サンドロ・ボッティチェリの生涯The Life of Sandro Botticelli: Glory, Crisis and Rediscovery
サンドロ・ボッティチェリは、15世紀後半(クアトロチェント)のフィレンツェ美術を象徴する、イタリア初期ルネサンスの画家である。本名はアレッサンドロ・ディ・マリアーノ・ディ・ヴァンニ・フィリペーピ。メディチ家の庇護のもと、《ウェヌスの誕生》や《春(プリマヴェーラ)》といった神話画の傑作を生み出し、古代の異教的テーマとキリスト教的ヒューマニズムの融合を目指したフィレンツェのネオプラトニズム(新プラトン主義)を、優美な線描によって画面に描き出した。だがその生涯は平坦ではない。宮廷画家としての栄光から一転、晩年はドミニコ会修道士サヴォナローラの終末論的な信仰に深く傾倒し、みずからの様式を中世的な神秘主義へと回帰させていく。そして没後は約300年間、美術史から忘却され、19世紀の唯美主義者やラファエル前派による「発見」を経て、ようやく真の姿が解き明かされた。この記事では、栄光と転落、そして復活というボッティチェリの数奇な生涯をたどる。
Sandro Botticelli, *The Birth of Venus*, c.1485 / Galleria degli Uffizi, Florence / Google Art Project via Wikimedia Commons, Public Domain
- 金細工師から、メディチ家の寵児へ。 ボッティチェリは皮なめし職人の末子として生まれ、金細工師の徒弟を経て画家フィリッポ・リッピに学んだ。金細工で培った鋭敏な線描を武器に、メディチ家とその取り巻きの庇護のもとで頭角を現し、《春》《ウェヌスの誕生》といった神話画でルネサンスの観念美を極めた。
- 時代の激変が、様式を一変させた。 1490年代、ロレンツォ・豪華王の死とメディチ家の追放、そして修道士サヴォナローラの登場によって、優雅な宮廷文化は崩壊した。サヴォナローラに深く帰依したボッティチェリの作風は、かつての異教的な明朗さを失い、意図的に古風で神秘主義的な宗教画へと変貌していった。
- 300年の忘却から、近代が呼び戻した。 没後、盛期ルネサンスの巨匠たちの影に隠れ、ボッティチェリの名は約300年間忘れ去られた。19世紀のラファエル前派やウォルター・ペイターの唯美主義が彼を「発見」し、20世紀のヴァールブルク、ホーン、そして日本の矢代幸雄らの学術研究が、その真の姿を多面的に解き明かした。
サンドロ・ボッティチェリの生涯
ボッティチェリの描く線は、単なる物理的な輪郭ではない。それは、人間の喜びと絶望、現世の美と来世への渇望のはざまで揺れ動く「ルネサンスの精神史」そのものである。金細工師の修練に裏打ちされた鋭敏な線描と、フィリッポ・リッピから受け継いだ優美な叙情性は、メディチ家支配下のフィレンツェでネオプラトニズムの哲学と結びつき、究極の観念美へと昇華された。しかしその知的な世界は、やがてサヴォナローラの宗教改革の波に飲み込まれる。本記事は、栄光・危機・忘却・復活という四つの局面を、誕生から死後の再評価まで順にたどる。
金細工師からの出発 ── 「気まぐれな頭脳」
サンドロ・ボッティチェリは1445年頃、フィレンツェのオニッサンティ地区で、皮なめし職人マリアーノ・フィリペーピの末息子として生まれた。「ボッティチェリ」という名の由来には、太っていた長兄のあだ名(小さな樽の意)が弟にも及んだとする説や、彼が最初に徒弟として預けられた金細工師(ボッティチェロ)の名にちなむとするジョルジョ・ヴァザーリの説がある。
ヴァザーリの伝記によれば、幼少期のボッティチェリは読み書きや計算といった通常の学校教育にまったく満足しない「気まぐれな頭脳(whimsical mind)」の持ち主で、常に落ち着きがなかった。手を焼いた父親は、彼を金細工師の徒弟に出す。15世紀のフィレンツェでは金細工師と画家のあいだに密接な交流があり、これが契機となって、彼は素描や絵画の道へと進むことになった。
この金細工師としての初期訓練は、後のボッティチェリの絵画に決定的な影響を与えた。彼の作品に特徴的な、きわめて繊細で鋭敏な輪郭線、そして衣服の金糸や髪の毛の描写に見られる装飾的な細部への異常なまでの執着は、金属を彫る職人の眼と手から生まれたものである。線こそが、ボッティチェリの芸術の生命だった。
フィリッポ・リッピ工房と《剛毅》
画家になる決意を固めたボッティチェリは、高名なカルメル会修道士の画家、フラ・フィリッポ・リッピの工房に入った。彼は師の様式を瞬く間に吸収し、深い寵愛を受ける。リッピの描く優美で物憂げな聖母の表現は、若きボッティチェリの芸術の確固たる基盤となった。
1470年までには独立した親方として自身の工房を構え、同年、フィレンツェの商人裁判所(メルカタンツィア)から重要な公的注文を受けた。これが、七つの美徳の連作の一つ《剛毅(フォルティトゥード)》である。残りの美徳は、当時すでに名声を確立していたピエロ・デル・ポッライオーロが請け負っていたが、ボッティチェリはメディチ家と親しいトンマーゾ・ソデリーニの強い推薦によって、この1点の制作を割り当てられた。
この作品において、ボッティチェリは甲冑を身につけた若い女性を、ポッライオーロの彫刻的な硬さとは異なる、しなやかな優美さと独自のメランコリックな表情で描き出した。記録に残る彼の最初の傑作であり、ここに一人の親方の誕生が刻まれている。
メディチ家と《東方三博士の礼拝》
ボッティチェリのフィレンツェにおける名声を決定づけたのが、サンタ・マリア・ノヴェッラ教会のデル・ラーマ礼拝堂のために描かれた《東方三博士の礼拝》(1470–1475年頃)である。ガスパッレ・ディ・ザノビ・デル・ラーマによって注文されたこの祭壇画は、表面上は聖書の主題を扱いながら、実態はメディチ家とその取り巻きたちの集団肖像画だった。
キリストの足元に接吻する第一の老王は「祖国の父」コジモ・デ・メディチであり、ヴァザーリはこれを「今日現存するコジモの肖像のなかで最も生き生きとしている」と絶賛した。第二の王はコジモの長男ピエロ、第三の王は次男ジョヴァンニとされ、さらにロレンツォ・イル・マニフィコ(豪華王)やジュリアーノ・デ・メディチも画面に組み込まれている。そして画面の右端、黄土色の外套をまとい、鑑賞者の方をじっと見つめる人物は、画家自身の自画像であるとされる。
この時期、ボッティチェリはオニッサンティ地区の有力一族であるヴェスプッチ家などの有力なパトロンとも深い結びつきを持っていた。彼はフィレンツェの政治・経済の中枢と密接に連動しながら、自身の芸術的なキャリアを築き上げていったのである。
システィーナ礼拝堂のフレスコ画
1481年、その名声はフィレンツェを越え、ボッティチェリは教皇シクストゥス4世の招きによってローマへ赴くこととなる。彼はペルジーノ、ギルランダイオ、コジモ・ロッセリらとともに、システィーナ礼拝堂の壁面を飾るフレスコ画という大事業に参画した。
ボッティチェリは《キリストの試練》《モーセの試練》、そして《コラの反逆(アロンの息子たちへの罰)》などを手がけ、複雑な群像表現や、精緻な古代建築の描写において遺憾なくその才能を発揮した。私的な神話画とは異なる、公的な場に求められる厳格で堅牢な構成力を、彼はここで示している。
しかし、ヴァザーリが残した逸話によれば、ボッティチェリはローマ滞在中に教皇から支払われた多額の報酬を、その放漫な生活によってあっという間に浪費してしまったという。制作を終えると彼は直ちにフィレンツェへ戻り、その後は生涯のほとんどを故郷で過ごすことになった。ローマでの大仕事は、彼の技量を全イタリアに知らしめる転機となった。
神話画とネオプラトニズム ──《春》と《ウェヌスの誕生》
1480年代はボッティチェリのキャリアの絶頂であり、ルネサンス美術を象徴する世俗的な神話画が生み出された。《春(プリマヴェーラ)》と《ウェヌスの誕生》は、ロレンツォ・豪華王の従弟にあたるロレンツォ・ディ・ピエルフランチェスコ・デ・メディチの邸宅を飾るために描かれたと永らく信じられてきた(近年は他のパトロン説もある)。
《春》(1480年頃)は、オレンジと月桂樹の森を背景に、愛と美の女神ヴィーナスを中心として、春の女神フローラ、三美神、ヘルメス、西風ゼピュロスにさらわれるニュンフェのクローリスなど9人の神話の登場人物を配している。研究によれば、この庭園には少なくとも42種の植物が正確に描き込まれており、ボッティチェリが植物標本を参照していた可能性が示唆されている。緑豊かなこの風景は、詩に歌われた「心地よい場所(ロクス・アモエヌス)」であり、心身を癒す治癒的な空間として機能していた。ヒーロー図版の《ウェヌスの誕生》(1485年頃)とともに、これらは古典古代以来ほとんど前例のない、大画面の異教的神話画だった。
これらの作品は、マルシリオ・フィチーノやアンジェロ・ポリツィアーノらによるネオプラトニズムの知的環境の産物である。古代の異教神話を、キリスト教的な精神的愛(ヒューマニタス)のアレゴリーとして読み替えるこの思想を背景に、ジョン・ラスキンが評したように、ボッティチェリは「アフロディーテとマドンナの両方を描くことができた唯一の画家」であった。彼は解剖学的な正確さよりも、浮遊感のある装飾的で観念的な線の美を、徹底して追い求めたのである。
シモネッタ・ヴェスプッチの神話 ── ミューズ伝説の検証
ボッティチェリの描く女性像(ヴィーナスやフローラ)に共通する「金髪で青白く、少し物憂げな顔立ち」は、フィレンツェで「絶世の美女」と謳われたシモネッタ・ヴェスプッチをモデルにしている、という伝説が広く知られている。ジェノヴァの貴族出身でマルコ・ヴェスプッチの妻であった彼女は、ジュリアーノ・デ・メディチのプラトニックな恋人としても名高く、1476年に22歳の若さで結核により早世した。
しかし、この「ボッティチェリのミューズとしてのシモネッタ」という説は、学術的には否定されている。この物語は、1872年にジョン・ラスキンがオックスフォード大学の講義で提唱して以来、ロマン主義的な神話として定着したものである。1908年に美術史家ハーバート・ホーンが文書史料の分析からこの関係を否定し、のちにエルンスト・ゴンブリッチも「ロマン主義から生まれた神話に過ぎない」として退けた。《ウェヌスの誕生》が描かれたのは彼女の死後約10年も経ってからであり、ボッティチェリが描いたのは特定の生身の女性の肖像ではなく、当時のフィレンツェにおける観念的な「理想美」の規範(カノン)だった、というのが現代の見解である。
とはいえ、シモネッタの早すぎる死がルネサンスの芸術家たちに与えた喪失感と、ボッティチェリの作品に漂う「官能のなかに潜む底知れぬ悲哀」(エミール・ゾラの評)とのあいだに、時代精神としての深い共鳴が存在することは否めない。伝説は史実ではないが、その伝説が生まれるだけの詩情が、彼の描く女性像には確かに宿っていた。
芸術観の衝突と同時代の評価
ボッティチェリの独特な芸術観は、同時代の天才レオナルド・ダ・ヴィンチ(ボッティチェリより7歳年下)からの痛烈な批判を招いた。レオナルドは『絵画論』のなかで、風景画を軽視するボッティチェリの姿勢を名指しで非難している。レオナルドの記録によれば、ボッティチェリは風景を「限定的で平凡な探求」と見なし、「壁に向かってさまざまな色を含んだスポンジを投げつければ、そこに美しい風景が見えるようなシミができる」と豪語していたという。これに対しレオナルドは、そのシミに何かを見出せたとしても、それは自然の観察を怠った「惨めな風景画家」を作るに過ぎないと断じた。この論争は、科学的観察に基づき空気遠近法で自然を再現しようとしたレオナルドと、自然をあくまで人物を引き立てる装飾的・象徴的な背景として捉え、線的で観念的な美を追求したボッティチェリとの、根本的な芸術哲学の衝突を象徴している。
一方で、19世紀以降に定着した「女性的」「繊細」「憂鬱」というボッティチェリ像は、15世紀の同時代人の評価とは大きく異なる。1493年頃、ミラノ公ルドヴィーコ・スフォルツァのエージェントがフィレンツェの有力画家を評価して送った報告書(ミラノ・メモ)は、ボッティチェリを「板絵とフレスコ画の優れた画家であり、彼の作品は男らしい雰囲気(aria virile)を持つ」と評している。当時「男らしい(virile)」という言葉は、構図の堅牢さ、造形的な力強さ、複雑な祭壇画をまとめ上げる高度な構成力を意味していた。感傷的な現代のボッティチェリ像と、確かな技量を持つプロフェッショナルとしての当時の評価とのギャップを示す、重要な史料である。
なお、ボッティチェリは陰鬱なだけの芸術家ではなく、陽気で知的なウィットに富んだ人物でもあった。ヴァザーリは、機織りの騒音で絵に集中できなくなった際、隣家の屋根の上に落ちそうな巨大な石を置いて隣人を降参させた逸話や、弟子ビアージョの描いた天使の頭に紙の帽子を貼り付けて驚かせた悪戯などを伝えている。また彼は結婚を強く嫌い、「結婚のアイデアは悪夢をもたらす」と語って生涯独身を貫いたという。
サヴォナローラと晩年の終末論的芸術
1490年代、フィレンツェは激動の時代を迎えた。1492年のロレンツォ・豪華王の死と、1494年のフランス軍侵攻によるメディチ家の追放によって、ネオプラトニズムの優雅な宮廷文化は崩壊する。これに代わって権力を握ったのが、ドミニコ会修道士ジロラモ・サヴォナローラだった。彼はフィレンツェの堕落を激しく非難し、神の罰が迫っていると説いた。1497年の謝肉祭、サヴォナローラはシニョリーア広場で「虚栄の焼却(Bonfire of the Vanities)」を実行し、市民たちは贅沢品や異教的な芸術作品を火にくべた。後世の伝説によれば、サヴォナローラの熱烈な信奉者(ピアニョーネ=泣き虫派)となっていたボッティチェリ自身も、みずからの神話画や裸体画を炎に投じたとされる。この逸話の真偽には異論もあるが、この時期を境に、彼の作風からかつての異教的な明朗さが失われたのは事実である。
絵画制作から遠ざかったボッティチェリは、ダンテ『神曲』の挿絵素描に異常な情熱を注いだ。ヴァザーリは「彼は絵画を放棄し、生活に無限の混乱をもたらした」と否定的に記すが、現在残る92点の素描(主にベルリンとヴァチカン所蔵)は、ルネサンス素描芸術の最高峰と評価されている。羊皮紙に銀筆で下描きし、ペンとインクでなぞられたこれらの図像は、彼がダンテの詩の神学的・哲学的な宇宙にどれほど深く没入していたかを物語る。
そしてこの時期を象徴するのが、彼にとって唯一の署名入り年記作品である1501年の《神秘の降誕》である。画面上部にはギリシャ語で、「私アレッサンドロは……ヨハネの黙示録に基づく苦難の時にこの絵を描いた」という謎めいた銘文が記されている。遠近法は意図的に無視され、聖母マリアは他の人物より極端に大きく描かれ(ヒエラルキー的プロポーション)、天では天使が狂おしいほどの歓喜のダンスを踊り、地では悪魔が地割れに逃げ込む。これは単なる降誕図ではなく、サヴォナローラの予言した苦難の時代と、その後に訪れる終末論的な平和を痛切に視覚化した、ボッティチェリの魂の叫びだった。
忘却と再評価 ── 唯美主義から近代美術史学へ
1510年5月17日、ボッティチェリはフィレンツェで没した。ヴァザーリによれば、晩年の彼は病弱で杖をつき、「誰からも見向きもされない」状態だったという。その後、レオナルドやミケランジェロら盛期ルネサンスの巨匠たちの圧倒的な規範の影に隠れ、ボッティチェリの名は約300年間、美術史から消え去った。
彼を忘却の淵から救い出したのは、19世紀中頃のイギリスのジョン・ラスキンやラファエル前派の芸術家たちである。彼らは、ラファエロ以降のアカデミズムを嫌い、クアトロチェントの線的な優美さと精神性にこそ真の芸術を見出した。その評価を決定づけたのが、批評家ウォルター・ペイターが1873年の著書『ルネサンス』に収めたボッティチェリ論である。ペイターは、聖母に見られる「異教的な憂鬱」や線描の「詩的な響き」を称賛し、「常にこの硬く、宝石のような炎を燃やし続けることこそが人生の成功である」という唯美主義(芸術のための芸術)の象徴として彼を位置づけた。この耽美的な解釈は、ボッティチェリの作品にメランコリックなオーラを与え、世界的な流行を巻き起こした。
20世紀に入ると、研究はロマン主義的な感傷を離れ、厳格な学術へと移行する。アビ・ヴァールブルクは1893年の学位論文で、ボッティチェリが古典文学や古代のレリーフをいかに視覚的に翻案したかを実証し、イコノロジー(図像学)の基礎を築いた。ハーバート・ホーンは1908年のモノグラフで、文書史料を徹底的に見直した。そして、バーナード・ベレンソンに学んだ日本の若き美術史家・矢代幸雄は、1925年にロンドンで全3巻の英語のモノグラフ『Sandro Botticelli』を出版し、何百枚もの詳細な部分写真を駆使した様式分析によって、ボッティチェリの持つ「東洋的」な線のリズムと詩情を再評価した。この業績は東西の視覚文化を結ぶ画期的なものであり、帰国後の矢代は日本の美術史学の発展に多大な貢献をした。忘却され、再発見され、時代ごとに異なる相貌で読み替えられてきたこと自体が、ボッティチェリの芸術の底知れぬ豊かさを物語っている。
CHRONOLOGY & WORKS / 年譜と作品人生と作品を一緒に見る
ボッティチェリの生涯の主要な出来事と、その時期に生まれた代表作を並べて示す。生年や制作年には諸説があり、ここでは一般的な推定を用いている。
フィレンツェ・オニッサンティ地区に誕生。
金細工師を経てフィリッポ・リッピに師事。
独立し親方に。《剛毅》を制作。
メディチ家との結びつきを深める。
神話画の絶頂期に入る。
ローマに招かれフレスコ画を制作。
円形画の聖母子像を多数制作。
神話画の代表作を完成。
ロレンツォ・豪華王が死去。
メディチ家追放、サヴォナローラ台頭。
「虚栄の焼却」。ダンテ『神曲』素描に没頭。
唯一の署名入り年記作品を制作。
5月17日、フィレンツェで死去。
約300年の忘却を経て再評価。
ボッティチェリの生涯を彩った人々
| 人物 | 立場・関係 | 生涯における役割 |
|---|---|---|
| フラ・フィリッポ・リッピ | 師 | 優美で叙情的な聖母表現を伝えた画家・修道士 |
| ロレンツォ・イル・マニフィコ | パトロン | メディチ家当主。フィレンツェ文化の中心 |
| ロレンツォ・ディ・ピエルフランチェスコ | パトロン | 神話画《春》《ウェヌスの誕生》の注文主とされる |
| マルシリオ・フィチーノ/ポリツィアーノ | 思想的背景 | ネオプラトニズムの哲学者・詩人 |
| シモネッタ・ヴェスプッチ | 伝説のミューズ | 理想美の象徴とされるが、実証的には否定 |
| レオナルド・ダ・ヴィンチ | 論敵 | 風景画をめぐり芸術哲学が対立した年下の天才 |
| ジロラモ・サヴォナローラ | 精神的指導者 | 終末論を説き、晩年の作風を一変させた修道士 |
| 矢代幸雄 | 後世の研究者 | 部分写真による様式分析で東洋的詩情を再評価 |
栄光・危機・回帰で見る画業
| 項目 | 修業〜台頭(1460s–1470) | 絶頂期(1470s–1480s) | 晩年(1490s–1501) |
|---|---|---|---|
| 拠点 | フィレンツェ | フィレンツェ・ローマ | フィレンツェ |
| 主題 | 聖母子像・美徳の擬人像 | 神話画・祭壇画・肖像 | 終末論的な宗教画・素描 |
| 様式 | リッピ譲りの叙情 | 観念的で優美な線描の完成 | 古風で神秘主義的な回帰 |
| 代表作 | 剛毅、東方三博士の礼拝 | 春、ウェヌスの誕生 | 神秘の降誕、神曲挿絵 |
| 背景 | メディチ家との接近 | ネオプラトニズムの黄金時代 | サヴォナローラと社会の激変 |
ボッティチェリの生涯 主要データ
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 生没年 | 1445年頃 – 1510年5月17日(享年約65) |
| 生地・没地 | いずれもフィレンツェ |
| 本名 | アレッサンドロ・ディ・マリアーノ・ディ・ヴァンニ・フィリペーピ |
| 師 | フラ・フィリッポ・リッピ |
| 主なパトロン | メディチ家、ヴェスプッチ家、教皇シクストゥス4世 |
| 様式 | イタリア初期ルネサンス(線描的・観念的) |
| 思想的背景 | フィレンツェのネオプラトニズム |
| 死後の評価 | 約300年の忘却を経て、19–20世紀に再発見 |
REFERENCES / 参考文献出典・所蔵館・研究資料
生涯・一次史料
- ジョルジョ・ヴァザーリ『美術家列伝(ボッティチェリの生涯)』 — Art History Project https://www.arthistoryproject.com/artists/giorgio-vasari/the-lives-of-the-artists/the-life-of-sandro-botticelli/
- Sandro Botticelli — Wikipedia https://en.wikipedia.org/wiki/Sandro_Botticelli
- The Birth of Venus — Wikipedia https://en.wikipedia.org/wiki/The_Birth_of_Venus
- Primavera (Botticelli) — Wikipedia https://en.wikipedia.org/wiki/Primavera_(Botticelli)
- Mystic Nativity — The National Gallery, London https://www.nationalgallery.org.uk/paintings/sandro-botticelli-mystic-nativity
研究・評価
- アビ・ヴァールブルク『サンドロ・ボッティチェッリの《ウェヌスの誕生》と《春》』 — CiNii https://ci.nii.ac.jp/ncid/BA61672800
- ウォルター・ペイター『ルネサンス』結論部 — The Victorian Web https://victorianweb.org/authors/pater/renaissance/conclusion.html
- Yukio Yashiro & Bernard Berenson — Villa I Tatti (Harvard) https://yashiro.itatti.harvard.edu/introduction
- Jonathan K. Nelson, “Botticelli’s ‘Virile Air'” — Academia.edu https://www.academia.edu/37468050/
- Rebekah Compton, “Green Gardens”(《春》の植物学) — Cambridge Core https://www.cambridge.org/core/books/venus-and-the-arts-of-love-in-renaissance-florence/green-gardens/61E3A21B4E8E40200F748946FE7EB551
画像(Wikimedia Commons 主要ファイルページ)
- File:Sandro Botticelli – La nascita di Venere – Google Art Project.jpg https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Sandro_Botticelli_-_La_nascita_di_Venere_-_Google_Art_Project.jpg
- File:Sandro Botticelli – Madonna del Magnificat – Google Art Project.jpg https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Sandro_Botticelli_-_Madonna_del_Magnificat_-_Google_Art_Project.jpg
- File:Sandro Botticelli – Fortitude (Uffizi).jpg https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Sandro_Botticelli_-_Fortitude_(Uffizi).jpg
- File:Botticelli – Adoration of the Magi (Zanobi Altar) – Uffizi.jpg https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Botticelli_-_Adoration_of_the_Magi_(Zanobi_Altar)_-_Uffizi.jpg
- File:Botticcelli, Sandro – The Punishment of Korah and the Stoning of Moses and Aaron – 1481-82.jpg https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Botticcelli,_Sandro_-_The_Punishment_of_Korah_and_the_Stoning_of_Moses_and_Aaron_-_1481-82.jpg
- File:Sandro Botticelli – La Primavera – Google Art Project.jpg https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Sandro_Botticelli_-_La_Primavera_-_Google_Art_Project.jpg
- File:Sandro Botticelli – Idealized Portrait of a Lady (Portrait of Simonetta Vespucci as Nymph) – Google Art Project.jpg https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Sandro_Botticelli_-_Idealized_Portrait_of_a_Lady_(Portrait_of_Simonetta_Vespucci_as_Nymph)_-_Google_Art_Project.jpg
- File:Venus and Mars.jpg https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Venus_and_Mars.jpg
- File:Mystic Nativity, Sandro Botticelli.jpg https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Mystic_Nativity,_Sandro_Botticelli.jpg


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