ウジェーヌ・アジェゆかりの地Places of Eugène Atget: From Libourne to the Streets of Old Paris
ウジェーヌ・アジェは、ほとんど旅をしなかった写真家である。南仏の光を追ったゴッホとは対照的に、彼はひとつの都市――パリ――の内側を、三十年にわたって歩き続けた。夜明け前に18×24センチの重い木製カメラを担いで家を出て、人影のない街路や中庭、庭園の彫像を一枚ずつ記録し、日が高くなる前に切りあげる。その反復のなかで、消えゆく「古きパリ(Vieux Paris)」が約一万枚のガラス乾板に定着していった。この記事では、彼が生まれた南西フランスのリブルヌから、俳優を夢見て上京したパリ、三十年の制作拠点となったモンパルナスのアパルトマン、そして彼がレンズを向け続けた街路と庭園までを、現在の住所・現状・そこで撮影された作品を対応させながらたどっていく。

- ゆかりの地はほぼパリ一都市に凝縮している。 生誕地リブルヌと少年期のボルドーを除けば、アジェの人生と作品の舞台はパリとその近郊にほぼ収まる。彼は移住を重ねた画家ではなく、ひとつの都市を歩き尽くした記録者だった。だからこそ、ゆかりの地は「住んだ場所」と「撮った場所」がほとんど重なり合う。
- 三十年を過ごしたアパルトマンが、いまも巡礼地になっている。 モンパルナスのカンパーニュ・プルミエール通り17番地ビス。アジェが1898年から死の年1927年まで住み、現像室とアーカイブ庫と生活空間を兼ねたこの建物には、現在パリ市の記念銘板が掲げられ、写真史の重要な巡礼地となっている。
- 撮影地の多くが、いまも当時の面影を残す。 サン=ジェルマンの三叉路、ソー公園、サン=クルー、ヴェルサイユ。アジェが人気のない早朝に撮った場所の多くは、今日でも歩いて訪ね、作品と見比べることができる。パリという都市そのものが、彼の巨大な野外アーカイブになっている。
ウジェーヌ・アジェゆかりの地をたどる
アジェの写真の前に立つと、そこに写る街路の多くが「今も行ける場所」であることに驚かされる。彼は空想の都市を作ったのではなく、実在するパリを一区画ずつ潰すように記録した。だから彼のゆかりの地をたどる旅は、そのまま彼の作品の撮影地をたどる旅になる。生まれた南西フランスの町から、三十年を過ごしたモンパルナスの一室、そして早朝の街路と庭園まで。彼が歩いた順序で、その土地を訪ねていく。
アジェの足跡を俯瞰する ── 一都市に凝縮した生涯
ウジェーヌ・アジェは1857年2月12日、フランス南西部ジロンド県の町リブルヌに生まれ、1927年8月4日、パリのカンパーニュ・プルミエール通り17番地ビスで没した。70年の生涯のうち、写真家として本格的に活動したのは40歳前後から死の直前までの約30年である。この30年間、彼の住所も撮影地も、ほとんどパリとその近郊から動かなかった。
ゴッホがオランダから南仏へと移り住むたびに画風を変えたのとは対照的に、アジェの「ゆかりの地」は、ひとつの都市の内側に凝縮している。だからこの記事では、地図上の移動を追うのではなく、彼の人生と仕事が交わった土地を層ごとに整理してたどっていく。
第一の層は、彼が実際に生き、暮らした場所である。生誕地リブルヌ、5歳で孤児となり祖父母に引き取られたボルドー、俳優を志して上京したパリ、そして三十年の制作拠点となったモンパルナスのカンパーニュ・プルミエール通り。とりわけ最後の住所は、現像室・アーカイブ庫・生活空間を兼ねた、彼の作品世界の心臓部だった。
第二の層は、彼が繰り返しレンズを向けた撮影地である。オスマンの大改造で急速に姿を消しつつあった古きパリの街路や中庭、店先。晩年に集中的に通ったソー公園。宮殿の庭園としてのサン=クルーとヴェルサイユ。そして写真集の表紙を飾ったサン=ジェルマンの三叉路。これらは彼が「住んだ場所」ではないが、彼の視線が最も長く滞在した場所であり、その意味で紛れもない「ゆかりの地」である。
第三の層は、彼の死後にその名が刻まれた場所だ。パリ13区とリブルヌの「アジェ通り」、そして水星のクレーターにまで、彼の名は残されている。生前は一介の職人として困窮のうちに世を去った男が、いかに大きな遺産を残したかを、これらの地名は静かに物語っている。
| 層 | 土地の性格 | 主な地点 | 時期の目安 |
|---|---|---|---|
| 生きた場所 | 生誕・養育・生活の拠点 | リブルヌ、ボルドー、カンパーニュ・プルミエール通り | 1857年〜1927年 |
| 撮った場所 | 繰り返し通った撮影地 | 古きパリの街路、ソー公園、サン=クルー、ヴェルサイユ | 1897年〜1927年 |
| 顧客の場所 | 記録を納めた公共機関 | カルナヴァレ美術館、パリ市歴史図書館、国立図書館 | 1900年代〜1920年代 |
| 名を刻まれた場所 | 死後に顕彰された地 | アジェ通り(パリ13区・リブルヌ)、水星のクレーター | 1978年〜2008年 |
リブルヌとボルドー ── 南西フランスの出発点
すべては、ワインの集散地として知られる南西フランスの町から始まる。ジャン=ウジェーヌ=オーギュスト・アジェは1857年2月12日、ジロンド県リブルヌで、馬車製造職人の家庭に生まれた。ボルドーの東約30キロ、ドルドーニュ川とイル川が合流する地点に築かれたこの中世起源のバスティード(計画都市)が、彼が最初に目にした街並みである。
しかし、この町での幸福な時間は長くは続かなかった。1862年に父を、そのすぐ後に母を亡くし、わずか5歳で孤児となったアジェは、ボルドーに住む母方の祖父母に引き取られて育てられた。少年期を過ごしたボルドーは、18世紀の壮麗な石造建築が川沿いに連なる港湾都市である。整然と区画された古い街路と、水辺に開けた広大な広場。後年のアジェが古きパリの街路や河岸に向けた執拗な視線の原型を、この二つの南西フランスの都市に求めることも、あながち的外れではないだろう。
中等教育を終えた後、彼は商船隊に入隊し、船乗りとして海に出た時期があるとされる。土地に根を持たない孤児が、まず海へ出たという事実は、後にひとつの都市の細部に生涯をかけて執着する彼の姿と、奇妙な対照をなしている。
現在のリブルヌを訪れても、アジェの生家そのものを示す明確な標識は確認しにくい。それでも、彼が生まれた土地であることは、後述するように「アジェ通り(Rue Eugène-Atget)」が1980年にこの町に設けられたことで公的に記憶されている。生誕地リブルヌと養育の地ボルドーは、作品の直接の舞台ではないが、一人の記録者が生まれ育った風土として、彼のゆかりの地の起点に置かれるべき場所である。
モンパルナス ── 三十年の制作拠点、カンパーニュ・プルミエール通り
アジェのゆかりの地のなかで、最も重要な一点を挙げるなら、それは疑いなくモンパルナスのカンパーニュ・プルミエール通りである。
1878年、21歳のアジェは俳優を志してパリへ移住した。国立演劇学校(コンセルヴァトワール)の入学試験に二度目の挑戦で合格するが、兵役のために出席が困難となり、1881年に退学を余儀なくされる。その後もパリや地方の巡業劇団で端役を続けたが、1887年に声帯の感染症を患い、俳優の道を断念した。この演劇時代に出会った元女優ヴァランティーヌ・ドラフォッス・コンパニョンが、後に終生の伴侶となる。俳優としての挫折と、舞台空間への感覚――人気のない街路を「役者の登場を待つ書き割り」のように捉える視線――は、この時期に準備された。
写真家としてのアジェが最初にスタジオを構えたのは、1890年から1891年頃、モンパルナス地区のカンパーニュ・プルミエール通り31番地(31 rue Campagne-Première)である。彼はここのドアに、有名な「芸術家のための記録(Documents pour artistes)」という控えめな看板を掲げた。自らの写真を芸術作品ではなく、画家や建築家が資料として使うための実用品と規定する、この職人的な自己定義の出発点がこの住所だった。
そして1898年から1899年にかけて、アジェとヴァランティーヌは同じ通りの17番地ビス(17 bis, rue Campagne-Première)のアパルトマン5階へ移り住む。この住所こそ、彼が1927年に没するまで約30年間の制作拠点となった場所である。現像室、ネガのアーカイブ庫、そして生活空間。すべてがこの一室に凝縮されていた。アジェは自らの住空間さえ「パリのインテリア(Intérieurs parisiens)」シリーズの一部として撮影し、時には架空の職業人の部屋に見立てて記録している。
現在、この建物の外壁には、アジェがここに住んでいたことを示すパリ市の記念銘板(プラーク)が設置されている。内部は通常の集合住宅であり公開されていないため、訪問は外観と銘板の確認にとどめるのが礼儀である。それでも、写真史を志す者にとって、ここは最も重要な巡礼地のひとつだ。無数のパリの街路を記録した男が、その膨大なネガとともに三十年を過ごした一室が、いまも同じ通りに残っている。
古きパリの街路 ── ヴィエイユ・パリを歩く
アジェが生涯をかけて記録しようとしたのは、ジョルジュ・オスマンによる大改造以降、近代化の波に飲まれて急速に姿を消しつつあった「古きパリ(Vieux Paris)」の総体である。彼はこの膨大な対象を「絵になるパリ(Paris pittoresque)」「古きパリの芸術(Art dans le Vieux Paris)」「古きパリのトポグラフィ(Topographie du Vieux Paris)」といったカテゴリーに分類し、番号を振って、一区画ずつ潰していくように撮影していった。
彼の撮影範囲は、パリの旧市街全域に及ぶ。マレ地区の古い館の扉やドアノッカー、セーヌ左岸の狭い路地、中庭の階段の手すり、店先の看板。とりわけ左岸のパンテオン周辺、モンターニュ・サント=ジュヌヴィエーヴの丘は、古い建物と坂道が入り組み、彼が繰り返し訪れた一帯である。この丘の街路を捉えた作品では、人気のない石畳の坂が奥へと収束し、古い建物のファサードが朝の斜光のなかに静かに並んでいる。
右岸のモンマルトルやその麓の商業街も、彼の重要な被写体だった。たとえばモンマルトル通り121番地を撮った一枚は、古い商店のファサードと看板を正面から克明に記録している。アジェにとって店先の看板は、単なる背景ではなく、消えゆく都市の商業文化そのものの標本だった。彼はこうした店構えを、装飾のディテールまで読み取れるように、真正面から丹念に撮り続けた。
これらの街路写真に共通するのは、徹底した無人性である。感度の低い乾板と絞り込んだレンズによる長時間露光のあいだに、通りを歩く人々や馬車はブレて消え去り、結果として街は不気味なほど静まり返る。この「人のいない古きパリ」は、アジェが演出したものではなく、彼が固執した旧式の機材と早朝の撮影習慣が自動的に生み出したものだった。だからこそ、同じ場所を今日の昼間に訪ねると、写真のなかの静寂との落差に驚かされる。街路そのものは残っていても、あの静けさだけは、彼の機材と時間帯が生んだ固有のものだったのである。
顧客としての街 ── 美術館と図書館
アジェのゆかりの地には、彼が撮った場所だけでなく、彼の記録を買い上げた場所も含まれる。彼の写真は壁に飾るためではなく、机の上で資料として使われるためのものだった。そしてその最大の顧客は、次第に個人の画家から公共機関へと移っていった。
初期の顧客名簿には460名以上の名が並び、そのなかにはジョルジュ・ブラック、アンドレ・ドラン、モーリス・ユトリロといった画家も含まれていた。しかし、体系的な都市記録が積み上がるにつれ、彼の主要な取引先は、カルナヴァレ美術館(パリ市の歴史博物館)、パリ市歴史図書館(BHVP)、フランス国立図書館(BnF)、そしてエコール・デ・ボザールといった機関へと移っていく。彼らにとってアジェのアーカイブは、失われゆく都市の姿を体系的に保存した、かけがえのない一次資料だった。
とりわけカルナヴァレ美術館は、アジェのプリントとネガを収蔵する主要機関のひとつであり、今日でも彼の作品を数多く所蔵している。マレ地区の壮麗なルネサンス様式の館に置かれたこの美術館は、パリの歴史そのものを収集対象とする施設であり、古きパリを記録し続けたアジェの仕事と最も深く共鳴する場所だといえる。
1920年には、歴史的建造物管理局に2,621枚のネガを1万フランで売却している。こうした大口の取引は、晩年のアジェにいくらかの経済的余裕をもたらし、後述するソー公園やヴェルサイユの、より自主的な撮影を可能にした。ただし、こうした取引があってなお彼の生活は常に困窮しており、妻ヴァランティーヌの収入に頼る時期も長かったとされる。一方で、一部の研究者は「貧困に喘ぐ孤独な芸術家」というイメージを、彼を前衛芸術の文脈に組み込むために後世が作り上げたロマンティックな神話だと指摘してもいる。
顧客としての街を知ることは、アジェの作品が生まれた経済的・社会的な条件を知ることでもある。彼の無人の街路は、純粋な芸術的衝動からではなく、資料を売って生計を立てるという実務のなかから生まれた。その事実は、作品の価値を少しも損なわない。むしろ、実用のために撮られた記録が芸術に到達したという逆説こそが、アジェの物語の核心なのである。
サン=ジェルマンの三叉路 ── 写真集の表紙になった場所
パリ6区、サン=ジェルマン=デ=プレ教会のすぐ北に、セーヌ通り(Rue de Seine)とレショーデ通り(Rue de l’Échaudé)が鋭い角度で交わる三叉路がある。アジェはこの何気ない街角を、1898年から1924年にかけて繰り返し撮影した。
なぜこの一角だったのか。三叉路が生む鋭角の建物、そこに掲げられた古い看板、石畳の反射、そして早朝の斜光。これらが、アジェの好んだ視覚的要素をすべて備えていたからだと考えられる。二本の通りが合流して先細りになる構図は、消失点へ向かって収束する遠近感を自然に作り出し、無人の街路に劇的な奥行きを与える。彼はこの同じ場所に、二十年以上の間隔をおいて何度も戻り、同じ角を撮り続けた。
この三叉路の一枚は、後にアジェの写真の象徴として広く知られるようになり、彼の写真集の表紙をも飾った。ベレニス・アボットとピエール・マック・オルランらの手で1930年に刊行された初の作品集『Atget, photographe de Paris』をはじめ、彼を紹介する多くの書物が、この街角の写真を「アジェのパリ」を代表するイメージとして選んできた。ひとつの都市を記録し続けた男の全仕事が、しばしばこの一枚の街角に凝縮して語られるのである。
そして特筆すべきは、この場所が今日でも当時の面影を色濃く残していることだ。三叉路の建物の形も、通りの走り方も、大きくは変わっていない。ガイドブックとアジェの写真を手に現地に立てば、彼がイーゼルならぬカメラを据えた地点をほぼ特定できる。パリ左岸の散策のなかで、最も手軽に「アジェの視点」を追体験できる場所として、この三叉路は今なお訪れる価値がある。
ソー公園 ── 晩年の最もポエティックな連作
アジェの撮影地のなかで、晩年の到達点として特別な位置を占めるのが、パリ南郊のソー公園(Parc de Sceaux)である。
17世紀にアンドレ・ル・ノートルが設計したこの広大な庭園は、アジェの時代には手入れが行き届かず、荒廃したまま放置されていた。1925年の春、アジェは一般公開前のこの庭園に、朝7時頃という早い時間帯に集中的に通い、荒れた並木道、彫像、水面、空を撮影した。整備された観光庭園ではなく、時間に浸食されて自然に還りつつある庭園。その荒廃こそが、アジェの視覚と深く共鳴した。
ソー公園の連作は、しばしばアジェの「最もポエティックな連作」と評される。人気のない朝もやのなかで、葉を落とした木立が長い並木道の奥へと収束し、風化した彫像が開演を待つ役者のように佇む。かつて演劇の世界に身を置いた彼の、舞台空間への感覚が最も純粋な形で表れているのがこの一群だ。ここには顧客の注文に応えるための実務的な記録という側面はほとんどなく、自らの美学のために対象と向き合う、晩年の自由な視線がある。
現在のソー公園は、フランス式庭園として美しく整備され、大運河、カスケード(階段状の滝)、幾何学的な花壇が復元されて、市民の憩いの場となっている。アジェが撮った荒廃した姿とは対照的だが、ル・ノートルが設計した骨格――長大な軸線と水景、並木の遠近法――はそのまま残っている。彼の1925年の写真と現在の整備された庭園を見比べると、同じ場所が「荒廃」と「復元」という二つの時間を生きてきたことがわかる。パリからは近郊列車(RER)で容易にアクセスでき、南郊の庭園巡りの中心として訪ねやすい。
サン=クルーとヴェルサイユ ── 記念的庭園という舞台
ソー公園と並んで、アジェが繰り返し通った近郊の撮影地が、サン=クルー公園とヴェルサイユ宮殿の庭園である。歴史的建造物管理局へのネガ売却などで多少の経済的余裕を得た1920年代、彼はこれらの記念的な庭園を、顧客の注文とは別に、自己の美学のために撮影した。
サン=クルー公園は、パリ西郊のセーヌ川を見下ろす斜面に広がる庭園である。かつての宮殿は普仏戦争の戦火で焼失したが、ル・ノートルが手がけた庭園と壮麗な大カスケード(階段状の滝)は残った。アジェはこの公園に1904年から通い始め、噴水の水盤に映る空、彫像、木立の水景を、静謐なトーンで記録している。水面に映り込む世界という主題は、後年ショーウィンドーのガラスに映る街を撮る彼の関心と、静かに通じ合っている。
ヴェルサイユにおいてアジェが向けたレンズは、宮殿本体よりも、庭園に配された彫刻や装飾に注がれることが多かった。彼は庭園の彫像を、単なる装飾品としてではなく、「太古からの劇を演じる登場人物」として捉えた。人気のない庭園に佇む大理石の彫像は、彼の手にかかると、開演を待つ役者のような静かな緊張をまとう。ヴェルサイユとサン=クルーの庭園は、アジェにとって、都市とはまた別の巨大な「舞台装置」だったのである。
これらの庭園は、今日でも当時の姿を良好に保っている。ヴェルサイユの庭園に並ぶ彫像群、サン=クルーの斜面と大カスケード。いずれもアジェが撮った早朝の静けさとは違い、昼間は多くの人でにぎわうが、彫刻や水景そのものは百年前とほとんど変わらない。彼の作品を思い浮かべながら、人の途切れた一角に立ってみると、彫像が役者のように見えてくる瞬間がある。それこそが、アジェが庭園に見出したものだった。
再発見の界隈 ── マン・レイとアボット
アジェのゆかりの地をたどるうえで見落としてはならないのが、彼の作品が「芸術」として発見された場所もまた、彼が三十年を過ごした同じモンパルナスだったという事実である。地理的な近さが、写真史を動かした。
1920年代、カンパーニュ・プルミエール通りには、アメリカ人写真家マン・レイがアトリエを構えていた。アジェの住居のすぐ近くである。マン・レイと、そのアシスタントだったアメリカ人写真家ベレニス・アボットは、同じ通りに住むこの老写真家の作品に注目した。コルセットやマネキンの並ぶショーウィンドーに周囲の街並みが反射して溶け合うアジェの特異なイメージに、マン・レイは現実と夢想が交錯するシュルレアリスム的な無意識を見出す。1926年、彼の主導により、雑誌『シュルレアリスム革命(La Révolution surréaliste)』にアジェの写真が掲載された。
しかしアジェ本人は、自らの写真が芸術運動に組み込まれることを強く拒み、掲載にあたって名前のクレジットを入れることを固辞した。彼にとって、それらはあくまで客観的な「資料」であり続けた。晩年、マン・レイが最新の小型カメラを貸そうと申し出た際にも、アジェは「カメラの作動が自分の思考より速すぎる」という理由でそれを断ったという逸話が残る。彼は最後まで、旧式の機材と職人的な流儀を手放さなかった。
1927年8月4日、アジェは極度の貧困と孤独のなかで、カンパーニュ・プルミエール通り17番地ビスの自室で世を去った。死の数か月前、アボットは彼をスタジオに招いてポートレートを撮影している。そしてアジェの死後、その膨大な作品が散逸するのを防いだのもアボットだった。彼女はギャラリストのジュリアン・レヴィの資金援助を得て、アトリエに残された約5,000枚のプリントと1,000枚以上のガラス乾板を買い取り、アメリカへ持ち帰る。このコレクションが1968年にニューヨーク近代美術館(MoMA)に収まり、ジョン・シャーカフスキーらの研究を経て、アジェは「記録者」から「写真芸術の最初期の表現者」へと位置づけ直された。
再発見の物語が、彼が生き、働き、そして死んだのと同じ一本の通りで始まったこと。これは偶然だが、示唆的でもある。アジェは遠くへ行かなかった。彼のゆかりの地の中心には、常にこのモンパルナスの一角があった。
(章末補足)マン・レイやアボットのアトリエの正確な現存状況・公開状況は本記事の主眼ではないため、訪問の際はカンパーニュ・プルミエール通りの記念銘板(17番地ビス)を中心に、界隈の雰囲気を味わうにとどめるのがよい。
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アジェの名が刻まれた場所 ── 通りから水星まで
生前のアジェは、自らを芸術家と呼ばず、記録の提供者として困窮のうちに世を去った。しかし死後、その名は複数の場所に刻まれ、公的に記憶されるようになった。ゆかりの地をたどる旅の締めくくりとして、彼の名を冠した地点を確認しておきたい。
第一に、パリ13区の「アジェ通り(Rue Eugène-Atget)」である。1978年、パリ市は13区の街路に彼の名を与えた。古きパリを記録し続けた男の名が、そのパリの街路図の一部として残されたことには、静かな正しさがある。彼が撮り続けた無数の通りの一本に、いまや彼自身の名が与えられているのである。
第二に、生誕地リブルヌの「アジェ通り」だ。1980年、彼の生まれ故郷リブルヌにも、同じく彼の名を冠した通りが設けられた。南西フランスの一地方都市に生まれ、パリで生涯を終えた記録者は、こうして故郷にも名を残した。
そして第三に、地球を離れた場所――水星のクレーターである。2008年、水星の地形に「アジェ(Atget)」の名が与えられた。芸術家の名を冠するという水星クレーターの命名規則に従ったもので、消えゆく地上の都市を記録した男の名が、いまや別の惑星の地形として刻まれている。
これらの「名を刻まれた場所」は、いずれもアジェ本人が訪れた土地ではない。しかし、一介の職人として生きた彼が、いかに大きな遺産を残したかを、これらの地名は雄弁に物語る。ゆかりの地をたどる旅は、彼が歩いた街路から始まり、彼の名が刻まれた通りとクレーターに至って、静かに閉じられる。
PLACES LIST / ゆかりの地一覧ゆかりの地一覧
本記事で扱ったスポットを、性格(生きた場所/撮った場所/顧客の場所/名を刻まれた場所)ごとに整理した。住所は現在の表記に基づく。公開状況は変更される場合があるため、訪問前に各施設の公式情報を確認すること。
| # | スポット名 | 性格 | 住所・所在地 | 現状 | 関連する作品・出来事 |
|---|---|---|---|---|---|
| 01 | リブルヌ | 生きた場所 | Libourne, Gironde | 現存する町(生家の明示標識は確認しにくい) | 1857年2月12日、この地で誕生 |
| 02 | ボルドー | 生きた場所 | Bordeaux, Gironde | 現存する港湾都市 | 5歳で孤児となり祖父母のもとで養育 |
| 03 | カンパーニュ・プルミエール通り31番地 | 生きた場所 | 31 rue Campagne-Première, 75014 Paris | 集合住宅 | 1890年頃の最初のスタジオ、看板を掲げる |
| 04 | カンパーニュ・プルミエール通り17番地ビス | 生きた場所 | 17 bis rue Campagne-Première, 75014 Paris | 集合住宅(記念銘板あり) | 1898–1927年の制作拠点、終焉の地 |
| 05 | 古きパリ(左岸・パンテオン周辺) | 撮った場所 | Rue de la Montagne-Sainte-Geneviève ほか, 75005 Paris | 街路として現存 | 《モンターニュ・サント=ジュヌヴィエーヴ通り》 |
| 06 | 古きパリ(右岸・商業街) | 撮った場所 | 121 rue Montmartre, 75002 Paris ほか | 街路として現存 | 《モンマルトル通り121番地》店先の記録 |
| 07 | サン=ジェルマンの三叉路 | 撮った場所 | Rue de Seine / Rue de l’Échaudé, 75006 Paris | ほぼ当時の面影を残す | 《セーヌ通りの角》1898・1924年、写真集の表紙 |
| 08 | ソー公園 | 撮った場所 | Parc de Sceaux, 92330 Sceaux | フランス式庭園として整備・公開 | 《ソー公園》連作 1925年 |
| 09 | サン=クルー公園 | 撮った場所 | Parc de Saint-Cloud, 92210 Saint-Cloud | 公園として公開 | サン=クルーの水景・彫像 1904年〜 |
| 10 | ヴェルサイユ宮殿の庭園 | 撮った場所 | Château de Versailles, 78000 Versailles | 公開 | 庭園の彫刻連作 1900年代〜1920年代 |
| 11 | カルナヴァレ美術館 | 顧客の場所 | 23 Rue de Sévigné, 75003 Paris | 公開施設 | プリント・ネガを収蔵する主要機関 |
| 12 | パリ市歴史図書館(BHVP) | 顧客の場所 | 24 Rue Pavée, 75004 Paris | 公開施設 | 「トポグラフィ」シリーズの発注元 |
| 13 | フランス国立図書館(BnF) | 顧客の場所 | Quai François-Mauriac, 75013 Paris ほか | 公開施設 | ネガ・プリントを収蔵 |
| 14 | アジェ通り(パリ) | 名を刻まれた場所 | Rue Eugène-Atget, 75013 Paris | 現存する街路(1978年命名) | 死後の顕彰 |
| 15 | アジェ通り(リブルヌ) | 名を刻まれた場所 | Rue Eugène-Atget, 33500 Libourne | 現存する街路(1980年命名) | 故郷での顕彰 |
| 16 | 水星のクレーター「アジェ」 | 名を刻まれた場所 | 水星(Mercury) | クレーター名として存在(2008年命名) | 芸術家の名を冠する命名規則による |
性格で見るアジェのゆかりの地
| 性格 | 代表的な地点 | 時期の中心 | 位置づけ |
|---|---|---|---|
| 生きた場所 | リブルヌ、ボルドー、カンパーニュ・プルミエール通り | 1857年〜1927年 | 生誕・養育・三十年の制作拠点 |
| 撮った場所 | 古きパリの街路、サン=ジェルマンの三叉路、ソー公園、サン=クルー、ヴェルサイユ | 1897年〜1927年 | 繰り返し通った撮影地。作品と現地を照合できる |
| 顧客の場所 | カルナヴァレ美術館、BHVP、BnF | 1900年代〜1920年代 | 記録を納め、生計を支えた公共機関 |
| 名を刻まれた場所 | アジェ通り(パリ13区・リブルヌ)、水星のクレーター | 1978年〜2008年 | 死後の顕彰 |
| エリア | 拠点都市 | 移動手段 | 所要の目安 | 徒歩完結の可否 |
|---|---|---|---|---|
| モンパルナス(カンパーニュ・プルミエール通り) | パリ | 地下鉄(Raspail/Vavin駅) | 半日 | 可 |
| 古きパリ左岸(パンテオン周辺・サン=ジェルマン) | パリ | 徒歩+地下鉄 | 半日〜1日 | 可 |
| マレ地区(カルナヴァレ・BHVP) | パリ | 地下鉄+徒歩 | 半日 | 可 |
| ソー公園 | パリ | RER B(Parc de Sceaux駅ほか) | 半日 | 園内は徒歩 |
| サン=クルー公園 | パリ | 地下鉄/トラム+徒歩 | 半日 | 園内は徒歩(斜面あり) |
| ヴェルサイユ | パリ | RER C(Versailles駅) | 1日 | 庭園は広く徒歩+園内交通 |
| リブルヌ・ボルドー | ボルドー | TGV+近郊列車 | 1〜2日 | 町内は徒歩 |
| 作品・主題 | 制作年 | 撮られた場所 | 現地の状態 |
|---|---|---|---|
| セーヌ通りの角 | 1898・1924年 | サン=ジェルマン、セーヌ通り/レショーデ通りの三叉路 | ほぼ当時の面影を残す |
| モンターニュ・サント=ジュヌヴィエーヴ通り | 1920年代 | 左岸パンテオン周辺の坂道 | 街路として現存 |
| モンマルトル通り121番地 | 制作年不詳 | 右岸モンマルトル通りの商店 | 街路として現存(店は変化) |
| ソー公園 連作 | 1925年 | ソー公園(当時は荒廃) | 整備・復元されて公開 |
| サン=クルーの水景・彫像 | 1904年〜 | サン=クルー公園 | 公園として現存 |
| ヴェルサイユ庭園の彫刻 | 1900年代〜20年代 | ヴェルサイユ宮殿の庭園 | 彫刻・庭園ともに現存 |
| パリのインテリア | 1910年前後 | カンパーニュ・プルミエール通り17番地ビスの自室 | 集合住宅(非公開、外壁に銘板) |
BOOKS & FILM / 本と映像街を歩く前に読む
アジェのゆかりの地を訪ねる前に読んでおくと、街路や庭園の見え方が変わる書籍・映像を掲載する。中古・品切れの状況は変動するため、購入前に各商品ページで確認されたい。

アジェのパリ【新装版】
- 著者
- 大島 洋
- 出版社
- みすず書房
- 形式
- 単行本
- ASIN
- 462207995X
本記事の内容と最も直接的に対応する一冊。日本の写真家・大島洋が、アジェの写真集をガイドブック代わりにパリの街を実地に歩き、同じ視点から都市論・写真論を展開する名著である。アジェが撮った街角に自ら立ち、写真と現地を照合していくその歩き方は、まさに「ゆかりの地をたどる」という本記事の趣旨そのものだ。旅の前に読めば行き先の意味が分かり、旅の後に読めば見てきた街並みが言葉になる。2016年の新装版。
Amazonで見る
ウジェーヌ・アジェ写真集
- 著者
- ジョン・シャーカフスキー 編/原信田 実 訳
- 出版社
- 岩波書店
- 形式
- 単行本
- ASIN
- 4000082132
MoMAの写真部門を牽引したキュレーター、ジョン・シャーカフスキーによる決定版モノグラフの日本語版。アジェの芸術的価値を世に知らしめた金字塔的な一冊で、作品選定と解説の水準が高い。本記事で扱った古きパリの街路、サン=ジェルマンの三叉路、庭園の彫刻といった主題を、まとまった図版で通覧できる。ゆかりの地を訪ねる前に、その場所で何が撮られたのかを頭に入れておく用途に適している。
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Eugène Atget. Paris(Bibliotheca Universalis)
- 著者
- Jean Claude Gautrand
- 出版社
- TASCHEN
- 形式
- 単行本(洋書)※
- ASIN
- 3836522306
手頃な価格でありながら、カルナヴァレ博物館などのアーカイブから高品質な図版を多数収録したタッシェンの写真集。多言語版で、テキストよりも図版を主体とするため、言語を問わずビジュアル・リファレンスとして使いやすい。古きパリの街路や店先をまとまった点数で見わたせ、訪問先の街並みが撮影当時どう見えていたかを確認するのに向いている。
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ウジェーヌ・アジェ回顧
- 著者
- 東京都写真美術館 企画・監修
- 出版社
- 東京都写真美術館(求龍堂ほか)
- 形式
- 単行本(図録)
- ASIN
- 447301620X
日本語で読めるまとまった作品集として有用な展覧会図録。東京都写真美術館が企画・監修したアジェの回顧展にあわせて刊行され、「開かれゆく20世紀のパリ」を副題に代表作を体系的に収める。日本の美術館の視点からアジェの全体像と、パリの街路・庭園との関係を確認できる。
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Atget: Photographe de Paris(Books on Books No.1)
- 著者
- Eugène Atget(写真)/Pierre Mac Orlan・David Campany ほか(解説)
- 出版社
- Errata Editions
- 形式
- 単行本(洋書)※
- ASIN
- 193500400X
1930年にベレニス・アボットらの手で刊行されたアジェ初の写真集『Photographe de Paris』を、現代の解説とともに復刻する「Books on Books」シリーズ第1巻。初版写真集の表紙を飾ったサン=ジェルマンの三叉路(セーヌ通りの角)など、アジェのパリがどのように一冊の写真集として提示されたのかを追体験できる。
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A07 地球の歩き方 パリ&近郊の町 2026〜2027
- 著者
- 地球の歩き方編集室
- 出版社
- 地球の歩き方
- 形式
- 単行本
- ASIN
- 4058026251
本記事のゆかりの地を実際に歩くための実務的な一冊。モンパルナス、サン=ジェルマン=デ=プレ、マレ地区(カルナヴァレ美術館)、そしてソー公園やヴェルサイユといった近郊まで、交通手段・開館時間・地図がまとまっている。アジェの撮影地は美術書には載っていない街角も多いため、現地で位置を確認するための地図とアクセス情報を一冊持っておくと安心である。Kindle版(ASIN:B0G2L78TDB)もある。版年は随時更新されるため、渡航時期に合わせた最新版を選ぶこと。
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過去はいつも新しく、未来はつねに懐かしい 写真家 森山大道
- 監督
- 岩間 玄
- 出演
- 森山 大道
- 形式
- Blu-ray(発売:VAP)
- ASIN
- B0BSGX2FW1
アジェの業績を単独で網羅した映像作品はAmazonでの流通が限定的なため、その系譜を継ぐ「都市を彷徨する記録者」の写真ドキュメンタリーを掲載。変わりゆく都市空間を歩きながら撮り続ける森山大道に密着し、アジェが切り拓いた「都市を歩いて記録する」という営みが現代にどう受け継がれているかを考える映像資料になる。
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REFERENCES / 出典参考文献
所蔵館・研究機関の資料
- Eugène Atget — MoMA(作家ページ・アーカイブ)
- Eugène Atget: “Documents pour artistes” — MoMA
- Eugène Atget (1857–1927) — The Metropolitan Museum of Art
- [Atget’s Work Room with Contact Printing Frames] — The Metropolitan Museum of Art
- Eugène Atget — Saint-Cloud — The Metropolitan Museum of Art
- Parc de Sceaux(1925年) — National Gallery of Art
- Environs, Amiens(1898年以前) — National Gallery of Art
- Jean-Eugène-Auguste Atget — The Art Institute of Chicago
- Eugène Atget — J. Paul Getty Museum
伝記・地誌・現地の資料
- Eugène Atget — Wikipedia(英語版)
- Eugène Atget — Wikipédia(フランス語版)
- Biography and Early Career of Eugène Atget — AMERICAN SUBURB X
- 17 Rue Campagne-Première — Mémoire des lieux(Geneanet)
- The quintessential Paris artists’ street — Jenn Bragg(Substack)
- 11 PHOTOGRAPHIES d’Eugène Atget — Domaine de Sceaux(PDF)
- ‘Eugène Atget’s Intelligent Documents’ — David Campany
学術的分析・日本語資料
- ウジェーヌ・アジェの写真による19世紀末から20世紀初頭のパリにおけるピトレスクの概念に関する研究(江口久美) — CiNii Research
- フランスの都市景観におけるピトレスク概念の誕生と都市保全 — KAKEN
- ウジェーヌ・アジェ — Google Arts & Culture
- ウジェーヌ・アジェ — Wikipedia(日本語版)
画像(Wikimedia Commons 主要ファイルページ)
- Category:Eugène Atget — Wikimedia Commons
- Category:Photographs of Paris by Eugène Atget — Wikimedia Commons
- File:Eugène Atget Coin rue de Seine.jpg
- File:Plaque Eugène Atget, 17 bis rue Campagne-Première, Paris 14.jpg (fr.wikipedia Fichier に収載)
- File:Eugène Atget, Parc de Sceaux, 1925, NGA 124987.jpg
- Category:Rue Eugène-Atget (Paris) — Wikimedia Commons









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