尾形光琳ゆかりの地PLACES OF OGATA KŌRIN
尾形光琳を訪ねる旅には、目を奪う屏風を見に行く道筋だけでは足りない。京都の呉服商・雁金屋で生まれ、仕立てられた衣装や町衆の注文に親しみ、支援者とのつながりを得て、江戸の深川で商家に身を寄せ、最後は京に自分の家を構えた。絵を描く人としての光琳と、衣服・器・住まいを意匠の対象とした光琳を、実際の土地がつないでいる。彼が歩いた地点と、彼をしのぶため後世につくられた地点を分けてたどることが、この旅の出発点になる。
- 京都の雁金屋、上御霊前、新町二条は、それぞれ生家・以前の住まい・晩年の家として区別する。
- 鳴滝は弟・乾山の窯跡。深川は冬木家に身を寄せた場所で、作品が残っていても旧宅が残るとは限らない。
- 妙顕寺の堂と庭、熱海の再現屋敷、所蔵館の現在の建物は、光琳の時代との関係を確かめて見る。
尾形光琳ゆかりの地をたどる
残ったものの種類も一様ではない。京都には住まいの所在地を伝える石標があるが、家屋が残るわけではない。鳴滝にあるのは弟・乾山が作陶した場所の手がかりで、そこに光琳の窯を見つけることはできない。熱海には晩年の家を史料に基づいて再現した建物があり、妙顕寺には家族の信仰と庭の記憶が続く。下鴨神社には名画をめぐる梅の伝承がある。これらを同じ強さの史実として並べず、各地点が光琳とどう結びつくのかを確かめながら進もう。
京都上京・雁金屋――光琳が育った商いの町
万治元年(1658年)、光琳は京都で呉服を商う尾形家に生まれた。家の屋号は雁金屋。父・宗謙が営んだ商いは宮廷の需要と関わり、東福門院への納品で知られる。着物の色や文様は、絵に先立って人が身につけ、注文を受け、素材の上に実現するものだった。少年期の光琳が過ごした「ゆかりの地」を考えるとき、京都の華やかな衣装文化を、単なる前史として通り過ぎることはできない。彼の仕事のうち後に実物として残る小袖や工芸に目を向けるための、最初の地点だからだ。
雁金屋の暮らしを知る直接の手がかりは、現地に残る古い店構えより、尾形家と後継の家に伝えられた記録にある。京都国立博物館が紹介する「小西家伝来尾形光琳関係資料」には、生家の呉服商に関わる文書と、光琳の画稿・図案類が含まれる。商いの記録と意匠の下書きが一群の資料として伝わったこと自体、京都の家業を踏まえて彼の仕事を見る大きな理由になる。京の上京を歩くときは、具体的な番地をすべて雁金屋の敷地と見なすより、物と注文が行き交った町域として読むほうが確かだ。
東福門院が亡くなった1678年を経て、父・宗謙は1687年に没した。家の経済や相続をめぐる変化は、若い光琳に新しい収入と支援者を求める契機となったとみられる。ただし、家業の衰退を一つの事件や一人の浪費だけに帰す話は、記録の読解を要する。京都国立博物館の史料を見れば、商家の資産、絵師としての仕事、人間関係が単純な一直線ではなかったことに気づく。生家跡を特定するための散策と、史料を読む旅を組にすると、この時期の輪郭がいっそう見えやすい。
土地に残るものが少ない場所は、作品に現れた質感と対話できる。《白綾地秋草模様小袖》は後年の江戸で制作された衣装だが、まっ白な地を思い切って広く取り、秋草の姿を大きく走らせる着想は、染織を身近に見て育った絵師の活動を考える入口になる。作品の制作地を生家に移してしまわず、離れた土地で家業の経験がどう生きたか、という問いとして持ち歩きたい。小袖そのものは 第5章 で一度だけ掲載する。
散策の視点は三つある。第一に「店舗の現物」が残るかどうか。雁金屋の建物は現存施設として案内されていない。第二に「生家の場所」と「後年の居宅」を分けること。第2章 の石標は住まいの記憶を伝えるが、光琳の誕生した部屋を示す印ではない。第三に、京都国立博物館の資料を町歩きの後に見返すこと。路地に立つだけでは語れない商家の時間が、紙に残る。ここでは写真を別の京町家で代用せず、確かな図版がある地点から画像を置いていく。
上御霊前・緒方光琳宅蹟――石標が示す住まいの記憶
京都市の「いしぶみデータベース」に載る《緒方光琳宅蹟》は、上御霊前通の烏丸付近に立つ史跡石標である。市の記録は建立時期を昭和4年(1929年)とし、晩年の新町二条の住まいより前に光琳がこの周辺に居住したことを伝える。旅人にとって石標は格好の出発点だが、石に刻まれた「宅蹟」という言葉だけから、その地面の下に当時の家の基礎がある、と読み取ることはできない。
注意したいのは、碑の所在地と、江戸時代の住居の正確な敷地との距離である。京都市の説明は、光琳の居住地をめぐる比定に幅があること、石標の位置にも移動の履歴があることを記す。現地では碑文と通りの名を読み、現在の敷地をそのまま17世紀の家の平面に重ねないのがよい。碑は住まいに向けられた後世の記憶を伝える史料であり、目の前にある近代以降の町並みは別の時間を伝える。二つの時間が交わるところに、この小さな地点の価値がある。
この周辺を歩く目的は、光琳が暮らした京の距離感を想像することにもある。上京の居所、家族が祈りを託した妙顕寺、顧客や支援者のいた町は、同じ京の中で結ばれていた。移動の道順を確定した史料がない以上、普段の通勤路や茶会への経路を再現することはできない。それでも「生家」「中年の住まい」「晩年の新しい家」をひとまとめにしないだけで、人生の場所に変化があったことがわかる。石標を見た後は 第8章 の新町二条を思い浮かべ、二つの住まいの史料の濃さを比べるのがよい。
写真についても厳密に扱いたい。京都の一般的な町並みや別の光琳ゆかりの碑を、この石標の写真として使えば、読者は間違った現地へ導かれる。今回の図版には、石標そのものとファイル説明が一致する Commons 写真を確保できなかったため、この章の写真は置かない。代わりに京都市の現地解説を参照できる。画像の枚数より、碑の位置と意味を正しく伝えることを優先する。
京都の支援者・中村内蔵助――肖像が伝える交流
光琳の京都時代に欠かせない人物が、中村内蔵助である。銀座役人として知られ、光琳の仕事を支えた人として語られる。内蔵助とのつながりを「旧邸跡」の一点だけに閉じ込める必要はない。京の注文主や文化人との交際、制作した品を受け取る人々、そして江戸に向かう機会まで、人と人を結ぶ都市の働きとして捉えたい。付属の基本資料は烏丸下立売周辺を旧邸の目安としているが、一次の案内で敷地を特定できる資料を確認できなかったため、本稿では邸の地番を確定しない。
光琳は元禄14年(1701年)に法橋の位を得た。宝永元年(1704年)には江戸へ向かったとされ、この境目に制作された《中村内蔵助像》は、地名だけでは見えない支援関係を具体的な人物の姿で伝える。黒い衣を着て正面に座す内蔵助は、意匠化された草花とは違う重みを画面に生む。顔を単に似せる目的だけでなく、注文主の存在感を絵として整えたものと見ると、町衆の肖像がこの場所の証言になる。
肖像は現在、奈良の大和文華館に所蔵される。奈良の所在地を内蔵助の生活地や光琳の制作地と混同しない。作品の所蔵先が動いても、絵の中の人物と京都での交流を結ぶ意味は残る。京を歩きながら肖像を見返すと、光琳の人生を「京都にいた時期」と「江戸に出た時期」だけで切り分けられないことにも気づく。江戸へ行った後も人づての紹介や注文が働いた可能性を、記録に即して考えるための出発点になる。
支援者を扱うときは、流布した逸話を史料と同列に置かないほうがよい。内蔵助の妻の衣装にまつわる話は光琳の着想の鋭さを語るためによく引かれるが、その茶会の日時、具体的な装いの現物、会場まで確認できるわけではない。本稿ではその逸話を京のある会場へ結びつけず、実物として残る肖像を視覚の中心に据える。京都で交わされた注文を、一枚の顔に凝縮して見せる章である。
鳴滝・乾山の窯――兄弟の仕事に通じる地
京都の中心から西北へ向かうと、鳴滝に弟・尾形乾山の作陶の記憶が残る。京都市の石標情報は、乾山宅跡を鳴滝泉谷町の法蔵寺前に置く。京都市公式観光案内も、乾山がこの地で窯を営んだことを紹介している。ここは「光琳の工房跡」ではない。兄の画業と弟の陶芸が交差した時代を、場所から考えるための兄弟ゆかりの地である。
乾山は元禄12年(1699年)に鳴滝で作陶に取り組み、器の形と絵の面を結ぶ仕事を展開した。号の「乾」は都の西北を表す方位と結びつけられる。光琳も絵付けに関わる陶器を残し、二人の名前が一つの制作をめぐって語られる。ただし、すべての乾山焼に光琳が筆を入れたわけではない。兄弟が活動したことと、目の前の器の画面が兄の手によることは、別々に確かめる必要がある。
鳴滝へ出かけるとき、石標の文字を読む行為と、作品を見る行為をつなぎたい。土を整え、窯で焼く陶芸は、一枚の紙に描く絵とは手順が違う。それでも、器の限られた面に枝や草花を配置するための判断は、光琳が屏風や小袖で行った意匠の判断と響き合う。二人の才能を一つにしてしまう必要はない。鳴滝が伝えるのは、制作の手段が違う兄弟が同じ京の文化の中で活動したという広がりである。
ここに掲げる《葡萄文の角皿》は乾山の作品例で、東京国立博物館に伝わる。角形の皿の内面には葡萄の実と葉、文字が茶色で描かれている。現物の具体的な焼成地を鳴滝の窯と断定する資料は付けない。器を写真で見ることで、石標の名が抽象的な「陶芸」ではなく、使う人に向けて制作されたものとつながる。法蔵寺という寺名だけを頼りにすると、他県の同名寺の写真が混ざるため、現地の説明には京都市右京区鳴滝泉谷町を必ず添える。
江戸深川・冬木家――小袖が残した逗留の手触り
宝永元年(1704年)に江戸へ向かった光琳は、深川の材木商・冬木家に身を寄せたと伝えられる。深川は、京で重ねた経験が遠い町で試された場所である。そこで作られたと伝わる《白綾地秋草模様小袖》は、人物や名所の絵ではなく着る人の身体とともに見られる作品だ。江戸での光琳を訪ねるとき、今日残る住所だけではなく、この実物を第一の証拠として置く理由がある。
東京国立博物館が所蔵する小袖は、白綾の面を地として秋草が描かれた衣装で、冬木家の人のために制作したことから「冬木小袖」と呼ばれる。白い余白の広さが、草の線を強く見せる。衣装として仕立てられた形を見れば、光琳がどの位置に図案を配し、着たときにどのように見えるかを意識したことがわかる。生家の呉服商で覚えた素材への感覚と、江戸の顧客に向けた仕事が、深川という地名を通して結ばれる。
図版を拡大すると、草の葉や茎が白い地を渡る一方、服の輪郭や袖の境目によって図案の見え方が変わる。屏風は折って立てる絵であるのに対し、小袖は身体にまとわれる。場所を持ち運ぶという意味でも、この衣装は面白い。深川の家で出来上がったと伝えられる物が、その後は別の人の手を経て博物館に保存されている。冬木家があった地の歴史と、小袖が現在ある上野の地は、同じものではない。
冬木家の邸宅を現代の番地に一点で落とし込むことは本稿では控える。深川は埋立てや土地利用の変化が大きい地域であり、位置が未確定の旧宅に既存の建物写真を当てると、読者にはそれが遺構に見えてしまう。深川という町域と、所蔵館で確かめられる小袖を対で提示することで、わからない敷地をわかったように描かずに済む。江戸の滞在を実感させるのは、地図上の一点より、布に残った仕事の形なのである。
江戸の注文主と画面――風神雷神図屏風を手がかりに
江戸へ来た光琳は、深川の商家だけを相手にしたわけではない。武家や富裕層の注文が集まる都市では、見せる場の大きさ、好まれる画題、手に入る手本が京都の暮らしとは違ってくる。基本資料には大名家との関わりが記されるが、個々の作品を特定の屋敷の部屋へ配置するには別の根拠がいる。ここでは作品の受容を手がかりに、江戸を「制作物が人の求めに出会う場所」として読む。
東京国立博物館に伝わる光琳筆《風神雷神図屏風》は、俵屋宗達の同じ主題の屏風に学びながら、自分の手で人物の動きと余白の力を組み立てた作品だ。二人の絵師は同じ時に同じ工房で働いたわけではない。先行する絵を見て学ぶ関係を、後年の言葉だけで師弟関係に置き換えるのは早計である。屏風をたどる旅において重要なのは、京で培われた図案感覚が、江戸にも届く大画面に展開されたと見る視点だ。
写真に見える風神と雷神は、金地の広がりの中で離れて置かれている。両者のあいだに満ちる何も描かない空間も構図の一部である。対になる人物と空白を一目で受け止めるには、書物の小さな図版より、一双を通して示す画像が役立つ。だからこそ、この作品を題名が似た宗達の屏風の写真で置き換えてはいけない。以下のファイルは Commons 上で光琳の作品として記録される図版を照合した。
江戸のどの町でこの屏風が描かれたか、いつどの注文主へ納められたかを、この図版だけから決めることはできない。作品を土地へ無理に固定せず、光琳の仕事が京の住まいから離れた注文や鑑賞の場へ広がっていった証拠として掲載する。もし上野の博物館へ行くなら、作品の公開期間は所蔵と別の問題として確認してほしい。「ある館が所蔵する」と「その日に展示される」も、旅では区別が必要だ。
京と三河を結ぶ「八橋」――絵の中の土地を読む
光琳の「ゆかりの地」には、実際に泊まった土地のほか、作品の中で何度も訪れた土地がある。《伊勢物語》の東下りに現れる三河国八橋は、その好例だ。旅人が燕子花の咲くところで歌を詠む物語を、光琳は色と形の組み合わせに変えた。しかし、光琳本人が現在の愛知県にある八橋へ足を運び、その景色を写生したと示す資料はない。ここでの八橋は第一に文学の地名であり、京の絵師が古典を読み替えた画題だ。
根津美術館所蔵の国宝《燕子花図屏風》には、金地の上に青い花と緑の葉が群れている。草の形は似ていても、花群の位置や密度は繰り返しの中で変わる。驚くのは、物語の標題になる「橋」を画面に描かないことだ。歌に導く植物だけを残し、人物も道も目印も消す。それでも八橋の場面だと読み取れるのは、鑑賞する人が古典の言葉を持っているからである。絵に描かれない地名が画面を支える。
後年の《八橋図屏風》では、同じ燕子花の間を板橋が折れ曲がりながら通る。メトロポリタン美術館が所蔵するこの一双には、花の群れと橋の直線が共存する。先の屏風と後の屏風を見比べれば、画題を固定したまま、空間の切り取り方を変えられることがわかる。根津美術館がかつて二作を紹介した展覧会は過去の催しであり、今いつでも二作が同じ館に並ぶわけではない。作品の所在は現在、東京とニューヨークに分かれている。
情報通信研究機構のテラヘルツ波調査は、《八橋図屏風》の描画部分の下にも金箔が続くことを報告した。表から見えない下地を知ると、花と橋の形を描く前に、光琳がまず画面全体を金地として準備した工程が想像できる。ただし科学調査が示すのは材質と制作手順に関する手がかりであり、三河の実景を写したという証拠ではない。土地の物語、工房の手順、作品の今日の所蔵地の三つを分けることで、この画題を正しく旅できる。
東京の根津美術館を訪ねる際、入口の建築写真は来館先を示す画像として使える。《燕子花図屏風》の画像はその次に置く。花の屏風を写真で見せながら「館の外観」と呼んだり、館の入口を「光琳の住まい」と呼んだりしない。季節展で公開されることがあっても、鑑賞できる日は必ず公式の日程で確かめたい。
京都・新町二条――最晩年に構えた家
江戸で仕事を重ねた光琳は、晩年に京都へ戻り、新町二条に家を構えた。一般に正徳2年(1712年)ごろの造営とされ、元の建物は残っていない。ほかの住まいと違うのは、この家には光琳自身の図面や大工の仕様を伝える文書があることだ。京都の現在の町並みと当時の室内を直接重ねることはできなくても、紙の上の間取りを通して、どんな場所で制作し、人を迎えたかを考えられる。
京都国立博物館に伝わる「小西家伝来尾形光琳関係資料」は、この家を知る上で重要な史料群である。熱海のMOA美術館が紹介する復元屋敷は、自筆の図面と大工の仕様帖に基づく。再現された建物には、二階の絵所と、一階の五畳半・三畳の茶室が設けられている。画面の大きさ、作業の明るさ、来客との距離を、光琳が暮らしの間取りの中で考えていた可能性を示す。家そのものを意匠の対象にしたと読みたくなるが、すべての生活場面が設計図から復元できるわけではない。
晩年の《紅白梅図屏風》は、この家との結びつきを考えるうえで特別だ。MOA美術館は同作品が最晩年に制作され、屋敷で描かれたと考えられると説明する。二曲一双の金地に梅が向かい合い、中央には黒く見える流れが置かれる。家の二階で実際にどの位置に屏風が広げられたかはわからない。それでも、二枚の屏風を見渡せる制作の場が晩年の住まいに用意されていたことは、絵所という建築情報と作品の大きさを結びつけてくれる。
中央の水流について、添付の基本資料には「銀箔が経年で黒くなった」という説明がある。しかし所蔵館の現在の解説は、銀が広く残り、黒い部分から硫化銀が検出されたことを踏まえ、銀箔を硫黄で処理して黒く変えた可能性を示す。自然に変化した結果だと断定したり、制作時には水流が全体に銀色に輝いたと断定したりするのは避けたい。作品を見た印象と、科学調査から言える範囲を切り分けることも、ゆかりの地を語る精度につながる。
京都の現地を歩くときは、新町二条を「晩年の家があった町」として見る。二階の絵所を目で確かめたいなら、場所は熱海の再現建築に移る。作品の現物を見る機会も、所蔵先の熱海で展示時期に限られる。京都に旧宅の間取り、熱海に再現された建物と所蔵作品が分かれていることこそ、この地点の現在の姿である。三つの地図上の点を一つに重ねないほうが、残された記録の強さが伝わる。
妙顕寺・泉妙院――菩提寺と庭の記憶
上京の妙顕寺は、尾形家の菩提寺として光琳と結びつく。寺を訪ねると、ここにあるものを一つの「光琳の遺構」と呼びたくなるかもしれない。しかし、墓所に関わる塔頭、境内の堂、庭にまつわる伝承は、それぞれ伝わり方が違う。寺は時代をまたいで祈りを続けてきた場所であり、どの建物も光琳が見たままの姿で残ったわけではない。寺の公式案内は、天明8年(1788年)の大火で伽藍の多くを焼失した経緯を記す。
「光琳曲水の庭」という名は、境内を歩く人を引きつける。寺の説明によれば、光琳が設計した庭があったことは文献に見え、その庭は大火で失われた。現在見られる庭は、光琳の作品を手がかりに大火の後に造られたものだ。したがって、今日の庭を「光琳の作庭した当時の庭がそのまま残る」と紹介するのは正しくない。光琳への記憶を、後の人が庭という形で受け取った場所なのである。
境内写真には三菩薩堂と一つの庭景を選んだ。三菩薩堂の写真は寺の施設を示し、庭の写真は樹木と苔、石灯籠のある寺域の一景を示す。後者のファイル説明は「妙顕寺の庭園」とだけ記し、光琳曲水の庭の特定区画だとは確認できない。写真に「光琳曲水の庭」と断定するキャプションを付けないのはそのためだ。現地の庭の名は、訪問時の寺の案内と合わせて確かめてほしい。
塔頭・泉妙院に関わる光琳と尾形家の墓所についても、寺の一般拝観と同じようにいつでも見られると考えないほうがよい。寺が毎年行う光琳忌は、亡くなった絵師と家族の記憶が現在も営まれていることを示す。一方、墓や塔頭の門の開放、庭の公開範囲は行事や寺務で異なる。命日が6月2日であることを知ったうえで、予定を公式案内に照らし、祈りの場所として訪ねたい。
妙顕寺は 第2章 の石標と同じ京都上京にある。住まいの位置を伝える石と、死後も名が呼ばれる寺とは、同じ「ゆかりの地」でも役割がまったく違う。前者は住居の記憶を一点に示す。後者は家族の祈りを数百年続けてきた。庭の形が変わり、堂が再建されても、寺の儀礼が絵師の記憶を運んできたことは、作品の所蔵先を巡るだけでは見えてこない。
下鴨神社・光琳の梅――画題に寄り添う伝承
京都の下鴨神社には「光琳の梅」と呼ばれる木がある。京都市の観光案内は、光琳筆《紅白梅図屏風》に描かれた紅梅のモデルになったと伝えられることを紹介する。画面に向き合った後に梅を見ると、作品の花と今も咲く花がつながるように感じられるだろう。ただし、このつながりは「伝えられる」事柄であって、光琳がこの木の前で写生した日時や、今の木と当時の木が同じ個体であることを示す記録ではない。
屏風の木は金地の中で画面から枝を伸ばし、川の流れを挟んで呼応する。自然の景色をそのまま写すのであれば、枝や花はもっと偶然に散るかもしれない。光琳は木の姿を画面に合わせて選び、組み立てた。神社で梅を見た経験が仮に着想の一つだったとしても、完成した屏風はその土地の風景写真ではない。木の前で屏風の再現画像を開き、「似ているところ」を探すだけでなく、「絵のために変えられたところ」を探すと面白い。
本稿で掲載する Commons 写真は下鴨神社の門を写している。赤い門は神社へ向かう地点を示すが、写真の中に「光琳の梅」は写っていない。図08 の《紅白梅図屏風》を同じ章にもう一度掲げず、第8章 の図版を参照する形にした。梅の木そのものと画面を並べた比較図を後で作るなら、木を現地で撮影した確かな画像と撮影日を別途用意する必要がある。
訪問の楽しみは、伝承を断定しないことと両立する。梅の花の季節には、白や赤の色、枝の曲がり方、境内で花を見る視線を体験できる。季節を外しても、木が育つ神社の場所は変わらない。一方で花の咲き具合や参拝できる範囲は年ごとに違うため、現在の案内に従う。ここでは「名画のモデルを確定する調査」ではなく、名画が京都の一木に新しい名前を与えた歴史を味わう。
熱海・MOA美術館――屋敷の再現と作品の現在
熱海のMOA美術館には、光琳の名を冠した再現屋敷がある。ここは光琳が熱海で晩年を送ったという意味のゆかりの地ではない。晩年を過ごした京の家を、現在残る資料から建築として体験できる場所である。美術館は茶の庭の一角に屋敷を置き、自筆図面と大工の仕様帖を根拠にしたと説明する。新町二条の旧宅が残っていない今、場所の記憶を建物の大きさで確かめられる稀な機会を与えてくれる。
屋敷の二階に絵所、一階に茶室という構成は、光琳の活動をわかりやすくする。絵所は制作のための場所であり、茶室は人を迎える場所だった。二つが同じ住まいにあることを知ると、絵の制作と人との交際が毎日の暮らしから切り離せなかったことが想像できる。ただし再現は調査の成果に基づく現代の建築で、1712年の木材がそのまま残っているわけではない。史料でわかる部分と、再現のために判断を要した部分は区別して見たい。
MOA美術館は国宝《紅白梅図屏風》も所蔵する。屋敷を知ることと作品を知ることが同じ敷地で交わるのは魅力的だが、屏風が年中展示されているわけではない。所蔵館は作品の解説に「毎年2月頃展示」と記している。実際の会期、再現屋敷の公開状況、美術館の開館日を訪問時点の公式案内で確かめれば、建築だけ、作品だけという行き違いを減らせる。
図12 はMOA美術館の外観である。写真は施設へ向かう現代の場所を示し、再現屋敷自体を写したものではない。屋敷を図版で紹介する際は、美術館公式の建築紹介ページにある実際の屋敷の写真を参照できるが、本稿の Commons 図版にはその写真を別の建物として転載しない。図08 の屏風画像と図12 の外観を並べれば、「作品を所蔵する場所」と「作品が生まれたと考えられる京都の家」を、誤解なく区別できる。
熱海から京への距離は、単に地図上の長さではない。図面は京都国立博物館に、屏風と再現屋敷は熱海に、旧宅の記憶は京都の町にある。材料を見たいとき、作品を見たいとき、暮らした町に立ちたいときで、行くべき地点が変わる。離れた三地点を順に知ることで、一つの作品をつくった人の生活と、作品を保存してきた人々の仕事が見えてくる。
京都・東京・ニューヨーク――作品と史料の行き先
光琳の足跡をたどり終えたと思ったころ、もう一つの地図が現れる。作品と史料が今どこにあるかを示す地図だ。作品の所蔵地は光琳が暮らした地点とは限らないが、失われた家の間取りを知り、離れた注文主との関係を知り、絵の細部を確かめるためには欠かせない。「本人が歩いた地」「作品の主題になった地」「後世の人が守る施設」を並べると、彼のゆかりは京都と江戸を越えて広がる。
京都国立博物館には「小西家伝来尾形光琳関係資料」が伝わる。生家に関わる文書、画稿、図案類を読む場所であり、晩年の家の復元にもつながった。2025年12月16日から2026年2月1日まで、関連の特集展示が開催されたが、これはすでに終わった催しである。館に行けばいつでも文書一式を見られるという意味ではない。展示の記録と、館に史料が伝わる事実を分けて記す。
図13 は京都国立博物館の明治古都館を写した写真である。2025~2026年の特集展示が行われた平成知新館を撮った写真ではない。ここでは博物館という現在の所在地を案内し、展示室の特定には使わない。また館に伝わる光琳作《太公望図》を図14 に掲載する。川辺で釣る人物と大きな余白のある画面で、《紅白梅図屏風》とは別の画題を知ることができる。これも作品が京で制作された位置を特定する画像ではない。
東京国立博物館の《白綾地秋草模様小袖》と《風神雷神図屏風》は、すでに図03 と図04 に置いた。さらに、国宝《八橋蒔絵螺鈿硯箱》を図15 として加える。金色の橋と青い燕子花を漆の箱に組み込み、屏風の画題と異なる大きさ・材質へ移した作品である。図06 の《八橋図屏風》と題材が似ていても、同じ作品の重複掲載ではない。写真に写るのは小さな箱であり、ニューヨークの屏風ではない。美術館で作品を探す際には、絵画か工芸か、所蔵先はどこかをまず確かめたい。
根津美術館は《燕子花図屏風》、メトロポリタン美術館は《八橋図屏風》を伝える。後者の館はニューヨークにある。今ある場所を地図に落として初めて、図05 と図06 の二つの「八橋」を同時に実見する難しさがわかる。離れた所蔵先のウェブ公開画像を並べて比較することはできても、それぞれの館で実物を見られる時期は展覧会や保存上の事情で変わる。作品を巡る旅は、会期と所蔵の違いに常に注意を向ける旅でもある。
最後に、三種類の地図を頭の中で重ねてみる。京上京の雁金屋、上御霊前の石標、鳴滝、深川、新町二条、妙顕寺は、家族・仕事・生活を伝える。下鴨神社の梅と物語の八橋は、画題が場所に結びつく仕方を教える。熱海と京都・東京・ニューヨークの館は、過去の住まいや作品を現在へ運ぶ。光琳はどこか一か所に閉じ込められないが、各地点の意味を見分ければ、その広がりは曖昧にならない。
ゆかりの地一覧
訪れる場所が実際に残すものと、作品・史料が現在伝わる場所を分けて一覧にした。
| 拠点 | 当人との関係 | 現在確かめられるもの | 所在の目安 | 本文 |
|---|---|---|---|---|
| 雁金屋のあった京の上京 | 生家の家業・成育環境 | 町と史料。創業時の店舗建物や生まれた一室は現存を確認できない | 京都市上京区周辺 | 第1章 |
| 緒方光琳宅蹟の石標 | 新町二条の家より前の居住を伝える碑 | 近代に建立された石標。住居の間取りを示す遺構ではない | 京都市上京区、烏丸鞍馬口周辺 | 第2章 |
| 中村内蔵助と関わる京 | 支援者と交流した町 | 肖像画、文書、京都の町域。邸宅の正確な敷地を断定しない | 京都市上京区周辺 | 第3章 |
| 鳴滝の乾山宅跡 | 弟・乾山の作陶の拠点 | 法蔵寺前の史跡石標、乾山の作品 | 京都市右京区鳴滝泉谷町 | 第4章 |
| 江戸・深川 | 冬木家に身を寄せた場所 | 《白綾地秋草模様小袖》。冬木家旧宅の正確な地番は特定しない | 東京都江東区深川周辺 | 第5章 |
| 新町二条の家 | 晩年の居住と制作の場 | 伝来史料による間取り。現地に当時の建物はない | 京都市中京区新町通二条付近 | 第8章 |
| 妙顕寺・泉妙院 | 尾形家の菩提寺、墓所に関わる寺域 | 寺の建物、庭、供養の継続 | 京都市上京区妙顕寺前町 | 第9章 |
| 下鴨神社 | 紅梅の着想に結びつける伝承 | 神社の境内と「光琳の梅」の呼称 | 京都市左京区下鴨泉川町 | 第10章 |
| MOA美術館 | 晩年の屋敷の再現と作品所蔵 | 再現建築、《紅白梅図屏風》。旧宅の実所在地ではない | 静岡県熱海市桃山町26-2 | 第11章 |
場所と作品を取り違えないために
| 対象 | 光琳との関係 | 写真が実際に示すもの | 言い切らない事柄 |
|---|---|---|---|
| 緒方光琳宅蹟(q2) | 晩年の家より前の居住を伝える石標 | 本稿には該当写真を掲げない | 碑の足元が旧宅建物の正確な範囲だったこと |
| 鳴滝の乾山宅跡(q4) | 弟の窯と住まい | 図02は乾山作品の皿 | この皿が鳴滝で焼かれたこと、石標が光琳の工房であること |
| 深川・冬木家(q5) | 江戸での逗留先 | 図03は衣装の実物画像 | 現代の特定の家屋が冬木家の旧宅であること |
| 新町二条(q8) | 京都の晩年の家 | 図08は《紅白梅図屏風》 | 写真が旧宅の室内や跡地を写していること |
| 妙顕寺(q9) | 菩提寺と後世の庭 | 図09は堂、図10は寺の庭の一景 | 現在の庭が光琳の作庭のまま残ること、図10が庭の特定区画であること |
| 下鴨神社(q10) | 紅梅の画題に関する伝承 | 図11は神社の門 | 門の写真に梅が写ること、伝承が写生の記録であること |
| MOA美術館(q11) | 屋敷の再現と作品所蔵 | 図12は美術館外観 | 光琳が熱海で暮らしたこと、図12が再現屋敷であること |
| 京都国立博物館(q12) | 史料と作品の現在の所蔵先 | 図13は明治古都館、図14は屏風 | 図13が過去の特集展示会場や旧宅であること |
八橋という同じ画題の異なるかたち
| 作品 | 種類と所蔵 | 図版 | 橋の扱い | 旅に関わる読み方 |
|---|---|---|---|---|
| 《燕子花図屏風》 | 六曲一双の屏風、根津美術館 | 図05(右隻) | 画面には描かれない | 《伊勢物語》の地名を植物だけで思い起こさせる |
| 《八橋図屏風》 | 六曲一双の屏風、メトロポリタン美術館 | 図06(一双) | 折れ曲がる橋を描く | 八橋の物語を花と幾何学的な道筋で示す |
| 《八橋蒔絵螺鈿硯箱》 | 漆工品、東京国立博物館 | 図15 | 箱の表面を渡る意匠になる | 同じ題材が携える工芸品に移された例を見る |
REFERENCES / 出典参考文献
施設・自治体・作品データベースの資料
- [R01] 京都市「緒方光琳宅蹟」
- [R02] 京都国立博物館「光琳かるたと小西家伝来尾形光琳関係資料」
- [R03] 京都市「尾形乾山宅跡」
- [R04] MOA美術館「その他建築について:光琳屋敷」
- [R05] 京都市「尾形乾山宅跡」
- [R06] 妙顕寺「妙顕寺とは」
- [R07] 京都市公式京都観光Navi「下鴨神社・梅」
- [R08] 京都国立博物館「光琳かるたと小西家伝来尾形光琳関係資料」
- [R09] 基本資料「尾形光琳のゆかりの地調査(2)」、雁金屋・中村内蔵助・江戸滞在の各項。
- [R10] 文化遺産オンライン「絹本著色中村内蔵助像」
- [R11] 京都市公式京都観光Navi「尾形乾山宅跡」
- [R12] 東京国立博物館、乾山作葡萄文角皿(G-33)の作品情報。図02の Commons ファイルページを参照。
- [R13] ColBase「小袖 白綾地秋草模様」(I-721)
- [R14] MOA美術館「光琳 国宝《紅白梅図屏風》×重文《風神雷神図屏風》」
- [R15] 根津美術館「KORIN展」
- [R16] メトロポリタン美術館《八橋図屏風》
- [R17] 情報通信研究機構「光琳作《八橋図屏風》の調査」
- [R18] MOA美術館《紅白梅図屏風》作品解説
- [R19] 妙顕寺「見どころ」
- [R20] 妙顕寺「光琳忌のお知らせ」
- [R21] e国宝《太公望図》
- [R22] 東京国立博物館《八橋蒔絵螺鈿硯箱》(H-86)













コメント