には、大きく描くことに慣れすぎて小さなカンヴァスには戻れないと認めている。
手術を勧めたのは、フランス首相であり長年の友人でもあったジョルジュ・クレマンソーだった。モネは渋った。オノレ・ドーミエとメアリー・カサットが手術に失敗した例を知っていたからである。視力が悪いままでいい、絵をあきらめてもいい、愛するものを少しでも失うくらいなら——そう述べたと伝えられる。
1922年、散瞳薬の処方で一時的に楽になった。そして1923年、83歳のモネはついにクーテラ医師の執刀を受ける。右眼のみ、半年のあいだに段階を分けて複数回。幸い感染症は起こらなかった。
術後、右眼の矯正視力は0.4から0.7程度まで戻り、分厚い凸レンズの眼鏡が処方された。ところが今度は、青視症(Cyanopsia)という後遺症が現れる。長年黄ばんだ水晶体を通して世界を見ていた脳に、水晶体の摘出によって突然大量の短波長光が届くようになったためである。世界が極端に青く見えた。
白内障の残った左眼で見るとすべてが黄色に見え、手術した右眼で見るとすべてが青みがかって見える。
手術後のモネの言葉として伝えられるもの(趣旨)左右で違う世界が見える。この分断にモネは深く絶望した。彼は術前に描いた何枚かのカンヴァスを破棄しはじめる。ようやく「本当の色」が見えるようになったから、というのが理由だった。
ツァイス製の色付きレンズを与えられると彼はこれを賞賛したが、左眼はやがて黒いレンズで完全に覆わねばならなくなる。1925年には見え方が改善し、彼は術前の作品に手を入れなおしはじめた。睡蓮の青は、以前より濃くなっていた。
1923年から24年にかけて描かれたジヴェルニーの『日本の橋』や『バラ園から見た家』には、この特異な視覚が直接投影されている。激しい筆致、青と黄、赤と緑という補色が画面上で荒々しく交錯し、かつての穏やかな風景表現は解体されている。
オランジュリーの楕円形の部屋
1914年、クレマンソーに励まされて、モネは新しい大きなアトリエの建設を計画する。水の庭に捧げる「装飾的な絵画の連環」を作るためである。第一次世界大戦のあいだ、彼はこの計画に没頭した。次男ミシェルは従軍していた。
1914年から18年にかけて制作されたパネル群は、フランス政府へ寄贈されることになる。休戦の翌日、彼は最初の2枚の大パネルを平和の象徴として国家に贈った。制作の中心はおよそ1916年から1921年である。
モネはこの作品のために、展示空間そのものを設計に含めた。オランジュリー美術館の二つの楕円形の部屋。パネルは途切れなく壁を巡り、鑑賞者はその内側に立つ。彼自身の言葉によれば、「果てのない全体、水平線も岸もない波の錯覚」を与えるための構造である。日本の学術研究でも、この展示形態の特異性——建築空間との融合と没入型のフォーマット——がインスタレーション・アートの先駆として論じられている。
1926年12月5日、モネは肺がんのためジヴェルニーで死去した。86歳。葬儀は本人の希望で簡素に行われ、参列者は50人ほどだった。棺には黒い布がかけられていたが、クレマンソーがそれを取り払い、「モネに黒はいけない」と言って花柄の布に取り替えたと伝えられる。彼はジヴェルニーの教会墓地に葬られた。死の時点で、『睡蓮』は技術的には未完成のままだった。
1927年5月、27点のパネルがオランジュリー美術館で公開される。政府との長い交渉の末だった。
そして、ほとんど誰も見に来なかった。
半世紀後の再評価——グリーンバーグと抽象表現主義
晩年のモネは、当時の批評家からほぼ黙殺された。オランジュリーの《睡蓮》は「絶望的に退屈」「重大な芸術的過ち」と評され、その後数十年にわたって美術界から無視される。輪郭を失い形態が崩壊した画面は、印象派という過去の運動の衰退か、老人の視力低下がもたらした医学的な悲劇としてしか読まれなかった。
状況が変わるのは第二次世界大戦後である。美術の中心がパリからニューヨークへ移った1950年代のアメリカで、モネの晩年作は劇的な再評価を受ける。
その中心にいたのが批評家クレメント・グリーンバーグだった。彼は1945年の時点では、モネの晩年作をスタイルの残骸にすぎず作品とは呼べない、と否定的に扱っていた。ところがジャクソン・ポロックやマーク・ロスコに代表される抽象表現主義の台頭を目の当たりにして、自身の理論を修正する。1957年のエッセイ「The Later Monet(晩年のモネ)」で、彼は評価を根本から覆し、晩年のモネを抽象表現主義の直接の先駆者として位置づけた。
グリーンバーグがモダニズム絵画の至上命題としたのは、絵画が自分の媒体固有の性質、すなわち「平面性」を獲得することである。《睡蓮》の焦点を持たないオールオーバーな構成と、三次元的遠近法を放棄した没入型の色彩空間は、ポロックのドリッピングによるアクション・ペインティングや、バーネット・ニューマンらのカラーフィールド・ペインティングが目指した空間と正確に共鳴した。
1955年、ニューヨーク近代美術館(MoMA)が巨大な《睡蓮》を購入して大々的に展示する。アメリカの前衛画家たちが受けた衝撃は大きかった。1952年のアンドレ・マッソンによるエッセイも、この評価の転換を後押ししている。1958年にはMoMAの火災で、収蔵されていた《睡蓮》が焼失した。
批評家のエレイン・デ・クーニングやルイ・フィンケルシュタインは、ヘレン・フランケンサーラー、ジョアン・ミッチェル、フィリップ・ガストン、エルズワース・ケリーら新世代の画家を説明するために「抽象的印象主義(Abstract Impressionism)」という語を作った。エルズワース・ケリーはジヴェルニーでの体験をもとに《Tableau Vert》(1952年)を制作している。ジョアン・ミッチェルは、モネの旧居に近いヴェトゥイユに移り住み、その色彩感覚を継承しながら激しい抽象画を展開した。
白内障という医学的な悲劇が生んだ「形態の喪失」は、半世紀を経て「純粋な視覚性の獲得」としてモダニズムの頂点に置き直された。作品の評価が絶対的なものではなく、後続の運動の文脈によって再構築されることを、これほど明確に示す例は多くない。
1966年、次男ミシェルの遺贈によって、ジヴェルニーの家と庭と池はフランス学士院の管理下に入った。1978年から80年にかけて、50年のあいだに荒れ果てていた庭は復元され、一般に公開される。家には彼の浮世絵コレクションがそのまま残されている。
ル・アーヴルの浜辺でブーダンから受け取った「瞬間を見る」という教えは、ヨンキントによる筆致の洗練と、浮世絵による空間の平面化を経て、連作における時間の獲得へ至った。そして肉体の衰えが、それを色彩そのものが自律する空間へと昇華させた。19世紀の再現絵画を終わらせた破壊者が、そのまま20世紀の抽象への扉を開けたことになる。
CHRONOLOGY & WORKS / 年譜と作品人生と作品を一緒に見る
モネの生涯では、住む土地が変わるたびに主題が変わっている。ル・アーヴルの海、セーヌ川の水面、ノルマンディーの断崖、ジヴェルニーの積みわらと池。そして最後は、自分で造った池の水面だけが残った。出来事と主要作品を同じ時間軸で追う。
11月14日、パリ9区ラフィット通り45番地に生まれる。洗礼名オスカー=クロード
一家がノルマンディーの港町ル・アーヴルへ移る
1月、母ルイーズ・ジュスティーヌが死去。叔母マリー=ジャンヌ・ルカードルのもとへ
ウジェーヌ・ブーダンと出会い、屋外制作(プレネール)を学ぶ
戯画を描いて売っていた少年が、風景画家へ転向する決定的な契機。「自分のすべてを負っている」と後年述べている。
《ルエルの眺め》を地元展に出品
4月、パリへ出る。翌年アカデミー・シュイスに入り、ピサロと知り合う
4月、アフリカ猟兵第1連隊に入隊。6月アルジェリアへ渡る
北アフリカの光と色彩は「将来の探求の萌芽を含んでいた」と後年語っている。
腸チフスで帰国、叔母が除隊費用を支払う。ヨハン・バルトルト・ヨンキントと出会う。12月、パリのグレール画塾へ
ヨンキントの筆致が「私の眼を決定的に開いた」。同じ画塾でルノワール、バジール、シスレーと出会う。
サロンにデビュー。《ラ・エーヴ岬、干潮》《オンフルールのセーヌ河口》が高評価を得る
《緑衣の女》がサロン入選。モデルはカミーユ・ドンシュー
草上の昼食
長男ジャン誕生。父が仕送りを打ち切る
ルノワールと並んでラ・グルヌイエールを描く
絵の具を混ぜず、細かな筆触として並置する筆触分割の実験が始まる。印象派前夜。
《ラ・グルヌイエール》(メトロポリタン美術館ほか)
6月28日カミーユと結婚。普仏戦争を避けロンドンへ
ロンドンでポール・デュラン=リュエルと出会う。ターナーとコンスタブルを見る。
アルジャントゥイユへ移る。父が死去
4月15日、カピュシーヌ大通り35番地で第一回印象派展
批評家ルイ・ルロワが『ル・シャリヴァリ』で酷評。侮蔑として使われた「印象派」の語を、画家たちが自ら引き受けた。
印象、日の出
《日傘をさす女——モネ夫人と息子》を制作
日傘をさす女
第三回印象派展にサン=ラザール駅の連作7点を出品
同一の場所を条件を変えて複数枚描き、まとめて見せた最初の例。連作という方法の出発点にあたる。
サン=ラザール駅 連作(シカゴ美術館、オルセー美術館ほか)
次男ミシェル誕生。秋、ヴェトゥイユへ移りオシュデ家と同居
9月5日、カミーユが子宮がんで死去(32歳)
死に顔を油彩で記録した。色彩を分析せずにいられない自分の性質を、後にクレマンソーへ「喜びであると同時に責め苦」と語っている。
臨終のカミーユ
4月、ジヴェルニーの家を借りる。到着2日後にマネの訃報
以後、死までの43年間をこの村で過ごす。庭は年ごとに拡張され、やがて主題そのものになる。
ブルターニュ沖のベリール島に滞在し、荒海の連作を描く
自然の暴力的な力を主題にしたこの一群は、美学上の「崇高」の概念から論じられている。
ベリール連作(1887年・1889年に発表)
ジヴェルニーの家を買い取る
『積みわら』連作に着手(1890–91年)
5月、デュラン=リュエル画廊で『積みわら』15点を一室に展示
批評的にも経済的にも大成功。部屋を同じ主題で囲むことで、時間の経過を空間として体験させた。以後の連作の型になる。
積みわら(連作)
同年、ポプラ並木の連作
アリス・オシュデと結婚。ルーアン大聖堂の連作に着手(〜1894年、全26点)
隣接地を購入し、池を造成して水の庭を作る。日本風の太鼓橋を架ける
浮世絵から受け取った美学を、三次元の構築物へ翻訳した。自宅には浮世絵のコレクションが残されている。
ルーアン大聖堂の連作20点を展示
ルーアン大聖堂(連作)
睡蓮を描きはじめる。9月からロンドンのサヴォイ・ホテルに滞在
以後20年以上、睡蓮が主題であり続ける。ロンドンでは霧を透かした逆光を追い、テムズ川の三つの連作を制作した。
睡蓮の池にかかる橋
視力の異常を自覚。両眼の白内障と診断される。秋、ヴェネツィアへ
3か月の滞在で37点。以後、画面では赤と黄の比重が増していく。
ヴェネツィア連作(1908年、全37点)
デュラン=リュエル画廊で『睡蓮』展。1903〜08年の48点を展示
妻アリスが死去
ロンドンで眼科医リヒャルト・リーブライヒの診察を受け、手術を断る
長男ジャンが死去(46歳)。大装飾画のための新しいアトリエを計画
クレマンソーの励ましによる。制作の中心は1916年から1921年ごろ。
しだれ柳の連作(戦死者への追悼)
休戦の翌日、最初の2枚の大パネルを平和の象徴として国家に寄贈
クーテラ医師の執刀で右眼の白内障手術。半年で複数回
術後、矯正視力は0.4〜0.7程度まで回復。一方で青視症の後遺症に見舞われ、左右で色の見え方が分断された。術前のカンヴァスを破棄しはじめる。
『日本の橋』『バラ園から見た家』(1923–24年)
見え方が改善し、術前の作品に加筆しなおす
睡蓮の青は以前より濃くなった。
12月5日、肺がんによりジヴェルニーで死去。ジヴェルニーの教会墓地に埋葬
葬儀は本人の希望で簡素に行われた。クレマンソーは棺の黒布を取り払い、花柄の布に替えたと伝えられる。
《睡蓮》大装飾画は技術的には未完のまま
5月、オランジュリー美術館で27点のパネルが公開される
「絶望的に退屈」「重大な芸術的過ち」と酷評され、以後数十年にわたり無視された。
アンドレ・マッソンがエッセイを発表。エルズワース・ケリー《Tableau Vert》
ニューヨーク近代美術館(MoMA)が巨大な《睡蓮》を購入し展示
アメリカの前衛画家たちに大きな衝撃を与えた。1958年の火災で、収蔵されていた《睡蓮》は焼失している。
クレメント・グリーンバーグがエッセイ「The Later Monet」を発表
1945年時点では晩年作を否定していた批評家が評価を反転させ、抽象表現主義の先駆として位置づけた。
次男ミシェルの遺贈により、ジヴェルニーの家と庭がフランス学士院の管理下に入る
復元されたジヴェルニーの家と庭園が一般公開される








コメント