グスタフ・クリムトゆかりの地Places of Gustav Klimt: From the Vienna Studios to Lake Attersee
グスタフ・クリムトは、ほとんど旅をしなかった画家である。世紀末ウィーンという一つの都市の内側で生まれ、成功し、反逆し、そして没した。この記事では、彼が生き・働いた三つのアトリエから、闘いの舞台となった公共空間、風景画の実験場となったアッター湖畔、そして略奪と返還の歴史を経た終焉の地までを、現在の住所・現状・そこで生まれた作品を対応させながらたどっていく。
- 生涯の大部分はウィーンに凝縮され、三つのアトリエが作風の変化と対応する。
- 分離派館とウィーン大学は、公共芸術をめぐる成功と対立の舞台になった。
- アッター湖畔では、注文制作から離れた風景画の実験が行われた。
グスタフ・クリムトゆかりの地
画家が生き、働き、作品を生んだ空間を、ウィーンとアッター湖畔を中心にたどる。
クリムトの空間を俯瞰する ── 一都市に凝縮した生涯
グスタフ・クリムトのゆかりの地は、ほとんどがウィーンとその周辺に集中している。生誕地バウムガルテン、三つのアトリエ、分離派館、ウィーン大学、そして最後のアトリエがあったヒーツィングは、彼の生涯と制作の主要な節目をそのまま地図上に置いたような配置をなしている。
もう一つの重要な場所が、夏ごとに滞在したアッター湖畔である。都市の肖像画や装飾画とは異なる風景画の実験は、湖畔の静かな環境のなかで進められた。
彼が埋葬されたヒーツィング墓地、そして彼の作品がナチスに略奪され、長い返還闘争を経て相続人のもとへ戻るという、20世紀の歴史そのものが刻まれた場所。これらをたどることで、クリムトという画家が生きた空間の全体像が浮かび上がる。
生い立ちとリングシュトラーセ ── 最初のアトリエ
すべては、ウィーン郊外の貧しい家庭から始まる。グスタフ・クリムトは1862年、ボヘミア出身の農民の家系で金版彫刻師であった父エルンストと、音楽家を志していた母アンナのもと、7人兄弟の第2子としてバウムガルテンに生まれた。一家の暮らしは極度の貧困に特徴づけられ、1862年から1884年にかけて、より安い家賃の住居を求めて少なくとも5回以上の転居を余儀なくされた。妹の病死や姉の精神的な疾患、母の深い抑うつ状態といった、死と狂気が隣り合わせの環境は、のちのクリムトの作品に通底する「死と生」や「精神の深層」への関心を、無意識のうちに醸成したと推測される。
14歳のクリムトは、ウィーン工芸学校(現在のウィーン応用美術大学)に入学し、1876年から1883年まで建築絵画を学んだ。当時ウィーンで最も成功していた歴史画家ハンス・マカルトに憧れ、保守的でアカデミックな訓練を積んだ彼は、リングシュトラーセ(環状道路)沿いに次々と建設される巨大な公共建築の内部を飾る、壁画や天井画の装飾画家としてキャリアを始める。
弟エルンスト、友人フランツ・マッチュと「芸術家カンパニー」を組み、1883年から1892年までザントヴィルトガッセ8番地を制作拠点とした。ブルク劇場や美術史美術館など、リングシュトラーセを象徴する公共建築の装飾は、この時期の仕事である。
ヨーゼフシュテッター通りのアトリエ ── 黄金時代の中庭パビリオン
クリムトのゆかりの地のなかで、彼の芸術の頂点を生んだ場所を挙げるなら、それはウィーン第8区のヨーゼフシュテッター通り21番地にあった、中庭のパビリオンである。
1892年から1911/12年まで使用されたこのアトリエで、クリムトは分離派の中心人物となり、黄金様式を完成させた。《接吻》や《アデーレ・ブロッホ=バウアーの肖像 I》など、今日もっともよく知られる作品群がここで制作された。
建物そのものは現存しない。しかし、黄金様式の名作群がここで生まれたという事実は、この中庭の場所をクリムトの制作史上もっとも重要な地点の一つにしている。
クリムト・ヴィラ ── 晩年の隠れ家、色彩の氾濫
1911/12年、クリムトは最後のアトリエをウィーン第13区ヒーツィングのフェルトミュールガッセ11番地へ移した。現在「クリムト・ヴィラ(Klimt Villa)」として復元・一般公開されているこの場所は、1918年に彼が世を去るまで使われた、生涯最後の制作空間である。
第一次世界大戦の勃発(1914年)による通貨下落と経済的困窮もあり、この時期のクリムトは肖像画の注文を積極的に引き受けた。《フリーデリケ・マリア・ベーアの肖像》(1916)や、流行の装身具とアジア的な背景を特徴とする一連の女性肖像、そして《死と生》の表現主義的な改作などが、このアトリエで進められた。
日本美術や中国美術への傾倒、そして鮮やかな色彩への執着が顕著になった晩年の作風は、この穏やかで浮世離れした庭園環境と密接に結びついていた。
クリムトはこのアトリエの庭に自ら様々な花を植え、何匹もの猫とともに、半ば隠遁者のような生活を送った。かつて外界を遮断した都心の中庭パビリオンから、庭と一体になった郊外のヴィラへ。空間の開放は、そのまま画面の色彩の開放と呼応している。
現在のクリムト・ヴィラは、当時のアトリエの様子が復元され、画家が制作した空間を体感できる数少ない「入れるゆかりの地」となっている。
分離派館とベートーヴェン・フリーズ ── 総合芸術の空間
1897年、クリムトは保守的なウィーン美術家組合を離れ、若い芸術家たちとウィーン分離派を結成して初代会長となった。翌年完成した分離派館は、彼らの理念を体現する展示空間となった。
1902年の第14回分離派展では、クリムトが《ベートーヴェン・フリーズ》を制作した。展示室三面を取り巻く全長約34メートルの壁画は、絵画・彫刻・建築を一体化する総合芸術の実験だった。
フリーズは現在も分離派館地下で公開され、制作された場所で作品を見ることができる。
大学講堂天井画の悲劇 ── 公共空間からの決別
アッター湖畔 ── 風景画の実験場
1900年頃から1916年まで、クリムトは夏になるとエミーリエ・フレーゲの家族とともにアッター湖畔へ滞在した。ウィーンでの肖像画や装飾画とは異なり、ここでは注文から離れて風景画に集中した。
アッター湖畔での風景画における重要な特徴は、正方形フォーマットの意図的な採用である。クリムトはボール紙を正方形にくり抜いた手製のファインダーを風景にかざし、その枠を通して対象を人工的に切り取ったとされる。
さらにオペラグラスや望遠鏡を用いた視覚は、遠近感を圧縮し、空や地平線を画面から排除して、家々や木々や花々を前面へ押し出す。こうして彼の風景画は、三次元的な空間の再現ではなく、壁に掛けられた織物や花の絨毯のような二次元的装飾の性質を獲得していった。
注文に縛られず、純粋な喜びのために描かれたこれらの風景画は、クリムトがモダニズムと抽象的装飾へ到達するための、かけがえのない実験場だった。
略奪と返還 ── プロヴェナンスの旅
クリムトのゆかりの地をたどる旅には、地図上の地点だけでなく、作品がたどった来歴(プロヴェナンス)という、もう一つの空間的な旅も含まれる。
ナチス期にはユダヤ系所有者のコレクションから多くの作品が奪われ、戦後には返還を求める長い交渉や訴訟が続いた。《アデーレ・ブロッホ=バウアーの肖像 I》をはじめ、クリムト作品の来歴は20世紀ヨーロッパの政治史と深く結びついている。
終焉の地とヒーツィング墓地 ── 名誉墓に眠る
ゆかりの地一覧
本記事で扱ったスポットを、性格・住所・現状・関連作品ごとに整理した。公開状況は変更される場合があるため、訪問前に各施設の公式情報を確認すること。
| # | スポット名 | 性格 | 住所・所在地 | 現状 | 関連する作品・出来事 |
|---|---|---|---|---|---|
| 01 | バウムガルテン(生誕地) | 生きた場所 | Wien 14, Baumgarten | 現存する地区 | 1862年7月14日、この地で誕生 |
| 02 | ザントヴィルトガッセのアトリエ | 働いた場所 | Wien 6, Sandwirtgasse 8 | 集合住宅 | 1883–1892年。初期の装飾壁画の生産拠点 |
| 03 | ヨーゼフシュテッター通りのアトリエ | 働いた場所 | Wien 8, Josefstädter Straße 21 | 建築は現存せず(跡地) | 1892–1911/12年。黄金時代の傑作を制作 |
| 04 | クリムト・ヴィラ | 働いた場所 | Feldmühlgasse 11, 1130 Wien | 復元・一般公開 | 1911/12–1918年。晩年の最後のアトリエ |
| 05 | ウィーン分離派館 | 働いた場所 | Friedrichstraße 12, 1010 Wien | 現存・公開 | 《ベートーヴェン・フリーズ》 |
| 06 | ウィーン大学 | 公共制作の舞台 | Universitätsring 1, 1010 Wien | 建物は現存 | 《哲学》《医学》《法学》の注文 |
| 07 | ブルク劇場 | 初期の公共制作 | Universitätsring 2, 1010 Wien | 現存・公開 | 芸術家カンパニーによる階段室装飾 |
| 08 | ベルヴェデーレ美術館 | 主要所蔵館 | Prinz-Eugen-Straße 27, 1030 Wien | 公開 | 《接吻》ほか |
| 09 | リッツルベルク | 避暑・制作地 | Attersee北岸 | 湖畔は現存 | 《アッター湖畔》ほか |
| 10 | カンマー城周辺 | 避暑・制作地 | Schörfling am Attersee | 城・湖は現存 | 《アッター湖畔のカンマー城 III》 |
| 11 | ウンターアッハ | 避暑・制作地 | Unterach am Attersee | 湖畔は現存 | 晩年の湖畔風景 |
| 12 | ヒーツィング墓地 | 墓所 | Maxingstraße 15, 1130 Wien | 墓所現存 | 1918年埋葬 |
作品と現地の対応
| 作品・主題 | 制作年 | 生まれた/描かれた場所 | 現地の状態 |
|---|---|---|---|
| ディオニュソスの祭壇(習作) | 1886 | ザントヴィルトガッセのアトリエ/ブルク劇場 | 劇場は現存 |
| 接吻/アデーレ I | 1907–1908 | ヨーゼフシュテッター通りの中庭パビリオン | 建築は現存せず(跡地) |
| ベートーヴェン・フリーズ | 1902 | 分離派館の展示空間 | 分離派館地下に現存・公開 |
| 医学・哲学・法学 | 1900–1907 | ウィーン大学大講堂のための天井画 | 作品は1945年焼失、大学は現存 |
| アッター湖畔のカンマー城 III | 1910 | 東岸カンマー城/ヴィラ・オレアンダー | 城・湖は現存 |
| ひまわりのある農家の庭 | 1907 | アッター湖畔リッツルベルク周辺 | 湖畔は現存 |
| リッツルベルク/ウンターアッハの家々 | 1914–1916 | アッター湖 北岸・南西岸 | 湖畔は現存 |
| 死と生(改作) | 1910–1916 | クリムト・ヴィラ | ヴィラは復元・公開 |
図版クレジットと画像確認
- ヒーロー:Secession Building Vienna.jpg — 分離派館。Conny Duck / CC BY-SA 4.0。
- q1:Gustav Klimt portrait by Moritz Nähr.jpeg — クリムト肖像。
- q2左:Altar des Dionysos — 1886年の習作。
- q2右:Wien Burgtheater um 1900.jpg — ブルク劇場外観。元データ指定の「Burgtheater Vienna Oct. 2006 002.jpg」は外観写真ではなくクリムトの天井画写真だったため差し替え。
- q3:《接吻》。
- q4:Klimt-Villa 2013 Atelier 02.jpg — 復元アトリエ。Manfred Werner / CC BY-SA 3.0。
- q4:《死と生》。
- q5:《ベートーヴェン・フリーズ》「敵対する力」。
- q6:《医学》。
- q7:《アッター湖畔》《アッター湖畔のカンマー城 III》《ひまわりのある農家の庭》。
- q8:《アッター湖畔のリッツルベルク》《アッター湖畔のウンターアッハの家々》。
- q9:Grave of Gustav Klimt, Hietzinger Friedhof.jpg — クリムトの墓。Herzi Pinki / CC BY-SA 4.0。
絵画作品はパブリックドメイン。現地・建築・墓所の写真は各Wikimedia Commonsファイルページのライセンス条件に従うこと。
REFERENCES / 出典参考文献
ゆかりの地・所蔵館
- Gustav Klimt-Datenbank — Places
- Studio at Josefstädter Straße 21 — Klimt Database
- Vienna Tourist Board / Vienna.info
- Europeana — Gustav Klimt and Attersee
分離派・大学講堂
- Secession — Beethoven Frieze
- Vienna.info — Klimt Faculty Paintings
返還・プロヴェナンス
- Neue Galerie — Klimt and Adele Bloch-Bauer
- Republic of Austria v. Altmann, 541 U.S. 677 (2004)
画像
- Wikimedia Commons — Gustav Klimt


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