葛飾北斎Katsushika Hokusai
葛飾北斎が絵を描いていたのは、六歳から九十歳までの八十年余りである。その間に画号を三十回以上改め、住まいを九十三回変えた。代表作とされる『冨嶽三十六景』を出したのは七十歳を過ぎてからで、本人はその後に「七十歳より前に描いたものは取るに足りない」と書き残している。この記事では、本所割下水の裏長屋に生まれてから江戸で死ぬまでの九十年と、その死後に海を渡って西洋美術を揺さぶった過程までを、十二章で年代順にたどる。

- 画業は七十年以上に及ぶが、代表作『冨嶽三十六景』を出したのは七十歳を過ぎてからである。名声を得るまでに、五十年以上の下積みがあった。
- 画号を三十回以上、住まいを九十三回変えた。様式が固まるたびに名前を捨てており、その改号がそのまま画業の区分になっている。
- 死後に『北斎漫画』が海を渡り、ヨーロッパの画家たちの構図と色彩を変えた。北斎の評価は、日本より先に西洋で確立している。
葛飾北斎の生涯
本所割下水の裏長屋から、七十歳の『冨嶽三十六景』、そして小布施の天井絵まで。
本所割下水の鉄蔵
宝暦十年(1760年)、江戸の東はずれにあたる武蔵国葛飾郡本所割下水で、後に北斎と名乗る男が生まれた。現在の東京都墨田区にあたる一帯である。割下水は排水のための堀で、その両岸に細い町屋が続いていた。武家地と町人地が入り混じった、江戸の中心から一歩外れた場所だった。
幼名は時太郎。のちに鉄蔵と改めた。実父は川村某と伝えられるが、詳しいことは分かっていない。幕府の御用鏡師であった中島伊勢の養子になったとされるが、家督は継がなかった。跡取りとして迎えられたのではなく、別の事情で家に入ったと見る研究者が多い。
六歳ごろから、彼は物の形を写すことに取りつかれていたという。後年みずから書いたところによれば、この年齢から絵を描く癖がついていた。養父の仕事は鏡の背面に文様を描くことを含んでおり、そこから手ほどきを受けた可能性が指摘されている。
十二歳のころ、彼は貸本屋の丁稚として働きに出された。江戸の貸本屋は、絵入りの読み物を町の家々へ運んで貸し出す商売である。行商のように本を背負って歩き、客の家で本を広げ、また回収する。この仕事のあいだ、彼は毎日おびただしい数の版本を手に取っていたことになる。どんな絵が入っていれば本が借りられるのか。読者の目がどこで止まるのか。それを商品として見る時間が、十代の初めにあった。
十四歳ごろ、次に彼が入ったのは版木彫りの工房である。彫師の徒弟として、およそ四年を過ごした。
この四年は、後の北斎の画業を理解するうえで軽視できない。浮世絵版画は、絵師が版下絵を描き、彫師が版木に彫り、摺師が紙に摺る、分業の産物である。絵師が紙の上でどれだけ細い線を引いても、彫師の刃が入らなければ版にならない。木目の走る方向、細線が耐えられる限界、彫り残しの幅。北斎はそれを、道具を握る側から覚えた。
のちに彼は、彫師に対して驚くほど細かい注文をつける絵師になる。中国の詩を集めた『唐詩選画本』の制作では、以前から組んで信頼していた彫師の江川留吉に対し、人物の頭部の彫り方が自分の描線から外れていると版元へ書き送っている。別の彫師の杉田金助には直接手紙を出し、目と鼻の彫り方が歌川派の様式になっていると指摘した。その手紙には、自分の描き方と歌川派の描き方の両方を図示して添えている。技術的な限界を押し広げる要求を出せたのは、その限界がどこにあるかを彫師の手つきごと知っていたからである。
安永七年(1778年)、十九歳。彫師の道を離れ、彼は絵師の門を叩いた。
勝川派の十六年
入門先は勝川春章だった。当時の浮世絵界を代表する絵師のひとりで、勝川派の頭領である。
春章の仕事は役者絵だった。それまでの役者絵は、演目と役柄を示す記号的な表現が主流で、誰が描かれているのかは名前と紋で判別する仕組みになっていた。春章はここに「似顔」を持ち込んだ。役者個人の顔立ち、骨格、表情の癖を観察して描き分ける。舞台の上の人物ではなく、その人物を演じている俳優そのものを描いたのである。江戸の観客はこれに反応し、勝川派は役者絵の主流になった。
北斎は「勝川春朗」の号を与えられた。入門の翌年、安永八年(1779年)に役者絵の連作で世に出ている。以後およそ十六年、彼はこの流派の中でデッサンと浮世絵の基礎を叩き込まれた。
この時期、彼は出版界の内側も見ている。蔦屋重三郎は、当時の江戸で最も影響力のあった版元だった。狂歌の摺物から黄表紙、錦絵まで、売れるものを見抜いて仕掛ける能力に長けた人物である。蔦屋は駆け出しの春朗の錦絵や版本挿絵を手掛け、彼が世に出るための商業的な足場を提供した。何をどう出せば人が買うのか、北斎はこの版元の仕事ぶりから学んでいる。
私生活の記録は乏しい。勝川派にいたあいだに最初の妻を迎えたが、寛政の初めごろに亡くなっている。1797年ごろに再婚し、この妻も早くに死んだ。二人の妻とのあいだに息子二人と娘三人がいた。末の娘のお栄は、後に絵師となり、父の工房を支えることになる。
寛政四年(1792年)、師の春章が死んだ。
師の死後、北斎は勝川派の外にあるものへ手を伸ばしはじめる。長崎経由で入ってきたオランダやフランスの銅版画を手に入れ、狩野派の描法にも触れた。流派の絵師が他派を学ぶことは、当時の感覚では裏切りに近い。兄弟子の勝川春好との衝突が起き、北斎は勝川派を離れることになった。
この離脱について、北斎自身が後に語ったとされる言葉が残っている。自分の画風が変わっていく本当のきっかけは、春好の手で受けた屈辱だった、という趣旨のものである。
私の画風を本当に変えたのは、春好から受けた恥辱だった。
勝川派を離れた事情について、北斎の言葉として伝わるもの三十代半ばの離脱だった。流派に属さないということは、定期的な仕事の割り当てを失うということでもある。だが同時に、役者絵と美人画という浮世絵の二大商品から降りる自由も手に入れた。ここから北斎の主題は、市井の人々の暮らしと風景へと移っていく。
宗理、そして北斎
寛政六年(1794年)、北斎は「俵屋宗理」を襲名した。俵屋宗達の流れを汲む琳派系の号である。浮世絵の流派を出た人間が、装飾画の系統の名を継いだことになる。
この時期の仕事の中心は、狂歌絵本と摺物だった。摺物は市販品ではなく、狂歌の連や個人が特別な機会に配るために作らせる私家版の版画である。部数が少なく、費用は注文主が持つ。そのため、市販の錦絵ではとても許されない高価な顔料や、空摺り、雲母摺り、金銀の使用が可能だった。技術の実験場である。
同時に彼が吸収していたものは、琳派だけではない。狩野派、土佐派といった日本の伝統様式。中国の漢画。そして長崎から入ってきた西洋の銅版画と、司馬江漢らが実践していた透視図法と陰影法。北斎はこれらを序列なく並べ、必要なものを引き抜いて自分の画面に組み込んだ。
西洋の遠近法を使った作品では、地平線が極端に低く設定され、線が一点に向かって収束していく。ただし彼は模倣で止まっていない。一点透視の空間の中に、日本の絵巻が持っていた俯瞰の視点を同居させる。ひとつの画面の中で、遠近法が支配する部分と、それを無視した部分が衝突する。後年の風景画に見られるあの独特の圧迫感と奥行きは、この時期の実験から出てきている。
寛政十年(1798年)、彼は「宗理」の号を門人に譲り、「北斎辰政」と名乗った。どの流派にも属さない絵師としての宣言である。
1800年ごろには「葛飾北斎」を用いはじめる。「葛飾」は生まれた土地の名。「北斎」は、北辰すなわち北極星を意味する。北斎は日蓮宗の信徒で、北辰を神格化した妙見菩薩を信仰していた。号そのものが信仰の表明になっている。
この年、彼は『東都名所一覧』と『江戸八景』という二つの風景版画集を出した。人物ではなく土地を主題にした版画である。同時に門人を取りはじめ、生涯におよそ五十人を教えることになる。
四十歳。流派を離れ、独自の号を得て、風景を主題に選んだ。この時点でもまだ、彼が広く名を知られるまでには三十年の距離がある。
馬琴と組んだ十年
文化年間に入ると、北斎は読本の挿絵に力を注ぐようになる。
読本は、絵を添えた長編の物語本である。黄表紙のような軽い読み物ではなく、中国の白話小説を下敷きにした本格的な筋立てを持ち、文章量も多い。挿絵は基本的に墨一色で摺られた。色を使えないということは、線と墨の濃淡だけで奥行き、質感、明暗、そして動きを出さなければならないということである。
組んだ相手は曲亭馬琴だった。当時の江戸で最も売れていた戯作者である。文化四年(1807年)から始まった『椿説弓張月』は、源為朝を主人公にした伝奇物語で、大きな評判を取った。『新編水滸画伝』もこの時期の仕事である。北斎の挿絵は、当時の他の挿絵とまるで違っていた。人物を極端に前に出す。画面を斜めに切る。上から見下ろす。荒れる海を紙面いっぱいに広げ、そこに人間を小さく配置する。現代の劇画や映画のカメラワークに近い構図が、次々に投入された。
ただし、二人は繰り返し衝突した。
馬琴は挿絵に対して具体的な要求を持っていた。自ら簡単な下絵を描き、この場面はこの角度で、この人物はここに、と指定を出す。作者にとって挿絵は物語の従属物であり、筋の理解を助けるものだった。北斎はその指示をしばしば無視した。文章の説明よりも、絵として強い画面を優先した。版元を巻き込んだやり取りが記録に残っている。
協業は十三作で終わっている。理由については、性格の不一致とする説、挿絵の描き方に関する意見の対立とする説があり、定説はない。
この緊張関係が結果として何を生んだかは、はっきりしている。テキストの説明を超えて自立してしまった挿絵である。読者は物語を読むためにその本を買い、絵を見るために同じ本を開いた。北斎の挿絵は、文章の補助という位置から降りていた。
『北斎漫画』という装置
文化九年(1812年)、北斎は『略画早指南』を出した。円と直線、定規とコンパスで使える基本形から、人物や動物の形を組み立てていく手引き書である。目的ははっきりしていた。門人を増やすことと、収入を得ることである。
その延長線上に、文化十一年(1814年)の『北斎漫画』初編がある。五十五歳だった。
「漫画」という語は、当時、現代のようなストーリー漫画を指していない。気の向くままに描いた絵、下絵に近い雑多なスケッチという意味である。実際、この本の中身は互いに無関係な図の集積で、筋も文脈もない。
並んでいるものは、次のような具合である。相撲取りの姿勢の分解。職人が道具を使う瞬間の腕の角度。あくびをする男、鼻をかむ男。魚、鳥、虫の身体構造。波と水流の型。建築の部材。神仏。妖怪。中国の故事。人体を極端に単純化した図解と、毛の一本まで描き込んだ精密画が、同じ見開きに同居している。
初編は出るなり売れた。1819年までに十二編が出て、その後も追加され、最終的に全十五編、およそ四千図に達する。最後の三編は北斎の死後に刊行された。
この本は、絵手本という枠を早々に超えている。門人が描き方を学ぶための教材であると同時に、蒔絵師や染物屋が図案を探すための資料集になり、素人が眺めて楽しむ娯楽書にもなった。同じ本が、教科書とカタログと絵本を兼ねていた。
そして、これが後に海を渡る。ヨーロッパで最初に北斎の名を知らしめたのは『冨嶽三十六景』ではなく、この雑多なスケッチ集だった。
文政三年(1820年)、彼は号を「為一」に改めている。六十一歳。干支が一巡し、生まれた年に戻ったという意味を含む号である。
大達磨と見世物
北斎には、絵を描く行為そのものを見世物にした記録がいくつも残っている。
文化元年(1804年)、江戸の祭礼の場で、彼は畳二百枚に相当する大きさの達磨を描いた。筆ではなく箒を使い、墨は桶で運ばせた。紙の上を歩き回りながら描き、完成した絵は大勢の見物人の前に立ち上げられた。
文化十四年(1817年)十月五日には、名古屋の西掛所(本願寺名古屋別院)で同じことをしている。このときの大達磨は縦十八メートル、横十・八メートル。紙に墨で描かれた。群衆が押し寄せ、この出来事は歌になって広まり、彼には「だるま先生」の呼び名がついた。原画は1945年に失われたが、当時この催しを宣伝するために配られた引札が名古屋市博物館に残っている。
もうひとつ、将軍の御前での逸話が伝わっている。徳川家斉に招かれ、伝統的な筆法を用いる絵師と競作することになった北斎は、紙に青い曲線を刷いた。次に、足に朱を浸した鶏を紙の上に放って走らせた。そして、これは竜田川に紅葉が流れている景色である、と説明した。北斎の勝ちとされた。
これらの逸話をどこまで史実として扱うかは、伝記の書き手によって幅がある。飯島虚心が明治二十六年(1893年)にまとめた『葛飾北斎伝』は、北斎と直接交流のあった人々からの聞き書きを集めたもので、この種の話を多く収録している。当時の江戸の人々が北斎という人物をどう見ていたかを知る資料としては第一級だが、逸話の一つひとつを実証するのは難しい。
確かなのは、北斎が自分の名前を市場に流通させる方法を理解していたということである。貸本屋の丁稚として本の売れ方を見、蔦屋重三郎の仕事ぶりを間近で見た人間が、五十代で絵手本のシリーズを当て、大道の見世物で名を売った。画業と商売は、彼のなかで切り離されていなかった。
七十歳の『冨嶽三十六景』
天保年間の初め、七十歳を過ぎた北斎は『冨嶽三十六景』を出した。版元は西村屋与八、屋号を永寿堂という。
企画の背景には、当時の旅行熱がある。街道が整い、庶民が寺社参詣を口実に旅へ出るようになっていた。富士講の信仰も広がっていた。名所を描いた版画には、行ったことのない土地を眺める需要と、行った土地を思い出す需要の両方があった。
それまで浮世絵の主力商品は、役者絵と美人画である。風景はあくまで人物の背景として存在していた。『冨嶽三十六景』は、風景そのものを主役に据えた版画のシリーズとして企画された。人物は描かれるが、彼らは風景の中で働き、驚き、通り過ぎる小さな存在として置かれている。
これはかなり売れた。当初三十六図の予定だったものに十図が追加され、最終的に四十六図になった。
このシリーズを支えた技術的な条件が、輸入顔料である。
ベルリン・ブルー、通称ベロ藍。日本ではプルシアンブルーの名でも知られる化学顔料で、ヨーロッパから入ってきた。従来、日本の版画で青を出すには植物性の露草や藍を使っていたが、これらは退色しやすく、深い青を出すのが難しかった。ベロ藍は発色が強く、退色しにくい。天保のはじめ、この顔料が版画に使えるだけの価格で流通しはじめた。
ただし北斎と摺師がしたことは、輸入顔料をそのまま使うことではなかった。メトロポリタン美術館の科学研究部門による《神奈川沖浪裏》の分析では、ベロ藍を日本の伝統的な藍と混ぜ合わせたり、二度摺り重ねたりする処理が確認されている。単に濃い顔料を厚く載せれば、色は濁って沈む。混合と重ね摺りによって、彩度を保ったまま暗部を作り出していた。同じ分析では、紙に凹凸を付ける空摺りの技法も確認されている。
同じ時期、彼は他の連作にも取りかかっている。『諸国瀧廻り』は各地の滝を集めたシリーズで、落下する水を幾何学的な塊として捉え直した。『諸国名橋奇覧』は橋の構造そのものを主題にしている。『千絵の海』は漁の場面を集めた。花鳥画も手掛け、《芥子》や《群鶏》のような、細部まで描き込んだ作品を残している。
七十歳を過ぎてからの数年で、北斎は浮世絵の商品構成そのものを組み替えた。
画狂老人卍
天保五年(1834年)、北斎は号を「画狂老人卍」に改めた。絵に狂った老人、という意味である。
同じ年、『富嶽百景』の初編を出した。錦絵ではなく版本、つまり本の形式で、墨一色で摺られている。色を捨てたことで、画面に残るのは形だけになった。富士は、雪の下から、波の間から、蜘蛛の巣越しに、樽の輪の内側から、竜の背の向こうから現れる。同じ山を百通り以上の見え方で提示する構成である。前二編は北斎の版本の中で最も評価が高く、風景を扱った絵本の代表作とされる。
この初編の跋文に、彼は自分の画業を要約した文章を書きつけた。
六歳のころから物の形を写す癖があり、五十歳のころから数々の絵を版にしてきたが、七十歳より前に描いたものは取るに足りない。七十三歳になって、鳥獣虫魚の骨格や草木の生えかたが少し分かってきた。八十六歳ではさらに進み、九十歳でその奥義を究め、百歳になれば神妙の域に入るだろう。百十歳では、一点一画が生きているようになるはずだ。
『富嶽百景』初編 跋文(1834年)の趣旨七十五歳の人間が、百十歳までの計画を書いている。ここには自己顕示の側面もあるが、同時に、技術は年齢とともに上がり続けるという前提が疑われていない。若さで描くものではない、という彼の芸術観がそのまま出ている。
天保四年から五年ごろにかけて、『詩歌写真鏡』も制作している。中国の掛軸を思わせる細長い縦型の判型で、漢詩や和歌と、それに対応する場面を組み合わせた。現存するのは十図である。
1835年から翌年にかけて着手した『百人一首うはかるゑとき』は、彼の最後の錦絵シリーズになった。百人一首の各歌を、乳母が絵解きして聞かせるという体裁を取っている。しかし全編は刊行されなかった。1830年代半ばの経済の落ち込みで、版元が資金を続けられなかったためと見られている。
天保十年(1839年)、火災が起きた。北斎のアトリエと、そこにあった多くの作品が焼けた。八十歳である。
このころ、彼の版画の売れ行きは落ちていた。歌川広重が『東海道五拾三次』で人気を集め、風景版画の市場の中心は世代交代を始めていた。
応為がいた工房
北斎の娘に、お栄という女性がいた。画号を応為という。
生没年は確定していない。1800年ごろに生まれ、1866年ごろに没したと推定されている。絵師の南沢等明に嫁いだが離縁し、父のもとへ戻った。以後、北斎の工房で助手として働きながら、自身も絵を描いた。
飯島虚心の『葛飾北斎伝』には、この父娘の暮らしぶりが記録されている。二人とも家事をせず、掃除もせず、部屋が汚れると住まいを変えた。北斎が生涯に九十三回転居したという伝えは、この生活態度と結びついている。金銭の管理にも無頓着で、届いた画料の包みを開けずに置いておき、支払いのときにそのまま渡していたという話が残る。
応為の作品として現在確認されているものは、十数点にとどまる。そのうち《吉原格子先之図》は、夜の吉原を描いた肉筆画である。格子の内側から漏れる灯りと、外側の闇。光源を画面の中に置き、そこからの光の届き方で空間を構成している。西洋画のキアロスクーロに近い扱いで、同時代の浮世絵にはほとんど例がない。
この応為が、晩年の北斎の作品にどこまで関与していたのか。これは北斎研究の重要な論点になっている。
久保田一洋の「北斎娘・応為栄女論――北斎肉筆画の代作に関する一考察」(『浮世絵芸術』117号、1995年)は、この問題を正面から扱った論文である。八十代以降に北斎の落款で描かれた肉筆画について、落款の筆致、彩色の質、細部の描写を比較分析し、応為が彩色や細部を全面的に担った代筆、あるいは高度な共同制作が行われていたと論じた。現在の学界では、この見方が有力視されている。
北斎が八十代の十年間に残した肉筆画は、若い画家の手によるとしか思えない緻密さと、色彩の若々しさを持つものが少なくない。工房という単位で制作が行われていたと考えれば、その説明はつく。
ただし、どの作品にどの程度応為の手が入っているかを個別に確定する作業は、まだ途上にある。応為自身の署名作が少なく、比較対象が足りないためである。
小布施へ
八十三歳のとき、北斎は信濃国小布施へ向かった。現在の長野県上高井郡小布施町である。江戸から二百キロ以上、山道を越える旅である。
招いたのは高井鴻山だった。小布施の豪商であり、京都や江戸で学んだ文人でもある。鴻山は北斎のために町の中心にアトリエを用意した。翛然楼と呼ばれる建物である。北斎は以後、江戸と小布施を数回往復し、通算で数年をこの町で過ごした。
小布施での仕事は、版画ではなく肉筆の大作だった。
東町と上町の祭屋台の天井絵がある。東町の屋台には《龍図》と《鳳凰図》、上町の屋台には《男浪図》と《女浪図》が描かれた。屋台の天井という限られた面に、水の渦と龍が押し込まれている。《男浪図》と《女浪図》の波は、『冨嶽三十六景』の波から二十年近く経ったあとの、筆による表現である。版木の制約から解放された線が、そのまま渦を巻いている。
そして岩松院の本堂天井画がある。曹洞宗の寺院で、二十一畳分の天井いっぱいに鳳凰が描かれた。《八方睨み鳳凰図》と呼ばれる。堂内のどこに立っても、鳥がこちらを見ているように感じられることからついた名である。1848年、八十九歳の仕事とされる。顔料が厚く、現在まで一度も塗り直されていないと伝えられている。
採算という観点から見れば、これらの仕事は割に合わない。天井画も屋台の絵も、版画のように複製して数を売ることができない。一点物であり、その場所から動かせない。パトロンが費用を負担するからこそ成立する制作である。鴻山の庇護は、八十代の北斎に、市場の要求から離れて大画面に取り組む時間を与えた。
天保十三年から十四年(1842〜43年)にかけて、北斎は毎朝一枚ずつ獅子を描いた。墨で紙に描き、災いを払うためのものだと説明していた。彼はこれを「日新除魔」と呼んでいる。
あと五年
嘉永二年(1849年)の正月、九十歳の北斎は《富士越龍図》を描いた。
絹に墨で描かれた掛軸である。画面の下半分に雪をかぶった富士があり、上半分に黒い雲が渦を巻いている。その雲の中から龍が首を出し、天へ昇っていく。富士の白は、絵具を置いたものではない。絹の地をそのまま残して雪にしている。塗り直しの利かない描き方である。
賛には、自分が辰年の生まれであること、九十歳の辰の日にこれを描いたことが記されている。
同じ年、《雪中虎図》も描いている。雪の中を進む虎を絹に描いた掛軸で、地面が描かれていないため、虎は雪の空中を漂っているように見える。毛並みは波打つ線で表現され、蛇や龍の身体に近い動きを持っている。晩年の彼は、獅子と虎を繰り返し描いた。
この年の四月十八日、北斎は死んだ。新暦では1849年5月10日にあたる。享年九十。浅草の遍照院境内の仮宅で息を引き取ったと伝えられる。
死の床で彼が言ったとされる言葉が残っている。天があと十年、いや五年でいいから命を延ばしてくれたなら、自分は本当の絵師になれるのに、という趣旨のものである。
辞世の句も伝わっている。
人魂で 行く気散じや 夏野原
葛飾北斎 辞世の句として伝わるもの人魂になって、気晴らしに夏の野を歩いていこう、という意味である。九十年生きて、最後まで足りないと言い続けた人間の句としては、意外に軽い。
墓は江戸・浅草の誓教寺にある。現在の東京都台東区元浅草である。
海を渡ったあと
北斎の死からおよそ七年後、パリで一冊の本が版画工房の作業場に置かれていた。『北斎漫画』である。
1856年ごろ、版画家のフェリックス・ブラックモンが、印刷業者オーギュスト・ドラートルの工房でこれを目にしたと伝えられている。ブラックモンはマネをはじめとする画家たちと交流のあった人物だった。彼はこの本の図像を使い、食器のセットをデザインする。ガラスと陶器の商人フランソワ=ウジェーヌ・ルソーの依頼によるもので、「ルソー・セルヴィス」と呼ばれた。鳥や魚が白地の上に非対称に配置された図柄で、1867年のパリ万国博覧会に出品され、批評的にも商業的にも成功した。何度も再版されている。
日本の版画がヨーロッパの画家に与えた影響は、主題ではなく構図と色面の扱いにあった。輪郭線で色面を区切ること。画面の端で対象を大胆に切ること。中心を外した配置。奥行きを段階的に積み上げるのではなく、平面として処理すること。印象派とポスト印象派の画家たちは、これらを自分の絵に取り込んでいった。
北斎の版画を収集した画家の名前は多い。ドガ、ゴーギャン、クリムト、フランツ・マルク、アウグスト・マッケ、マネ、そしてゴッホ。ゴッホは弟テオへの手紙で北斎に触れている。ドガは次のように言ったと伝えられる。
北斎は浮世絵の中の一絵師ではない。彼は島であり、大陸であり、それ自体がひとつの世界である。
エドガー・ドガの言葉として伝わるもの音楽にも及んでいる。クロード・ドビュッシーの交響詩『海』は1905年に初演された。ドビュッシーは自宅の居間に《神奈川沖浪裏》の図を掛けており、出版される楽譜の表紙にこの絵を使うよう自ら指定している。楽譜は広く流通した。
日本国内での再評価は、この西洋での評価を経由して進んだ側面がある。2005年に東京国立博物館で開かれた北斎展は、その年の同館の展覧会で最も多くの入場者を集めた。2017年には大英博物館が、晩年の作品を中心にした展覧会を開いている。
そして現在、北斎の作品の大半はパブリックドメインである。没後百七十年以上が経過し、著作権の保護期間は満了している。世界各地の所蔵機関が、高解像度の画像を無償で公開している。
国内では、国立文化財機構の統合検索システムColBaseが東京国立博物館所蔵の錦絵を高精細で提供している。国立国会図書館デジタルコレクションでは、『北斎漫画』や『富嶽百景』といった版本をページ単位で閲覧・ダウンロードできる。海外では、メトロポリタン美術館がオープンアクセスを早くから進め、シカゴ美術館はCC0で多数の浮世絵を公開している。大英博物館やハーバード大学図書館も、彩色済みの版本や摺物を含むアーカイブを持つ。
九十年をかけて森羅万象を写そうとした男の仕事は、いま誰でも手元に呼び出せる状態にある。
CHRONOLOGY & WORKS / 年譜と作品人生と作品を一緒に見る
北斎の生涯では、改号と画業の転換がほぼ重なっている。勝川派での修業、流派を出てからの様式の吸収、読本挿絵の全盛期、五十代の絵手本、七十代の風景版画、そして八十代の肉筆画まで、出来事と主要作品を同じ時間軸で追う。
武蔵国葛飾郡本所割下水に生まれる。幼名は時太郎
貸本屋の丁稚として働く
版木彫りの徒弟として工房に入る
彫師の側から版画の物理的な制約を身につけた時期。後年、彫師へ具体的な指示を出す絵師になる土台になっている。
勝川春章に入門。「勝川春朗」の号を得る
似顔による役者絵で一時代を築いた勝川派に入り、以後およそ十六年、浮世絵の基礎を学ぶ。
翌1779年、役者絵で初摺
師・勝川春章が没する
勝川派を離れる。琳派系の画号「俵屋宗理」を襲名
流派を出たことで役者絵・美人画の枠から外れ、主題が市井の風俗と風景へ移っていく。
狂歌絵本、摺物
宗理の号を門人に譲り、「北斎辰政」と名乗る
「葛飾北斎」を用いはじめる。門人を取りはじめる
東都名所一覧
江戸八景
江戸の祭礼で畳二百枚相当の大達磨を描く
曲亭馬琴との読本『椿説弓張月』刊行開始(〜1811年)
墨一色の挿絵で、動的な構図を大量に投入した時期。馬琴とは指示をめぐって衝突を重ね、協業は十三作で終わる。
椿説弓張月
新編水滸画伝
絵手本『略画早指南』を刊行
『北斎漫画』初編を刊行
門人向けの絵手本として出したが、図案集としても娯楽書としても流通した。全十五編・約四千図。最後の三編は没後刊行。
北斎漫画
10月5日、名古屋の西掛所で縦18メートルの大達磨を描く
画号を「為一」に改める
『冨嶽三十六景』の刊行が始まる。版元は西村屋与八(永寿堂)
輸入顔料ベロ藍を本格的に導入し、風景そのものを主役にした版画のジャンルを確立した。当初36図の予定に10図が追加され、計46図となる。
神奈川沖浪裏
凱風快晴
武州玉川
同時期の連作:『諸国瀧廻り』『諸国名橋奇覧』『千絵の海』
画号を「画狂老人卍」に改める。『富嶽百景』初編を刊行
跋文に「七十歳より前に描いたものは取るに足りない」と記し、百十歳までの上達の見通しを書いた。
富嶽百景
『詩歌写真鏡』(1833〜34年ごろ)
『百人一首うはかるゑとき』に着手。全編は刊行されず
火災でアトリエと多くの作品を失う
高井鴻山の招きで信濃・小布施へ。以後、江戸と小布施を往復
パトロンの庇護のもと、版元の要求から離れて大画面の肉筆画に取り組んだ。同時期、毎朝一枚の獅子図を描く「日新除魔」を続けている。
男浪図・女浪図
龍図・鳳凰図
岩松院本堂の天井画を制作
八方睨み鳳凰図
正月に《富士越龍図》を描く。4月18日(新暦5月10日)死去。墓は誓教寺
最後まで制作を続け、あと五年あれば真の絵師になれたと言い残したと伝わる。辞世は「人魂で行く気散じや夏野原」。
富士越龍図
雪中虎図
パリで版画家ブラックモンが『北斎漫画』を目にしたと伝わる
ここからジャポニスムが広がり、印象派・ポスト印象派の構図と色面の扱いに影響を及ぼしていく。
パリ万国博覧会に「ルソー・セルヴィス」が出品される
飯島虚心『葛飾北斎伝』刊行
ドビュッシーの交響詩『海』初演。楽譜表紙に《神奈川沖浪裏》
久保田一洋が応為の代作に関する論文を『浮世絵芸術』117号に発表
生誕地の墨田区にすみだ北斎美術館が開館
研究紀要を発行し、新出の肉筆画の調査報告や門人の動向に関する成果を蓄積している。
大英博物館が晩年の作品を中心とした展覧会を開催







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