ミケランジェロ ゆかりの地

ミケランジェロゆかりの地24選|フィレンツェ・ローマ・生誕地を巡る
ゆかりの地イタリア(トスカーナ/エミリア=ロマーニャ/ラツィオ/ロンバルディア)、ヴァチカン市国24スポット3ルート
MICHELANGELO · PLACES

ミケランジェロゆかりの地The Places of Michelangelo Buonarroti (1475–1564)

ミケランジェロのゆかりの地は、レオナルドのそれとは性格がまるで違う。レオナルドが小さな板絵を抱えて国境を越えたのに対し、ミケランジェロの仕事の多くは、その場所から動かせない。天井に描かれたフレスコ、壁と一体化した墓室彫刻、都市の広場そのもの、そして大聖堂のドーム。彼を訪ねるということは、そのまま建物の内側に立つということである。この記事では、生誕地カプレーゼから、大理石を切り出したカッラーラ、二つの主戦場であるフィレンツェとローマ、そして墓所サンタ・クローチェまでを、住所と現状つきでたどっていく。

フィレンツェのヴェッキオ宮殿入口前に立つ『ダヴィデ』の複製像
ヴェッキオ宮殿の正面に立つ『ダヴィデ』の複製。1504年から1873年まで、この位置にオリジナルが立っていた。1910年に設置された複製が、いまも同じ場所で街を見ている。 / Replica of Michelangelo's *David*, in front of Palazzo Vecchio, Florence / Wikimedia Commons, CC BY-SA 2.5(撮影者名はCommonsファイルページの「作者」欄を参照)
DATAゆかりの地データ
生誕地イタリア・トスカーナ州カプレーゼ(現・カプレーゼ・ミケランジェロ、アレッツォ県)
幼少期を過ごした村セッティニャーノ(フィレンツェ近郊の石切り場の村)
死没地ローマ(1564年2月18日、享年きょうねん88)
墓所サンタ・クローチェ聖堂(フィレンツェ)。墓碑ぼひの設計はヴァザーリ
主な活動拠点フィレンツェ、ローマ、ボローニャ、カッラーラ
素材の供給地カッラーラ、ピエトラサンタ(トスカーナ北部の大理石採石場さいせきじょう
現地でしか見られない作品システィーナ礼拝堂天井画・『最後の審判』、メディチ家礼拝堂(新聖具室せいぐしつ)、ラウレンツィアーナ図書館、サン・ピエトロ大聖堂のドーム、カンピドリオ広場
移設された作品『ダヴィデ』(1873年にシニョリーア広場からアカデミア美術館へ)、『ロンダニーニのピエタ』(ミラノ・スフォルツァ城へ)
国外にある主要作品『ブルッヘの聖母』(ベルギー)、『瀕死の奴隷』『抵抗する奴隷』(パリ)、『マンチェスターの聖母』『キリストの埋葬まいそう』(ロンドン)、『キューピッド』(ニューヨーク)
世界遺産フィレンツェ歴史地区(1982年登録)、ヴァチカン市国(1984年登録)
3点でわかるミケランジェロのゆかりの地
  1. 主要作品の多くが、その場所から動かせない。 天井に描かれたフレスコ、壁と一体化した墓室彫刻、都市の広場、大聖堂のドーム。ミケランジェロの代表作の相当数は、建物と不可分に作られている。展覧会で見ることのできない作家であり、だからこそ現地を訪ねる意味が大きい。
  2. 移動の範囲は意外に狭い。 88年の生涯で彼が主に往復したのは、フィレンツェとローマのおよそ280キロである。東京から名古屋がおよそ270キロであることを思えば、その狭さがわかる。ボローニャ、ヴェネツィア、カッラーラを加えても、彼の地理はイタリア半島の中部に収まる。
  3. 石を切り出した山にも、彼の痕跡がある。 ミケランジェロはカッラーラの採石場へ何度も足を運び、あるときは8か月にわたって石の選定に費やした。彫刻家にとって、素材の産地は制作の一部である。トスカーナ北部の白い山肌は、彼のゆかりの地のなかで最も現在的な風景でもある。 —
PLACES

ミケランジェロゆかりの地をたどる

ミケランジェロの生涯は、フィレンツェとローマの往復として整理できる。共和国と教皇庁という二つの権力のあいだを、彼は何度も行き来した。フィレンツェでは市民の自由を象徴する像を彫り、ローマでは教皇の権威を可視化する天井を描いた。その二つの都市に、カッラーラの採石場と、生誕地カプレーゼ、亡命先ボローニャ、そして最後の未完作が置かれたミラノを加えると、彼の地図はほぼ完成する。以下の14章では、その順に24のスポットを訪ねる。住所はできるかぎり現行の表記で示した。

1475–1564年OVERVIEW01

88年を歩いた範囲 ── 二つの極のあいだで

ミケランジェロの地理は、二つの都市の緊張関係として描くことができる。

一方はフィレンツェである。共和国であり、彼の一族の街であり、メディチ家の庇護ひごを受けた場所であり、そして『ダヴィデ』が市民の自由の象徴として据えられた場所でもある。もう一方はローマ。教皇庁の街であり、巨大な予算と巨大な制約が同時に与えられ、彼が生涯の後半をほぼそこで過ごした場所である。

両者の距離はおよそ280キロ。東京から名古屋がおよそ270キロであることを思えば、88年の生涯としてはむしろ狭い範囲に収まっている。この二極に、素材の産地であるカッラーラ、生誕地カプレーゼ、亡命先のボローニャとヴェネツィア、そして最後の未完作が渡ったミラノを加えれば、彼の地図はほぼ完成する。

ただし、範囲の狭さは移動の少なさを意味しない。彼はこの区間を何度も往復した。1494年にメディチ家追放でフィレンツェを離れ、1496年にローマへ入り、1501年にフィレンツェへ戻り、1505年にローマへ召喚され、翌年フィレンツェへ出奔しゅっぽんし、ボローニャで教皇と和解し、1508年からローマで天井画、1516年からフィレンツェでサン・ロレンツォ、1534年に再びローマへ移って以後は死ぬまで戻らなかった。移動のたびに政変か契約破棄があった。

そして重要なのは、彼の代表作の多くが建物と不可分だという点である。天井画は天井から剥がせない。新聖具室の彫像は壁から取り外せない。カンピドリオ広場は広場そのものが作品である。展覧会で回ってくることのない作家であり、現地を訪ねる以外に見る方法がない。

期間 土地 立場・状況 その地での主な仕事
1475 カプレーゼ 誕生(父は行政長官)
1475頃–1481頃 セッティニャーノ 石工の家に預けられる
1487–1494 フィレンツェ ギルランダイオ工房、メディチ家の庭園 『階段の聖母』『ケンタウロスの戦い』
1494–1495 ヴェネツィア/ボローニャ メディチ家追放により亡命 アルカ・ディ・サン・ドメニコの小彫像
1496–1501 ローマ 枢機卿すうききょうの招き 『バッコス』『ピエタ』
1501–1505 フィレンツェ 共和国の依頼 『ダヴィデ』『ドーニ家の聖家族』『カッシーナの戦い』下絵
1505–1506 ローマ ユリウス2世の墓廟ぼびょう 計画停止、出奔しゅっぽん
1506–1508 フィレンツェ/ボローニャ 教皇と和解 教皇の青銅像(のちに溶かされる)
1508–1516 ローマ 教皇庁 システィーナ礼拝堂天井画、墓廟ぼびょう第二案
1516–1534 フィレンツェ/カッラーラ メディチ家出身教皇の依頼 新聖具室、ラウレンツィアーナ図書館、要塞設計
1534–1564 ローマ 教皇庁 『最後の審判』、サン・ピエトロ大聖堂、カンピドリオ広場
1475–1481年頃CAPRESE / SETTIGNANO(トスカーナ)02

カプレーゼとセッティニャーノ ── 生誕地と、石工の村

ミケランジェロは1475年3月6日、フィレンツェ共和国領の寒村カプレーゼで生まれた。アレッツォ県の山あいにある小さな集落で、父ロドヴィーコ・ブオナローティ・シモーニがこの村とキウージの行政長官(ポデスタ)を務めていた関係で、一家がたまたま滞在していた時期にあたる。任期は短く、まもなくフィレンツェへ戻っている。

この村は1913年、正式に「カプレーゼ・ミケランジェロ」へ改称された。生誕地であることを自治体名に組み込んだ例である。現在、かつての行政長官邸を含む建物群は「ミケランジェロ生家博物館(Museo Michelangiolesco)」として整備され、彫刻の複製や資料が展示されている。フィレンツェから車でおよそ2時間、アレッツォからさらに山道を上る立地で、訪問には相応の計画がいる。

もう一つ、彼の身体的な出発点として繰り返し語られるのがセッティニャーノである。フィレンツェの東の丘にあるこの村は石切り場の町で、乳母うばの実家が石工の家だった。乳離れするまでの時期をここで過ごしたミケランジェロは、のちにヴァザーリに向かって、母の乳とともに槌とのみを吸い込んだのだという意味のことを語ったと伝えられる。

この逸話をどこまで文字どおり受け取るかは別として、彼が生涯にわたって大理石という素材に特権的な親近感を示し続けたこと、そして自分を第一に彫刻家と規定し続けたことは事実である。セッティニャーノは現在フィレンツェ市域の一部で、市街からバスで行ける。デジデーリオ・ダ・セッティニャーノをはじめ多くの彫刻家を輩出した村でもある。

  • 住所(ミケランジェロ生家博物館):Via Capoluogo 1, 52033 Caprese Michelangelo AR, Italy
  • 住所(セッティニャーノ):Settignano, 50135 Firenze FI, Italy
1497年–1520年代CARRARA / PIETRASANTA(トスカーナ北部)03

カッラーラの採石場 ── 石を選ぶことから制作は始まっていた

彫刻家にとって、素材の産地は制作の一部である。ミケランジェロはトスカーナ北部の大理石採石場へ、生涯にわたって何度も足を運んだ。

とくに知られるのが1505年、ユリウス2世の墓廟のための石材調達である。当初計画では彫像40体を5年で仕上げる予定で、彼はカッラーラに8か月滞在して石を選び、切り出させた。切り出された大理石はローマへ運ばれ、サン・ピエトロ広場に積み上げられたが、教皇の関心が新聖堂の建設へ移ったため計画は停止し、石は放置された。1506年4月18日、面会を拒まれて激怒したミケランジェロは馬でフィレンツェへ逃げ帰り、教皇は5人の使者に追わせた。使者はポッジボンシで追いついたが、彼は戻らなかった。

もう一つの舞台がピエトラサンタである。1516年、メディチ家出身の教皇レオ10世は、サン・ロレンツォ聖堂のファサードのための大理石を、メディチ家の支配下にあったピエトラサンタで切り出すよう命じた。ミケランジェロはカッラーラの職人たちとの長年の関係を切りたくなかったため抵抗したが、教皇は譲らなかった。結果として彼は、道路の敷設から石の運搬までを含む土木事業に何年も費やすことになる。そしてファサードは、ついに着工されなかった。

現在もカッラーラは世界有数の白大理石の産地であり、山肌が削り取られて白く輝く風景が広がっている。採石場を見学するツアーも運営されている。彫刻の完成品ではなく、その原料がまだ山として存在している場所を訪ねられるという点で、ここは彼のゆかりの地のなかで最も現在形の風景である。

  • 住所(カッラーラ):Carrara, 54033 Provincia di Massa-Carrara, Italy
  • 住所(ピエトラサンタ):Pietrasanta, 55045 Provincia di Lucca, Italy
1490年頃–1492年頃/館は17世紀以降FLORENCE ①(カーサ・ブオナローティ)04

カーサ・ブオナローティ ── 一族の家に残された最初期の二点

フィレンツェ旧市街の東側、ヴィア・ギベッリーナに面して建つカーサ・ブオナローティは、ミケランジェロ自身の家ではない。正確には、彼が買い取った五棟の建物群を、甥のレオナルドとその子孫が一族の館として整備したものである。

ミケランジェロは1516年から1525年までこの敷地の二棟に住み、残りを賃貸に出していた。1534年にローマへ移ったあとも、故郷フィレンツェに一族にふさわしい邸宅を持つという考えに執着し、甥レオナルドに何度も改築を求めている。実際の工事が始まったのは彼の死後で、17世紀に大甥おおおいのミケランジェロ・ブオナローティ(同名の劇作家)が装飾を整え、現在の形になった。

この館の最大の価値は、ミケランジェロの最初期の彫刻二点がここにあることである。

一つが『階段の聖母』(1490年頃、56.7×40.1cm)。15歳前後の作とされ、ドナテッロが完成させた薄肉彫りうすにくぼり(スティアッチャート)の技法を消化した浅い浮彫である。聖母は横顔で階段のそばに座り、幼子は背を向けて乳を飲む。背景の階段には子どもたちが配される。ごく浅い彫りで奥行きを作るという、彫刻というより素描に近い操作が試されている。

もう一つが『ケンタウロスの戦い』(1492年頃、84.5×90.5cm)。ロレンツォ・デ・メディチの庇護ひご下で制作された最後の作品で、粗いのみの跡がそのまま最終的な表面として残されている。

館にはこのほか、実現しなかったサン・ロレンツォ聖堂ファサードの木製模型や、多数の素描が収蔵されている。図書室と文書庫にはブオナローティ家の記録が保管され、ミケランジェロ研究の一次資料としても機能している。

  • 住所:Via Ghibellina 70, 50122 Firenze FI, Italy
ミケランジェロの大理石浮彫『階段の聖母』。横顔の聖母が座り、背を向けた幼子が乳を飲む
階段の聖母(1490年頃)『階段の聖母』56.7×40.1cm。15歳前後の作とされる浅浮彫で、ごく浅い彫りだけで奥行きを作る薄肉彫りうすにくぼりの技法が用いられている。カーサ・ブオナローティ蔵。Michelangelo Buonarroti, *Madonna of the Stairs*, c. 1490 / Casa Buonarroti, Florence / Wikimedia Commons
1504–1873年FLORENCE ②(シニョリーア広場)05

シニョリーア広場とヴェッキオ宮殿 ── 政治の場所に置かれた像

『ダヴィデ』は、もともとこの場所のために作られたものではない。当初の計画では、フィレンツェ大聖堂サンタ・マリア・デル・フィオーレの屋根周りを飾る一連の彫像の一つになるはずだった。高い位置から見上げられることを想定していたため、頭部と右手がやや大きく作られている。

しかし完成した像を見た市は、方針を変える。1504年1月、設置場所を検討する委員会が組織された。この委員会には、当時51歳のレオナルド・ダ・ヴィンチも加わっている。議論の末、像は共和国の政庁舎ヴェッキオ宮殿の入口、シニョリーア広場に据えられることになった。

この変更には明確な政治的意味があった。巨人ゴリアテに立ち向かう少年ダヴィデは、大国と専制君主に囲まれた小さな共和国の自己像である。追放されたメディチ家に対する市民の決意が、この像に投影された。像の視線は、当時メディチ家の勢力があったローマの方角へ向いているという指摘もある。

そしてこの広場は、ミケランジェロにとってもう一つの意味を持つ。ヴェッキオ宮殿の二階にある五百人広間で、彼は1504年から『カッシーナの戦い』の下絵を描いた。向かい合う壁ではレオナルドが『アンギアーリの戦い』に取り組んでいた。どちらの壁画も実現せず、現在この広間を覆っているのはヴァザーリのフレスコである。

1873年、風雨による損傷を避けるため、『ダヴィデ』のオリジナルはアカデミア美術館へ移された。現在広場に立つのは1910年に設置された大理石の複製である。

  • 住所:Piazza della Signoria, 50122 Firenze FI, Italy
ヴェッキオ宮殿の五百人広間の内部。巨大な壁面フレスコと格天井
五百人広間(ヴェッキオ宮殿)五百人広間の現在。ミケランジェロの『カッシーナの戦い』とレオナルドの『アンギアーリの戦い』が向かい合うはずだった空間で、現在の壁画はヴァザーリによるもの。Salone dei Cinquecento, Palazzo Vecchio, Florence / Wikimedia Commons(撮影者・ライセンス表記はCommonsファイルページを参照)
1873年–現在FLORENCE ③(アカデミア美術館)06

アカデミア美術館 ── オリジナルと、未完の囚われ人

現在『ダヴィデ』のオリジナルが立っているのは、フィレンツェ美術学校に併設されたアカデミア美術館である。1873年の移設にあたって専用の展示室が設けられ、1882年に完成した八角形の採光ドーム(トリブーナ)の下で、像は上からの自然光を受けている。

この美術館の構成には意図がある。トリブーナへ至る通路の両側に、未完の彫刻群「囚われ人(プリジョーニ)」四体が並んでいるのだ。『目覚める奴隷』『若い奴隷』『髭の奴隷』『アトラス』。いずれもユリウス2世墓廟のために1520年代後半に彫られながら、計画の縮小によって組み込まれなかった作品である。

この配置によって、鑑賞者は石から人体が現れつつある途中の状態を通り抜けてから、完全に現れ切った『ダヴィデ』の前に出ることになる。ミケランジェロが語った「大理石のなかにすでに存在する形を、余分を取り除いて解放する」という彫刻観が、展示動線そのものとして体験できる仕掛けである。

『目覚める奴隷』は高さ2.67メートルあるが、頭部はほとんど石のままで、身体の輪郭だけが浮かび上がっている。『アトラス』にいたっては、頭部が完全に石塊せっかいのなかに埋まったままである。これらが意図的にこの状態で止められたのか、単に契約と時間の都合で放棄されたのかは作品ごとに事情が異なるが、19世紀以降「ノン・フィニート」として美学的に読み替えられ、ロダン以降の近代彫刻に決定的な影響を与えた。

同館にはこのほか、未完の『聖マタイ』(1506年頃)も収蔵されている。

  • 住所:Via Ricasoli 58/60, 50122 Firenze FI, Italy
ミケランジェロの大理石彫刻『ダヴィデ』の全身像。左肩に投石紐をかけ、頭部を左へ向けて立つ裸体の青年
ダヴィデ(1501–04年、オリジナル)アカデミア美術館の『ダヴィデ』。高さ5.17m。1873年にシニョリーア広場から移され、1882年完成の採光ドームの下に置かれている。Michelangelo Buonarroti, *David*, 1501–1504 / Galleria dell'Accademia, Florence / Photo: Clara Polo Sabat / Wikimedia Commons, CC BY-SA 4.0
1516–1534年FLORENCE ④(サン・ロレンツォ聖堂)07

サン・ロレンツォ聖堂 ── 新聖具室、図書館、そして未完のファサード

メディチ家の本拠であるサン・ロレンツォ聖堂は、ミケランジェロがフィレンツェで最も長く関わった建物である。ここには彼の仕事が三つ重なっている。うち一つは実現しなかった。

まず、実現しなかったほうから。1516年、メディチ家出身の教皇レオ10世は、この聖堂の正面(ファサード)の設計をミケランジェロに委ねた。彼は木製の模型を作り、ピエトラサンタとカッラーラで数年にわたって大理石の調達に従事した。しかし1520年に契約は解消される。ファサードは現在も未完成の粗い石積みのままで、彼の設計は一度も建てられなかった。模型はカーサ・ブオナローティに残っている。

次に、新聖具室(サグレスティア・ヌオーヴァ)。1520年から1534年にかけて断続的に進められたメディチ家の墓所で、建築と彫刻が分離できないかたちで組み合わされている点が画期的だった。壁面そのものが墓であり、彫像は取り外せない。ネムール公ジュリアーノとウルビーノ公ロレンツォの墓の上には、『昼』と『夜』、『あけぼの』と『黄昏たそがれ』という一日の四つの時間の擬人像ぎじんぞうが斜めに横たわる。時間が死者を取り巻く構成である。祭壇側の壁には『メディチの聖母』が置かれ、両脇を聖コスマスと聖ダミアヌスが固める。

三つめが、ラウレンツィアーナ図書館(メディチ家図書館)。1524年から設計が進んだ。とくに前室(リチェット)の階段は建築史上の異例として知られる。三つの流れに分かれた階段が、狭い前室いっぱいに液体のように溢れ出す。壁の柱は構造を支えるのではなく壁面に埋め込まれ、本来なら力を受けるべき位置に何もない。古典建築の文法を熟知したうえで意図的に破るこの操作は、のちにマニエリスムと呼ばれる潮流の出発点の一つとされる。

なお、新聖具室の地下では1975年、壁面に多数の木炭の素描が発見された。1530年のフィレンツェ陥落後、ミケランジェロがここに身を隠していた時期に描いたとする説がある。公開は限定的で、事前予約が必要な時期が多い。

  • 住所(サン・ロレンツォ聖堂):Piazza di San Lorenzo 9, 50123 Firenze FI, Italy
  • 住所(メディチ家礼拝堂):Piazza di Madonna degli Aldobrandini 6, 50123 Firenze FI, Italy
  • 住所(ラウレンツィアーナ図書館):Piazza San Lorenzo 9, 50123 Firenze FI, Italy
ミケランジェロの大理石彫刻『メディチの聖母』。膝の上でひねる幼子を抱く聖母
メディチの聖母(1521年頃)新聖具室の祭壇側の壁に置かれた『メディチの聖母』。幼子は母の膝の上で身体を大きくひねり、背を向けて乳へ向かう。両脇を聖コスマスと聖ダミアヌスが固める。Michelangelo Buonarroti, *Medici Madonna*, c. 1521 / New Sacristy, San Lorenzo, Florence / Wikimedia Commons
サン・ロレンツォ聖堂ファサードのための木製模型。二層構成の正面立面
サン・ロレンツォ聖堂ファサードの模型(1518年頃)実現しなかったファサードのための木製模型。契約は1520年に解消され、聖堂の正面は現在も粗い石積みのまま残っている。カーサ・ブオナローティ蔵。Michelangelo Buonarroti, model for the façade of San Lorenzo, c. 1518 / Casa Buonarroti, Florence / Wikimedia Commons
1496年–1555年頃FLORENCE ⑤(バルジェッロ/ドゥオーモ付属博物館)08

バルジェッロとドゥオーモ付属博物館 ── 『バッコス』と、自身の墓のためのピエタ

フィレンツェには、ミケランジェロの彫刻を持つ館がもう二つある。

一つがバルジェッロ国立美術館。もとは13世紀の政庁舎で、のちに監獄としても使われた石造の建物である。ここにはローマ時代最初の主要作『バッコス』(1496–97年、高さ203cm)が置かれている。酒神が重心を失いかけ、足元の岩から転げ落ちそうに見える像で、古代彫刻の均衡を意図的に崩した若書きの野心作である。同館にはほかに未完の大理石浮彫『ピッティ・トンド』(1503–05年頃、82×82cm)、『ダヴィデ=アポロ』、そして『ブルータス』の胸像も収蔵されている。バルジェッロはドナテッロのコレクションでも知られ、ミケランジェロが少年期に学んだ先行世代の彫刻と、彼自身の作品を同じ建物のなかで見比べられる。

もう一つがドゥオーモ付属博物館(オペラ・デル・ドゥオーモ美術館)である。ここには『フィレンツェのピエタ(バンディーニのピエタ)』(1547–1555年頃)がある。70代のミケランジェロが、自分の墓のために誰の注文でもなく彫った群像で、崩れ落ちるキリストを、マグダラのマリアと聖母、そしてフードをかぶった老人ニコデモが支える。このニコデモの顔は彼自身の自画像とされる。

しかし彼はこれを完成させなかった。大理石に瑕疵かしを見つけ、また自身の不満から、ハンマーで打ち壊しにかかったと伝えられる。キリストの左脚は失われたままで、弟子ティベリオ・カルカーニが後に部分的に修復した。自分の墓の上で自分が息子の遺体を支えるという構図を作りながら、その完成を自ら壊した。晩年の彼の制作を象徴する一点である。

  • 住所(バルジェッロ国立美術館):Via del Proconsolo 4, 50122 Firenze FI, Italy
  • 住所(ドゥオーモ付属博物館):Piazza del Duomo 9, 50122 Firenze FI, Italy
ミケランジェロの大理石彫刻『バッコス』。杯を掲げ、身体をふらつかせる裸体の酒神と、背後のサテュロス
バッコス(1496–97年)バルジェッロ国立美術館の『バッコス』高さ203cm。重心が定まらない姿勢で、酔いという身体の状態そのものが主題になっている。Michelangelo Buonarroti, *Bacchus*, 1496–1497 / Museo Nazionale del Bargello, Florence / Wikimedia Commons
1494–1495年/1506–1508年BOLOGNA(エミリア=ロマーニャ)09

ボローニャ ── 亡命先で彫った小さな彫像群

1494年、フランス王シャルル8世の侵攻に乗じてフィレンツェからメディチ家が追放された。19歳のミケランジェロは、その直前に街を離れ、ヴェネツィアを経てボローニャへ移る。

この街で彼が手がけたのが、サン・ドメニコ聖堂にあるアルカ・ディ・サン・ドメニコ(聖ドメニコの聖廟せいびょう)の未完部分である。ニッコロ・デッラルカの死によって中断していた装飾を引き継ぎ、跪くひざまずく天使、聖ペトロニウス、聖プロクルスの三体を制作した。いずれも30センチから60センチ程度の小さな像だが、天使の身体には、後年の彼の特徴である張りつめた筋肉と重心の傾きがすでに現れている。

ボローニャ滞在には、素材の面でも意味があった。サン・ペトロニオ聖堂の正面扉に彫られたヤコポ・デッラ・クエルチャの創世記の浮彫は、力強い量塊りょうかい表現で知られる。この浮彫が後年のシスティーナ礼拝堂天井画の構図に反響しているという指摘は、美術史の定説に近い。フィレンツェとローマの外側で受け取ったものが、彼の最大の仕事に影響しているのである。

ボローニャは彼にとってもう一度、別の意味で舞台になる。1506年、ユリウス2世の墓廟計画をめぐって決裂しフィレンツェへ逃げた彼は、教皇がボローニャを制圧した際にこの街で和解を果たした。その証としてサン・ペトロニオ聖堂の正面に据えられた巨大な青銅の教皇像は、数年後の政変で溶かされ、大砲に鋳直いなおされた。

  • 住所(サン・ドメニコ聖堂):Piazza San Domenico 13, 40124 Bologna BO, Italy
  • 住所(サン・ペトロニオ聖堂):Piazza Maggiore, 40124 Bologna BO, Italy
1498–1499年/1546–1590年VATICAN ①(サン・ピエトロ大聖堂)10

サン・ピエトロ大聖堂 ── 『ピエタ』と、71歳から設計したドーム

ヴァチカン市国のサン・ピエトロ大聖堂には、ミケランジェロの仕事が二つある。23歳の彫刻と、71歳からの建築である。

『ピエタ』(1498–99年、高さ174cm・幅195cm)は、フランス人枢機卿すうききょうジャン・ビレール・ド・ラグロラスが自身の墓碑ぼひのために注文したものである。現在は入って右手、最初の礼拝堂に安置されている。二つの身体を完璧なピラミッド型に収めた幾何学的な安定感と、大理石を極限まで磨き上げた表面のつや。キリストの身体からは死の硬直が取り除かれ、眠っているかのように表現されている。マリアの胸を横切る帯には彼の署名がある。1972年の破損事件以降、防弾ガラス越しの鑑賞となっている。

もう一つが、大聖堂そのものである。1546年、造営主任だったアントニオ・ダ・サンガッロ(小)の死を受けて、教皇パウルス3世は71歳のミケランジェロを後任に指名した。彼は報酬を受け取らないという条件でこれを引き受けている。

彼が行ったのは、増殖していたサンガッロ案を整理し、ブラマンテの当初のギリシャ十字形の構想へ引き戻すことだった。外壁は巨大な大オーダーで一続きに束ねられ、建物全体が一個の彫刻の塊として立ち上がる。そしてドームである。彼は木製の大模型を制作し、二重殻構造と外へ張り出すリブによる支持を設計した。着工は生前になされたが、完成は1590年、彼の死から26年後である。実際に建てられたドームは、彼の模型よりやや尖った輪郭でジャコモ・デッラ・ポルタが仕上げた。それでも、ローマの空に浮かぶあの形の基本を決めたのはミケランジェロである。

  • 住所:Piazza San Pietro, 00120 Città del Vaticano
サン・ピエトロ大聖堂に安置されたミケランジェロの『ピエタ』。座した聖母が膝の上にキリストの遺体を抱く
ピエタ(1498–99年、サン・ピエトロ大聖堂)大聖堂に入って右手、最初の礼拝堂に安置された『ピエタ』。二つの身体がピラミッド型に収められ、大理石の表面は極限まで磨き上げられている。Michelangelo Buonarroti, *Pietà*, 1498–1499 / St Peter's Basilica, Vatican City / Wikimedia Commons
1508–1512年/1536–1541年VATICAN ②(システィーナ礼拝堂)11

システィーナ礼拝堂 ── 20年を隔てた二つの仕事

ヴァチカン宮殿のなかにあるシスティーナ礼拝堂は、ミケランジェロのゆかりの地のなかで最も訪問者が多い場所である。ここには彼の仕事が二つ、20年以上の間隔をおいて存在する。

一つが天井画(1508–1512年)。教皇ユリウス2世の命により、彫刻家であって画家ではないと固辞した彼が、結局引き受けて4年半を費やした。面積はおよそ800平方メートル。当初の計画は12使徒を描くだけの単純なものだったが、彼はこれを退け、創世記の物語を中心とする図像プログラムへ拡張した。中央に創世記の9場面、その両側に預言者と巫女みこが交互に座り、四隅と窓上に旧約の場面とキリストの祖先が配される。人物は300体を超える。

制作条件は過酷だった。彼は足場の上で頭を後ろへ反らせ、上を向いたまま描き続けた。友人ジョヴァンニ・ダ・ピストイアに宛てた詩で、顎が腹に触れ、髭が天を向き、絵具が顔に落ちてきて、身体はシリアの弓のように反り返っている、と自身の姿を戯画的に書いている。

もう一つが祭壇壁の『最後の審判』(1536–1541年)である。1527年のローマ劫掠ごうりゃくと宗教改革を経たあとの作品で、天井画とは性格がまったく違う。画面を区切る枠線がなく、約300体の人物が渦を巻く。中央のキリストは髭のない若々しい裸体で、右腕を高く上げて判決を下す。裸体の多さは激しい論争を呼び、1564年のトリエント公会議を受けて、弟子ダニエレ・ダ・ヴォルテッラが約40体に腰布を加筆した。

1980年から1994年にかけて行われた大規模な洗浄修復により、数世紀分のすすとニスが除去され、想像されていたよりはるかに鮮烈な色彩が現れた。この結果は美術史界に大きな論争を残している。

見学は完全予約制ではないが、ヴァチカン美術館の順路の最後に位置し、混雑が激しい。館内では私語と撮影が制限される。

  • 住所:00120 Città del Vaticano(ヴァチカン美術館の順路内)
システィーナ礼拝堂の天井画全体。中央に創世記9場面、周囲に預言者と巫女が配置されている
システィーナ礼拝堂天井画(1508–1512年)天井画の全体。約800平方メートルに300体を超える人物が、実在しない建築の枠組みのなかに収められている。Michelangelo Buonarroti, *Sistine Chapel ceiling*, 1508–1512 / Sistine Chapel, Vatican City / Wikimedia Commons, Public Domain
システィーナ礼拝堂祭壇壁のフレスコ画『最後の審判』全体。中央上部に裁くキリスト、周囲に無数の人物が渦を巻く
最後の審判(1536–1541年)祭壇壁の『最後の審判』。天井画から20年以上を隔てて描かれた。画面を区切る枠線がなく、約300体の人物が渦を巻く。Michelangelo Buonarroti, *The Last Judgment*, 1536–1541 / Sistine Chapel, Vatican City / Wikimedia Commons, Public Domain
1505–1545年ROME ①(サン・ピエトロ・イン・ヴィンコリ)12

サン・ピエトロ・イン・ヴィンコリ ── 40年かけて縮小された墓廟の終着点

コロッセオから徒歩10分ほど、オッピオの丘に建つサン・ピエトロ・イン・ヴィンコリ聖堂は、5世紀に創建された古い教会である。名は聖ペトロを縛った鎖に由来する。この教会が世界的に知られているのは、ミケランジェロの『モーセ』がここにあるからだ。

もともとこの像は、まったく違う場所に置かれるはずだった。1505年、教皇ユリウス2世がミケランジェロに命じた墓廟は、サン・ピエトロ大聖堂の中央に置かれる自立式の巨大な構造物で、彫像40体以上を配する計画だった。それが資金不足と教皇の死、そして相続人との交渉によって、1513年、1516年、1532年、1542年と契約が改訂されるたびに縮小されていく。ミケランジェロ自身がこれを「墓廟の悲劇」と呼んだ。

最終的に1545年、着手から40年を経て完成した墓廟は、大聖堂ではなくこの小さな教会の壁面に取りつけられる形になった。中心に座るのが『モーセ』(高さ235cm、1513–1515年頃制作、1542年頃に手直し)である。

像が捉えているのは、シナイ山で十戒の石板を授かったモーセが、麓で偶像崇拝ぐうぞうすうはい耽るふける民を見て怒りを覚える直前の瞬間である。十戒の石板を小脇に抱え、波打つ髭を指で押さえ、視線だけが激しく左へ動く。動き出す寸前で止められた身体が、内部に押し込められた力を外へ押し出している。同時代人はこの質を「テッリビリタ(terribilità=畏怖いふを起こさせるほどの激しさ)」と呼んだ。

頭部にある二本の角は、ヘブライ語の「光を放つ」をラテン語訳聖書(ウルガタ)が「角を生やす」と訳した誤訳に由来する、中世以来の伝統的な図像である。

墓廟には『モーセ』のほか、『ラケル』『レア』の二体が両脇に置かれる。当初計画にあった『瀕死の奴隷』『抵抗する奴隷』(ルーヴル美術館蔵)やフィレンツェの『囚われ人』四体は、いずれも組み込まれなかった。この教会に立つということは、40年かけて縮んでいった計画の、最後に残った部分を見るということである。

  • 住所:Piazza di San Pietro in Vincoli 4/a, 00184 Roma RM, Italy
サン・ピエトロ・イン・ヴィンコリ聖堂のユリウス2世墓廟の全体。中央下段に『モーセ』、両脇に女性像
ユリウス2世の墓廟(1545年完成)サン・ピエトロ・イン・ヴィンコリ聖堂の壁面に取りつけられた墓廟。当初は彫像40体以上を配する自立式の構造物として構想されていた。中央下段が『モーセ』。Michelangelo Buonarroti, *Tomb of Pope Julius II* / San Pietro in Vincoli, Rome / Wikimedia Commons
1538年–1564年ROME ②(都市計画・建築)13

カンピドリオ広場とローマの建築 ── 80代が作り変えた都市の骨格

ミケランジェロのローマは、彫刻と絵画だけではない。80代の彼は、この街の骨格そのものを設計していた。

最も知られるのがカンピドリオ広場(ピアッツァ・デル・カンピドーリオ)である。カピトリーノの丘は古代ローマの宗教的な中心だったが、中世には荒廃していた。1538年、教皇パウルス3世は神聖ローマ皇帝カール5世の訪問を控えて、この丘の再整備をミケランジェロに委ねる。

彼の解決は独創的だった。既存の二棟の建物が直角ではなく約80度で向き合っていたため、彼はそれを修正するのではなく、対称の軸として受け入れ、正面に三棟目を新設して台形の広場を作った。舗装には楕円だえん形の幾何学模様を敷き、中央にマルクス・アウレリウス帝の騎馬像を据える。丘の下からは大階段(コルドナータ)が上ってくる。広場は市街に背を向け、サン・ピエトロの方角を向いている。都市空間を一個の構成として設計するという発想は、ここからバロックの都市計画へ受け継がれていく。

このほか、彼はファルネーゼ宮の上層部とコーニス、そして都市の北の入口であるピア門(ポルタ・ピア、1561–1565年)を設計した。ピア門は古典的なオーダーの要素を意図的にずらして組み合わせた造形で、マニエリスム建築の代表例として論じられる。さらに1561年からは、ディオクレティアヌス浴場の遺構いこうを転用してサンタ・マリア・デッリ・アンジェリ・エ・デイ・マルティリ聖堂を設計している。古代の廃墟を壊さずに教会へ変換するという手法である。

彼の住居は、カンピドリオに近いマチェル・デ・コルヴィ地区にあった。現在この建物は残っていない。19世紀末、ヴィットリオ・エマヌエーレ2世記念堂の建設に伴う区画整理で取り壊されている。ローマにおける彼の住まいの跡地には、いまは巨大な白い記念堂が建っている。

名称 着手年 内容 現状
カンピドリオ広場 1538年 台形の広場、舗装の楕円だえん模様、コルドナータ 現存・公開(カピトリーノ美術館が面する)
サン・ピエトロ大聖堂 1546年 平面の整理、大オーダーによる外壁、ドーム設計 現存(ドーム完成は1590年)
ファルネーゼ宮 1546年頃 上層部とコーニスの設計 現存(フランス大使館)
サンタ・マリア・デッリ・アンジェリ 1561年 ディオクレティアヌス浴場の遺構いこうを教会へ転用 現存・公開
ピア門 1561–1565年 都市の北の門。マニエリスム建築の代表例 現存
マチェル・デ・コルヴィの住居 ローマでの住まい 現存せず(19世紀末に取り壊し)
1564年–現在FLORENCE / MILAN14

サンタ・クローチェとミラノ ── 墓所と、最後の未完作がある場所

1564年2月18日、ミケランジェロはローマの自宅で死去した。88歳。教皇庁は彼をローマに埋葬まいそうするつもりだったが、甥のレオナルドとフィレンツェのコジモ1世は別の考えを持っていた。遺体は商品の荷物を装って密かにフィレンツェへ運ばれ、サンタ・クローチェ聖堂に埋葬された。

サンタ・クローチェはフランシスコ会の聖堂で、ガリレオ、マキャヴェッリ、ロッシーニらの墓もあることから「イタリアの栄光の神殿(Tempio dell’Itale Glorie)」と呼ばれる。入って右手の壁にミケランジェロの墓碑があり、設計はジョルジョ・ヴァザーリによる。胸像の下に三体の擬人像ぎじんぞうが座り、彼が手がけた絵画・彫刻・建築の三部門を表している。ちなみにこの聖堂は、カーサ・ブオナローティから徒歩数分の距離にある。彼が生前に一族の館を構えようとした場所と、実際に埋葬された場所は、同じ街区の内にある。

そしてミラノ。スフォルツァ城には、彼の最後の作品『ロンダニーニのピエタ』(1552–1564年)がある。死の数日前までのみが入れられていた未完作で、キリストと聖母の身体はほとんど溶け合い、輪郭は定まらない。右下には以前の構想で彫られた腕が一本、宙に取り残されている。2015年、城内に専用の展示室が設けられ、単独で公開されている。

もう一つ、フィレンツェを一望する丘の上にミケランジェロ広場(ピアッツァーレ・ミケランジェロ)がある。19世紀後半、フィレンツェが一時的にイタリア王国の首都となった際、建築家ジュゼッペ・ポッジによる都市改造の一環として建設された。広場の中央には『ダヴィデ』の青銅製複製が据えられ、その周囲を新聖具室の四つの時間の擬人像の複製が囲む。ミケランジェロの芸術的権威が、近代都市の景観として固定化された場所である。彼の作品そのものを見にいく場所ではないが、彼の名がフィレンツェという都市のアイデンティティにどう組み込まれたかを確認できる。

  • 住所(サンタ・クローチェ聖堂):Piazza di Santa Croce 16, 50122 Firenze FI, Italy
  • 住所(スフォルツァ城):Piazza Castello, 20121 Milano MI, Italy
  • 住所(ミケランジェロ広場):Piazzale Michelangelo, 50125 Firenze FI, Italy
ミケランジェロの未完の大理石彫刻『ロンダニーニのピエタ』。細く引き伸ばされたキリストと聖母の身体がほとんど一体化している
ロンダニーニのピエタ(1552–1564年、未完)スフォルツァ城の『ロンダニーニのピエタ』。死の数日前まで鑿が入れられた最後の作品で、2015年から城内の専用展示室で公開されている。Michelangelo Buonarroti, *Rondanini Pietà*, 1552–1564 / Castello Sforzesco, Milan / Wikimedia Commons
19世紀に撮影されたフィレンツェのミケランジェロ広場。中央に『ダヴィデ』の青銅複製が立つ
ミケランジェロ広場(19世紀の写真)ジョルジョ・ゾンマーが撮影した19世紀のミケランジェロ広場。ジュゼッペ・ポッジの都市改造によって整備され、中央に『ダヴィデ』の青銅複製が据えられた。Giorgio Sommer (1834–1914), *Firenze – Piazza Michelangelo* / Wikimedia Commons, Public Domain

ROUTES / モデルコースミケランジェロをたどる3つのプラン

フィレンツェ1日集中コース

ミケランジェロ関連のスポットは旧市街に集中しており、すべて徒歩で回れる。アカデミア美術館とドゥオーモ付属博物館は事前予約を強く推奨。
  1. 9:00アカデミア美術館。囚われ人四体を通り抜けて『ダヴィデ』へ
  2. 10:30サン・ロレンツォ聖堂とメディチ家礼拝堂(新聖具室)。ラウレンツィアーナ図書館の階段
  3. 12:30中央市場周辺で昼食
  4. 14:00シニョリーア広場とヴェッキオ宮殿。五百人広間
  5. 15:30バルジェッロ国立美術館。『バッコス』『ピッティ・トンド』『ブルータス』
  6. 16:30カーサ・ブオナローティ。『階段の聖母』『ケンタウロスの戦い』
  7. 17:30サンタ・クローチェ聖堂。墓所
  8. 日没前ミケランジェロ広場へ。市街を一望

アカデミア美術館は行列が長く、予約なしでは1〜2時間待つことがある。カーサ・ブオナローティは休館日が多いため、曜日を必ず確認すること。ミケランジェロ広場までは徒歩で坂を上るか、バスの利用が現実的。

ローマ・ヴァチカン1日コース

ヴァチカン美術館は入館から順路の最後にあるシスティーナ礼拝堂まで最低でも2〜3時間かかる。午前をヴァチカンに充て、午後に市内の建築を回るのが現実的。
  1. 8:30ヴァチカン美術館入館(要予約)。順路をたどりシスティーナ礼拝堂へ
  2. 11:30サン・ピエトロ大聖堂。『ピエタ』とドーム(クーポラ登頂も可)
  3. 13:30昼食
  4. 15:00サン・ピエトロ・イン・ヴィンコリ聖堂。ユリウス2世墓廟と『モーセ』
  5. 16:30カンピドリオ広場。コルドナータを上って台形の広場へ
  6. 17:30サンタ・マリア・デッリ・アンジェリ聖堂(テルミニ駅近く)

システィーナ礼拝堂は撮影禁止で、混雑時は立ち止まることも難しい。ドーム登頂は階段が狭く長いため、体力と時間に余裕をみておくこと。サン・ピエトロ・イン・ヴィンコリは昼休みで閉まる時間帯があるため注意。

トスカーナ2日コース(カプレーゼ+カッラーラ)

生誕地と、素材の産地を訪ねるコース。いずれも公共交通の便が悪く、レンタカーの利用が前提になる。
  1. 1日目フィレンツェ発→アレッツォ経由でカプレーゼ・ミケランジェロへ(車で約2時間)。ミケランジェロ生家博物館と村を歩く。アレッツォ泊
  2. 2日目西へ移動し、カッラーラへ(車で約3時間)。大理石採石場の見学ツアー、市内の大理石博物館。夕方フィレンツェへ戻る

カプレーゼは山間部にあり、冬季は道路状況の確認が必要。カッラーラの採石場見学は四輪駆動車で山を上るツアー形式が一般的で、要予約。時間に余裕があれば、フィレンツェ近郊のセッティニャーノ(市バスで行ける)を加えるとよい。

LIST / 一覧ゆかりの地一覧

本記事で取り上げた24スポットを、生誕地から墓所へという順に整理した。現存しない場所については「跡地」または「消失」と明記している。

No.スポット名エリア住所・所在地現状関連作品・出来事
1ミケランジェロ生家博物館カプレーゼ(伊)Via Capoluogo 1, 52033 Caprese Michelangelo AR公開1475年3月6日誕生
2セッティニャーノフィレンツェ近郊(伊)Settignano, 50135 Firenze FI市域の一部石工の家で乳児期を過ごす
3カッラーラの大理石採石場カッラーラ(伊)Carrara, 54033 MS稼働中・見学ツアーあり1505年に8か月滞在し石材を選定
4ピエトラサンタルッカ県(伊)Pietrasanta, 55045 LU稼働中サン・ロレンツォ用大理石の採掘地
5ギルランダイオ工房跡フィレンツェ(伊)フィレンツェ市内現存せず1487–88年に徒弟とてい入り
6メディチ家の彫刻庭園跡フィレンツェ(伊)サン・マルコ広場周辺跡地ベルトルド・ディ・ジョヴァンニに学ぶ
7カーサ・ブオナローティフィレンツェ(伊)Via Ghibellina 70, 50122 Firenze FI公開『階段の聖母』『ケンタウロスの戦い』
8シニョリーア広場フィレンツェ(伊)Piazza della Signoria, 50122 Firenze FI現存(複製が立つ)『ダヴィデ』設置(1504–1873年)
9ヴェッキオ宮殿 五百人広間フィレンツェ(伊)同上公開『カッシーナの戦い』下絵(消失)
10アカデミア美術館フィレンツェ(伊)Via Ricasoli 58/60, 50122 Firenze FI公開『ダヴィデ』オリジナル、囚われ人四体、聖マタイ
11サン・ロレンツォ聖堂フィレンツェ(伊)Piazza di San Lorenzo 9, 50123 Firenze FI公開ファサードは未完成のまま
12メディチ家礼拝堂(新聖具室)フィレンツェ(伊)Piazza di Madonna degli Aldobrandini 6公開『昼』『夜』『あけぼの』『黄昏たそがれ』『メディチの聖母』
13ラウレンツィアーナ図書館フィレンツェ(伊)Piazza San Lorenzo 9, 50123 Firenze FI公開前室の階段。マニエリスム建築の出発点
14バルジェッロ国立美術館フィレンツェ(伊)Via del Proconsolo 4, 50122 Firenze FI公開『バッコス』『ピッティ・トンド』『ブルータス』
15ドゥオーモ付属博物館フィレンツェ(伊)Piazza del Duomo 9, 50122 Firenze FI公開『フィレンツェのピエタ』
16サンタ・クローチェ聖堂フィレンツェ(伊)Piazza di Santa Croce 16, 50122 Firenze FI公開墓所。墓碑の設計はヴァザーリ
17ミケランジェロ広場フィレンツェ(伊)Piazzale Michelangelo, 50125 Firenze FI現存19世紀の都市改造。『ダヴィデ』青銅複製
18サン・ドメニコ聖堂ボローニャ(伊)Piazza San Domenico 13, 40124 Bologna BO公開跪く天使、聖ペトロニウス、聖プロクルス
19サン・ペトロニオ聖堂ボローニャ(伊)Piazza Maggiore, 40124 Bologna BO公開教皇の青銅像(消失)。クエルチャの浮彫
20サン・ピエトロ大聖堂ヴァチカンPiazza San Pietro, 00120 Città del Vaticano公開『ピエタ』、ドームの設計
21システィーナ礼拝堂ヴァチカン00120 Città del Vaticano公開(美術館順路内)天井画、『最後の審判』
22サン・ピエトロ・イン・ヴィンコリ聖堂ローマ(伊)Piazza di San Pietro in Vincoli 4/a, 00184 Roma RM公開ユリウス2世墓廟、『モーセ』
23カンピドリオ広場ローマ(伊)Piazza del Campidoglio, 00186 Roma RM現存1538年からの都市計画
24スフォルツァ城ミラノ(伊)Piazza Castello, 20121 Milano MI公開『ロンダニーニのピエタ』

BOOKS & FILM / 本と映像ゆかりの地を歩く前に

ミケランジェロのドームを救え――建築に革命を起こした教皇と三人の数学者
書籍|建築・サン・ピエトロ大聖堂

ミケランジェロのドームを救え――建築に革命を起こした教皇と三人の数学者

著者
ウェイン・カレイジャン
ASIN
4306047253

サン・ピエトロ大聖堂のドームをめぐる建築史を扱う一冊。ローマで晩年のミケランジェロが担った大聖堂建築と、その後のドーム完成までの背景を知りたい人に向く。

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ミケランジェロ・ブオナローティの生涯
書籍|伝記

ミケランジェロ・ブオナローティの生涯

著者
デイヴィッド・ヘムソール
ASIN
4487813263

ミケランジェロの生涯と制作活動をたどる伝記。フィレンツェとローマを中心に、各地での仕事と人物像をまとめて把握するための資料として使いやすい。

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ミケランジェロ全作品集(XLシリーズ)
書籍|全作品集

ミケランジェロ全作品集(XLシリーズ)

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彫刻、絵画、建築などミケランジェロの主要作品を大判図版で確認できる作品集。現地で見る作品と、その制作地・所蔵地を結び付けて理解したい人に向く。

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もっと知りたいミケランジェロ 生涯と作品
書籍|入門

もっと知りたいミケランジェロ 生涯と作品

著者
池上英洋
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ミケランジェロの生涯と代表作をコンパクトに整理した入門書。フィレンツェ、ローマ、ヴァチカンなど、この記事で紹介する土地と作品の関係を予習するのに適している。

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ミケランジェロ(中公新書)
書籍・Kindle|評伝

ミケランジェロ(中公新書)

著者
木下長宏
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生涯と作品を歴史的背景とともに整理した評伝。メディチ家、フィレンツェ共和国、教皇庁との関係を押さえながら、各都市での制作を理解したい人に向く。

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ルネサンス時空の旅人 永遠の都ローマ ミケランジェロ・魂の遺産[DVD]
映像|DVD

ルネサンス時空の旅人 永遠の都ローマ ミケランジェロ・魂の遺産[DVD]

出演
原田美枝子
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ローマを舞台にミケランジェロの芸術的遺産をたどる映像作品。サン・ピエトロ大聖堂やヴァチカンなど、記事内で紹介するローマのゆかりの地を映像で確認したい人向け。

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REFERENCES / 出典参考文献

施設・自治体・観光機関の資料

  • Galleria dell’Accademia di Firenze(アカデミア美術館 公式) https://www.galleriaaccademiafirenze.it/
  • Casa Buonarroti(カーサ・ブオナローティ 公式) http://www.casabuonarroti.it/
  • Museo Nazionale del Bargello(バルジェッロ国立美術館 公式) https://www.bargellomusei.it/
  • Musei Vaticani(ヴァチカン美術館 公式) https://www.museivaticani.va/
  • Castello Sforzesco「Museo Pietà Rondanini」 https://www.milanocastello.it/
  • Wikimedia Commons「David (Michelangelo)」ギャラリー https://commons.wikimedia.org/wiki/David_(Michelangelo)
  • 東京美術「もっと知りたいミケランジェロ」 https://www.tokyo-bijutsu.co.jp/np/isbn/9784808710859/
  • 岩波書店「ミケランジェロ/アンソニー・ヒューズ、森田義之」 https://www.iwanami.co.jp/book/b258677.html

伝記・研究

  • Web Gallery of Art「MICHELANGELO Buonarroti(伝記)」 https://www.wga.hu/bio/m/michelan/biograph.html
  • CiNii 図書「ミケランジェロ伝」(アスカニオ・コンディヴィ/高田博厚訳) https://ci.nii.ac.jp/ncid/BN06578166
  • 「建築家ジュゼッペ・ポッジによるミケランジェロ広場の形態と機能」日本建築学会計画系論文集、J-STAGE https://www.jstage.jst.go.jp/article/aija/77/678/77_1977/_article/-char/ja/
  • 小山清男「ミケランジェロ〈審判図〉の空間」J-STAGE https://www.jstage.jst.go.jp/article/jsgs1967/30/4/30_4_13/_article/-char/ja/
  • 新倉慎右「ミケランジェロの『復活素描群』」J-STAGE https://www.jstage.jst.go.jp/article/bigaku/69/2/69_118/_article/-char/ja/
  • Galleria Bazzanti「Michelangelo and the marble quarries」 https://www.galleriabazzanti.it/en/michelangelo-cave-marmo/
  • Romewise「Our complete guide to finding Michelangelo in Rome」 https://www.romewise.com/michelangelo-in-rome.html
  • Wikipedia (English)「Casa Buonarroti」 https://en.wikipedia.org/wiki/Casa_Buonarroti
  • Wikipedia (English)「San Pietro in Vincoli」 https://en.wikipedia.org/wiki/San_Pietro_in_Vincoli
  • Wikipedia (English)「Moses (Michelangelo)」 https://en.wikipedia.org/wiki/Moses_(Michelangelo)
  • Wikipedia (English)「Replicas of Michelangelo’s David」 https://en.wikipedia.org/wiki/Replicas_of_Michelangelo%27s_David
  • Wikipedia (English)「Awakening Slave」 https://en.wikipedia.org/wiki/Awakening_Slave

所蔵館の作品資料

  • The Metropolitan Museum of Art「Michelangelo Buonarroti – Cupid」 https://www.metmuseum.org/art/collection/search/236774
  • The National Gallery, London「Michelangelo | The Entombment」 https://www.nationalgallery.org.uk/paintings/michelangelo-the-entombment-or-christ-being-carried-to-his-tomb
  • The National Gallery, London「Michelangelo | ‘The Manchester Madonna’」 https://www.nationalgallery.org.uk/paintings/michelangelo-the-manchester-madonna

画像

  • Wikimedia Commons「Michelangelo Buonarroti」 https://commons.wikimedia.org/wiki/Michelangelo_Buonarroti
  • Wikimedia Commons「Category:Marble replica of David by Michelangelo Buonarroti in Piazza della Signoria, Florence」 https://commons.wikimedia.org/wiki/Category:Marble_replica_of_David_by_Michelangelo_Buonarroti_in_Piazza_della_Signoria,_Florence
  • Wikimedia Commons「Category:Grave for Julius II by Michelangelo Buonarroti」 https://commons.wikimedia.org/wiki/Category:Grave_for_Julius_II_by_Michelangelo_Buonarroti
  • Wikimedia Commons「Category:Salone dei Cinquecento」 https://commons.wikimedia.org/wiki/Category:Salone_dei_Cinquecento
  • Wikimedia Commons「Category:Sistine Chapel ceiling」 https://commons.wikimedia.org/wiki/Category:Sistine_Chapel_ceiling

最終更新:2026年8月27日

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