ウジェーヌ・アジェ 生涯

ウジェーヌ・アジェの生涯|古きパリを記録した写真家の70年
写真ベル・エポック〜両大戦間期フランス(リブルヌ/ボルドー/パリ)写真家(本人の規定では「資料の作成者・提供者」)
EUGÈNE ATGET · LIFE

ウジェーヌ・アジェの生涯Jean-Eugène-Auguste Atget (1857–1927)

近代写真史には、一つの大きな逆説がある。自分の写真を「芸術」と呼ぶことを頑なに拒み、あくまで画家や建築家のための実用的な「資料(ドキュメント)」だと主張し続けた一人の職人が、死後になって20世紀で最も偉大な写真家の一人として神格化された、という逆説である。ウジェーヌ・アジェは、19世紀末から20世紀初頭にかけての約35年間、重く旧式な大型カメラを担いで、変わりゆくパリの街区と郊外、そこに生きる人々を、約8,000枚から10,000枚におよぶガラス乾板に記録し続けた。この記事では、両親との早い死別、船乗りとしての漂泊、役者と画家としての挫折を経て写真にたどり着いた一人の男の70年を、13章でたどる。

アジェの写真『日食(1912年)』。パリの広場で空を見上げる人々の群れ
『日食、1912年4月(Pendant l’éclipse)』。パリの広場で日食を観測しようと空を見上げる群衆を捉えた、アジェには珍しい群像写真。のちにシュルレアリスムの機関誌の表紙に使われた。Eugène Atget, During the Eclipse (Pendant l’éclipse), April 1912 / Wikimedia Commons, Public Domain
PROFILE基本情報
本名ジャン=ウジェーヌ=オーギュスト・アジェ(Jean-Eugène-Auguste Atget)
生誕1857年2月12日、フランス南西部ジロンド県リブルヌ
死没1927年8月4日、パリ(享年70)
ジャン=ウジェーヌ・アジェ/馬車の車体整備工・行商人ぎょうしょうにん
クララ=アドリーヌ・ウルリエ
育った場所ボルドー(両親の死後、母方の祖父母に引き取られる)
生涯の伴侶はんりょヴァランティーヌ・ドラフォス(女優、アジェより約10歳年上)
職業の変遷船乗り(キャビンボーイ)→ 役者 → 画家 → 写真家(1892年〜)
使用機材木製の大型ビューカメラ、18×24cmのガラス乾板
看板の文言「芸術家のための資料(Documents pour artistes)」
主な顧客・売却先画家・建築家・装飾家、パリ市歴史図書館(BHVP)、カルナヴァレ博物館、フランス国立図書館(BnF)
遺した作品約8,000〜10,000枚のガラス乾板
死後の擁護者ベレニス・アボット、マン・レイ、ジョン・シャーカフスキー(MoMA)
主な所蔵館ニューヨーク近代美術館(MoMA)、フランス国立図書館(BnF)、カルナヴァレ博物館、J・ポール・ゲティ美術館、ワシントン・ナショナル・ギャラリー
3点でわかるウジェーヌ・アジェの生涯
  1. 写真は、三度目の挫折のあとにたどり着いた仕事だった。 船乗り、役者、画家。アジェは複数の道で挫折してから、35歳でようやく写真に落ち着いた。しかも彼はそれを「芸術」ではなく「画家や建築家のための資料」として売った。この作家性の意図的な放棄こそが、結果として彼の写真から感傷を取り除き、都市の構造そのものを定着させることになった。
  2. 彼はわざと時代遅れの機材を選んだ。 1890年代には手持ちの小型カメラが普及し、アマチュア写真家が激増していた。それでもアジェは、重く嵩張るかさばる木製の大型カメラと18×24cmのガラス乾板に固執した。機動力を捨てる代わりに、彼は圧倒的な解像度と深い焦点深度しょうてんしんどを手に入れ、都市に流れる時間の厚みを画面に刻み込んだ。
  3. 評価は、すべて死の前後に集中して訪れた。 生前の彼はほぼ無名の記録職人だった。死の直前にベレニス・アボットが肖像を撮り、死の直後に彼女が5,000枚のプリントと1,000枚以上の乾板を買い取り、1930年に写真集を出す。そこから神話化が始まる。彼の名声は、彼がほとんど関与しないところで作られた。
LIFE

ウジェーヌ・アジェの生涯

アジェの生涯は、喪失と挫折の連続として描ける。幼くして両親を失い、船乗りになり、役者を目指して失敗し、画家を目指して失敗した。写真は、その果てにたどり着いた四つ目の職業である。そして彼は、その写真すら「作品」ではなく「資料」だと言い張った。だが、その一貫した自己規定の裏で、彼はパリという都市が近代化によって姿を変えていく過程を、誰よりも執念深く記録し続けていた。以下の13章では、その生涯を追ったのち、死後に彼を神話化した人々と、彼の写真をめぐる思想をたどる。年代には資料によって幅のあるものがあり、通説的な範囲を示している。

1857–1870年代前半LIBOURNE / BORDEAUX(フランス南西部)01

リブルヌの孤児 ── 両親を失って

ジャン=ウジェーヌ=オーギュスト・アジェは、1857年2月12日、フランス南西部ジロンド県のリブルヌで生まれた。ドルドーニュ川に近い町である。出自しゅつじは恵まれたものではなかった。父ジャン=ウジェーヌ・アジェは馬車の車体整備工であり行商人でもあった。一家は、アジェが生後まもない頃にボルドーへ移り住んでいる。

しかし、家庭はすぐに崩れた。アジェが5歳になる前に、父がパリで客死する。その後を追うように母も世を去った。孤児となったアジェは、ボルドーに住む母方の祖父母に引き取られ、その庇護ひごのもとで育った。

このごく早い時期の喪失は、彼の生涯に繰り返し現れるモチーフの出発点になっている。どこにも完全には属さない観察者という彼の立ち位置は、この幼少期に根を持つとしばしば指摘される。もっとも、後年の彼が自分の生い立ちについて多くを語らなかったため、この時期の記録は乏しく、断片的な事実をつなぐしかない。

祖父母は彼にきちんとした教育を受けさせようとし、神学校に入れた。だが、その先で彼はまったく別の方向へ進んでいくことになる。

1870年代AT SEA(商船)02

海を渡る青年 ── 神学校中退から船乗りへ

祖父母が期待した神学校での学業を、アジェは半ばで投げ出した。退学した彼が選んだのは、商船の乗組員、すなわちキャビンボーイの職だった。

この選択によって、10代のアジェは北アフリカや南米大陸といった遠方への航海に従事することになる。当時の商船の船旅は過酷なもので、少年にとっては決して楽な仕事ではなかった。だがこの漂泊の経験が、後の彼の写真に見られる、対象から距離をとった冷徹れいてつ視座しざを育てた土壌ではないかと推測されている。

もっとも、この時期についても確かな記録は少ない。船乗りとしての具体的な航路や期間は、伝記によって記述に幅がある。確かなのは、彼が早くから故郷を離れ、定住から遠い生活を送っていたという事実である。神学校を出て聖職者になる道も、家業を継ぐ道も選ばなかったこの青年は、次にまったく異なる世界、演劇の世界へ向かうことになる。

1878–1887年PARIS(演劇)03

演劇への情熱と挫折 ── 端役ばかりの10年

1878年、21歳のアジェは役者を志し、芸術の都パリへ出た。彼が門を叩いたのは、演劇の最高学府である国立高等音楽・演劇学校(コンセルヴァトワール)である。一度目の受験は不合格だった。その後、兵役を経て翌年に再受験し、今度は合格を果たす。

しかし、軍務と演劇の勉強を両立させることは難しかった。授業の欠席が重なり、24歳のとき、彼は退学を余儀なくされる。しかもこの同じ年、彼を育てたボルドーの祖父母が相次いで世を去った。アジェは完全に天涯孤独の身となる。

兵役を終えたのち、彼は後にストラスブールの劇場監督となる演劇人アンドレ・カルメットと知り合い、25歳で小さな旅回りの劇団に入団した。そこからのおよそ10年間、彼は地方を巡業する旅役者として暮らす。

だが、ここでも彼は報われなかった。あてがわれるのは常に端役ばかりで、プログラムに名前が載ることすらまれだったと伝えられる。才能の差と、慢性的な困窮。1887年頃、アジェは自分の役者としての限界を悟り、演劇の道を完全に断念した。三十歳を目前にして、二つ目の職業もまた行き止まりに終わった。

1886年〜PARIS(伴侶)04

ヴァランティーヌとの出会い ── 生涯の伴侶

旅回りの劇団にいた1886年、29歳のアジェは、生涯の伴侶となる女優ヴァランティーヌ・ドラフォスと出会う。彼女はアジェより約10歳年上で、当時すでに8歳の息子がいた。二人は正式に結婚したわけではないが、以後、深い絆で結ばれ、行動をともにするようになる。

対照的だったのは、二人の役者としての立場である。ヴァランティーヌが着実にキャリアを積んでいく一方で、アジェは端役から抜け出せなかった。この才能の差と劣等感は、彼が演劇を断念する一因にもなったとされる。しかし関係そのものは揺るがなかった。演劇をやめ、写真家になってからも、ヴァランティーヌは彼の生活を支え続けた。

二人の関係は約40年続く。1926年にヴァランティーヌが亡くなるまで、彼女はアジェの唯一の家族であり、天涯孤独だった彼にとって世界とのほとんど唯一の結びつきだった。彼女の死が、翌年のアジェ自身の死を早めたと見る向きもある。この長い伴侶関係を抜きにして、アジェの後半生は語れない。

1887–1892年PARIS(第5区)05

画家から写真家へ ── 「芸術家のための資料」

演劇界から退いたアジェは、いったんパリの住居を手放して地方へ移り、1890年に再びパリへ戻った。今度は画家として身を立てようとしたのである。しかし、絵画の世界でも彼の才能が開花することはなかった。三つ目の道もまた閉ざされた。

幾度もの挫折の果てに、1892年、35歳のアジェがようやく最終的な生業として見出したのが「写真」だった。当時としては比較的新しいメディアである。

彼はパリ第5区、パンテオン周辺のアトリエのドアに、簡素な看板を掲げた。「芸術家のための資料(Documents pour artistes)」。これは、画家や装飾家、建築家、舞台美術家といった人々が、自分の作品を制作するときのデッサン用の参考資料として使う写真を撮影し、販売するという、きわめて実務的で裏方的なビジネスだった。提供するカテゴリーには、風景、動物、花、モニュメント、画家用の前景、絵画の複写などが含まれていた。

ここで重要なのは、彼が自分を「芸術家」ではなく「資料の提供者」と位置づけた点である。この自己規定は生涯変わらなかった。のちに彼の写真が前衛芸術として祭り上げられたときも、彼は「これらは単なる資料である」と言い続ける。三度の挫折を経てたどり着いた彼にとって、写真は芸術的野心を託す場ではなく、まず生計の手段だった。そして、その野心の欠如こそが、彼の写真に独特の無私性むしせいを与えることになる。

1890年代〜TECHNIQUE(技法)06

大型カメラという選択 ── なぜ時代遅れの機材に固執したのか

アジェが写真を始めた1880年代以降、写真技術は急速に進化していた。ゼラチン乾板の普及により、手持ちの小型カメラが登場し、アマチュア写真家が爆発的に増えていた。誰でも手軽にスナップを撮れる時代が始まりつつあった。

そのなかで、アジェはあえて逆を行った。彼が使い続けたのは、重く嵩張る木製の大型ビューカメラと、18×24センチという巨大なガラス乾板である。三脚を立て、暗幕をかぶり、長時間の露光ろこうを行うという、すでに古典的といっていいスタイルだった。機材一式の重さは18キロを超えたとされる。

この選択は機動力を犠牲にする。だがその代わりに、対象の細部を圧倒的な解像度と深い焦点深度で定着させることを可能にした。手前の敷石しきいしから奥の建物まで、画面のすべてに均等にピントが合う。長時間露光のあいだに動くものは消え、動かないものだけが残る。早朝の人けのない街路を撮れば、そこには建物と石畳いしだたみだけの、時間が止まったような都市が写る。

つまり彼の機材選択は、単なる保守性ではなかった。動くものを捨て、細部と静けさを取る。この技術的な選択こそが、都市空間に流れる「時間の厚み」を視覚化する最大の武器になった。後年、彼の写真を「犯罪現場のようだ」と評したベンヤミンの言葉も、この無人性と細部の異様な精度に由来している。

アジェの写真。パリのセーヌ通りの角。人けのない古い街路と建物が細部まで写っている
セーヌ通りの角(Coin, rue de Seine)セーヌ通りの角を捉えた一枚。大型カメラと長時間露光によって、手前の石畳から奥の建物まで細部が均等に定着され、人けのない都市の静けさが際立っている。Eugène Atget, *Coin, rue de Seine* / Wikimedia Commons, Public Domain
1897年頃〜PARIS(ヴュー・パリ)07

「古きパリ」の体系的記録 ── オスマン化に抗って

1897年頃、40歳を過ぎたアジェの関心に決定的な変化が訪れる。顧客である芸術家たちの個別の注文に応えるだけでなく、近代化によって消えつつある「古きパリ(Vieux Paris)」の姿を、自らの手で体系的に記録するという目的に目覚めたのである。

背景にあったのは、パリという都市そのものの激変だった。19世紀後半、ジョルジュ=ウジェーヌ・オスマン男爵が主導した大規模な都市改造によって、中世以来の入り組んだ路地や歴史的建造物が非衛生的として次々に取り壊され、直線的で見通しのよい大通り(ブールヴァール)へと均質化きんしつかされていた。アジェは、この都市の刷新に抗うかのように、古き良きパリの姿、すなわち教会、裁判所、貴族の館、中庭、螺旋階段らせんかいだん、装飾的なドアノッカー、店の看板などを、執念深くガラス乾板に刻んでいった。

特徴的なのは、その徹底した分類意識である。彼は自分の作品群を厳密に分類し、各ネガに番号を振って管理した。主要なシリーズには「風景・記録」「絵になるパリ(市場や街頭の光景)」「古きパリの芸術」「古きパリの地誌ちし」などがある。単発の記録ではなく、都市全体をカバーする網羅的もうらてきなアーカイブを一人で作ろうとしていたのである。

この仕事を、東京大学の江口久美による都市計画学の研究(都市計画論文集、2013年)は、単なる懐古趣味かいこしゅみではなく、オスマンの都市改造に対する空間的な「対抗」だったと分析している。オスマンが直線と透視図法とうしずほうを重視する権力的な空間を作ったのに対し、アジェは曲線的で不規則な前近代の街路や、生活感のにじむ界隈の「ピトレスク(絵になる)」な個性を意図的にフレームに収めた。近代化で失われる都市の有機的な記憶を、写真という最新のメディアで保存しようとする、静かな抵抗だったという読み方である。

アジェの写真『サント=ペラジー刑務所(1898年)』。人けのない古い刑務所の建物と街路
サント=ペラジー刑務所(1898年)1899年に取り壊されたサント=ペラジー刑務所。消える寸前の建物を捉えたこの一枚は、ベンヤミンが後に指摘する「犯罪現場」的な静けさを体現している。フランス国立図書館(BnF)蔵。Eugène Atget, *Prison Sainte-Pélagie*, 1898 / Bibliothèque nationale de France (Gallica) / Wikimedia Commons, Public Domain
アジェが1898年に撮影したジョフロワ=サン=ティレール通り。通り沿いに国立自然史博物館の建物が続く
ジョフロワ=サン=ティレール通り(1898年)1898年のジョフロワ=サン=ティレール通りと国立自然史博物館を記録した一枚。近代化するパリの街路と建築を、アジェが体系的に残した都市記録の作例である。Eugène Atget, Rue Geoffroy-Saint-Hilaire, 1898 / Bibliothèque nationale de France / Wikimedia Commons, Public Domain
1899–1920年PARIS(モンパルナス)08

機関への売却と自負 ── 「私は古いパリのすべてを所有している」

アジェは撮るだけでなく、売らなければ生きていけなかった。彼は自らの記録写真を、公的な機関に売り込み始める。売却先はパリ市歴史図書館(BHVP)、カルナヴァレ博物館、そしてフランス国立図書館(BnF)などである。歴史的・地誌的な資料としての価値を、これらの機関は認めた。彼の名刺には、やがて「E. Atget、ヴュー・パリ(古きパリ)の写真風景コレクションの創作者および提供者」と記されるようになる。

1899年頃、彼はモンパルナス界隈に終の棲家となる住居を移した。以後、この界隈を拠点に活動を続ける。1920年代にこの近くにマン・レイのアトリエができることが、後の運命を大きく変えることになるのだが、それはまだ先の話である。

「資料」という控えめな自己規定とは裏腹に、彼は自分の仕事の価値を強く自覚していた。1920年、美術局長ポール・レオンに宛てた書簡のなかで、アジェはこう書いている。自分は古いパリのすべてを所有していると言える、と。静かだが強烈な自負である。

この一文は、彼の二面性をよく示している。表向きは画家のための資料提供者にすぎないと言いながら、内心では、自分こそが消えゆく都市の記憶の唯一の所有者だと考えていた。事実、彼が20年以上かけて積み上げたガラス乾板のアーカイブは、他の誰も作らなかった規模と体系性を持っていた。売却によって作品が公的機関に分散して残ったことは、結果的に彼のアーカイブが散逸さんいつを免れる一因にもなった。

1914–1926年PARIS(晩年)09

第一次大戦と晩年 ── 顧客の激減、そして妻の死

1914年に始まった第一次世界大戦は、アジェの活動に暗い影を落とした。戦時下の混乱で顧客は激減し、撮影に出向くことも困難になった。彼のような都市記録の写真を買う余裕のある人々も機関も、戦争のあいだは激減した。

戦後、老境ろうきょうに入ったアジェは体力の衰えを見せ始める。それでも彼は撮影と売却を続けたが、往時おうじの勢いはなかった。この時期、彼は生活のために所蔵していたネガの一部を手放すようにもなっている。

そして1926年、最大の打撃が訪れる。長年彼を支え続けてきた伴侶ヴァランティーヌ・ドラフォスが世を去ったのである。約40年連れ添った、天涯孤独の彼にとって唯一の家族だった。彼女の死は、アジェを深い悲哀ひあいと孤独に突き落とした。

自らの人生の終わりが近いことを悟ったのか、あるいは自分の写真アーカイブの歴史的価値を確信したのか、晩年のアジェは、プリントの販売だけでなく、後世への保存を託すかのように、ガラス乾板の原板げんばんそのものを政府や図書館などの機関へ売却するようになる。撮ることよりも、遺すことへ。彼の関心の重心は、静かに移っていた。

1927年PARIS(終焉しゅうえん10

孤高の終焉 ── 評価が届く直前に

妻を失った翌年、1927年8月4日、ウジェーヌ・アジェはパリでひっそりと息を引き取った。享年70。

皮肉だったのは、そのタイミングである。国際的な芸術的評価の波が、まさに彼のもとへ届こうとしていた矢先やさきの死だった。すでにマン・レイが彼の写真をシュルレアリスムの機関誌に載せ、若いアメリカ人写真家ベレニス・アボットが彼の作品に衝撃を受け、その死の直前には肖像写真まで撮っていた。彼の写真が「発見」されつつあることを、アジェ自身もうすうす感じていたかもしれない。だが、それが本格的な名声に結実けつじつするのを見ることなく、彼は世を去った。

生前の彼は、ほぼ無名の記録職人だった。作品が展覧会で大きく取り上げられることもなく、批評家に論じられることもほとんどなかった。ジョルジュ・ブラックやモーリス・ユトリロといった一部の画家が、絵の資料として彼の写真を使っていた程度である。

彼が遺したのは、約8,000枚にのぼるガラス乾板と、大量のプリントだった。この膨大なアーカイブが、彼の死の直後から、彼自身がほとんど関与しないところで、劇的な運命をたどり始める。ここから先は、アジェの物語であると同時に、彼を「発見」した人々の物語になる。

1920年代PARIS(モンパルナス)11

マン・レイと「発見」 ── シュルレアリストによる誤読

アジェを単なる記録職人から美術史の表舞台へ引き上げたのは、彼とは世代も思想もまったく違う前衛芸術家たちだった。

1920年代、パリのモンパルナス界隈は世界中から芸術家が集まるボヘミアンの中心地になっていた。アメリカから渡仏した前衛芸術家マン・レイのアトリエは、アジェの住まいのすぐ近くにあった。マン・レイは、この風変わりな老人が売り歩く写真のなかに、シュルレアリスム的な無意識の強烈な表出を見出した。

早朝の長時間露光によって人影が消えた不気味な街角。ショーウィンドウに反射する街並みと、無機質なマネキンが重なり合う画面。不自然なまでにクローズアップされたコルセットのディスプレイ。アジェが「資料」として即物的そくぶつてきに撮ったこれらの写真は、本来の文脈から切り離されることで、日常のなかに潜む「不気味なもの(ダス・ウンハイムリヒェ)」を提示する前衛芸術へと変貌した。

マン・レイはアジェから数枚の写真を購入し、1926年、シュルレアリスムの機関誌『シュルレアリスム革命(La Révolution surréaliste)』の第7号の表紙などに掲載した。ところがアジェ自身は、自らの作品が前衛運動と結びつけられることを嫌い、「これらは単なる資料である」と主張して、名前のクレジット表記さえ断ったと伝えられている。

この作者による拒絶こそが、逆説的にアジェ評価の最初の起爆剤きばくざいになった。作者が「芸術ではない」と言い張るものを、前衛芸術家たちが「これこそ芸術だ」と発見する。この「誤読」の構造が、アジェ神話の出発点である。彼の意図とは無関係に、彼の写真は新しい意味を与えられていった。

アジェの写真『ゴブラン大通りの店(1925年)』。ショーウィンドウの紳士服のマネキンと、ガラスに映り込む街路
ゴブラン大通りの店(1925年)紳士服のマネキンを並べたショーウィンドウ。ガラスには背後の街路が反射して映り込み、内と外、実体と虚像が重なる。この種の写真がシュルレアリストたちを熱狂させた。Eugène Atget, *Magasin, avenue des Gobelins*, 1925 / Wikimedia Commons, Public Domain
1925–1985年PARIS / NEW YORK12

ベレニス・アボットとMoMA ── アーカイブを救った人々

アジェの死後、散逸の危機にあった膨大なアーカイブを救い出し、彼に世界的な名声を与えた最大の功労者こうろうしゃは、マン・レイの暗室助手として働いていたアメリカ人写真家ベレニス・アボット(1898–1991)である。

1925年、マン・レイのアトリエで初めてアジェのプリントを目にしたアボットは、そこに「装飾を剥ぎ取られた、感情的に純粋なリアリズム」の衝撃を受けた。彼女はアジェのアトリエを何度も訪れ、彼が亡くなる直前の1927年に、疲労と悲哀をたたえた貴重なポートレートを撮影している。

アジェの死後、アボットは借金までして、彼のアトリエに残されていた約5,000枚のヴィンテージ・プリントと1,000枚以上のガラス乾板を買い取った。1929年にニューヨークへ帰国した彼女は、1930年に最初の写真集『Atget, Photographe de Paris』(ピエール・マッコルラン序文)を出版し、アメリカでの啓蒙けいもう活動に奔走ほんそうする。彼女はアジェのガラス乾板から新たにプリントを焼き、様々な印画紙いんがしと技法を試して、アジェ自身のプリントが持っていた明晰めいせきさと細部を再現しようとした。

そしてこのコレクションは、1968年にニューヨーク近代美術館(MoMA)に収蔵される。MoMAの写真部門ディレクターだったジョン・シャーカフスキーは、研究者マリア・モリス・ハンブルグとともに、4巻からなる大部の研究書『The Work of Atget』(1981–1985年)を編纂し、展覧会を開催した。これによってアジェは、「近代写真の最も偉大な先駆者せんくしゃ」として美術史の正典せいてんに、もはや動かしがたい形で位置づけられた。

アボットを通じたアメリカへの紹介は、後続の写真家にも影響を与えた。ウォーカー・エヴァンスは、アジェの冷徹で直接的なドキュメンタリー手法に深く感銘かんめいを受け、大恐慌時代のアメリカを記録した『アメリカン・フォトグラフス』の視覚言語に生かした。風景写真の巨匠アンセル・アダムスも、1931年の批評でアジェを、真の写真芸術の最も初期の表現の一つとして絶賛している。一人の無名の職人の遺産が、複数の巨匠を経由して、20世紀写真の系譜けいふの源流に据えられていった。

アジェの写真。ゴブラン大通りの店頭に並ぶ紳士服のマネキンたち
ゴブラン大通りの店頭(Storefront, avenue des Gobelins)店頭に並ぶ紳士服のマネキン。頭部のない胴体や、宙を見るガラスの目が、日常の商業空間を奇妙な劇場に変える。アジェが晩年に繰り返し撮った主題の一つ。Eugène Atget, *Storefront, avenue des Gobelins* / Google Art Project / Wikimedia Commons, Public Domain
1931年–現在THEORY(思想と研究)13

ベンヤミンからネスビットへ ── 「犯罪現場」から社会史的再評価まで

アジェの写真は、写真家や美術館だけでなく、思想家や歴史家にとっても豊かな分析対象であり続けてきた。彼の評価史ひょうかしは、そのまま20世紀の写真論の展開と重なっている。

最初の決定的な理論化は、ドイツの思想家ヴァルター・ベンヤミンによる。1931年の『写真小史』および後の『複製技術時代の芸術作品』で、ベンヤミンはアジェの写真を高く評価した。彼は、初期の肖像写真に宿っていた「アウラ(一回性の礼拝的れいはいてき価値)」が、アジェの写真では完全に剥ぎ取られていると指摘し、アジェの写真は「犯罪現場(Tatort)のように撮影されている」と形容した。犯罪現場の写真は、感傷的な共感のためではなく、そこに何があったかという「証拠」として機能する。アジェの無人の街路や中庭は、都市空間を証拠品のように冷徹に切り取り、見る者に「ここに何があったのか」という知的で不安な問いを投げかける。

さらにベンヤミンは、アジェのカメラが人間の目には見えない都市の深層しんそう、すなわち「視覚的無意識(Optisch-Unbewusste)」を暴き出していると論じた。精神分析が人間の無意識を言語化したように、機械の眼は、人間の主体的な意図を超えたところで、都市に蓄積された歴史の痕跡こんせきや微細な構造を記録してしまう。この「主体を離れた眼」という洞察どうさつは、現在のAI生成画像をめぐる議論にも通じる射程しゃていを持っている。

一方、MoMAが築いた「孤高の天才芸術家」というアジェ像を、より歴史的・唯物論的ゆいぶつろんてきに解体・再構築したのが、アメリカの美術史家モリー・ネスビットの大著『Atget’s Seven Albums』(1992年、イェール大学出版局)である。ネスビットは、アジェが1909年から1915年にかけて制作した7つの未出版アルバムを詳細に分析し、彼の写真が純粋な芸術的衝動からではなく、建築業者・装飾家・古物商こぶつしょう・公立図書館といった顧客に売るための「商業用の写真記録」だったことを明らかにした。さらに彼女は、アジェが国家主義的な「美の保存」に従わず、屑拾いくずひろい(シフォニエ)の荷車や街頭の行商人、場末のキャバレーといった労働者階級の現実を執拗しつように撮った点に注目し、そこに資本主義的な近代化への政治的な視座を読み取った。

こうして、シュルレアリストによる「発見」、ベンヤミンによる理論化、MoMAによる正典化、そしてネスビットによる社会史的な再評価と、アジェの写真は時代ごとに異なる理論的要請ようせいに応え続けてきた。「単なる資料」だと本人が言い張ったものが、100年にわたって新しい読解を生み出し続けている。この汲み尽くせなさくみつくせなさこそが、彼のアーカイブの底知れなさである。

アジェの写真。ストラスブール大通りのコルセット店のショーウィンドウに並ぶ胴体像
ストラスブール大通り(コルセット)1912年ストラスブール大通りのコルセット店のショーウィンドウ。砂時計形の胴体が闇から並び現れ、割れたドア口には一着のコルセットが揺れる。この即物的な記録が、文脈を離れると不気味な前衛性を帯びる。ベンヤミンの言う「犯罪現場」性を象徴する一枚。Eugène Atget, *Boulevard de Strasbourg, Corsets, Paris*, 1912 / The Metropolitan Museum of Art (CC0) / Wikimedia Commons, Public Domain

CHRONOLOGY & WORKS / 年譜と作品人生と仕事を一緒に見る

アジェの年譜は、四つの職業の失敗と乗り換え、そして死後の「発見」という二部構成で理解できる。以下の表では、出来事とその背景、そしてその時期の制作や状況を並べた。年代には資料によって幅があるため、通説的な範囲を示している。

1857
LIFE

2月12日、ジロンド県リブルヌに誕生

父は馬車の車体整備工・行商人
WORKS

1860年代前半
LIFE

5歳になる前に父が客死きゃくし、続いて母も死去

孤児となりボルドーの母方祖父母に引き取られる
WORKS

1860–70年代
LIFE

神学校に入るが中退

祖父母は教育を受けさせようとした
WORKS

1870年代
LIFE

商船のキャビンボーイとして航海

北アフリカ・南米などへ。漂泊ひょうはくの青年期
WORKS

1878
LIFE

21歳、役者を志してパリへ

コンセルヴァトワール受験、一度目は不合格
WORKS

1879頃
LIFE

兵役を経て再受験し合格

軍務と勉学の両立に苦しむ
WORKS

1881頃
LIFE

24歳で退学。同年、祖父母が相次いで死去

天涯孤独てんがいこどくとなる
WORKS

1882頃
LIFE

旅回りの劇団に入団

アンドレ・カルメットと出会う。約10年の巡業じゅんぎょう
WORKS

端役はやく中心の役者生活

1886
LIFE

ヴァランティーヌ・ドラフォスと出会う

10歳年上の女優。生涯の伴侶に
WORKS

1887頃
LIFE

演劇を断念

才能の差と困窮こんきゅう。二つ目の挫折
WORKS

1888–1889頃
LIFE

地方に移り、画家を志す

三つ目の道も花開かず
WORKS

絵画の習作(現存はほとんど確認されない)

1890
LIFE

再びパリへ

画家として自立を試みる
WORKS

1892
LIFE

35歳、写真を生業なりわいに定める

第5区に「芸術家のための資料」の看板
WORKS

風景・花・モニュメント・複写などの実用写真

1897頃
LIFE

「古きパリ」の体系的記録を開始

オスマン化への対抗という使命感
WORKS

街路・中庭・看板・階段のシリーズ化

1898
LIFE

サント=ペラジー刑務所などを撮影

取り壊し寸前の建造物を記録
WORKS

『サント=ペラジー刑務所』など

1899頃
LIFE

モンパルナス界隈かいわいに転居

終の棲家ついのすみか。BHVP・カルナヴァレ・BnFへ売却開始
WORKS

公的機関への売り込み

1909–1915
LIFE

7つのアルバムを制作

のちにネスビットが分析する未出版アルバム
WORKS

商業用の写真記録として編集

1912
LIFE

『日食』『コルセット店頭』などを撮影

群像や店頭ディスプレイにも展開
WORKS

『日食、1912年4月』ほか

1914–1918
LIFE

第一次世界大戦

顧客激減、撮影も困難に
WORKS

活動が停滞

1920
LIFE

美術局長ポール・レオンへ書簡しょかん

「私は古いパリのすべてを所有している」
WORKS

ネガの機関売却が本格化

1925
LIFE

アボットがマン・レイのアトリエで作品を見る

「発見」の起点
WORKS

『ゴブラン大通りの店』など晩年作

1926
LIFE

妻ヴァランティーヌ死去。マン・レイが機関誌に掲載

深い孤独。『シュルレアリスム革命』第7号
WORKS

1927
LIFE

8月4日、パリで死去(70歳)

評価が届く直前の死。直前にアボットが肖像撮影
WORKS

遺したガラス乾板は約8,000枚

1929–1930
LIFE

アボットが遺作を買い取り、渡米・写真集出版

『Atget, Photographe de Paris』(1930)
WORKS

プリントの再制作と普及活動

1931
LIFE

ベンヤミン『写真小史』

「犯罪現場」「視覚的無意識」の概念
WORKS

1968
LIFE

アボットのコレクションがMoMAに収蔵しゅうぞう

アメリカでの正典化せいてんかの基盤
WORKS

1981–1985
LIFE

MoMAが『The Work of Atget』全4巻を刊行

シャーカフスキーとハンブルグが編纂へんさん
WORKS

1992
LIFE

ネスビット『Atget’s Seven Albums』

社会史的な再評価
WORKS

代表作3点

1912年
日食、1912年4月(Pendant l’éclipse)
ゼラチン・シルバー・プリント(大型ガラス乾板より) / ニューヨーク近代美術館(MoMA)ほか

パリの広場で日食を観測しようと空を見上げる群衆を捉えた一枚。人物を主題にすることの少なかったアジェには珍しい群像で、のちにマン・レイがシュルレアリスムの機関誌の表紙に用いた。

1898年
サント=ペラジー刑務所(Prison Sainte-Pélagie)
アルビュメン・プリント(大型ガラス乾板より) / フランス国立図書館(BnF)ほか

翌1899年に取り壊された刑務所を、消える寸前に記録した作品。無人の街路と建物だけが写る構図は、ベンヤミンが後に「犯罪現場のようだ」と評したアジェの都市写真の典型である。

1925年
ゴブラン大通りの店(Magasin, avenue des Gobelins)
ゼラチン・シルバー/マット・アルビュメン・プリント / ニューヨーク近代美術館(MoMA)ほか

紳士服のマネキンが並ぶショーウィンドウを撮った晩年の代表作。ガラスに背後の街路が反射して映り込み、実体と虚像が一枚のなかで重なる。シュルレアリストたちが熱狂した「不気味なもの」の典型例。

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アジェのパリ 新装版の商品画像
書籍|日本語

アジェのパリ 新装版

著者
大島洋
出版社
みすず書房
ASIN
4622097796

写真家ウジェーヌ・アジェと「古きパリ」の記録を、日本語で読み解く一冊。アジェの生涯、写真史上の位置づけ、都市の記憶と写真の関係を理解する入口として適している。

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Atget's Seven Albumsの商品画像
書籍|研究書・英語

Atget’s Seven Albums

著者
Molly Nesbit
出版社
Yale University Press
ASIN
0300059167

アジェが1909年から1915年にかけて制作した7冊のアルバムを分析し、「孤高の芸術家」という神話だけでは捉えられない商業的・社会史的側面を明らかにした重要研究書。

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Eugène Atget. Parisの商品画像
書籍|写真集

Eugène Atget. Paris

シリーズ
Bibliotheca Universalis
ASIN
3836522306

アジェが撮影した古きパリの街路、建築、店頭、庭園などを豊富な図版でたどる写真集。文章よりもまず写真そのものを大きく見たい読者に向く。

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ウジェーヌ・アジェ回顧の商品画像
書籍|展覧会図録

ウジェーヌ・アジェ回顧

東京都写真美術館
ASIN
447301620X

東京都写真美術館による回顧展関連書籍。アジェの代表作をまとまった形で確認しながら、日本語で写真史的な位置づけを追うことができる。

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The Work of Atget: Old Franceの商品画像
書籍|MoMA・英語

The Work of Atget: Old France

出版社
The Museum of Modern Art
ASIN
0870702041

MoMAによるアジェ研究シリーズの一冊。フランスの建築や街並み、歴史的環境を記録した写真群を通して、アジェの体系的な記録活動を深く見ることができる。

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最終更新:2026年8月27日

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