ゴーギャン ゆかりの地

ポール・ゴーギャンゆかりの地|ブルターニュから南太平洋へ
ゆかりの地フランス(ブルターニュ・南仏・パリ)/カリブ海/南太平洋主要スポット約12か所総合主義の地/自己流刑/終焉しゅうえんの島
PAUL GAUGUIN · PLACES

ポール・ゴーギャンゆかりの地Places of Paul Gauguin: From Brittany to the South Pacific

ポール・ゴーギャンほど、地理的な移動と芸術的な進化が、分かちがたく結びついた画家はいない。近代化と資本主義が爛熟らんじゅくするパリのブルジョワ社会から逃れ、「野性」と「原始(プリミティヴィズム)」を追い求め続けた彼の生涯は、単なる放浪ではなく、西洋中心主義的な価値観に対する、空間そのものによる異議申し立てだった。総合主義が生まれたブルターニュの辺境、カリブ海のマルティニーク島、ゴッホと暮らした南仏アルルの「黄色い家」、そして自らを「野蛮人」として演出したパリのアトリエ。彼はやがて、汚染されていない楽園を求めて、地球のほぼ反対に位置する南太平洋のタヒチ、そして最果てのマルキーズ諸島へと渡っていく。これらの土地は、ゴーギャンにとって単なる背景ではなく、彼の芸術と神話を生み出した現場であり、同時に、現代の批評がその「楽園」の虚構を問い直すための、重要な舞台でもある。この記事では、彼の足跡を地理の順にたどり、各地の住所・現状・そこで生まれた作品を対応させながら、その軌跡を追っていく。

ヒヴァ・オア島の道路から望む裏切りの湾とハナケ岩
ヒヴァ・オア島「裏切りの湾」マルキーズ諸島ヒヴァ・オア島、アトゥオナからプアマウへ向かう道から望む「裏切りの湾」。険しい緑の山々が深い入り江へ迫る、南太平洋の最果ての風景である。西洋文明に絶望したゴーギャンは、タヒチさえも堕落したと感じ、1901年、この孤絶した島へと移り住んだ。ここで彼は「逸楽の家」を建て、二年後に生涯を閉じる。彼の「野性の楽園」への渇望が行き着いた終着地を、ゆかりの地をたどる旅の入口に置く。Photo: Sémhur / Wikimedia Commons / CC BY-SA 3.0
DATAゆかりの地データ
主な活動国フランス(ブルターニュ・南仏・パリ)/カリブ海(マルティニーク)/仏領ポリネシア
生誕地フランス・パリ
幼少期の地ペルー・リマ(約6年)/フランス・オルレアン
芸術的覚醒の地ブルターニュ・ポン=タヴェン/ル・プルデュ
熱帯との出会いパナマ/マルティニーク島(アンス・チュラン)
ゴッホとの共同生活南仏アルル「黄色い家」(1888年、9週間で決裂)
自己演出の拠点パリ・ヴェルサンジェトリクス通りのアトリエ
南太平洋の拠点タヒチ(パペーテ/マタイエア/パペアリ)/マルキーズ諸島ヒヴァ・オア島
終焉しゅうえんの地マルキーズ諸島ヒヴァ・オア島 アトゥオナ(1903年没、カルヴァリー墓地に眠る)
記事内で扱うスポット数約12か所(一覧表参照)
3点でわかるゴーギャンのゆかりの地
  1. 足跡は「文明からの遠ざかり」を地図に描く。 ゴーギャンの移動は、パリという近代文明の中心から、より辺境へ、より遠くへと向かう一方向の旅だった。ブルターニュの漁村、カリブ海の島、そして地球のほぼ反対に位置する南太平洋。彼は行く先々で「まだ汚されていない原始」を探し求めたが、そのたびに、すでに西洋化された現実に幻滅し、さらに遠くへと移っていった。
  2. ブルターニュが、彼の芸術の転換点だった。 ポン=タヴェンの芸術家村と、ル・プルデュの小さな宿。ケルト文化の伝統と農民の素朴な信仰に触れたこの地で、ゴーギャンは印象派の写実主義と決別し、太い輪郭線と平坦な色面による「クロワゾニスム」、そして現実と内面をひとつにまとめ上げる「総合主義」を確立した。南太平洋の傑作の源流は、この北仏の辺境にある。
  3. その「楽園」は、いま問い直されている。 タヒチとマルキーズ諸島でゴーギャンが描いた「未開の楽園」は、実際には植民地支配下の現実を、彼の欲望に合わせて再構成したフィクションだった。終焉しゅうえんの地ヒヴァ・オア島には「逸楽の家」の跡と墓が残る。現代のポストコロニアル批評と、ポリネシアのアーティストたちによる「再領有」の試みは、彼のゆかりの地を、美と倫理をめぐる議論の現場へと変えている。
PLACES

ポール・ゴーギャンゆかりの地をたどる

ゴーギャンの絵に描かれた楽園は、どこにも実在しない。だが、その絵が生まれた土地は、確かに地上に存在する。ブルターニュの花崗岩かこうがんの大地、カリブ海の果樹園、南仏の広場、そして南太平洋の島々。彼はこれらの土地を移り歩きながら、「まだ汚されていない原始」という理想を追い求め、そのたびに現実の植民地化された姿に幻滅しては、さらに遠くへと旅立った。彼のゆかりの地をたどる旅は、一人の画家がいかにして文明から遠ざかろうとしたか、その軌跡を追う旅であり、同時に、彼が築いた「楽園」の神話が、現地の人々の現実の上にどのように重ねられたのかを問い直す旅でもある。フランスの辺境から、地球のほぼ反対にある島まで。彼が歩いた順に、その土地を訪ねていこう。

全体/パリ・ペルー・オルレアンOVERVIEW01

ゴーギャンの軌跡を俯瞰ふかんする ── 文明からの遠ざかり

ポール・ゴーギャンの「異郷」への渇望は、彼の出自と幼少期の空間的な体験に、深く根ざしている。1848年6月7日、パリで生まれた彼は、ジャーナリストの父クロヴィスと、社会主義者であり初期フェミニストとして知られる祖母フローラ・トリスタンの血を引く母アリーヌのもとに生を受けた。フランスで二月革命が起こり、政治的な弾圧を逃れるため、一家は1849年、母方の大叔父が要職を務めるペルーのリマへと向かう。この航海の途上で父は急死するが、ゴーギャンは7歳になるまでの約6年間を、リマの裕福な親族のもとで過ごした。

このペルーでの記憶が、彼のなかに「未開」や「異国情緒」へのロマンティシズムを、永遠に植えつけることになった。母はペルーの陶器や、純銀の小像を所有していたという。これらは後に火災で失われたが、後見人ギュスターヴ・アローザの膨大なコレクション(モチェ文化の土器など)を通じて、ゴーギャンは非西洋の造形に深く触れる。研究者が指摘するように、モチェ文化の土器に見られる形態と機能の融合や色使いは、後の彼の陶器作品に、直接の影響を与えている。

《自画像》1885年株式仲買人の職を捨て、専業画家として生きる決断をした直後の自画像。まだブルターニュにも南太平洋にも旅立つ前の、37歳のゴーギャン。ヨーロッパと非ヨーロッパのはざまで揺れ動く自己意識を抱え、彼はこののち、文明から遠ざかる長い旅へと踏み出していく。その出発点に立つ画家の姿。Paul Gauguin / Kimbell Art Museum / Wikimedia Commons / Public Domain Mark 1.0

1855年、ペルーの内戦を機にフランスのオルレアンへ帰国したゴーギャンは、スペイン語を母語として育った自分にとってフランスが「異国」であることに、強い疎外感を抱き続けた。その後、商船の見習い水夫としての航海、株式仲買人としてのパリでの成功、デンマーク人メット・ソフィー・ガッドとの結婚を経て、1882年の金融恐慌を機に、画業に専念する。彼が妻への手紙のなかで、自らを「インディアンと感じやすい人間」と称し、「私のなかには二つの性質がある」と記したことは、彼のアイデンティティが、常にヨーロッパと非ヨーロッパのはざまで揺れ動いていたことを物語る。この根源的な引き裂かれこそが、彼を生涯にわたる移動へと駆り立てた。以下、その足跡を、地理の順にたどっていく。

フランス北西部・ブルターニュ/ポン=タヴェンPONT-AVEN02

ブルターニュ・ポン=タヴェン ── 総合主義の地

株式仲買人としての地位と家族を捨て、生活に困窮したゴーギャンが、芸術的な覚醒を求めて向かったのが、フランス北西部の辺境、ブルターニュ地方であった。1886年、彼はポン=タヴェン(Pont-Aven)の芸術家村に滞在し、ケルト文化の伝統、荒々しい大西洋の海岸線、そして農民たちの深いカトリック信仰に触れる。彼は友人に宛てた手紙のなかで、こう記した。「私はブルターニュが好きだ。私はそこに野性と原始を見出す。木靴が花崗岩かこうがんの大地に音を立てるとき、私は絵画のなかに探し求めている、鈍く、こもった力強い響きを聴く」。

この地でゴーギャンが定宿としたのが、「グロアネック・ペンション(Pension Gloanec)」である。ここには、彼を慕うエミール・ベルナールやポール・セリュジエら若い画家たちが集まり、「ポン=タヴェン派」と呼ばれる芸術家集団が形づくられた。ゴーギャンは、コンカルノーへの遠足の途中で漁師と喧嘩けんかをして足首を骨折し、この宿で療養したこともあった。グロアネック・ペンションは現在、書店およびアートギャラリーとして保存されている。近くには、ポン=タヴェン派の作品を多数所蔵する地域最大の美術館「ポン=タヴェン美術館(Musée de Pont-Aven)」があり、ゴーギャンがこの地で成し遂げた芸術的な変容の過程を、実作でたどることができる。

現在のポン=タヴェン(フランス・ブルターニュ地方フィニステール県)。アヴェン川沿いに家々が並ぶ、この小さな町は、19世紀末に多くの画家が集った芸術家村だった。ゴーギャンが定宿としたグロアネック・ペンション(5 Place Gauguin)は書店・ギャラリーとして残り、ポン=タヴェン美術館ではポン=タヴェン派の作品に出会える。総合主義が生まれた地。Photo: Klaod an Duigou(Kadbzh) / Wikimedia Commons / CC BY-SA 4.0
《グロアネックの宴(フェット・グロアネック)》1888年オルレアン美術館蔵。ゴーギャンが定宿グロアネック・ペンションで描いた静物画。花や果物を平面的に配し、テーブルの円を大胆に画面へ収めた構成に、浮世絵とクロワゾニスムの影響が表れている。この宿の食卓から、彼の総合主義の実験が始まった。Paul Gauguin / Musée des Beaux-Arts d’Orléans / Wikimedia Commons / Public Domain Mark 1.0

ブルターニュ滞在を通じて、ゴーギャンは印象派の写実主義から決定的に決別した。日本の浮世絵や中世のステンドグラスから着想を得て、対象を単純化し、太い暗色の輪郭線で平坦な色面を囲む「クロワゾニスム」の技法を採用する。さらに、目に見える現実の風景と、画家の内面的な記憶や想像力とを、ひとつの画面にまとめ上げる「総合主義(サンテティスム)」を提唱するに至った。この時期の代表作《説教のあとの幻影》や《黄色いキリスト》は、この村の空気のなかから生まれている。南太平洋の傑作の源流は、この北仏の辺境の地にあった。

ブルターニュ/ル・プルデュ(クロアール=カルノエ)LE POULDU03

ル・プルデュ ── マリー・アンリの旅籠はたご

1889年、ポン=タヴェンが次第に観光地化し、画家たちで賑わうようになると、より深い孤独と素朴さを求めるゴーギャンは、同じブルターニュのより辺鄙へんぴな海辺の村、ル・プルデュ(Le Pouldu)へと移り住んだ。この村で彼が滞在したのが、マリー・アンリという女性が営む旅籠「オーベルジュ・ド・マリー・アンリ(Auberge de Marie Henry)」、かつての「浜辺の売店(ビュヴェット・ド・ラ・プラージュ)」である。

この宿で起きたことは、美術史のなかでも特筆すべき出来事だった。ゴーギャンと、オランダ人画家のマイヤー・デ・ハーンらは、この宿の食堂の壁や天井を、自分たちの絵画で埋め尽くしたのである。彼らは壁面を一種の総合的な芸術空間へと変え、そこで共同生活を送りながら制作に打ち込んだ。素朴な田舎の食堂が、前衛芸術の実験室となった。

マリー・アンリの旅籠(ル・プルデュ)の歴史的な写真。1889年、観光地化したポン=タヴェンを嫌ったゴーギャンが移り住んだ宿で、彼とマイヤー・デ・ハーンらは食堂の壁や天井を自作の絵画で埋め尽くした。生活と芸術を融け合わせようとした試みの現場であり、現在は「ル・プルデュの家=美術館」として復元・公開されている。Author unknown(c.1900), postcard / Wikimedia Commons / CC BY-SA 4.0

この装飾された食堂は、ゴーギャンたちがこの地で追求した、生活と芸術を融け合わせる理想を、物理的に体現するものだった。パリの画廊やサロンといった制度の外で、彼らは自分たちの手で、絵画に囲まれた生活空間をつくり出そうとした。現在、この旅籠は「ル・プルデュの家=美術館(Maison-Musée du Pouldu)」として復元され、当時の壁画装飾の様子を再現した展示を見ることができる。所在地は、10 rue des Grands Sables, 29360 Clohars-Carnoët。ポン=タヴェンの喧騒けんそうを離れ、大西洋に面したこの静かな村で、ゴーギャンはブルターニュ時代の探求を、さらに深めていった。

カリブ海・マルティニーク島/ル・カルベMARTINIQUE04

マルティニーク島 ── カリブ海の光

ブルターニュでの実験を経たゴーギャンは、より強烈な色彩と手つかずの自然を求めて、さらなる移動を開始した。1887年、彼は友人の画家シャルル・ラヴァルとともにパナマへ渡り、運河の建設現場で過酷な労働に従事したのち、カリブ海に浮かぶフランスの海外県、マルティニーク島へと移り住んだ。この島での滞在は、健康の悪化により数か月と短かったが、彼の色彩感覚を根本から変える、決定的な経験となった。

ゴーギャンが滞在したのは、島の西海岸、サン・ピエールの南に位置するアンス・チュラン(Anse Turin)の、果樹園のなかの小屋だった。彼はここで、熱帯の強烈な光のもとに広がる、鮮やかな自然の色彩と、島の人々の素朴な暮らしを描いた。代表作《マルティニーク島の川辺》などには、後にタヒチで全面的に開花する、あの明るく大胆な色彩感覚の、はっきりとした萌芽を見ることができる。印象派の細かな筆致は、ここで、より広く明るい色面へと移り変わっていった。

《マルティニーク島のマンゴーの木のもとで》1887年ファン・ゴッホ美術館蔵。アンス・チュランの果樹園の小屋に滞在したゴーギャンが、熱帯の光のなかで働く島の女性たちを描いた作品。鮮やかな色面と装飾的な構成に、のちのタヒチ絵画へとつながる色彩感覚の萌芽が見える。カリブ海の光が、彼の芸術を変えた証の一枚。Paul Gauguin / Van Gogh Museum / Google Art Project via Wikimedia Commons / Public Domain Mark 1.0

現在、ゴーギャンが滞在したこの地には、「ポール・ゴーギャン文化解説センター(Centre d’Interprétation Paul Gauguin)」が設けられている。所在地は、Anse Turin, Quartier Beauregard, 97221 Le Carbet, Martinique。1887年に画家ラヴァルとともに滞在したゴーギャンの足跡を記念する施設であり、カリブ海の光が彼の芸術に与えた影響を、包括的に解説している。ブルターニュの鈍く重い色調から、熱帯の輝く色彩へ。マルティニーク島は、ゴーギャンが「南」の光を初めて自らの絵にとらえた、記念すべき土地である。

南フランス・アルル/ラマルティーヌ広場ARLES05

南仏アルル ── 「黄色い家」の悲劇

マルティニークから帰国したゴーギャンは、1888年10月下旬、フィンセント・ファン・ゴッホの熱烈な招きに応じて、南仏アルルへと向かった。ゴッホが借りていたラマルティーヌ広場2番地の建物、通称「黄色い家(ラ・メゾン・ジョーヌ)」での共同生活は、美術史において最も有名なエピソードの一つである。ゴッホは、芸術家たちの共同体の創設を夢見て、ゴーギャンを迎え入れた。

この家は、1階にアトリエとキッチン、2階にラマルティーヌ広場を見晴らす二つの小部屋を備えていた。広場に最も近い角部屋がゴーギャンの客室、その隣がゴッホの寝室だった。当初、二人はイーゼルを並べて同じモデルを描くなど、生産的な関係を築いていた。しかし、「記憶と想像」に基づいて内面のビジョンを描こうとするゴーギャンと、「眼前の現実」を強烈な色彩でとらえることに執着するゴッホとのあいだには、埋めがたい芸術上の溝があった。この美学的な対立は、わずか9週間で限界に達し、ゴッホが自らの耳を切り落とすという凄惨な事件によって、幕を閉じる。

フィンセント・ファン・ゴッホ《黄色い家》1888年ファン・ゴッホ美術館蔵。アルルのラマルティーヌ広場2番地に立っていた「黄色い家」を、ゴッホ自身が描いた作品。ゴッホとゴーギャンはこの家で9週間の共同生活を送り、そして決裂した。建物は1944年の爆撃で失われたが、ゴッホのこの絵が、二人の芸術家が暮らした空間を今に伝えている。Vincent van Gogh / Van Gogh Museum / Google Art Project via Wikimedia Commons / Public Domain Mark 1.0

アルルの「黄色い家」は、第二次世界大戦中の1944年、爆撃によって破壊され、現在、建物そのものは残っていない。しかし、ラマルティーヌ広場には、かつての家の位置を示す案内板があり、近くにはゴッホの作品にも描かれた鉄道橋が今も残る。さらに2015年には、アルルのヴァン・ゴッホ財団によって、かつての黄色い家の跡地に特製の郵便ポスト(彫刻家ドメニコ・デ・クラリオ作)が設置された。来訪者が、ゴッホに宛てて手紙を投函できるという、参加型のアートプロジェクトである。建物は失われても、この広場は、近代絵画史上もっとも劇的な二か月間を記憶する場所であり続けている。

パリ/ヴェルサンジェトリクス通りPARIS / STUDIO06

パリ ── アトリエと『ノア・ノア』

第一次タヒチ滞在(1891–1893年)を終えて1893年にパリへ帰還したゴーギャンは、タヒチで制作した前衛的な作品群を、ヨーロッパの市場に売り込む必要に迫られた。この目的のために彼が構えたのが、モンパルナス地区のヴェルサンジェトリクス通り6番地(6 rue Vercingétorix, 75014 Paris)のアトリエである。このアトリエは、単なる制作の場ではなく、パリの美術市場に「タヒチの未開性」を消費させるために計算し尽くされた、自己演出(セルフ・ブランディング)の実験室だった。

ゴーギャンは、部屋の壁を強烈なクロムイエローに塗り、タヒチから持ち帰った木彫りの偶像や武器を配置して、異国情緒あふれる空間を構築した。彼は毎週木曜日にサロン(オープンハウス)を開き、自らも「野蛮人」としての奇抜な衣装をまとって、批評家や画商を迎え入れた。また、「アンナ・ラ・ジャヴァネーズ」という名のアジア系の女性を伴侶として住まわせ、彼女をエキゾチックな生活の象徴として扱った。アンナは後に、アトリエの品々の多くを持ち去って姿を消すが、これは、画家によって一方的に物語を消費されていた彼女の、数少ない主体的な行動の現れとして解釈することもできる。

《帽子をかぶった自画像》1893年オルセー美術館蔵。まさにこのヴェルサンジェトリクス通りのアトリエで、タヒチから帰国したゴーギャンが描いた自画像。背後には、自作《マナオ・トゥパパウ(死霊が見ている)》が左右反転して掛かる。「野蛮人」を演じ、自らの神話を売り込もうとした、パリ時代のゴーギャンの自己意識を映す一枚。Paul Gauguin / Musée d’Orsay / Google Art Project via Wikimedia Commons / Public Domain Mark 1.0

このアトリエでのパフォーマンスと並行して、ゴーギャンは、自身のタヒチ体験を神話化するための挿絵入りの手記『ノア・ノア(Noa Noa)』の執筆に着手した。タヒチの風景、信仰、暮らしを詩的に綴ったこの手記は、彼の絵画を理解できないヨーロッパの観衆に対し、作品の解釈をあらかじめ方向づけるための、高度なメディア戦略だった。文献学的な研究によれば、『ノア・ノア』は客観的な自伝ではなく、他者のテキストを借用しながら築かれた「象徴主義的なフィクション」である。だが、アトリエでの自己演出も、デュラン=リュエル画廊での個展も、商業的な大成功には至らなかった。失望したゴーギャンは、1895年に再びタヒチへと出航し、二度とヨーロッパの地を踏むことはなかった。なお、このアトリエの建物は、モンパルナス駅周辺の再開発によって完全に姿を消しており、現在、物理的な痕跡は残っていない。

仏領ポリネシア・タヒチ島/パペーテ・マタイエアTAHITI07

タヒチ ── 楽園という幻滅

西洋文明の「病」からの完全な離脱を目指し、ゴーギャンは1891年、南太平洋の仏領ポリネシア・タヒチへと渡った。だが、首都パペーテ(Papeete)に到着した彼が目にしたのは、夢見ていた手つかずの自然ではなかった。その地はすでに、フランスの植民地行政によって西洋化され、俗悪になっていた。幻滅した彼は、パペーテから遠く離れた島の内陸部、マタイエア(Mataiea)やパペアリ(Papeari)にアトリエを構え、文明から隔絶された生活を試みる。

このタヒチ時代に、ゴーギャンは芸術上の頂点に到達した。1891年の《イア・オラナ・マリア(マリア礼賛)》は、タヒチで描かれた最初の重要なカンヴァス作品である。キリスト教の受胎告知の主題を、タヒチの風景と人物に置き換え、パレオをまとった褐色の肌の聖母マリアと幼子イエスを描いた。彼はこの作品において、西洋の宗教図像と、自らが所有していたジャワのボロブドゥール遺跡の浮き彫りの写真から借用したポーズとを、融け合わせている。この「非白人の聖家族」という表現は、当時のパリのサロンに衝撃を与えた。

タヒチ島タウティラの海辺緑の山々が海へと迫り、椰子やしの木が波打ち際に並ぶ、南太平洋の風景である。ゴーギャンはパペーテの西洋化に幻滅し、こうした島の奥地マタイエアやパペアリに移り住んで、《イア・オラナ・マリア》や《我々はどこから来たのか》を生み出した。彼が「楽園」を求め、そして幻滅したタヒチの、現在の自然。Photo: Jérémie Silvestro / Wikimedia Commons / CC BY-SA 4.0

そして、第二次タヒチ滞在中の1897年、愛娘アリーヌの死の知らせを受け、自身も病の悪化による激痛に苦しむなかで、彼は記念碑的な大作《我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか》を描き上げた。幅約4メートルの画面は、人間の誕生から成熟、そして死へと続く、普遍的なライフサイクルを描き出す。研究者が指摘するように、この作品は、印象派が到達した「視覚」の絵画を越えて、人間の根源的な存在の理由を問う「観念」の絵画を完成させたものとして、美術史上の特異点に位置づけられる。またこの島で、彼は最愛の娘のために『アリーヌのための手帖』を綴った。タヒチは、幻滅の地であると同時に、ゴーギャンの芸術が最も深い高みに達した土地でもあった。

仏領ポリネシア・マルキーズ諸島/ヒヴァ・オア島アトゥオナHIVA OA / ATUONA08

マルキーズ諸島 ── 「逸楽の家」

タヒチさえも西洋化によって堕落したと感じたゴーギャンは、1901年、さらに孤絶したマルキーズ諸島のヒヴァ・オア島(Hiva Oa)、アトゥオナ(Atuona)へと移り住んだ。タヒチから北東へ約1,500km、南太平洋の最果てともいえるこの島で、彼は最後の日々を過ごすことになる。

ゴーギャンはカトリックの伝道所から土地を購入し、自ら二階建ての木造家屋を建てた。そして、その入り口を飾る木彫りのパネルに、「逸楽の家(メゾン・デュ・ジュイール)」という挑発的な名を刻んだ。パネルには「愛しなさい、そうすれば幸福になれる」といった文句が彫られ、裸婦が浮き彫りにされていた。それは、島の伝道所を率いるカトリックの倫理観に対する、あからさまな挑発であった。この家の木彫りパネルのオリジナルの一部は、現在、パリのオルセー美術館に所蔵されている。

「逸楽の家(メゾン・デュ・ジュイール)」の復元建築(マルキーズ諸島ヒヴァ・オア島アトゥオナ、ポール・ゴーギャン文化センター)。1901年、ゴーギャンがカトリック伝道所から土地を買って自ら建てた、アトリエ兼住居の再現。入り口には「逸楽の家」という挑発的な名と、裸婦の木彫りが飾られていた。彼が最期の日々を過ごした空間を、現地で体感できる。Photo: Rémi Jouan / Wikimedia Commons / CC BY-SA 3.0
《逸楽の家》の木彫りパネル(RF 2723)オルセー美術館蔵。ヒヴァ・オア島の「逸楽の家」の入り口を飾っていた、ゴーギャン自作の木製レリーフの一部。裸婦や文字が彫り込まれ、カトリックの倫理観への挑発をあらわにしている。最果ての島で彫られたこの彫刻が、パリの美術館に渡り、彼の反逆の精神を今に伝えている。Paul Gauguin / Musée d’Orsay / Wikimedia Commons / Public Domain Mark 1.0

ヒヴァ・オア島での生活は、現地のフランス人司教マルタンとの激しい対立に彩られていた。司教が、先住民のポリネシア語の使用や伝統的なタトゥー、そして踊りを禁じ、強制的な同化政策を進めていたことに、ゴーギャンは激怒する。彼は地元紙への寄稿や自らの新聞の発行を通じて、植民地政府の腐敗を告発し、不当な税の支払いを拒むよう現地の住民に呼びかけた。このため彼は名誉毀損で有罪判決を受け、投獄の危機に瀕したひんしたまま、最期を迎えることになる。皮肉にも、自らが逃れてきたはずの西洋の権力と、彼はこの最果ての地でもなお、闘い続けたのである。現在、アトゥオナには「ポール・ゴーギャン文化センター(Centre Culturel Paul Gauguin)」があり、「逸楽の家」の復元モデルを通じて、彼が島で過ごした最後の日々の暮らしを体感することができる。

ヒヴァ・オア島/カルヴァリー墓地GRAVE / CALVAIRE09

終焉しゅうえんの地 ── カルヴァリー墓地

1903年5月8日、ポール・ゴーギャンは、ヒヴァ・オア島で、病の悪化による心臓発作のため、54歳で孤独な死を遂げた。故郷フランスから遠く離れ、植民地政府との対立のさなかにあった、あまりに寂しい最期だった。生前、彼の芸術が正当に評価されることは、ほとんどなかった。彼の遺体は、村を見下ろす高台のカルヴァリー墓地(Cimetière du Calvaire)に埋葬された。

彼の墓には、自作の彫刻《オヴィリ(Oviri)》のブロンズ複製が置かれている。「オヴィリ」とはタヒチ語で「野生の(女)」を意味し、ゴーギャンが自らの芸術の核心を表す標語として、生涯愛した言葉だった。死と生と野性を体現するこの謎めいた女神像が、最果ての島の墓の上で、今も静かに海を見つめている。「野蛮人」であろうとした画家の墓標にふさわしい、象徴的な選択である。ちなみに、この同じカルヴァリー墓地には、後年この島に移り住んだシャンソン歌手ジャック・ブレルの墓も、ゴーギャンの墓のすぐ近くにある。二人の芸術家が、奇しくも同じ最果ての丘に眠っているのである。

ポール・ゴーギャンの墓(ヒヴァ・オア島アトゥオナ、カルヴァリー墓地)村を見下ろす高台に、赤い火山岩を積んだ簡素な墓がある。墓の上には、自作の彫刻《オヴィリ(野生の女)》のブロンズ複製が置かれている。1903年、この最果ての島で孤独な死を遂げた画家の、終焉の地。すぐ近くには歌手ジャック・ブレルの墓もある。Photo: Trevor Coote(Tereva) / Wikimedia Commons / Public Domain

ゴーギャンの死後、その評価は劇的に高まっていく。彼がこの島で描き、彫り、書き残したものは、まもなくヨーロッパへと渡り、フォーヴィスムやキュビスムの母胎となって、20世紀美術の地図を塗り替えた。文明を捨ててこの最果ての地にたどり着いた画家の死は、皮肉にも、その文明の芸術を根底から変える、新たな始まりでもあった。カルヴァリー墓地からの眺めは、彼が生涯を賭けて追い求めた「野性の楽園」の、最後の風景である。

現代の視座/世界RE-EXAMINATION10

神話の解体と再領有 ── 現代からの問い

20世紀後半から現在にかけて、ゴーギャンのゆかりの地と作品に対する評価は、大きく転換している。かつて彼は、「野生の自然と純朴な人々を、ありのままに描いた芸術家」と見なされてきた。しかし、美術史家エリザベス・チャイルズらの詳細な研究により、ゴーギャンがタヒチの風景や人物を直接スケッチしたのではなく、実際には植民地政府の役人が撮影した民族誌的な写真や、自ら持ち込んだヨーロッパの美術図版を借用してカンヴァスに描いていたことが、実証されている。彼が描いた「無垢むくで従順なポリネシアの女性たち」は、ありのままの姿ではなく、西洋の男性中心主義的な植民地幻想を満たすために構築されたステレオタイプであった、とする批判が、現代の美術史学における主流の見解となっている。

倫理的な観点からの批判も、近年ますます激しさを増している。2019年にロンドンのナショナル・ギャラリーで開かれた展覧会では、ゴーギャンがタヒチで、テハーマナをはじめとするきわめて年若い少女たちを「現地妻」としていた事実や、彼が病を現地に広めた可能性に対して、強い非難が巻き起こった。一方で、著述家スー・プリドーらは、当時の法的・歴史的な文脈を踏まえずに現代の基準だけで過去を裁くことの危うさを指摘し、彼が祖母フローラ・トリスタンの影響のもと、本質的には男女同権と諸人種の融和を信じていたこと、そして植民地政府から先住民を庇ってかばって闘ったという一面も、無視すべきではないと主張している。ゴーギャンをめぐる議論は、単純な断罪でも擁護でもない、複雑な位相にある。

《アハ・オエ・フェイイ?(何、妬いているの?)》1892年プーシキン美術館蔵。浜辺に横たわる二人のタヒチの女性を描いた作品。その官能的で牧歌的なイメージは、長く「楽園」の象徴とされてきた。だが現代の批評は、こうした女性像が、西洋の男性のまなざしのために構築された表象でもあることを問い直している。美と、その背後の権力とを、同時に見つめることを促す一枚。Paul Gauguin / Pushkin Museum / Wikimedia Commons / Public Domain Mark 1.0

このような議論のなかで最も注目すべきなのが、ポリネシアの現代アーティストたちによるゴーギャン作品の「再領有(リアプロプリエーション)」である。サモア系のユキ・キハラや、ニュージーランドを拠点とするアンジェラ・ティアティアといったアーティストたちは、ゴーギャンの有名な絵画の構図をあえて模倣しつつ、そこに現代のモデルを配置したり、西洋のまなざしに皮肉や怒りの表情を返す現地の人々を被写体にしたりする、写真・映像作品を発表している。かつてゴーギャンによって客体化され消費された「表象の主体性」を、先住民自身の手に取り戻す試みである。ゴーギャンのゆかりの地と作品は、今や、西洋モダニズムの傑作であると同時に、続いてきた人種と性の非対称を問い直すための、生きた議論の現場となっている。彼の楽園をたどる旅は、その美しさに打たれると同時に、それが何の上に築かれたのかを問う旅でもある。

LIST / 一覧ゆかりの地一覧

本記事で扱ったスポットを、地理の順に整理した。住所は現地の表記に基づく。海外・遠隔地の施設が多く、公開状況や連絡先は変更される場合があるため、訪問前に各施設の公式情報を必ず確認すること。

#スポット名地域住所・所在地現状関連する作品・出来事
01グロアネック・ペンションブルターニュ5 Place Gauguin, 29930 Pont-Aven書店・ギャラリーとして現存ポン=タヴェン派の定宿、総合主義
02ポン=タヴェン美術館ブルターニュPlace Julia, 29930 Pont-Aven公開施設ポン=タヴェン派の作品を所蔵
03マリー・アンリの旅籠はたごブルターニュ10 rue des Grands Sables, 29360 Clohars-Carnoët復元・公開(家=美術館)食堂の壁画装飾、共同生活
04ポール・ゴーギャン文化解説センターマルティニークAnse Turin, Le Carbet, 97221, Martinique公開施設《マルティニーク島の川辺》、色彩の萌芽
05「黄色い家」跡地南仏アルルPlace Lamartine, 13200 Arles建物は消失(1944年爆撃)、案内板ありゴッホとの共同生活と決裂
06ヴェルサンジェトリクス通りのアトリエパリ6 rue Vercingétorix, 75014 Paris建物は消失(再開発)自己演出、『ノア・ノア』執筆
07パペーテ/マタイエア/パペアリタヒチTahiti, Polynésie française集落・地域として現存《イア・オラナ・マリア》ほか
08「逸楽の家」/文化センターマルキーズ諸島Atuona, Hiva Oa, Marquises復元・公開施設最晩年の住居、司教との対立
09カルヴァリー墓地(ゴーギャンの墓)マルキーズ諸島Cimetière du Calvaire, Atuona, Hiva Oa墓地として現存1903年没、墓に《オヴィリ》像
10オルセー美術館(逸楽の家パネル)パリ1 Rue de la Légion d’Honneur, 75007 Paris公開施設木彫りパネル(RF 2723)を所蔵

性格で見るゴーギャンのゆかりの地

性格代表的な地点時期の中心位置づけ
出自・原風景パリ、ペルー・リマ、オルレアン1848年〜異国への憧れと引き裂かれた出自
芸術的覚醒ポン=タヴェン、ル・プルデュ1886〜1890年クロワゾニスムと総合主義の確立
熱帯と衝突マルティニーク島、アルル1887〜1888年色彩の変革、ゴッホとの決裂
自己演出パリ・ヴェルサンジェトリクス通り1893〜1895年「野蛮人」の神話づくり
野性の楽園タヒチ、マルキーズ諸島1891〜1903年傑作の誕生と、孤独な終焉しゅうえん

エリア別アクセスの目安

エリア拠点都市移動手段所要の目安備考
ポン=タヴェン/ル・プルデュカンペール(ブルターニュ)鉄道・バス・車1〜2日二つの村を巡るなら車が便利
アルル(「黄色い家」跡地)アルル徒歩半日広場・鉄道橋は徒歩圏
パリ(オルセー美術館ほか)パリ地下鉄・徒歩半日〜1日アトリエ跡地は現存せず
マルティニーク島フォール・ド・フランス車・バス半日〜1日ル・カルベまで沿岸を移動
タヒチ島パペーテ車・空路1〜数日内陸マタイエア等は車が必要
マルキーズ諸島ヒヴァ・オア島アトゥオナ空路(タヒチから)+現地移動数日遠隔地。航空便の確認が必須

作品・出来事と現地の対応

作品・出来事年場所現地の状態
グロアネックの宴/説教のあとの幻影1888ポン=タヴェン宿・美術館が現存
食堂の壁画装飾1889–90ル・プルデュ家=美術館として復元
マルティニーク島の川辺1887アンス・チュラン(ル・カルベ)解説センターが現存
ゴッホとの共同生活・決裂1888アルル「黄色い家」跡地に案内板
ノア・ノア執筆・自己演出1893–95パリのアトリエ建物は消失
イア・オラナ・マリア/我々はどこから来たのか1891–98タヒチ(マタイエア等)集落・地域が現存
逸楽の家・木彫りパネル1901–02ヒヴァ・オア島アトゥオナ復元家屋、パネルはオルセー
孤独な死・埋葬1903カルヴァリー墓地墓が現存、オヴィリ像

IMAGE CREDITS / 図版図版クレジット

掲載した全13点は、Wikimedia Commonsのファイル記録と章の主題を照合済みである。木彫りパネルは「逸楽の家」を扱う第8章に配置し、墓の写真は終焉を扱う第9章に配置した。

  • 01:ヒヴァ・オア島「裏切りの湾」 — Photo: Sémhur / Wikimedia Commons / CC BY-SA 3.0
  • 02:《自画像》1885年 — Paul Gauguin / Kimbell Art Museum / Wikimedia Commons / Public Domain Mark 1.0
  • 03:現在のポン=タヴェン — Photo: Klaod an Duigou(Kadbzh) / Wikimedia Commons / CC BY-SA 4.0
  • 04:《グロアネックの宴(フェット・グロアネック)》1888年 — Paul Gauguin / Musée des Beaux-Arts d’Orléans / Wikimedia Commons / Public Domain Mark 1.0
  • 05:マリー・アンリの旅籠(ル・プルデュ) — Author unknown(c.1900), postcard / Wikimedia Commons / CC BY-SA 4.0
  • 06:《マルティニーク島のマンゴーの木のもとで》1887年 — Paul Gauguin / Van Gogh Museum / Google Art Project via Wikimedia Commons / Public Domain Mark 1.0
  • 07:フィンセント・ファン・ゴッホ《黄色い家》1888年 — Vincent van Gogh / Van Gogh Museum / Google Art Project via Wikimedia Commons / Public Domain Mark 1.0
  • 08:《帽子をかぶった自画像》1893年 — Paul Gauguin / Musée d’Orsay / Google Art Project via Wikimedia Commons / Public Domain Mark 1.0
  • 09:タヒチ島タウティラの海辺 — Photo: Jérémie Silvestro / Wikimedia Commons / CC BY-SA 4.0
  • 10:「逸楽の家(メゾン・デュ・ジュイール)」の復元建築 — Photo: Rémi Jouan / Wikimedia Commons / CC BY-SA 3.0
  • 11:《逸楽の家》の木彫りパネル(RF 2723) — Paul Gauguin / Musée d’Orsay / Wikimedia Commons / Public Domain Mark 1.0
  • 12:ポール・ゴーギャンの墓(ヒヴァ・オア島アトゥオナ、カルヴァリー墓地) — Photo: Trevor Coote(Tereva) / Wikimedia Commons / Public Domain
  • 13:《アハ・オエ・フェイイ?(何、妬いているの?)》1892年 — Paul Gauguin / Pushkin Museum / Wikimedia Commons / Public Domain Mark 1.0

撮影者表記が必要な現地写真は、ヒヴァ・オア島の湾=Sémhur、ポン=タヴェン=Klaod an Duigou(Kadbzh)、タウティラの海辺=Jérémie Silvestro、「逸楽の家」復元建築=Rémi Jouanである。マリー・アンリの旅籠は作者不詳の古写真でCC BY-SA 4.0。ゴーギャンの墓はTrevor Coote撮影のパブリックドメインである。絵画・木彫りパネルは各ファイルでPublic Domain Markを確認した。

REFERENCES / 出典参考文献

ゆかりの地・施設の資料

  • Pension Gloanec(グロアネック・ペンション 公式)
  • Musée de Pont-Aven(ポン=タヴェン美術館 公式)
  • Auberge de Marie Henry — Wikipédia
  • Centre d’interprétation Paul-Gauguin(マルティニーク) — Wikipédia
  • 6 Rue Vercingétorix: Gauguin’s Tahitian Studio in Paris — Paris Atlas
  • The Yellow House — Wikipedia

作品・タヒチ/マルキーズの資料

  • Paul Gauguin – Ia Orana Maria (Hail Mary) — The Metropolitan Museum of Art
  • Where Do We Come From? What Are We? Where Are We Going? — MFA Boston
  • Découverte de Polynésie : Paul Gauguin — Petit Futé
  • [Cahier pour Aline] — Bibliothèque numérique de l’INHA

批評・分析・論文

  • the astonishing revelations that cast Paul Gauguin in a new light — The Guardian
  • Reappropriating Gauguin in Contemporary Polynesian Photography — Art Journal
  • Gauguin: A Spiritual Journey — Nineteenth-Century Art Worldwide

画像(Wikimedia Commons 主要ファイルページ)

  • Category:Maison du Jouir
  • Category:Hiva Oa
  • Paintings by Paul Gauguin — Wikimedia Commons
最終更新:2026年9月8日

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