ダ・ビンチ ゆかりの地

レオナルド・ダ・ヴィンチゆかりの地|生家・ミラノ・アンボワーズをたどる|アーティストの人生
ゆかりの地イタリア(トスカーナ/ロンバルディア/ヴェネト/ヴァチカン)、フランス(ロワール渓谷/パリ)、ポーランド(クラクフ)24スポット3ルート
LEONARDO DA VINCI · PLACES

レオナルド・ダ・ヴィンチゆかりの地The Places of Leonardo da Vinci (1452–1519)

レオナルド・ダ・ヴィンチが動いた距離は、そのまま彼の関心の広がりに対応している。トスカーナの丘の農家で生まれ、フィレンツェの工房で絵と機械を同時に覚え、ミラノの宮廷で軍事技術者になり、ローマで冷遇され、最後はロワール渓谷の館で王の客人として死んだ。67年でおよそ1,300キロを移動し、そのつど肩書きを変えている。この記事では、彼が実際に立っていた場所を北イタリアからフランスまで順にたどる。何が残り、何が失われ、いま何が見られるのか。番地と現状を、その地で生まれた作品と突き合わせていく。

トスカーナ・アンキアーノに残るレオナルド・ダ・ヴィンチ生家とされる石造の農家
アンキアーノに残る石造の農家。伝承ではここがレオナルドの生誕地とされ、現在はレオナルド博物館の一部として公開されている。周囲はオリーブとブドウの畑が広がる丘陵地帯である。Photo: Jordiferrer / Wikimedia Commons / CC BY-SA 4.0
DATAゆかりの地データ
生誕地イタリア・トスカーナ州ヴィンチ、またはその近郊アンキアーノ(Anchiano, 50059 Vinci FI)
終焉地フランス・アンボワーズ、クロ・リュセ城(2 Rue du Clos Lucé, 37400 Amboise)
主な滞在地ヴィンチ/フィレンツェ/ミラノ/マントヴァ/ヴェネツィア/チェゼーナ/ローマ/アンボワーズ
最も長く暮らした街ミラノ(1482–1499年の17年間、および1506–1513年)
現存する最重要史跡クロ・リュセ城、サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ、スフォルツァ城サーラ・デッレ・アッセ、アンキアーノの生家
失われた/改変された場所五百人広間の壁画『アンギアーリの戦い』、ヴェロッキオ工房の建物、サン=フロランタン参事会教会
世界遺産サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会とドミニコ会修道院(1980年登録)、シュリー=シュル=ロワールからシャロンヌまでのロワール渓谷(2000年登録)
墓所アンボワーズ城サン=ユベール礼拝堂(1874年改葬、遺骨は「推定」と明記)
作品を所蔵する主要館ルーヴル美術館(5点)、ウフィツィ美術館、ロンドン・ナショナル・ギャラリー、アンブロジアーナ絵画館、チャルトリスキ美術館、ヴァチカン美術館、アカデミア美術館
3点でわかるレオナルド・ダ・ヴィンチのゆかりの地
  1. 絵はその土地に残っていないことが多い。 レオナルドが働いた場所と、彼の絵がいまある場所は一致しない。ミラノで描かれた『白貂を抱く貴婦人』はクラクフに、フランスへ持ち込まれた3点はパリのルーヴルにある。現地に絵が残っているのは、動かせない壁画『最後の晩餐』とサーラ・デッレ・アッセの天井だけである。
  2. 移動距離は約1,300キロ。 ヴィンチからアンボワーズまでは直線でおよそ900キロ、実際の陸路ではアルプス越えを含めて1,300キロ前後になる。東京から鹿児島までがおよそ1,000キロであることを思えば、64歳の彼が最後に越えた距離の重さがわかる。
  3. 終わりの3年間だけ、まとめて残っている。 イタリア各地の滞在先は建物が失われたり用途が変わったりしているが、フランス時代のクロ・リュセ城とアンボワーズ城は建物も部屋も墓も揃って現存する。彼の生涯で最も「現地を歩ける」時期は、皮肉にも最後の3年である。
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レオナルド・ダ・ヴィンチゆかりの地をたどる

レオナルドの移動は、パトロンの交代と戦争の進行によって決まった。トスカーナの農村で生まれ、フィレンツェで技術を身につけ、ミラノで最も長く働き、フランス軍の侵攻で職を失って放浪し、最後にフランス王の招きでロワール渓谷へ渡る。以下の13章では、その順に24のスポットを訪ねる。住所はできるかぎり現行の表記で示し、建物が失われている場合や用途が変わっている場合はその旨を明記した。

1452–1519年OVERVIEW01

4か国をまたいだ67年 ── 移動の全体像

レオナルドの生涯を地図に描くと、線はトスカーナの丘から始まり、フィレンツェで一度停滞し、北へ跳んでミラノに長くとどまり、そこから東と南へ何度も揺れ、最後に大きくアルプスを越えてロワール渓谷で途切れる。

出発点はヴィンチ、あるいはその近郊アンキアーノ。フィレンツェから約35キロの丘陵地帯である。1460年代半ばに一家がフィレンツェへ移り、彼はヴェロッキオ工房に入る。1482年、30歳でミラノへ。ここが最も長い滞在地となり、17年を過ごした。1499年にフランス軍の侵攻でルドヴィーコ・スフォルツァが失脚すると、マントヴァ、ヴェネツィアを経てフィレンツェへ戻り、1502年にはチェゼーナでチェーザレ・ボルジアに軍事技師として仕える。1503年から再びフィレンツェ、1506年からはフランス統治下のミラノ、1513年からローマ、そして1516年にフランスへ。1519年5月2日、アンボワーズのクロ・リュセで没した。

移動距離を概算すると、ヴィンチからアンボワーズまでは直線でおよそ900キロ、アルプス越えを含む実際の陸路では1,300キロ前後になる。東京から鹿児島までがおよそ1,000キロ。64歳の人間が、当時の交通手段でその距離を、3点の絵を携えて越えたことになる。

彼の「ゆかりの地」を訪ねるうえで最初に理解しておくべきなのは、場所と作品が一致しないという事実である。ミラノで描かれた『白貂しろてんを抱く貴婦人』はいまクラクフにあり、フランスへ持ち込まれた3点はパリにある。現地に残っているのは、物理的に動かせないものだけ、つまりサンタ・マリア・デッレ・グラツィエの壁画と、スフォルツァ城の天井装飾だけである。

期間土地国・地域パトロン・環境その地で生まれた主なもの
1452–1460年代ヴィンチ/アンキアーノトスカーナ祖父・父の家自然観察の原体験
1466年頃–1482年フィレンツェトスカーナヴェロッキオ工房、メディチ家『受胎告知』『ジネーヴラ・デ・ベンチの肖像』『東方三博士の礼拝』(未完)
1482–1499年ミラノロンバルディアルドヴィーコ・スフォルツァ『岩窟の聖母』『白貂を抱く貴婦人』『最後の晩餐』『サーラ・デッレ・アッセ』
1499–1500年マントヴァ/ヴェネツィアロンバルディア/ヴェネト亡命、軍事技術者として雇用『イザベラ・デステの肖像』素描、海防設計
1500–1502年フィレンツェトスカーナセルヴィ会修道院ほか『聖アンナ』のカルトン
1502–1503年チェゼーナ/イーモラほかロマーニャチェーザレ・ボルジア『イーモラの都市図』
1503–1506年フィレンツェトスカーナフィレンツェ共和国『アンギアーリの戦い』(失われた)、『モナ・リザ』着手
1506–1513年ミラノロンバルディアシャルル2世ダンボワーズ、ルイ12世解剖学研究、弟子メルツィとの出会い
1513–1516年ローマ教皇領ジュリアーノ・デ・メディチ、教皇レオ10世植物学、声帯の研究、ポンティーノ湿地の排水計画
1516–1519年アンボワーズフランス・ロワール渓谷フランソワ1世ロモランタン城塞都市の設計、機械仕掛けの獅子しし
1452–1460年代VINCI / ANCHIANO(トスカーナ)02

ヴィンチとアンキアーノ ── 生家と、丘の上の博物館

レオナルドは1452年4月15日、フィレンツェ郊外の小村ヴィンチ、あるいはそこからさらに丘を上った集落アンキアーノで生まれた。父は公証人セル・ピエロ、母は身分の低いカテリーナで、二人は結婚していなかった。この非嫡出という出自が、彼を伝統的なラテン語教育と公証人組合の道から締め出し、結果として書物ではなく自然そのものを情報源とする方法へ押しやったことは、多くの研究者が指摘するとおりである。

アンキアーノに残る石造の農家「カーサ・ナターレ・ディ・レオナルド(Casa Natale di Leonardo)」は、オリーブ畑とブドウ畑に囲まれた小高い場所に立つ。ただし、ここが本当に生誕地であるかは確定していない。伝承を19世紀の歴史家エマヌエーレ・レペッティが記録したもので、フィレンツェにあった父の家で生まれた可能性も残る。それでも、この一帯の起伏に富んだ地形と、風雨による浸食のかたちは、彼の自然観察の原風景として説得力をもつ。のちの手稿を埋め尽くす水流と地層のスケッチは、この土地の眺めから遠くない。

村の中心にあるのが「レオナルド博物館(Museo Leonardiano)」である。開館は1953年。もともとは1919年の没後400年記念で構想されたが実現せず、IBMが手稿にもとづく模型群を寄贈したことで開館にこぎつけた。現在の展示は複数の建物に分かれており、パラッツィーナ・ウツィエッリには建設機械、繊維機械、機械時計、解剖のセクションが、12世紀からこの町を見下ろす中世の「コンティ・グイディ城」には軍事機械、橋、飛行研究、機構と道具、自転車と自走車、水、光学と遠近法、幾何立体のセクションが置かれる。展示されている模型は60点を超える。手稿の図が実物大で立ち上がっている光景は、平面のスケッチを見ているだけでは掴めない縮尺の感覚を与えてくれる。

住所(生家):Anchiano, 50059 Vinci FI, Italy

住所(レオナルド博物館・コンティ・グイディ城):Piazza dei Conti Guidi 1, 50059 Vinci FI, Italy

住所(チケット売り場):Piazza Leonardo da Vinci 26, 50059 Vinci FI, Italy

ヴィンチの町を見下ろす中世のコンティ・グイディ城。細長い建物と塔
コンティ・グイディ城(レオナルド博物館)ヴィンチの町に立つコンティ・グイディ城。細長い形と塔から「船の城」とも呼ばれる12世紀の建築で、現在はレオナルド博物館の中心的な展示館になっている。Photo: Sailko / Wikimedia Commons / CC BY 3.0
1466年頃–1482年FLORENCE ①(トスカーナ)03

フィレンツェ①ヴェロッキオ工房とウフィツィ ── 初期作が集まる場所

1460年代半ば、一家はフィレンツェへ移る。メディチ家の庇護ひごのもとで知的・芸術的な活力が渦巻いていたこの街は、レオナルドにとって絵画技法だけでなく解剖学と機械工学の基礎を吸収する巨大な実験室だった。14歳前後で入ったアンドレア・デル・ヴェロッキオの工房は、絵も彫刻も金工も祭典用の機械仕掛けも同じ屋根の下で請け負う総合的な作業場である。

残念ながら、その工房の建物は現存しない。フィレンツェで彼の足跡をたどるということは、街の構造そのものと、美術館に集まった初期作を見ることを意味する。

その中心がウフィツィ美術館である。ここには彼の初期を代表する2点、『受胎告知』と『東方三博士の礼拝』がある。前者は縦横比ほぼ1対2の横長画面で、伝統的な金地背景を捨て、背後に空気遠近法による山と水辺を描き込んだ。画面右の聖母の右腕が不自然に長く見えることは古くから指摘されており、単なる未熟さではなく、特定の角度から見られることを想定した意図的な補正だとする説が有力視されている。後者は約250センチ四方の未完作で、2012年から2017年にかけて貴石加工研究所(Opificio delle Pietre Dure)が修復を行い、赤外線調査によって表面下に隠れていた無数の人物と建築のスケッチが浮かび上がった。

ウフィツィの素描・版画室には、もう一点きわめて重要な資料がある。「アルノ川と渓谷の風景」(インベントリ番号8P)で、1473年8月5日の日付をもつ現存最古の素描である。2019年、貴石加工研究所が赤外線などによる非破壊診断を実施した結果、レオナルドが左利きであったという通説にとどまらず、右手と左手の両方で筆記と描画を行っていたことが示された。用紙の表と裏で異なる手の動きが確認されたのである。

住所(ウフィツィ美術館):Piazzale degli Uffizi 6, 50122 Firenze, Italy

レオナルドの油彩『受胎告知』。左に翼のある天使、右に書見台の前に座る聖母、背後に霞む山と港
受胎告知(1473–75年頃、ウフィツィ美術館)『受胎告知』98×217cm。金地背景を捨て、空気遠近法による山と水辺を背後に置いた。ウフィツィ美術館で見られる最初期の代表作。Leonardo da Vinci, *Annunciation*, c. 1473–1475 / Galleria degli Uffizi, Florence / Wikimedia Commons, Public Domain
レオナルドの未完作『東方三博士の礼拝』。褐色の下描き状態で、中央の聖母子を群衆が半円状に取り巻く
東方三博士の礼拝(1481–82年頃、未完)『東方三博士の礼拝』約250×250cm。ミラノ行きによって下描きの段階で放棄された。2012–2017年の修復で、レオナルドの木炭の線が明瞭に見えるようになった。Leonardo da Vinci, *The Adoration of the Magi*, c. 1481–1482 / Galleria degli Uffizi, Florence / Wikimedia Commons, Public Domain
1504–1505年FLORENCE ②(トスカーナ)04

フィレンツェ②パラッツォ・ヴェッキオ ── 失われた壁画の部屋

シニョリーア広場に立つ政庁舎パラッツォ・ヴェッキオの二階に、五百人広間(Salone dei Cinquecento)がある。フィレンツェ共和国の五百人評議会のために1494年に作られた大広間で、いまも街でもっとも巨大な室内空間の一つである。

1504年、レオナルドはこの広間の壁画『アンギアーリの戦い』を委嘱された。契約書に署名したのはニッコロ・マキャヴェッリである。向かい合う壁にはミケランジェロが『カッシーナの戦い』を担当することになっていた。当時52歳のレオナルドと29歳のミケランジェロが、同じ部屋の対面する壁で競作する。美術史でもほとんど例のない構図だった。

だが、どちらの壁画も残っていない。レオナルドはここでも通常のフレスコを避け、実験的な技法を用いた。初期の伝記作者によれば、クルミ油を使った別種のフレスコを試みたものの顔料が不安定で、制作を放棄したという。未完のまま現地に置かれ、多くの訪問者と画家が賞賛したが、最終的に失われ、1563年から65年にかけてヴァザーリのフレスコに置き換えられた。2020年には、レオナルドの想定した下地では絵具が壁に定着しえないため、そもそも本制作には着手されていなかったとする研究も提出されている。

現在この広間を訪ねると、壁を覆うのはヴァザーリの巨大なフレスコと、39枚の格天井ごうてんじょうである。レオナルドの絵は一片も見えない。それでも、ここに立つ意味は残る。壁面のスケールを実際に見上げると、レオナルドが構想した4人の男と軍馬の塊が、どれほど巨大な塊としてこの空間を支配するはずだったかが体感できる。ルーベンスによる模写を先に見てから訪ねると、その落差はさらに強い。

住所:Piazza della Signoria, 50122 Firenze, Italy

フィレンツェ・パラッツォ・ヴェッキオの五百人広間。巨大な壁面フレスコと格天井
五百人広間(パラッツォ・ヴェッキオ)五百人広間の現在。壁を覆うのは1563–65年のヴァザーリのフレスコで、レオナルドの『アンギアーリの戦い』はこの壁面のどこかにあった。Photo: Zairon / Wikimedia Commons / CC BY 4.0
1482–1499年MILAN ①(ロンバルディア)05

ミラノ①スフォルツァ城 ── 天井に樹木を植えた部屋

1482年、レオナルドは軍事技術者としての自らを売り込む書状を携え、ミラノ公ルドヴィーコ・スフォルツァ(イル・モーロ)の宮廷へ赴いた。以後17年、彼にとって最も生産的な期間が始まる。絵画、軍事工学、建築、舞台演出、水利事業が同時進行した。

その宮廷の本拠がスフォルツァ城(カステッロ・スフォルツェスコ)である。そして城のなかに、レオナルドが現地に残した数少ない作品の一つがある。1498年頃、彼と助手たちが手がけた「サーラ・デッレ・アッセ(板の間)」の装飾だ。

この部屋の壁と丸天井は、16本の樹木が絡み合ってパーゴラをつくるだまし絵で覆われている。幹、葉、果実、そして無数の結び目。天井の中央にはスフォルツァ家とエステ家の紋章が置かれる。城の四角い塔(ファルコニエーラ塔)の内部にいるはずなのに、鑑賞者は屋外の茂った緑陰の下に立たされる。ルドヴィーコの実際の田舎の居所ヴィジェーヴァノの城には迷路庭園があり、レオナルドのこの幻覚は、都市のなかにその代用を用意するものだったという解釈がある。

1950年代の修復では、白い塗りの上に黒で描かれた元の下絵が発見された。装飾は後世の加筆を何度も受けており、現在も部分的な修復と調査が続いている。訪ねる際は、公開状態が時期によって変わる点に注意したい。

なお、スフォルツァ城にはピナコテーカ(絵画館)も併設されており、1878年の開設以来230点を超える作品を展示している。

住所:Piazza Castello, 20121 Milano, Italy

スフォルツァ城サーラ・デッレ・アッセの天井装飾。絡み合う樹木の枝と葉、結び目の文様
サーラ・デッレ・アッセ(1498年頃)スフォルツァ城サーラ・デッレ・アッセの天井。16本の樹木が絡み合ってパーゴラをつくるだまし絵で、室内にいながら緑陰の下に立つ錯覚を与える。Photo: Sailko / Wikimedia Commons / CC BY 3.0
1495–1498年/修復は1978–1999年MILAN ②(ロンバルディア)06

ミラノ②サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ ── 動かせない絵

コルソ・マジェンタに面して立つサンタ・マリア・デッレ・グラツィエは、教会とドミニコ会修道院からなる建築複合体である。1463年に着工し1497年に完成。後期ゴシックの身廊しんろうにブラマンテによるルネサンスの後陣こうじんとドームが接続された、様式の境目がそのまま見える建物だ。1980年、ユネスコ世界遺産に登録された。登録名は「レオナルド・ダ・ヴィンチの『最後の晩餐』のあるサンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会とドミニコ会修道院」で、絵の名前が遺産名に入っている。

『最後の晩餐』(1495–1498年頃)が描かれたのは、教会ではなく隣接する修道院の食堂(レフェットリオ)の壁である。高さ約460センチ、幅約880センチ。キリストが裏切りを予言した直後の使徒たちの反応を、厳密な一点透視図法のなかに配置している。

レオナルドは漆喰しっくいが乾く前に一気に描くフレスコを嫌った。熟考と加筆を可能にし、スフマートの深みを出すために、ジェッソ、ピッチ(樹脂)、マスチックを塗った乾いた壁の上に油彩とテンペラの混合で描くという実験を行った。この選択が致命傷になる。壁面内部からの湿気が塗膜を破壊し、完成直後から激しい剥落が始まった。

近年の分光分析は、この壁画の構造をさらに具体的に明らかにしている。赤外分光法とラマン分光法による非破壊分析では、塗膜の微細な断面からアントラキノン系のレーキ顔料(レッドレイク)が特定された。壁画で有機染料を主成分とするレーキ顔料を使うのは極めて異例で、レオナルドがこの壁を、板絵やカンヴァスと同じ多層構造として扱っていたことを裏づける。

1978年から1999年まで、22年をかけた大規模修復が行われ、後世の加筆が取り除かれた。現在は厳格な温湿度管理のもとに置かれ、見学は完全予約制。入室人数と滞在時間が制限されている。訪問を計画するなら、予約は数か月前に取るつもりでいたほうがいい。

なお、修道院の三つの回廊のうち現存するのは、1943年の空襲被害から戦後に再建された「死者の回廊」を中心とした部分で、図書館などは失われたまま復旧していない。

住所:Piazza di Santa Maria delle Grazie 2, 20123 Milano, Italy

ミラノのサンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会の外観。ブラマンテによる赤煉瓦のドーム部分
サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ(ブラマンテのティブリオ)サンタ・マリア・デッレ・グラツィエの外観。写真はブラマンテが手がけた後陣とドーム(ティブリオ)の部分で、後期ゴシックの身廊とは様式が明確に分かれている。Photo: Marco Bonavoglia / Wikimedia Commons / CC BY-SA 3.0
レオナルドの壁画『最後の晩餐』。長いテーブルの中央にキリスト、左右に3人ずつ4群の使徒
最後の晩餐(1495–98年頃)修道院食堂の壁に描かれた『最後の晩餐』約460×880cm。物理的に動かせないため、レオナルドの作品のうち現地で見られる数少ない一点になっている。Leonardo da Vinci, *The Last Supper*, c. 1495–1498 / Santa Maria delle Grazie, Milan / Wikimedia Commons, Public Domain
1482–1499年/手稿は17世紀以降MILAN ③(ロンバルディア)07

ミラノ③アンブロジアーナとブドウ畑 ── 手稿と、彼が貰ったもらった土地

ミラノにはもう二つ、レオナルドの名で訪ねるべき場所がある。

一つはアンブロジアーナ図書館・絵画館(Biblioteca e Pinacoteca Ambrosiana)である。ここには彼の手稿のうち最大のもの、『アトランティコ手稿(Codex Atlanticus)』が所蔵されている。1,119葉・12巻という規模で、力学、水力学、幾何学、植物学、軍事技術などが混在する。この手稿は、レオナルドの死後にばらばらになった紙片を16世紀後半に彫刻家ポンペオ・レオーニが収集・再構成したもので、1637年以降ここに置かれている。併設の絵画館には、彼に帰属される『音楽家の肖像』もある。

もう一つが「レオナルドのブドウ畑(Vigna di Leonardo)」だ。ルドヴィーコ・スフォルツァは『最後の晩餐』の制作にあたって、教会の向かい側にあるブドウ畑をレオナルドに与えた。現在の住所はコルソ・マジェンタ65番地、カーサ・デッリ・アテッラーニ(Casa degli Atellani)の敷地内である。2015年に再整備され公開された。教会から道を渡ればすぐという距離で、絵を描いていた期間の彼の日常の動線がそのまま残っている。ワインづくりの家系に生まれた男が、壁画の合間に自分の畑へ歩いていく。この地味な事実は、彼の「万能」という言葉にわずかな体温を与えてくれる。ただし公開状況は時期により変わるため、訪問前に確認されたい。

住所(アンブロジアーナ図書館・絵画館):Piazza Pio XI 2, 20123 Milano, Italy

住所(レオナルドのブドウ畑/カーサ・デッリ・アテッラーニ):Corso Magenta 65, 20123 Milano, Italy

レオナルドに帰属される油彩『音楽家の肖像』。楽譜らしき紙片を持つ若い男性の胸像
音楽家の肖像(1485年頃、アンブロジアーナ絵画館)『音楽家の肖像』。ミラノで唯一、彼に帰属される板絵として見られる作品である。手に持つ紙片が、この人物を音楽家と同定する根拠になっている。Leonardo da Vinci (with possible studio assistance), *Portrait of a Musician* / Pinacoteca Ambrosiana, Milan / Wikimedia Commons, Public Domain
1489–1491年制作/現在の所蔵は1800年以降KRAKÓW(ポーランド)08

クラクフ ── 流れ着いた貴婦人

ミラノで描かれた絵が、なぜポーランドの古都にあるのか。『白貂しろてんを抱く貴婦人』(1489–91年頃)の所在は、レオナルドゆかりの地を考えるうえで最も遠い飛び地である。

モデルはルドヴィーコ・スフォルツァの愛人チェチーリア・ガッレラーニとされる。身体が左を向き、頭部が右へ回り、視線がさらに枠外へ向かうという三段のねじれによって、画面には緩やかなS字の動きが生まれる。硬い横顔が主流だった当時の肖像画に対する、明確な革新だった。腕のなかの白貂の解剖学的な正確さも際立っている。

この絵は現在、クラクフのチャルトリスキ美術館にある。ポーランドの国宝級の作品として扱われ、レオナルドの女性肖像画4点(本作、『ジネーヴラ・デ・ベンチの肖像』『ラ・ベル・フェロニエール』『モナ・リザ』)のなかで、ヨーロッパ本土の主要美術館以外にある唯一の作品でもある。なお、かつてこの絵は「ラ・ベル・フェロニエール」の名で呼ばれた時期があり、ルーヴルにある同名作と長らく混同されてきた。額に巻く装身具フェロニエールが両作に描かれていたためである。

住所(チャルトリスキ美術館):ul. Pijarska 15, 31-015 Kraków, Poland

レオナルドの油彩『白貂を抱く貴婦人』。白い小動物を抱き、顔を右へひねる若い女性
白貂を抱く貴婦人(1489–91年頃、チャルトリスキ美術館)『白貂を抱く貴婦人』54.8×40.3cm。ミラノで描かれた絵が、現在はクラクフにある。身体・頭部・視線の三段のねじれが画面にS字の動きを生む。Leonardo da Vinci, *Lady with an Ermine*, c. 1489–1491 / Czartoryski Museum, Kraków / Wikimedia Commons, Public Domain
1513–1516年ROME(教皇領)09

ローマ ── ベルヴェデーレの中庭で過ごした3年

1513年3月、ロレンツォ・デ・メディチの子ジョヴァンニが教皇レオ10世として即位する。同年9月、レオナルドはローマへ向かい、教皇の弟ジュリアーノ・デ・メディチに迎えられた。以後1516年まで、彼は使徒宮殿のベルヴェデーレの中庭に居住する。

条件は悪くなかった。月33ドゥカートの手当が与えられ、ヴァチカン庭園で植物学を実践し、遺体を解剖して声帯に関する論考のためのノートを取っている。教皇が計画したポンティーノ湿地の排水計画のための図面も引いた。

しかし、この時期の彼はうまくいっていない。教皇から与えられた絵画の注文は、彼が新しいニスの開発に取りかかったところで取り消された。レオ10世は「この男は何も成し遂げまい。始める前に終わりのことを考えている」と言ったと伝えられる。同じ時期、同じベルヴェデーレの周辺ではミケランジェロとラファエロが活動していた。61歳の彼は、その二人に挟まれるかたちで、実質的な仕事を得られないまま3年を過ごした。彼が病に倒れたのもこの時期で、これが死に至る複数の脳卒中の最初のものであった可能性が指摘されている。

現在、使徒宮殿とベルヴェデーレの中庭はヴァチカン美術館の一部として整備されており、レオナルドが暮らした当時の姿ではない。ただしヴァチカン美術館には、彼の未完作『荒野の聖ヒエロニムス』が所蔵されている。ローマで彼が得られなかったものを思いながら、この描き残された板の前に立つと、この街の3年間の意味が少し変わって見える。

住所(ヴァチカン美術館):Viale Vaticano, 00165 Città del Vaticano

レオナルドの未完作『荒野の聖ヒエロニムス』。ひざまずく痩せた老人と、足元に横たわる獅子
荒野の聖ヒエロニムス(1480–82年頃、ヴァチカン美術館)『荒野の聖ヒエロニムス』103×75cm。フィレンツェ時代に着手され、未完のまま残された。現在はヴァチカン美術館に所蔵されている。Leonardo da Vinci, *Saint Jerome in the Wilderness*, c. 1480–1482 / Musei Vaticani, Vatican City / Wikimedia Commons, Public Domain
1516–1519年AMBOISE ①(ロワール渓谷)10

アンボワーズ①クロ・リュセ城 ── 終の住処と、復元された工房

1516年、64歳のレオナルドはフランス国王フランソワ1世の招きに応じ、アルプスを越えてロワール渓谷の町アンボワーズへ渡った。王は彼を「王に仕える第一の画家、技術者、建築家」として遇し、自身の居城アンボワーズ城から約500メートル離れた館クロ・リュセを与え、総額10,000スクードに及ぶ年金を保証した。

クロ・リュセは旧称をクルー館(Manoir du Cloux)といい、1471年にユーグ・ダンボワーズがガロ・ローマ時代の基礎の上に建てた館である。1490年にシャルル8世が買い取り、以後フランス王家の別邸となった。八角形の塔とその内部の螺旋らせん階段を軸に、赤煉瓦れんがと白い切石きりいし(トゥフォー)で構成される。フランソワ1世の姉マルグリット・ド・ナヴァルもここに滞在し、『エプタメロン』の執筆を始めた。

ここでレオナルドが取り組んだのは絵ではない。王がロモランタンに建てようとした巨大な城塞都市の設計、宮廷の祝祭の演出、そしてロワール川とその支流の運河化構想。行列のなかを王に向かって歩き、杖つえで打たれると胸を開いて百合の花束を現す機械仕掛けの獅子ししも、この時期の仕事である。

現在の館は、サン・ブリ家が1954年から2014年までの60年をかけて全面的に修復した。1960年代から80年代にかけて厨房ちゅうぼう、大評議室、寝室、地下の諸室、礼拝堂とそのフレスコが本来の姿を取り戻し、2010年から2014年にはレオナルドとマルグリット・ド・ナヴァルの寝室、二つのルネサンス・ギャラリー、エントランスホールと大階段が復元された。地階には彼の工房が再現されている。

敷地全体は「レオナルド・ダ・ヴィンチ・パーク」として整備され、手稿の設計図にもとづく戦車、多連装砲、ヘリコプター状の飛行装置、旋回橋などの実物大モデルが屋外に展示されている。紙の上の線が実際の木材と金属になったとき何が起きるのかを、歩きながら確認できる場所である。

1519年4月23日、レオナルドはここで遺言を口述した。5月2日、同じ館で死去。67歳だった。

住所:2 Rue du Clos Lucé, 37400 Amboise, France

フランス・アンボワーズのクロ・リュセ館を上空から見た写真。赤煉瓦と白い切石の建物と庭園
クロ・リュセ城(アンボワーズ)クロ・リュセ(旧称クルー館)。1516年から1519年までレオナルドが暮らし、息を引き取った館。アンボワーズ城とは約500メートルの距離にある。Photo: Lieven Smits / Wikimedia Commons / CC BY-SA 3.0
クロ・リュセ城内に復元されたレオナルドの工房。作業机、道具、書見台などが並ぶ室内
復元されたレオナルドの工房(クロ・リュセ城)クロ・リュセ城の地階に再現されたレオナルドの工房。フランス到着後の3年間、彼はここで設計図を引き、手元の絵に加筆を続けた。Photo: Pieter van Everdingen / Wikimedia Commons / CC BY-SA 4.0
1519年/墓は1874年改葬AMBOISE ②(ロワール渓谷)11

アンボワーズ②アンボワーズ城とサン=ユベール礼拝堂

クロ・リュセから坂を上って約500メートル、ロワール川を見下ろす高台にアンボワーズ城が立つ。フランソワ1世の居城であり、二つの建物は地下通路で結ばれていたと伝えられている。王はこの通路を使って頻繁にレオナルドを訪ねたという逸話が残るが、通路の存在そのものについては伝承の域を出ない部分もある。

1518年6月、この城で「楽園の祝祭(Fête du Paradis)」が催された。皇太子の誕生と、ロレンツォ・ディ・ピエロ・デ・メディチとマドレーヌ・ド・ラ・トゥール・ドーヴェルニュの婚礼を祝う大規模な催しで、衣装の豪華さと仕掛けの巧妙さが記録に残っている。レオナルドはこの種の演出を、ミラノ時代から一貫して引き受けてきた。

1519年5月2日の死後、彼の遺骸は遺言に従い、城の敷地内にあったサン=フロランタン参事会教会に8月12日に埋葬された。遺言により、60人の貧者が蝋燭ろうそくを掲げて棺ひつぎに付き従っている。

だが物語はそこで終わらない。フランス革命でアンボワーズ城は大きく損壊し、この教会は1802年に取り壊された。墓は壊され、遺骨は散乱する。1863年、美術監督官アルセーヌ・ウーセーが皇帝の命で発掘を行い、指に青銅の指輪をはめた白髪の不完全な骨格と、「EO」「AR」「DUS」「VINC」と刻まれた石片を発見した。つなげれば「Leonardus Vinci」と読める。頭蓋とうがいに残る8本の歯は年齢的に矛盾せず、近くから見つかった銀の盾には髭ひげのないフランソワ1世が描かれていた。

1874年、これらは城の敷地内にあるサン=ユベール礼拝堂へ改葬された。墓石は1930年にイタリアの彫刻家ラ・モナカによって作り直され、メダイヨンは2000年代に彫刻家ジャン・カルドによって追加されている。ただし墓の上の銘板には、その中身があくまで「推定」であることが明記されている。500年後もなお確定していないという事実込みで、この小さな礼拝堂はレオナルドの終着点である。

住所:Château Royal d’Amboise, Montée de l’Emir Abd el Kader, 37400 Amboise, France

ロワール川を見下ろす高台に立つアンボワーズ城の外観
アンボワーズ城ロワール川に面した高台に立つアンボワーズ城。フランソワ1世の居城で、クロ・リュセとは約500メートルの距離にある。Photo: Xavier.gignac / Wikimedia Commons / CC BY-SA 3.0
アンボワーズ城サン=ユベール礼拝堂の内部にあるレオナルド・ダ・ヴィンチの墓石
サン=ユベール礼拝堂の墓サン=ユベール礼拝堂内のレオナルドの墓。1874年に改葬されたもので、墓石は1930年に作り直された。銘板には遺骨が「推定」であることが記されている。Photo: Gzen92 / Wikimedia Commons / CC BY-SA 4.0
1516年持参/1911年盗難PARIS(フランス)12

パリ ── アルプスを越えた3点と、1911年の空白

フランスへ移るにあたって、レオナルドは終生手放さなかった3点の絵をアルプス越えの荷物に入れた。『モナ・リザ』『聖アンナと聖母子』『洗礼者ヨハネ』である。彼はクロ・リュセの工房で、死の直前までこの3点に加筆を続けた。スフマートの探求は最後まで終わらなかった。

彼の死後、これらは弟子のサライらを経てフランソワ1世の手に渡り、フランスの国有財産となる。それが現在のルーヴル美術館コレクションの核になった。ルーヴルは現在、レオナルドに帰属される絵画を5点所蔵している。3点に加えて、ルーヴル版『岩窟の聖母』と『ラ・ベル・フェロニエール』である。ミラノで描かれた絵とアンボワーズで加筆された絵が、同じ部屋の壁に並んでいる。

そして『モナ・リザ』は、パリでもう一つの出来事を経験した。1911年8月21日の盗難である。犯人はルーヴルの元職員ヴィンチェンツォ・ペルージャで、作業着姿で館内に入り、絵を額縁から外して衣服の下に隠して持ち去った。驚くべきことに、当時は絵が撮影や修復のために壁から外されるのが日常茶飯事だったため、消失から26時間が経つまで誰も気づかなかった。

発覚すると世界の新聞が連日これを報じ、捜査線上には若き日のパブロ・ピカソや詩人ギヨーム・アポリネールまで浮上した。2年後に絵が発見されたとき、状況は一変していた。それまで『モナ・リザ』は専門家の評価は高かったものの、一般大衆にとっては『ミロのヴィーナス』や『サモトラケのニケ』ほどの知名度をもっていなかった。盗難事件を経て、この絵はルネサンスの傑作という枠を超え、世界で最も有名な絵画という地位を確定させる。現在、ルーヴルの5点のなかで、連日3万人以上が押し寄せる圧倒的な中心となっているのはこの一点である。

作品が「有名になる」プロセスに、作者の意図も技法も直接には関係しなかった。ゆかりの地をたどるという行為は、しばしばこうした後日談に行き当たる。

住所(ルーヴル美術館):Rue de Rivoli, 75001 Paris, France

作品名制作年フランスへ渡った経緯
モナ・リザ1503–1516年頃レオナルド自身がフランスへ持参、死後フランソワ1世へ
聖アンナと聖母子1501–1519年頃同上
洗礼者ヨハネ1508–1516年頃同上
岩窟の聖母(ルーヴル版)1483–1486年頃報酬紛争ののち別の買い手(フランス王室関係者とされる)へ売却
ラ・ベル・フェロニエール1490–1496年頃フランス王室コレクション経由
レオナルドの油彩『モナ・リザ』。手を重ねて座る女性と、背後に広がる岩と水の風景
モナ・リザ(1503–1516年頃、ルーヴル美術館)『モナ・リザ』77×53cm。レオナルドがアルプスを越えて持ち込み、死の直前まで加筆を続けた一点。1911年の盗難事件を経て世界的な知名度を得た。Leonardo da Vinci, *Mona Lisa*, c. 1503–1516 / Musée du Louvre, Paris / Wikimedia Commons, Public Domain
レオナルドの油彩『聖アンナと聖母子』。聖アンナの膝に座る聖母が、子羊と戯れる幼子に手を伸ばす
聖アンナと聖母子(1501–19年頃、ルーヴル美術館)『聖アンナと聖母子』。フランスへ持参された3点のうちの一つ。斜めに置かれた二つの人物像が重ね合わされ、三世代と子羊が一つの構造に収まっている。Leonardo da Vinci, *The Virgin and Child with Saint Anne*, c. 1501–1519 / Musée du Louvre, Paris / Wikimedia Commons, Public Domain
レオナルドの油彩『洗礼者ヨハネ』。暗闇から浮かび上がる人物が右手の指を上方に向ける
洗礼者ヨハネ(1508–16年頃、ルーヴル美術館)『洗礼者ヨハネ』。フランスへ持参された3点の最後の一つで、彼の最後の絵画とされることが多い。背景はほぼ完全な闇である。Leonardo da Vinci, *Saint John the Baptist*, c. 1508–1516 / Musée du Louvre, Paris / Wikimedia Commons, Public Domain
現在VENICE / WINDSOR / LONDON13

ヴェネツィア/ウィンザー ── 手稿と素描はどこにあるか

レオナルドが残したものの大半は絵ではない。現存する手稿は約7,200ページ、散逸したものを含めれば8,000から最大16,000ページに達したと推計されている。彼のノートは製本された書物ではなく、いつでも書き込めるルーズリーフ状の紙片で、多くはページ番号すら振られていなかった。死後、この紙束は弟子フランチェスコ・メルツィに託され、その死後に散逸した。したがって「手稿を見にいく場所」は、一か所ではない。

ヴェネツィアのアカデミア美術館には『ウィトルウィウス的人体図』がある。古代ローマの建築家ウィトルウィウスの記述をもとに人体の比例を円と正方形の幾何学に重ねた素描で、上下に鏡文字の注記が入る。紙作品であるため常時公開ではなく、展示は限定的である。2019年から2020年にかけてルーヴルで開かれた没後500年展には、所蔵館との法廷闘争を経て貸し出された。

ウィンザー城の王立図書館には、彼の解剖図の主要部分を含む素描群が収蔵されている。240点を超える解剖図と約13,000語の草稿は、公刊されていれば医学史を変えていたと評価されている。

ロンドンの大英図書館は『アランデル手稿』を所蔵し、その一部をオンラインで公開している。ヴィクトリア&アルバート博物館には『フォースター手稿』3群がある。ロンドン・ナショナル・ギャラリーには『岩窟の聖母』ロンドン版と、『聖アンナと聖母子と幼い洗礼者ヨハネ』のカルトンがある。そして個人所有の主要な科学手稿は『レスター手稿』のみで、ビル・ゲイツが所有し、年に一度、世界各地の都市で公開されている。

没後500年を機に、研究の焦点は完成作から手稿へ移った。フランチェスカ・フィオラーニの論考が指摘するように、彼の思考は一つの主題が結論に達する前に、流体力学から解剖学へ、幾何学から軍事技術へと際限なく脱線し増殖していく。完成や実用的な成果を至上とする見方からは失敗に見えるが、彼にとっては、まだ存在しないものを創造するための発見の空間を拡張し続けることそのものが目的だった、という読み方である。ゆかりの地をたどる旅の終点が、絵ではなく紙束の散らばった複数の都市になるのは、そのためでもある。

住所(アカデミア美術館):Campo della Carità 1050, 30123 Venezia, Italy

住所(王立図書館):Windsor Castle, Windsor SL4 1NJ, United Kingdom

住所(大英図書館):96 Euston Road, London NW1 2DB, United Kingdom

レオナルドの素描『ウィトルウィウス的人体図』。円と正方形に内接する両手両足を広げた男性像
ウィトルウィウス的人体図(1490年頃、アカデミア美術館)『ウィトルウィウス的人体図』。ヴェネツィアのアカデミア美術館蔵。紙作品のため常設展示ではなく、公開は限定的である。Leonardo da Vinci, *Vitruvian Man*, c. 1490 / Gallerie dell’Accademia, Venice / Wikimedia Commons, Public Domain
ROUTES / モデルコース

レオナルドをたどる3つのプラン

ミラノ1日集中コース

レオナルドが現地に残した二つの作品(『最後の晩餐』とサーラ・デッレ・アッセ)を1日で押さえるコース。移動は地下鉄と徒歩で完結する。『最後の晩餐』の予約が全体の起点になるため、まず予約時間を確定させてから他を組む。
時間帯行程
9:30スフォルツァ城着。サーラ・デッレ・アッセと城内博物館
11:30徒歩でコルソ・マジェンタへ。レオナルドのブドウ畑(カーサ・デッリ・アテッラーニ)
12:30周辺で昼食
14:00サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ着。予約時間に『最後の晩餐』を見学(滞在時間は厳格に管理される)
15:30教会本体とブラマンテの後陣こうじん、回廊を見る
16:30アンブロジアーナ図書館・絵画館へ移動。『音楽家の肖像』と『アトランティコ手稿』の展示
18:00ドゥオーモ周辺で解散

『最後の晩餐』は完全予約制で、入室人数と滞在時間が制限されている。数か月前から埋まることがあるため、旅程を組む前にまず予約を試みるのが現実的。サーラ・デッレ・アッセとブドウ畑はいずれも公開状況が変動するため、事前確認を推奨。

トスカーナ2日コース(フィレンツェ+ヴィンチ)

修業の街フィレンツェと、生誕の地ヴィンチを続けて訪ねるコース。ヴィンチはフィレンツェから約35キロで、日帰り圏内にある。
日程行程
1日目 午前ウフィツィ美術館。『受胎告知』『東方三博士の礼拝』
1日目 午後パラッツォ・ヴェッキオ五百人広間、シニョリーア広場、ドゥオーモ周辺を歩く
2日目 午前ヴィンチへ移動。レオナルド博物館(パラッツィーナ・ウツィエッリとコンティ・グイディ城)
2日目 午後アンキアーノの生家へ。周囲のオリーブ畑とブドウ畑を歩く
2日目 夕フィレンツェへ戻る

ヴィンチへは公共交通の便が限られるため、レンタカーまたは現地ツアーの利用が現実的。博物館からアンキアーノの生家までは徒歩の遊歩道もあるが、上り坂が続くため歩きやすい靴を推奨。

ロワール渓谷・アンボワーズ日帰り〜1泊

終焉しゅうえんの地アンボワーズを訪ねるコース。パリからTGVまたは在来線でトゥールを経由して行くのが一般的。町は小さく、二つの城は徒歩圏内にある。
時間帯行程
午前アンボワーズ着。アンボワーズ城とサン=ユベール礼拝堂(レオナルドの墓)
昼町なかで昼食。ロワール川沿いを歩く
午後クロ・リュセ城。寝室、工房、地下の展示
夕方レオナルド・ダ・ヴィンチ・パークで実物大モデルを見る
夜アンボワーズ泊、またはパリへ戻る

クロ・リュセは屋外の公園部分が広く、全部を見るなら半日はみておきたい。二つの城は坂道でつながっているため、往復の高低差を計算に入れること。ロワール渓谷はシュリー=シュル=ロワールからシャロンヌまでが2000年に世界遺産登録されており、周辺の城とあわせて回ることもできる。

LIST / 一覧

ゆかりの地一覧

本記事で取り上げた24スポットを、生誕地から終焉しゅうえん地へという移動順に整理した。現存しない場所については「跡地」または「消失」と明記している。

No.スポット名エリア住所・所在地現状関連作品・出来事
1カーサ・ナターレ(生家)ヴィンチ(伊)Anchiano, 50059 Vinci FI公開(レオナルド博物館の一部)1452年4月15日誕生(生誕地は未確定)
2レオナルド博物館・コンティ・グイディ城ヴィンチ(伊)Piazza dei Conti Guidi 1, 50059 Vinci FI公開手稿にもとづく模型60点超
3パラッツィーナ・ウツィエッリヴィンチ(伊)Vinci 市内公開建設機械・繊維機械・解剖のセクション
4ヴェロッキオ工房跡フィレンツェ(伊)フィレンツェ市内現存せず1466年頃入門、『キリストの洗礼』
5ウフィツィ美術館フィレンツェ(伊)Piazzale degli Uffizi 6, 50122 Firenze公開『受胎告知』『東方三博士の礼拝』
6ウフィツィ素描・版画室フィレンツェ(伊)同上限定公開「アルノ川と渓谷の風景」(8P、1473年)
7パラッツォ・ヴェッキオ 五百人広間フィレンツェ(伊)Piazza della Signoria, 50122 Firenze公開『アンギアーリの戦い』(消失)
8サンティッシマ・アンヌンツィアータ修道院フィレンツェ(伊)Piazza della Santissima Annunziata, Firenze現存1500年、聖アンナのカルトンを公開
9スフォルツァ城 サーラ・デッレ・アッセミラノ(伊)Piazza Castello, 20121 Milano公開(時期により変動)天井装飾(1498年頃)
10サンタ・マリア・デッレ・グラツィエミラノ(伊)Piazza di Santa Maria delle Grazie 2, 20123 Milano公開・完全予約制『最後の晩餐』(1495–98年頃)、世界遺産
11アンブロジアーナ図書館・絵画館ミラノ(伊)Piazza Pio XI 2, 20123 Milano公開『アトランティコ手稿』『音楽家の肖像』
12レオナルドのブドウ畑ミラノ(伊)Corso Magenta 65, 20123 Milano公開(時期により変動)ルドヴィーコから与えられた土地
13国立科学技術博物館ミラノ(伊)Via San Vittore 21, 20123 Milano公開手稿にもとづく機械の大型復元展示
14ヴィジェーヴァノのスフォルツァ城ヴィジェーヴァノ(伊)Piazza Ducale, 27029 Vigevano PV公開ルドヴィーコの田舎の居所、迷路庭園
15チャルトリスキ美術館クラクフ(波)ul. Pijarska 15, 31-015 Kraków公開『白貂しろてんを抱く貴婦人』
16イーモラ旧市街イーモラ(伊)Imola BO現存『イーモラの都市図』(1502年)
17ヴァチカン美術館(ベルヴェデーレ)ヴァチカンViale Vaticano, 00165 Città del Vaticano公開1513–16年の居住、『荒野の聖ヒエロニムス』
18クロ・リュセ城アンボワーズ(仏)2 Rue du Clos Lucé, 37400 Amboise公開終焉の地、復元された工房
19レオナルド・ダ・ヴィンチ・パークアンボワーズ(仏)クロ・リュセ敷地内公開手稿にもとづく実物大モデル
20アンボワーズ城アンボワーズ(仏)Montée de l’Emir Abd el Kader, 37400 Amboise公開フランソワ1世の居城、1518年の祝祭
21サン=ユベール礼拝堂アンボワーズ(仏)アンボワーズ城敷地内公開レオナルドの墓(1874年改葬、遺骨は推定)
22サン=フロランタン参事会教会 跡アンボワーズ(仏)アンボワーズ城敷地内跡地(1802年取り壊し)1519年8月12日の埋葬地
23ルーヴル美術館パリ(仏)Rue de Rivoli, 75001 Paris公開レオナルド作品5点、1911年の盗難事件
24アカデミア美術館ヴェネツィア(伊)Campo della Carità 1050, 30123 Venezia公開(紙作品は限定展示)『ウィトルウィウス的人体図』

REFERENCES / 出典参考文献

施設・自治体・観光機関の資料

  • Museo Leonardiano di Vinci(レオナルド博物館 公式) https://museoleonardiano.it/en/
  • Museo Leonardiano di Vinci「Le sedi(展示施設)」 https://www.museoleonardiano.it/ita/museo/le-sedi
  • Museo del Cenacolo Vinciano「The Last Supper, Leonardo da Vinci」 https://cenacolovinciano.org/en/museum/the-works/the-last-supper-leonardo-da-vinci-1452-1519/
  • Château du Clos Lucé 公式サイト https://vinci-closluce.com/fr/presentation-lieu
  • アンボワーズ・ヴァル・ド・ロワール観光局「Leonardo da Vinci at the Chateau du Clos Luce」 https://amboise-valdeloire.com/en/leonardo-da-vinci-at-the-chateau-du-clos-luce/
  • アンボワーズ・ヴァル・ド・ロワール観光局「Leonardo da Vinci at the Royal Chateau of Amboise」 https://amboise-valdeloire.com/en/leonardo-da-vinci-at-the-royal-chateau-of-amboise/
  • Galleria degli Uffizi「The diagnostic campaign of the Opificio delle Pietre Dure on the first landscape (Leonardo drawing 8P)」 https://www.uffizi.it/en/news/diagnostic-campaign-first-landescape-leonardo-drawing-8p-opificio-pietre-dure
  • Musée du Louvre「La Joconde(モナ・リザ)」 https://collections.louvre.fr/en/ark:/53355/cl010066723
  • leonardodavinci.it「フットプリント:天才ゆかりの地を尋ねる」 https://leonardodavinci.it/ja/footprint-ja/

伝記・研究・報道

  • Francesca Fiorani「Leonardo da Vinci Studies: The State of the Field at the 500th Anniversary of the Artist’s Death」『Renaissance Quarterly』 https://www.journals.uchicago.edu/doi/10.1017/rqx.2021.333
  • 「Leonardo da Vinci’s Last Supper in the Convent of Santa Maria delle Grazie」 https://www.sciltp.com/journals/ps/articles/2601002899
  • Wikipedia (English)「Leonardo da Vinci」 https://en.wikipedia.org/wiki/Leonardo_da_Vinci
  • Wikipedia (English)「Sala delle Asse」 https://en.wikipedia.org/wiki/Sala_delle_Asse
  • Wikipedia (English)「Santa Maria delle Grazie, Milan」 https://en.wikipedia.org/wiki/Santa_Maria_delle_Grazie,_Milan
  • Wikipedia (English)「Museo leonardiano di Vinci」 https://en.wikipedia.org/wiki/Museo_leonardiano_di_Vinci
  • Wikipedia (English)「Clos Lucé」 https://en.wikipedia.org/wiki/Clos_Luc%C3%A9
  • Wikipedia (English)「The Battle of Anghiari (Leonardo)」 https://en.wikipedia.org/wiki/The_Battle_of_Anghiari_(Leonardo)
  • Wikipedia (English)「Lady with an Ermine」 https://en.wikipedia.org/wiki/Lady_with_an_Ermine
  • The Economic Times「In 1911, Mona Lisa was stolen in one of history’s most bizarre heists」 https://m.economictimes.com/news/new-updates/in-1911-mona-lisa-was-stolen-in-one-of-historys-most-bizarre-heists-the-thief-hid-it-under-his-clothes-and-nobody-realised-it-was-gone-for-more-than-a-day/articleshow/133462880.cms
  • Atlas Obscura「Leonardo da Vinci’s Tomb」 https://www.atlasobscura.com/places/leonardo-da-vincis-tomb

日本語資料・現地レポート

  • francetabi.com「レオナルドダヴィンチゆかりの地と美術館を巡るフランス旅!」 https://francetabi.com/leonardo-da-vinci/
  • 「ダ・ヴィンチが晩年を『モナ・リザ』と過ごしたクロ・リュセ城」 https://www.f-r-m.co.jp/cheeseletter/202403/
  • 「レオナルド・ダ・ヴィンチが生涯の最後の3年間を過ごした館」 https://www.myushop.net/paris/blog/detail/5464/
  • note(hiromiparis)「レオナルド・ダ・ヴィンチが最後に暮らしたシャトー・デュ・クロ・リュセ」 https://note.com/hiromiparis/n/n5ad3f9ee6fd0
  • tutta-italia.com「レオナルド・ダ・ヴィンチが最期の時を過ごしたアンボワーズ 必見ポイント」 https://tutta-italia.com/destination/17707/
  • J-STAGE「レオナルド・ダヴィンチの手稿(キーノートスピーチ)」 https://www.jstage.jst.go.jp/article/pscjspe/2012S/0/2012S_989/_article/-char/ja/

画像

  • Wikimedia Commons「Leonardo da Vinci(作品ギャラリー)」 https://commons.wikimedia.org/wiki/Leonardo_da_Vinci
  • Wikimedia Commons「Santa Maria delle Grazie (Milan)」 https://commons.wikimedia.org/wiki/Santa_Maria_delle_Grazie_(Milan)
  • Wikimedia Commons「Category:Sala delle Asse」 https://commons.wikimedia.org/wiki/Category:Sala_delle_Asse
  • Wikimedia Commons「Category:Salone dei Cinquecento」 https://commons.wikimedia.org/wiki/Category:Salone_dei_Cinquecento
  • Wikimedia Commons「Palazzo Vecchio (Florence)」 https://commons.wikimedia.org/wiki/Palazzo_Vecchio
最終更新:2026年8月27日

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