ドガ 生涯

エドガー・ドガの生涯|「独立派」を名乗った踊り子の画家、83年の軌跡|アーティストの人生
生涯19世紀・近代フランスパリ(フランス)踊り子・近代生活の画家
EDGAR DEGAS · BIOGRAPHY

エドガー・ドガの生涯The Life of Edgar Degas: A Realist Among the Impressionists

エドガー・ドガは、しばしば「印象派の画家」「踊り子の画家」として語られる。だが本人は生涯にわたって「印象派」という呼び名を嫌い、自らを「写実主義者(レアリスト)」あるいは「独立派(アンデパンダン)」と称した。裕福なパリのブルジョワ家庭に生まれ、新古典主義の巨匠アングルを神のように崇め、徹底した線描と構図の訓練を受けた古典主義者。それでいて、競馬場、カフェ、オペラ座の稽古場といった近代都市の情景に冷徹なまなざしを注ぎ、労働としてのバレエ、搾取される少女たちの現実を描き出した革新者。この記事では、古典と近代のはざまに立ち続けたドガの生涯を、誕生から、マネとの友情と決裂、カサットとの知的共鳴、視力の低下がもたらした彫刻とパステルへの劇的な転回、そして孤独な最期まで、時系列にたどっていく。

《ダンス教室》
《ダンス教室(The Dance Class)》1874年、メトロポリタン美術館蔵。焼失前の旧オペラ座の稽古場を舞台に、名バレエマスター、ジュール・ペローの指導を受ける少女たちを描く。極端に持ち上げられた視点と、斜めに後退する床の線が奥行きを強調し、ポーズをとる中央の少女以外は爪を噛みかみ、背中をかき、疲れて座り込む。理想化を排したドガの観察眼を象徴する一枚。Edgar Degas, The Dance Class, 1874 / The Metropolitan Museum of Art, New York / Wikimedia Commons, Public Domain
PROFILE基本情報
生年1834年7月19日
出身フランス パリ(モンマルトル南部)
没年1917年9月27日
没地フランス パリ
享年83歳
ジャンル油彩・パステル・版画・彫刻/近代生活の主題(踊り子、競馬、浴女、肖像)
本名イレール=ジェルマン=エドガー・ド・ガス(Hilaire-Germain-Edgar De Gas)
別名・通称踊り子の画家/独立派(アンデパンダン)を自称
代表作ダンス教室/エトワール/14歳の小さな踊り子/アブサント/ベレッリ家
主な所蔵館オルセー美術館/メトロポリタン美術館/ナショナル・ギャラリー(ロンドン)/J・ポール・ゲティ美術館/シカゴ美術館/北九州市立美術館
3点でわかるドガの生涯
  1. 裕福な家に生まれ、アングルに憧れた古典主義者だった。 ドガはパリの上層ブルジョワ家庭に生まれ、エコール・デ・ボザールで新古典主義の系譜に連なる訓練を受けた。憧れの巨匠アングルからかけられた「線を描きなさい、若者よ!」という言葉を生涯の造形理念とし、色彩よりも輪郭線と構図の堅牢さを重んじた。
  2. 「印象派」を嫌い、近代都市パリを冷徹に描いた。 第1回印象派展の中心的な組織者でありながら、戸外制作を嫌い、記憶と計算に基づくアトリエ制作に徹した。競馬場、カフェの人工光、そして労働としてのバレエ稽古場へとまなざしを向け、対象を美化しない写実で描いた。
  3. 視力を失いながら、彫刻とパステルで芸術を革新した。 晩年、視力が急激に衰えると、ドガは視覚への依存を離れ、指でインクをこするモノタイプ、蜜蝋みつろうを捏ねこねる彫刻、荒々しいパステルの色彩へと向かった。死後、アトリエから150点近い彫刻群が発見され、美術界を驚かせた。
BIOGRAPHY

エドガー・ドガの生涯

ドガの絵の前に立つと、私たちはしばしば「覗き見のぞきみ」をしているような感覚におそわれる。舞台の袖から見上げる踊り子、稽古の合間に足首をさする少女、入浴する裸婦。彼はモデルを美化せず、見られていることを意識しない一瞬の身ぶりを、冷徹なまでに正確に画布へ定着させた。その観察眼は、恵まれた出自と古典的教養、そして視力を失っていく晩年の逆説から生まれた。本記事は、古典と近代のはざまを歩んだ「独立派」の生涯を、誕生から死後の再発見までたどる。

1834–1855年パリ/幼少期・修業時代01

誕生と古典主義への傾倒 ── 銀行家の家と、アングルへの憧れ

エドガー・ドガは1834年7月19日、パリのモンマルトル南部に位置する裕福な上層ブルジョワジーの家庭に生まれた。本名はイレール=ジェルマン=エドガー・ド・ガス。彼は生涯を通じて誇り高きパリジャンであり続け、活動の拠点も常にパリに置いた。

父オーギュスト・ド・ガスは、ナポリに本店を置く一族の銀行のパリ支店を経営していた。母セレスティーヌは、アメリカのニューオーリンズで綿花取引を営む、裕福なフランス系クレオールの一族の出身である。フランス、イタリア、そしてアメリカにまたがる多国籍な血縁と社会的ネットワークは、後のドガの人生と芸術観に決定的な影響を与えることになる。ド・ガス家は文化的にも洗練された環境にあり、母はオペラのアリアを歌い、父は自宅で定期的に音楽会を催した。この家庭の音楽的な空気は、後年ドガが手がける音楽家や演奏の情景にも通じている。

《自画像(Self-Portrait)》
《自画像(Self-Portrait)》《自画像(Self-Portrait)》1857–58年頃、J・ポール・ゲティ美術館蔵。開いた襟元とつば広の帽子というカジュアルな装いで、若き画家の内省的な表情がクローズアップで捉えられている。ドガはこの時期に15点以上の自画像を残しており、探求心と未来への不安が入り混じった青年の姿が刻まれている。Edgar Degas, Self-Portrait, c.1857–58 / J. Paul Getty Museum, Los Angeles / Google Art Project via Wikimedia Commons, Public Domain

ドガはパリの名門リセ・ルイ=ル=グランで、ラテン語・ギリシャ語・古代史などの古典教育を受け、エリートとしての教養を身につけた。父は息子の並外れた芸術的才能を早くから見抜き、頻繁にルーヴル美術館や、豊かな個人コレクションを持つ友人たちの邸宅へと連れ出して、審美眼を養わせた。ドガの最初期の訓練は、一人でルーヴルに赴きイタリア・ルネサンスの絵画を模写し、パリ国立図書館で版画を模写することから始まっている。

1855年、彼はエコール・デ・ボザール(国立美術学校)に入学し、新古典主義の巨匠ジャン=オーギュスト=ドミニク・アングルの弟子であったルイ・ラモットの画塾に師事する。ラモットの指導は、線描とデッサンの重要性を徹底的に叩き込む伝統的なアカデミズムに基づいていた。若き日のドガにとって、アングルは絶対的な存在だった。ドガが巨匠本人に対面した際、かけられたという言葉が語り継がれている。「線を描きなさい、若者よ! 線を描きなさい!(Draw lines, young man, draw lines!)」。この教えに従い、ドガは色彩や表面の質感よりも、輪郭線と構図の堅牢な構造を重んじる画家になっていく。この厳格な古典的傾向こそが、のちに色彩を重視する印象派の画家たちとの間に決定的な亀裂を生む要因となる。

1856–1859年イタリア(ナポリ・ローマ・フィレンツェ)/遊学02

イタリア遊学と『ベレッリ家』 ── 「私は何も知らない」

1856年、ドガはエコール・デ・ボザールの権威ある登竜門「ローマ賞」への挑戦を放棄し、父の資金援助を受けて単身イタリアへ遊学するという決断を下す。1859年までの3年間、彼は親戚のいるナポリを拠点に、ローマやフィレンツェを巡り、古代美術、トレチェント(14世紀のイタリア美術)、ルネサンスの巨匠たちの作品を貪るように模写した。スケッチブックは歴史的建造物や風景、そして何百というフレスコ画や油彩画の素早い鉛筆模写で埋め尽くされていく。

このイタリア滞在中、彼は手稿にこう書き記している。「自分は全く何も知らないということを完全に自覚しなければならない。それが前進するための唯一の方法だ(I must thoroughly realize I know nothing at all; it is the only way to get ahead.)」。恵まれた才能と教養を持ちながら、圧倒的な自己研鑽けんさんを自らに課すこの姿勢は、生涯を貫くドガの制作態度そのものだった。

《ベレッリ家(The Bellelli Family)》
《ベレッリ家(The Bellelli Family)》《ベレッリ家(The Bellelli Family)》1858–1867年、オルセー美術館蔵。イタリアで暮らす伯母一家を描いた大作。喪服の伯母ラウラと二人の娘、そして背を向けて座る夫を配し、家族のあいだに走る心理的な緊張を静かに映し出す。ドガが生涯手放さなかった初期の傑作。Edgar Degas, The Bellelli Family, 1858–1867 / Musée d’Orsay, Paris / Google Art Project via Wikimedia Commons, Public Domain

そしてこの時期の集大成が、のちにオルセー美術館へ収蔵される大作『ベレッリ家(The Bellelli Family)』(1858–1867年)である。ナポリに暮らす伯母ラウラの一家を描いたこの記念碑的な家族の肖像は、伝統的な歴史画のスケールを持ちながら、夫婦間の心理的な断絶や緊張感をはらんでいる。黒い喪服の伯母と、背を向けて座る夫バロン・ベレッリ、そして二人の娘。一見静かな家庭の情景でありながら、そこには冷え切った関係が漂う。対象の内面を容赦なく描き出す、後のドガ特有の「心理的リアリズム」の萌芽が、すでにここに明確に表れている。

1860年代パリ/画業の転換03

歴史画から近代パリへ ── スパルタの少女たちと競馬場

イタリアから帰国した1860年代初頭、ドガは厳格な学問的訓練を活かし、歴史画家としての成功を目指していた。当時の画家の序列で最も格の高いジャンルは歴史画であり、若きドガが名声を狙ったのは自然な選択だった。『スパルタの少女たちの修練(Young Spartans Exercising)』(1860年頃)は、古代ギリシャの歴史家プルタルコスの『リュクルゴス伝』に着想を得た作品である。プルタルコスによれば、スパルタの立法者リュクルゴスは、少女たちにも走る、レスリングをする、円盤や投げ槍を投げるといった運動を命じ、少年たちに挑ませたという。

ところが、ドガはこの制作の過程で、古典的な理想美をあえて放棄した。彼は最初の習作(現在シカゴ美術館蔵)を破棄し、モンマルトルの街角にいるような現代的で生々しい顔つき・身体つきへと少年少女を置き換えていった。古典の主題を借りながら、そこに近代の身体を持ち込む。古典と近代のはざまで揺れ動くドガの葛藤が、この一枚に凝縮されている。

《スパルタの少女たちの修練(Young Spartans Exercising)》
《スパルタの少女たちの修練(Young Spartans Exercising)》《スパルタの少女たちの修練(Young Spartans Exercising)》1860年頃、ナショナル・ギャラリー(ロンドン)蔵。プルタルコスの記述に着想を得ながら、古典的理想美を捨て、現代的で挑発的な身体描写へと置き換えた作品。ドガはこの絵を生涯手元に置き続けた。Edgar Degas, Young Spartans Exercising, c.1860 / The National Gallery, London / Wikimedia Commons, Public Domain
《田舎の競馬場で(Aux courses en province/At the Races in the Country)》
《田舎の競馬場で(Aux courses en province/At the Races in the Country)》《田舎の競馬場で(Aux courses en province/At the Races in the Country)》1872年頃、ボストン美術館蔵。競馬場を訪れた一家を、幌付きほろつきの馬車ごと画面へ収めた一枚。競馬という近代のレジャーを、家族の私的な情景として捉えたところにドガの近代性がにじむ。Edgar Degas, At the Races in the Country, c.1872 / Museum of Fine Arts, Boston / Wikimedia Commons, Public Domain

1860年代後半になると、ドガの興味は明確に「近代都市パリの生活」へと移っていく。その最初の大きな転換点となったのが競馬場だった。エドゥアール・マネが同様の主題を手がけるよりも早く、ドガは斬新な視点と大胆な色彩で競馬の情景を描き出した。彼にとって馬やジョッキーは、近代社会のレジャーの象徴であると同時に、「運動(ムーブメント)」を捉えるための格好の対象でもあった。またこの時期、彼はエミール・ゾラやゴンクール兄弟といった自然主義の作家たちに自らをなぞらえ、社会を客観的に記述する視点を短期間ながら採用している。

1870年代パリ/印象派展の時代04

「印象派」との距離と人工光

1874年、ドガは後に「第1回印象派展」と呼ばれることになる画期的な展覧会の、主要な組織者の一人となった。ところが彼自身は、このグループ展を「印象派」ではなく「写実主義者のサロン(salon of Realists)」と呼ぶことを強く提案していた。彼にとって、クロード・モネやカミーユ・ピサロらが実践した戸外制作(プレネール)は理解しがたいものだった。彼らが太陽の光がもたらす色彩の移ろいと輪郭線の溶解を追求したのに対し、ドガは戸外での制作を嫌い、アトリエでの綿密な記憶と計算に基づく制作に固執した。

ドガが魅了されたのは、自然光ではなく、カフェ・コンセールや劇場、オペラ座を照らす人工光だった。下から強烈に照らすフットライトは、人物の顔に不自然な影を落とし、輪郭を奇妙に歪めるゆがめる。しかしドガは、この人工的な光を利用して人物の形態を彫刻的に浮かび上がらせ、自らの古典的訓練の核である「線」を強調した。彼の芸術の根底にあったのは、自然の受動的な模倣ではなく、知性と記憶に基づく空間の能動的な構築である。このためドガは、印象派のグループのなかで常に「部外者」の立場を保ち続けた。その気難しい態度や派閥のふるまいは、しばしばグループに緊張をもたらした。

《アブサント(L'Absinthe/原題 Dans un café)》
《アブサント(L’Absinthe/原題 Dans un café)》《アブサント(L’Absinthe/原題 Dans un café)》1875–76年、オルセー美術館蔵。カフェでアブサントを前にする女と、視線をそらす男。並んで座りながら交わらない二人の姿に、近代都市の倦怠けんたいと孤独が凝縮されている。人工光に照らされた情景を好んだドガの代表作。Edgar Degas, L’Absinthe (In a Café), 1875–76 / Musée d’Orsay, Paris / Google Art Project via Wikimedia Commons, Public Domain

カフェという近代の情景を最も鋭く捉えた一枚が、《アブサント》である。うつろな表情でグラスを前にする女と、視線をそらす男。二人は並んで座りながら、互いにまったく交わらず、都市のなかの孤独をそのまま画面に定着させている。理想化を排したこの冷ややかな観察は、ロンドンで公開された際に「醜い」「不道徳だ」と激しい非難を浴びたが、それこそがドガの近代性の核心だった。

1862–1869年頃パリ/マネとの交友05

マネとの友情と肖像画切断事件

ドガの生涯を語るうえで欠かせないのが、同時代の画家たちとの複雑な関係である。彼は気難しく、皮肉屋で、時に傲慢にすら見えたが、真に才能を認めた相手には深い敬意を払い、忠実な友人であり続けた。

エドゥアール・マネとの出会いは1862年頃、ルーヴル美術館でのことだったと言われている。ドガがベラスケスの絵画を銅版画に模写していたところ、2歳年上のマネに話しかけられたのがきっかけだった。近代生活を描く画家という共通の関心から、二人は親密な交流を持つようになる。だが、その性格や芸術的アプローチ、キャリア戦略や政治的見解は対照的だった。ともにブルジョワ階級の出身でありながら、マネは社交的でパリのサロンの中心人物であったのに対し、ドガは内向的で孤高を好んだ。

《マネとマネ夫人像(Monsieur et Madame Édouard Manet)》
《マネとマネ夫人像(Monsieur et Madame Édouard Manet)》《マネとマネ夫人像(Monsieur et Madame Édouard Manet)》1868–69年頃、北九州市立美術館蔵。ソファーでくつろぐマネと、ピアノを弾く妻シュザンヌを描いた友情の贈り物。画面右のシュザンヌの顔と身体は刃物で断ち切られており、贈られたマネ本人の手によるものと考えられている。二人の関係を物語る傷ついたカンヴァス。Edgar Degas, Monsieur et Madame Édouard Manet, c.1868–69 / Kitakyushu Municipal Museum of Art / Wikimedia Commons, Public Domain

この二人のあいだで起きた最も劇的な逸話が、「肖像画切断事件」である。1868年から69年頃、ドガは友情の証として『マネとマネ夫人像(Portrait of M. and Mme. Édouard Manet)』を描き、マネに贈った。ソファーでくつろぐマネと、ピアノを弾く妻シュザンヌを描いた作品である。ところが後日マネの家を訪れたドガは驚愕きょうがくする。絵の右部分、ちょうどシュザンヌの顔と身体の大半が、刃物で断ち切られていたのだ。激怒したドガは絵を抱えて持ち帰り、代わりにマネから贈られていたプラムの静物画を突き返したという。

マネがなぜ絵を切り裂いたのか、その真相は今も美術史の謎である。妻シュザンヌの描写が気に入らなかったという説、あるいは、当時ベルト・モリゾと親密だったマネ夫妻の冷え切った関係を、ドガの容赦ない観察眼が画面に暴き出してしまい、マネがそれを直視できなかったという説などが語られている。この事件で二人は一時的に絶縁するが、数年後には関係を修復した。ドガは切り裂かれた絵に新しいカンヴァスを継ぎ足したものの、結局シュザンヌの顔を描き直すことはなく、自身の死に至るまでその不完全な絵を自室に飾り続けた。傷ついたカンヴァスそのものが、二人の巨匠の緊張関係と深い精神的な結びつきを、今に伝えている。

1877–1880年代パリ/カサットとの協働06

メアリー・カサットとの共鳴 ── 「私と同じように見る者」

ドガの芸術人生において、もう一人、きわめて重要だったのがアメリカ出身の女性画家メアリー・カサット(Mary Cassatt)である。1874年からパリに定住していたカサットの作品を1877年に見たドガは、「ここに私と同じように見る者がいる(Here’s someone who sees as I do.)」と感嘆し、彼女を1879年の印象派展に招いた。

美術史では「カサットはドガの生徒だった」という神話が今も語られることがあるが、これは誤りである。二人は対等な芸術的同盟者であり、知的なレベルで深く共鳴し合う共同制作者だった。ドガは女性に対して極めて不器用で、「芸術家は一人で生きなければならない」と信じて生涯独身を貫いたが、カサットに対しては並外れた敬意を抱いていた。二人は同じ社交界や知的サークルに属し、芸術の伝統に対する深い理解を分かち合っていた。

《ルーヴル美術館のメアリー・カサット──エトルリアの間(Mary Cassatt at the Louvre: The Etruscan Gallery)》
《ルーヴル美術館のメアリー・カサット──エトルリアの間(Mary Cassatt at the Louvre: The Etruscan Gallery)》《ルーヴル美術館のメアリー・カサット──エトルリアの間(Mary Cassatt at the Louvre: The Etruscan Gallery)》1879–80年、メトロポリタン美術館蔵。カサットと妹リディアを、ルーヴルの展示室に立つ姿で描いた版画。傘を杖のように携え、作品に見入るカサットは、自立した近代の女性として捉えられている。二人が実験を重ねた版画協働の成果。Edgar Degas, Mary Cassatt at the Louvre: The Etruscan Gallery, 1879–80 / The Metropolitan Museum of Art, New York / Wikimedia Commons, Public Domain

ドガはカサットをモデルに一連の作品を制作している。代表的なものが『ルーヴル美術館のメアリー・カサット』のシリーズだ。ここでは、カサットはエレガントな装いで美術館を訪れ、傘を杖のように携えて絵画に見入る、自立した知的な女性として描かれる。二人のあいだには版画技法を中心とした濃密な技術的交流があり、ドガはカサットの大胆な空間構成や日本美術(浮世絵)への理解を高く評価していた。彼女の影響を受けて、ドガの構図もより非対称で急角度なものへと進化していったと指摘されている。

1870–1880年代パリ/オペラ座と労働の主題07

踊り子たちの現実 ── 「小さなネズミたち」と労働する女性

ドガの全画業のうち、およそ半分にあたる約1500点を占めるのが、バレエの踊り子を主題とした作品群である。しかしドガが踊り子を描いた理由は、舞台上の華やかな美しさに魅了されたからではなかった。彼はこう語っている。「人々は気づいていないが、私が踊り子に最も関心を抱くのは、運動(ムーブメント)を描くことと、美しい衣装を描くことにあるのだ」。ドガにとってバレエの稽古場は、極限まで訓練された人体の力学、筋肉の収縮、不自然なポーズが生む空間の緊張を研究するための、完璧な実験室だった。

さらに重要なのは、19世紀末のパリにおけるオペラ座のバレエダンサー──いわゆる「小さなネズミたち(petits rats)」──の社会的背景である。当時のバレリーナの多くは労働者階級の極貧家庭の出身で、バレエは貧困から抜け出し、成功をつかむための数少ない手段だった。同時に、オペラ座の舞台裏は、定期会員である富裕な男性パトロン(abonnés)たちが少女たちを物色し、経済的援助と引き換えに関係を結ぶ場でもあった。ドガはこうした構造をロマンチックに粉飾することなく、冷徹なリアリズムで描いた。彼の作品に登場する踊り子たちは、しばしばあくびをし、背中をかき、疲れ果てて座り込み、足首をさすっている。それは理想化されたミューズではなく、厳しい肉体労働を強いられる、生身の労働者としての女性の記録だった。

《エトワール(L'Étoile/舞台の踊り子)》
《エトワール(L’Étoile/舞台の踊り子)》《エトワール(L’Étoile/舞台の踊り子)》1876–77年頃、オルセー美術館蔵。スポットライトを浴びて舞台中央に立つ主役の踊り子を、俯瞰ふかんの視点で捉えたパステルの名作。だが画面の奥、暗がりには黒服の男(パトロンとされる)がひそかに立っており、華やかな舞台の裏にある現実を暗示する。Edgar Degas, L’Étoile (The Star), c.1876–77 / Musée d’Orsay, Paris / Google Art Project via Wikimedia Commons, Public Domain
《アイロンをかける女たち(Repasseuses)》
《アイロンをかける女たち(Repasseuses)》《アイロンをかける女たち(Repasseuses)》1884–86年頃、オルセー美術館蔵。あくびをしながら伸びをする女と、体重をかけてアイロンを押す女。労働に疲れた身体の生々しい動きを、飾ることなく描き出した一枚。踊り子と並ぶ、ドガの「労働する女性」の主題を示す作例。Edgar Degas, Women Ironing (Repasseuses), c.1884–86 / Musée d’Orsay, Paris / Wikimedia Commons, Public Domain

踊り子と同じまなざしは、パリの働く女性たちにも向けられた。ドガはアイロンをかける洗濯女や、髪をとかす女、入浴する女といった、労働と日常のなかの身体を繰り返し描いている。華やかな舞台であれ、蒸気のこもる洗い場であれ、彼が見つめたのは一貫して「働く身体」の現実だった。

1880–1881年パリ/彫刻への挑戦08

彫刻と『14歳の小さな踊り子』

ドガは絵画だけの画家ではなかった。彼は蜜蝋みつろう(ワックス)や粘土を捏ねこねて、無数の彫刻を制作している。当初、彫刻は絵画のためのポーズ研究という補助的な手段だったが、やがてそれ自体が三次元の身体研究へと深まっていった。

その到達点が、1881年の第6回印象派展で公開された『14歳の小さな踊り子(La Petite Danseuse de Quatorze Ans)』である。モデルは、パリ・オペラ座バレエ学校の生徒だったベルギー出身の少女、マリー・ヴァン・ゲーテムとされる。この彫刻は、当時としては異例の蝋ろうで成形されたうえに、本物の胴着、チュチュ、バレエシューズ、そして人毛のかつらまで身につけていた。彫像を人形のように着飾らせるという前例のない手法は、観客に衝撃を与えた。理想化された古典彫刻とはまるで異なる、生々しい現実の少女像への反応は賛否が激しく、ドガはこれ以後、生前に彫刻を公に発表することは二度となかった。

《14歳の小さな踊り子(La Petite Danseuse de Quatorze Ans)》
《14歳の小さな踊り子(La Petite Danseuse de Quatorze Ans)》《14歳の小さな踊り子(La Petite Danseuse de Quatorze Ans)》原型 1880年頃、メトロポリタン美術館蔵(ブロンズ鋳造)。モデルはオペラ座バレエ学校の少女マリー・ヴァン・ゲーテム。原型は蝋で成形され、本物のチュチュとリボンをまとっていた。1881年の第6回印象派展で公開され、ドガが生前に公開した唯一の彫刻となった。Edgar Degas, The Little Fourteen-Year-Old Dancer, modeled c.1880 (cast in bronze) / The Metropolitan Museum of Art, New York / Wikimedia Commons, Public Domain

しかしドガは、人知れず彫刻の制作を続けていた。死後、彼のアトリエからは150点近い蝋と粘土の彫刻群が発見される。踊り子、浴女、馬たちのかたちが、視覚に頼らず、指と手のひらの感覚で捏ね上げられていた。これらは後にブロンズに鋳造され、絵画とは別の角度からドガの身体探求の深さを世に知らしめることになる。

1880年代後半–1900年代パリ/晩年の技法革新09

視力の低下と触覚的芸術 ── モノタイプ、浴女、パステルの炸裂

1880年代後半以降、ドガの視力は急激に悪化しはじめる。1870年から71年の普仏戦争でのパリ防衛に従軍した際に負った後遺症が原因とされる。視覚の衰えは画家にとって致命的であるはずだが、ドガの場合、これが逆説的に未曾有みぞうの造形的革新をもたらした。

美術史家キャスリン・ブラウンの研究が指摘するように、ドガは版画技法の一種であるモノタイプにおいて、インクで真っ黒に塗りつぶした版から、布や指でインクを拭き取って光を描き出す「ダークフィールド(黒の技法)」を多用した。彼はこれらの作品で、ランプや暖炉といった標準的な光源をあえて排除し、「視覚的知覚の重要な前提である光が取り除かれたとき、二次元の作品に何が起こるか」を探求していたという。視力を失いつつあったドガは、視覚への依存から離れ、「触覚」的なアプローチによって空間と形態を組み立てはじめたのである。指で直接インクをこする身体的な行為は、後のパステルの荒々しいストロークや、手の感覚だけで蝋ろうを捏ねこねた彫刻へと直結していく。

《湯浴み(The Tub/浅い盥で身を洗う女)》
《湯浴み(The Tub/浅い盥たらいで身を洗う女)》《湯浴み(The Tub/浅い盥で身を洗う女)》1886年、オルセー美術館蔵。浅い盥にかがみ込み、朝の光のなかで身体を洗う裸婦を、真上に近い俯瞰ふかんの視点から描いたパステル。1886年の第8回印象派展に出品された浴女連作の一つで、荒々しいパステルの色面と、私的な身ぶりへの容赦ないまなざしが晩年のドガを象徴する。Edgar Degas, The Tub, 1886 / Musée d’Orsay, Paris / Wikimedia Commons, Public Domain

晩年のドガは、カフェや街の情景といった社会的・時事的な主題から離れ、室内で入浴し、髪をとかす女性の連作へ没入していった。彼は自らの視点を「まるで鍵穴から覗き見のぞきみているような錯覚におそわれるはずだ」と表現し、見られていることを意識しない、純粋に身体の手入れに集中する女性の動きを捉えた。視力の低下により細部の緻密な描写は難しくなったが、その代わりパステル画では、燃え上がるような鮮やかな色彩と、幾重にも塗り重ねられた荒々しい線状のハッチングが画面を支配するようになる。太い線と強烈な色彩の対比は、ほとんど20世紀のフォーヴィスム(野獣派)や表現主義を予告するものだった。印象派のなかでドガは、19世紀の伝統的なアカデミズムから20世紀の急進的な前衛芸術へと架け橋になった、特異な存在だったと言える。

1890年代–1917年パリ/孤独な晩年と死10

孤独な最期と死後の発見

芸術的な高みに達する一方で、晩年のドガの私生活は、しだいに孤独で閉鎖的なものになっていった。彼は元来の気難しい性格から、制作中のジャーナリストや好奇心からの訪問者をアトリエから容赦なく追い出し、制作に異常なほどのめり込んだ。

さらに、1890年代後半にフランス社会を二分したドレフュス事件において、ドガは強烈な反ユダヤ主義の立場をとった。この態度によって、彼は長年の友人であったカサットを含む、多くの知人たちと疎遠になってしまう。かつて深く共鳴し合った芸術上の同盟者たちとの関係も、こうして断たれていった。

1912年、住み慣れたアトリエからの立ち退きを余儀なくされたことを機に、視力と聴力をほぼ完全に失っていたドガは、名声の絶頂にありながら、自発的に制作をやめるという異例の決断を下す。彼は自身が収集したアングルやドラクロワの膨大なコレクションと、自らの作品群に囲まれながら、追憶のなかへと引きこもった。そして1917年9月27日、パリで83年の生涯を静かに閉じた。

死後、彼のアトリエからは、生前ほとんど誰にも見せなかった何千枚ものデッサンとパステル画、そして150点近い蝋ろうと粘土の彫刻群が発見された。生前は「踊り子の画家」という一面だけで知られていたドガが、じつはいかに広く深く身体と運動を探求し続けていたか。その全貌が明らかになるのは、彼が世を去ってからのことだった。古典を信奉しながら近代を描き、印象派を主導しながらその原理を拒み、恵まれた出自にありながら労働する身体に憑かれつかれ、視力を失いながら芸術を革新した──ドガの生涯は、強烈な逆説の連なりそのものである。その作品の前に立つとき、私たちが目にするのは、並外れた知性と冷徹な観察によって解剖され、組み立て直された、人間の身体と心理の普遍的な真実である。

CHRONOLOGY & WORKS / 年譜と作品人生と作品を一緒に見る

ドガの生涯の主要な出来事と、その時期に生まれた代表作を並べて示す。年齢は満年齢の目安。作品の制作年には諸説があり、ここでは一般的な推定年を用いている。

1834年0
LIFE

7月19日、パリのモンマルトル南部に、銀行家の家の長男として誕生。

WORKS

―

1855年21
LIFE

エコール・デ・ボザール入学。アングルの弟子ルイ・ラモットに師事。

WORKS

初期の自画像・模写

1856–59年22–25
LIFE

ローマ賞を放棄し、イタリアへ遊学。ナポリ・ローマ・フィレンツェで古典を模写。

WORKS

《自画像》、《ベレッリ家》の構想・習作

1858–67年24–33
LIFE

イタリアで得た習作をもとに大作を完成。

WORKS

《ベレッリ家》

1860年頃26
LIFE

歴史画家を志す。古典主題に近代の身体を持ち込む。

WORKS

《スパルタの少女たちの修練》

1862年頃28
LIFE

ルーヴルでマネと出会い、親交が始まる。

WORKS

競馬・ジョッキーの主題に着手

1868–69年頃34–35
LIFE

マネに贈った肖像画が切断される「肖像画切断事件」。

WORKS

《マネとマネ夫人像》

1872年頃38
LIFE

近代のレジャーとしての競馬を描く。

WORKS

《田舎の競馬場で》

1874年40
LIFE

第1回印象派展の主要な組織者となる。戸外制作は拒み続ける。

WORKS

《ダンス教室》

1875–76年41–42
LIFE

カフェの人工光と都市の孤独を描く。

WORKS

《アブサント》

1876–77年頃42–43
LIFE

舞台の踊り子をパステルで捉える。

WORKS

《エトワール》

1877–80年43–46
LIFE

カサットと出会い、版画で協働。1879年展に招く。

WORKS

《ルーヴル美術館のメアリー・カサット》

1881年47
LIFE

第6回印象派展で蝋ろうの彫刻を公開し、賛否を呼ぶ。

WORKS

《14歳の小さな踊り子》

1884–86年50–52
LIFE

労働する女性・浴女の連作に取り組む。

WORKS

《アイロンをかける女たち》《湯浴み》

1880年代後半–1900年代50代–70代
LIFE

視力が悪化。モノタイプ・彫刻・パステルへ転回。

WORKS

ダークフィールド・モノタイプ、浴女のパステル連作

1890年代後半60代
LIFE

ドレフュス事件で反ユダヤ主義の立場をとり、友人と疎遠に。

WORKS

―

1912年78
LIFE

アトリエ立ち退きを機に制作をやめる。

WORKS

―

1917年83
LIFE

9月27日、パリで死去。死後、アトリエから膨大なデッサンと彫刻群が発見される。

WORKS

―

ドガの生涯を彩った人々

人物立場・関係ドガの生涯における役割
オーギュスト・ド・ガス父ナポリ系の銀行のパリ支店を経営。息子の才能を見抜き、審美眼を養わせた
セレスティーヌ・ド・ガス母ニューオーリンズの綿花商の家系出身のクレオール。多国籍な血縁の一端を担う
ジャン=オーギュスト=ドミニク・アングル憧れの巨匠「線を描きなさい」の言葉でドガの造形理念の根幹をなした
ルイ・ラモット師アングルの弟子。線描とデッサンを徹底して叩き込んだ
エドゥアール・マネ画家・友人近代生活の主題を共有した友人。肖像画切断事件で一時絶交、のち和解
メアリー・カサット画家・協働者対等な芸術的同盟者。版画で協働し、浮世絵理解を共有した
マリー・ヴァン・ゲーテムモデルオペラ座バレエ学校の少女。《14歳の小さな踊り子》のモデルとされる
ジュール・ペローバレエマスター《ダンス教室》に描かれた実在の名指導者

三つの時期で見るドガの画業

項目初期(1855–1865年頃)全盛期(1866–1885年頃)晩年(1886–1912年頃)
主なジャンル歴史画・肖像画近代生活の主題(競馬・カフェ・踊り子)浴女・パステル・彫刻
主な技法油彩・線描油彩・パステル・版画モノタイプ・パステル・蝋ろうの彫刻
光の扱い古典的な明暗人工光(フットライト・ガス灯)光からの脱却、触覚的アプローチ
代表作ベレッリ家、スパルタの少女たちの修練ダンス教室、アブサント、エトワール14歳の小さな踊り子、湯浴み
社会的状況修業・歴史画家としての出発印象派展の主導、名声の確立視力低下、孤立、制作の中断

表C

項目内容
生没年1834年7月19日 – 1917年9月27日(享年83)
生地・没地いずれもパリ
本名イレール=ジェルマン=エドガー・ド・ガス
家族銀行家の父、クレオールの母。生涯独身
自称「写実主義者(レアリスト)」/「独立派(アンデパンダン)」
職業画家、パステル画家、版画家、彫刻家
踊り子の作品数約1500点(全画業のおよそ半分)
特徴的技法記憶に基づくアトリエ制作、俯瞰ふかん・非対称の構図、ダークフィールド・モノタイプ
死後の発見アトリエから150点近い蝋ろう・粘土の彫刻群

REFERENCES / 出典参考文献

美術館・基本資料

  • Edgar Degas (1834–1917): Painting and Drawing — The Metropolitan Museum of Art
  • Edgar Degas | Biography, Art, Paintings — Britannica
  • Edgar Degas — National Gallery of Art
  • Self-Portrait | Museum Collection — Getty
  • The Bellelli Family — Wikipedia
  • Young Spartans Exercising | NG3860 — The National Gallery, London
  • The Dance Class — The Metropolitan Museum of Art

人物・逸話・研究

  • アングルから若きドガへのアドバイス(「線を描きなさい」の逸話)
  • 北九州市立美術館《マネとマネ夫人像》関連資料
  • Cassatt and Degas 関連解説 — The Metropolitan Museum of Art
  • Touch and Vision in Edgar Degas’s Darkfield Monotypes(Kathryn Brown) — ResearchGate
  • エドガー・ドガ《コンコルド広場》研究 — CiNii Research
  • ドガの彫刻 — CiNii Research

画像(Wikimedia Commons 主要ファイルページ)

  • File:Edgar Degas The Dance Class.jpg
  • File:Edgar Degas – Self-Portrait – Google Art Project.jpg
  • File:Edgar Degas – The Bellelli Family – Google Art Project.jpg
  • File:Young Spartans Exercising National Gallery NG3860.jpg
  • File:Edgar Degas – In a Café – Google Art Project 2.jpg
  • File:Edgar Degas – Monsieur et Madame Edouard Manet.jpg
  • File:Mary Cassatt at the Louvre- The Etruscan Gallery MET DP817191.jpg
  • File:Edgar Degas – The Star – Google Art Project.jpg
  • File:The Little Fourteen-Year-Old Dancer MET DP-14939-005.jpg
  • File:Edgar Degas, 1886 – The Tub.jpg
最終更新:2026年9月3日

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