歌川広重 生涯

歌川広重の生涯|火消同心から風景画の巨匠へ、ジャポニスムの震源となった62年|アーティストの人生
生涯江戸時代後期・幕末江戸(現・東京)風景画(名所絵)の巨匠
UTAGAWA HIROSHIGE · BIOGRAPHY

歌川広重の生涯The Life of Utagawa Hiroshige: From Fireman to Master of Landscape

歌川広重は、葛飾北斎とともに日本の風景画(名所絵)というジャンルを確立した、江戸時代後期を代表する浮世絵師である。その生涯は数奇な軌跡をたどった。江戸幕府直轄の消防組織「定火消じょうびけし」に勤める下級武士の家に生まれ、火消同心という役目を担いながら絵の道へと本格的に傾倒していく。『東海道五拾三次』で名を不動のものとし、深い情感をたたえた「広重ブルー」とぼかしの技法、そして『名所江戸百景』の斬新な構図で風景表現を極めた。さらに死後、彼の木版画は海を渡り、ゴッホやホイッスラーら西洋の巨匠に衝撃を与え、ジャポニスムという巨大な芸術運動の震源となる。この記事では、武士と絵師の二重生活から、辞世の句に至るまでの広重62年の生涯を、最新の学術研究の知見とともにたどっていく。

歌川広重「東海道五拾三次之内 庄野 白雨」
《東海道五拾三次之内 庄野 白雨はくう》 1833–34年頃(保永堂版)。突然の激しい夕立のなか、坂道を急ぐ旅人たちを描いた、広重の最高傑作の一つ。斜めに引かれた無数の雨の線と、灰色にぼかされた空、風にしなる竹林が、天候の急変を劇的に伝える。理想化ではなく「気象と情感」を描いた広重の真骨頂。Utagawa Hiroshige, Shōno: Driving Rain, from The Fifty-three Stations of the Tōkaidō (Hōeidō edition), c.1833–34 / Suntory Museum of Art, Google Art Project via Wikimedia Commons / Public Domain (PD-Art)
PROFILE基本情報
生年寛政9年(1797年)
出身江戸 八代洲河岸やよすがし(現在の東京都千代田区丸の内付近)
没年安政5年9月6日(1858年10月12日)
没地江戸
享年62歳(数え年)
本名安藤重右衛門あんどう・じゅうえもん(幼名:徳太郎、のち鉄蔵・徳兵衛など)
墓所東岳寺とうがくじ(東京都足立区)
画号・別号歌川広重(別号:一幽斎いちゆうさい、一立斎いちりゅうさいなど)
ジャンル浮世絵(木版画)・肉筆画/風景画(名所絵)・花鳥画・美人画・役者絵
代表作東海道五拾三次/名所江戸百景/近江八景/花鳥画
主な所蔵館国立国会図書館/メトロポリタン美術館/シカゴ美術館/東京国立博物館/太田記念美術館/広重美術館(天童)
3点でわかる歌川広重の生涯
  1. 火消同心の家から、風景画の巨匠へ。 広重は江戸幕府の消防組織「定火消」の下級武士の家に生まれ、13歳で両親を失って若くして家督を継いだ。薄給を補う内職として絵を描くうちに歌川派へ入門し、『東海道五拾三次』で風景画家として大成する。武士と絵師の二重生活が、彼の出発点だった。
  2. 「安藤広重」は誤称である。 長らく「安藤広重」と呼ばれてきたが、武士の家名(安藤)と絵師の画号(広重)を混ぜて名乗ることは当時あり得ず、本人も生前に「安藤広重」と署名した記録は一切ない。この誤称は明治期以降の誤記が踏襲されたもので、現在は学術的に「歌川広重」に統一されている。
  3. 死後、世界の美術を変えた。 広重の木版画は幕末の開港で海を渡り、ヨーロッパで「ジャポニスム」を巻き起こした。ゴッホは『名所江戸百景』を油彩で模写し、ホイッスラーは近像型構図と色彩の抽象を学んだ。彼の平面性と大胆な構図は、西洋美術のパラダイムを不可逆的に変革した。
BIOGRAPHY

歌川広重の生涯

広重の風景画の前に立つと、雨や雪、夕暮れの空気までがしっとりと伝わってくる。だがその情景の多くは、彼が実地で写生したものではなく、既存の図版資料や記憶を卓抜した構成力で組み替えて創り出した「仮想の名所」だった。下級武士として生まれ、火消の役目を担いながら絵筆を執り続けた男は、いかにして旅の詩情を紙上に立ち上げ、やがて世界の美術を変えるに至ったのか。本記事は、その62年の生涯を誕生から辞世まで順にたどる。

1797–1811年江戸 八代洲河岸やよすがし/出自01

定火消じょうびけしの家に生まれて ── 武士と絵師の二重生活

歌川広重うたがわ・ひろしげは寛政9年(1797年)、江戸の八代洲河岸(現在の東京都千代田区丸の内付近)に位置する定火消役屋敷において、安藤源右衛門あんどう・げんえもんの長男として生まれた。幼名を徳太郎といい、のちに鉄蔵、重右衛門、徳兵衛などと改名している。定火消とは江戸幕府直轄の消防組織であり、広重はその同心(下級武士)の家系に生を受けた。

しかし文化6年(1809年)、広重が13歳のとき、母を亡くし、同年に父も世を去るという深刻な不幸に見舞われる。これにより、広重はわずか13歳で安藤家の家督かとくを継ぎ、火消同心としての厳しい職務に就くこととなった。とはいえ広重は幼少期から絵を描くことを深く好んでおり、薄給であった同心の生活を支えるための内職という一面も持ちながら、次第に絵の道へと本格的に傾倒していく。

歌川広重「東海道五拾三次之内 日本橋 朝之景」
《東海道五拾三次之内 日本橋 朝之景》1833–34年頃に刊行された保永堂版の図柄。東海道の起点・日本橋を、夜明けの光のなかで出立する大名行列とともに描いたシリーズ第1図。広重が生まれ育った八代洲河岸は、この日本橋にほど近い江戸の中心地だった。旅の始まりを告げる記念碑的な一枚。Utagawa Hiroshige, Nihonbashi: Morning View, from The Fifty-three Stations of the Tōkaidō (Hōeidō design), c.1833–34 / Reproduction from a miniature edition by Takamizawa via Wikimedia Commons / Public Domain (PD-Art)

火を消す役目を担う武士でありながら、心は絵に向かう。この武士と絵師の二重生活こそが、広重という画家の出発点だった。生まれ育った八代洲河岸は、東海道の起点である日本橋にほど近い、江戸の中心地である。旅人や大名行列、物売りが行き交うこの街の情景は、のちに彼が描き続ける「名所絵」の原風景となった。

1811–1812年江戸/入門と画号02

歌川派入門と画号がごう「広重」

文化8年(1811年)、15歳となった広重は、当時の浮世絵界で最大の派閥であった歌川派の歌川豊広うたがわ・とよひろに入門する。翌文化9年(1812年)、師である豊広の「広」と、本名である安藤重右衛門あんどう・じゅうえもんの「重」の一字を合わせ、「歌川広重」という画号を正式に授与された。彼は生涯にわたって「一幽斎いちゆうさい」や「一立斎いちりゅうさい」といった号も用い、自らの芸術的な立ち位置を変化させていった。

ここで、美術史における重要な訂正に触れておきたい。過去の美術書や教育現場で長らく用いられてきた「安藤広重」という呼称は、誤用である。江戸時代の身分制や慣習において、武士の家名(安藤)と、浮世絵師として師匠から与えられた画号(広重)を混同して名乗ることはあり得ず、広重自身も生前に「安藤広重」と署名したり名乗ったりした記録は一切存在しない。この誤称は明治期以降の美術雑誌などによる誤記が前例主義的に踏襲とうしゅうされた結果であると推測されており、現在では歴史的・学術的に正確な呼称として「歌川広重」に統一されている。

歌川広重「東都名所 両国納涼花火之図」
《東都名所 両国納涼花火之図》1847–48年。隅田川の両国橋にあがる花火と、夕涼みを楽しむ江戸の人々でにぎわう舟を描く。役者絵・美人画から出発した広重が、歌川派への入門後に江戸名所へと画業を広げた歩みを示す作例。Utagawa Hiroshige, Enjoying the Fireworks and the Cool of the Evening at Ryōgoku Bridge in the Eastern Capital, 1847–48 / Van Gogh Museum, Google Art Project via Wikimedia Commons / Public Domain (PD-Art)

広重の画業は多岐にわたり、初期には役者絵や美人画からキャリアをスタートさせたが、次第に風景画(名所絵)や花鳥画においてその類まれな才能を開花させていく。生涯に残した作品数は、肉筆画や版本はんぽんの挿絵も含めると約8000点から2万点に及ぶという、膨大なスケールに達した。

1833年頃江戸〜京都/東海道03

『東海道五拾三次とうかいどうごじゅうさんつぎ』と名声の確立

天保4年(1833年)頃、保永堂ほえいどうなどから刊行された『東海道五拾三次之内』(通称:保永堂版東海道)は、広重の名を不動のものとした記念碑的な作品である。江戸の日本橋から京都までの東海道の各宿場しゅくばを描いたこのシリーズは、単なる地理的な描写にとどまらない。天候の変化、四季の移ろい、街道を行き交う大名行列、留女とめおんな(客引き)、比丘尼びくにといった人物たちが、いきいきと、そしてユーモラスに描き込まれている。

景観計画の観点からこの作品を分析した学術研究によれば、広重の東海道シリーズは、実際の地理的正確さよりも東海道の「みどころ」を集約し脚色した、一種の景観カタログとして機能していた。宿場から宿場へと順に見ていくことで、鑑賞者が継起的けいきてきな物語を体験できるように演出されていたことが指摘されている。実際に旅ができなくとも、この揃物そろいものを眺めれば、江戸から京へと旅する疑似体験ができる。広重は、庶民に旅への憧れと視覚的な快楽を提供したのである。

歌川広重「東海道五拾三次之内 蒲原 夜之雪」
《東海道五拾三次之内 蒲原かんばら 夜之雪》1833–34年頃(保永堂版)、メトロポリタン美術館蔵。しんしんと雪の降り積もる夜の宿場を、三人の旅人が黙々と歩む。実際の蒲原(現・静岡市)は温暖で雪はまれだったが、広重はあえて深い雪景色を描き、静寂と旅の孤独を詩的に表現した。写実を越えた情感の名作。Utagawa Hiroshige, Kanbara: Night Snow, from The Fifty-three Stations of the Tōkaidō, c.1833–34 / The Metropolitan Museum of Art, New York via Wikimedia Commons / Public Domain (CC0)

雨、雪、霧、夕暮れ——広重はとりわけ、天候と時刻がもたらす情感の表現に長けていた。ヒーロー図版の《庄野 白雨》に代表される劇的な気象表現は、この東海道シリーズで確立され、以後の彼の風景画を貫く核となった。

1832年頃(定説)/後世の検証東海道/学術的再考04

「八朔御馬進献随行説はっさくおうましんけんずいこうせつ」の検証 ── 仮想旅行の視覚化

『東海道五拾三次』の誕生背景として、長らく定説とされてきたのが「八朔御馬進献随行説」である。これは、天保3年(1832年)に広重が、幕府から朝廷へ馬を献上する公式行事の行列に同行して京都へ上り、その際のスケッチをもとに東海道を描いた、とする説である。飯島虚心いいじま・きょしんの『歌川列伝うたがわれつでん』などを根拠に、広く信じられてきた。

しかし近年の美術史研究において、この定説は根本から覆されつつある。作品中には神道の祭祀さいしに用いる御幣ごへいを立てた馬の行列が複数回描かれているが、実際の八朔御馬進献において、幕府が朝廷への献上馬に御幣を立てるという事実はなく、当時の儀礼の規範にも反している。学術的な検証によれば、広重が描いた御幣のある馬の行列の図像は、彼自身の実体験に基づく写生ではなく、『東海道名所図会とうかいどうめいしょずえ』に描かれた祭礼図や、司馬江漢しば・こうかんの絵画資料などをモデルに再構成された可能性が高いという。

歌川広重が描いた橋を渡る大名行列
橋を渡る大名行列『東海道五拾三次』には大名行列や馬の行列がたびたび登場するが、その多くは実地の写生ではなく、既存の図版資料をもとに再構成されたものと考えられている。広重の風景画は、写実ではなく「仮想旅行の視覚化」であった。Utagawa Hiroshige, Daimyō Procession Crossing a Bridge / Visipix via Wikimedia Commons / Public Domain (PD-Art)

つまり、広重の風景画の本質は、実地調査に基づく厳密な写実主義ではなく、既存の図版資料や自身の記憶を、卓抜した構成力で組み替え、詩情豊かな理想郷を紙上に創出する「仮想旅行の視覚化」にあった。事実、彼はのちに、自身が一度も訪れたことのない近江おうみや難波なにわ(現・大阪)の名所さえ、書物や絵画をもとに描いている。広重にとって重要だったのは、その土地の地理的な正確さではなく、鑑賞者の心に旅への憧れを呼び起こす「情景の真実」だったのである。

1840–1850年代江戸/山形・天童藩05

天童広重てんどうひろしげと花鳥画 ── 画業の広がり

広重の画業の広がりを示す、もう一つのきわめて重要な仕事が「肉筆画」である。なかでも「天童広重」と呼ばれる作品群は、幕末期の江戸の町人文化が地方の大名へと波及し、経済的な困窮と芸術が交わった、特異な歴史の実態を伝えている。

江戸時代後期、現在の山形県天童市を治めていた天童藩てんどうはん(織田家・二万石)は、慢性的な財政難に陥り、領内の富農ふのうや豪商ごうしょうから莫大な御用金ごようきんを借り入れていた。返済に窮した天童藩は、現金での返済に代わる恩賞として、江戸詰の藩士や藩医などを通じて交友のあった広重に、大規模な肉筆画の制作を依頼した。大名家が一介の町絵師にこれほど大量の作画を依頼することは異例の事態であり、広重はこれに応え、絹本けんぽんに直接筆をとって200幅から300幅にのぼる肉筆画(掛軸)を描き上げたと推測されている。これらは支援者への返礼品として配布されたが、現在、天童市近郊に残るのはわずか20数幅のみで、流出や散逸さんいつが激しい。巧みな筆遣いが直接伝わる貴重な文化遺産として、現在も山形県の広重美術館などで保存・公開されている。

歌川広重「満月の前を飛ぶ雁」
満月の前を飛ぶ雁かり1832–35年頃。月と雁は1830年代に人気を博した画題で、広重は余白を大胆に生かした洗練された構図で、静かな季節の情感を表現した。風景画とともに、広重のもう一つの得意分野が花鳥画であった。Utagawa Hiroshige, Geese Flying Past the Full Moon, 1832–35 / The San Diego Museum of Art via Wikimedia Commons / Public Domain (PD-Art)

木版画・肉筆画を問わず、広重は花鳥画かちょうがにもすぐれた才能を発揮した。月にかかる雁、雪中の椿つばきと雀すずめ、山吹やまぶきに蛙かえる——花や鳥、小動物を、余白を生かした洗練された構図と、季節の情感をもって描き出した。風景画の巨匠として名高い広重だが、その芸術世界は名所絵にとどまらず、自然の細部にまで及ぶ広がりを持っていたのである。

1856–1858年江戸/最晩年の大作06

広重ブルーと『名所江戸百景めいしょえどひゃっけい』

広重の作品が持つ最大の視覚的魅力は、深い情感と大気の湿り気をたたえた色彩にある。とりわけ、輸入顔料「ベロ藍ベロあい(ベルリン・ブルー=プルシアンブルー)」を用いた鮮烈で透明感のある青は、のちに海外で「広重ブルー」と称賛され、印象派の画家たちを魅了した。

この色彩を最大限に引き出したのが、広重の指示のもと、彫師ほりしと摺師すりしの高度な職人技によって実現された「ぼかし(グラデーション)」の技法である。画面の最上部や水平線に色を真っ直ぐぼかして摺る「一文字ぼかしいちもんじぼかし(天ぼかし)」は、空の高さや夜明け・夕暮れの静けさを劇的に表現した。また、版木に意図的に水を垂らし、そこに絵の具を含ませて摺ることで偶然の滲みにじみを生む「当てなしぼかしあてなしぼかし」は、雨雲や霧の表現に多用された。さらに、絵の具を付けずに強い圧力で紙に凹凸を付ける「空摺からずり」で、鳥の羽毛などに立体感を与えるなど、広重は版画技法を空間表現の主軸に据えた。

歌川広重「名所江戸百景 大はしあたけの夕立」
《名所江戸百景 大はしあたけの夕立》1857年。新大橋を渡る人々を突然の夕立が襲う一瞬を、無数の細い線で表現した雨と、ぼかしで沈めた暗い空によって劇的に描く。橋の欄干らんかんを手前に断ち切る近像型構図の代表例。のちにゴッホが油彩で模写したことでも知られる。Utagawa Hiroshige, Sudden Shower over Shin-Ōhashi Bridge and Atake, from One Hundred Famous Views of Edo, 1857 / Library of Congress via Wikimedia Commons / Public Domain

安政3年(1856年)から没年の安政5年(1858年)にかけて制作された『名所江戸百景』は、全120図からなる生涯最大の揃物そろいものであり、画業の総決算である。その最大の革新が「近像型構図きんぞうがたこうず」の多用だ。画面の極端な手前にモチーフを断ち切るように巨大に配置し、その隙間から小さな遠景を覗かせる手法は、写真の広角レンズを思わせる斬新な視覚体験をもたらした。この作品群はまた、黒船来航や安政の大地震を経た激動の幕末社会の世相を色濃く映し、土砂採掘で削られた御殿山の姿を描くなど、変わりゆく江戸の「今」を写し取る記録性も備えていた。

1858年江戸/終焉07

終焉 ── コレラ罹患りかん説の検証と辞世じせいの句

安政5年(1858年)9月6日、歌川広重うたがわ・ひろしげは62歳(数え年)でこの世を去った。その死因については、歴史的なタイミングから、長らく「コレラ(虎列剌コレラ)」に感染したためであると伝えられてきた。この年の夏、長崎から広まったコレラは江戸に達し、前例のない猛威を振るっていた。仮名垣魯文かながき・ろぶんの『安政午秋頃痢流行記あんせいうまあきころりりゅうこうき』にも、死亡した著名人の筆頭として「画工 立斎広重りゅうさいひろしげ」の名が記され、当時の江戸市民のあいだでも広重の死因はコレラだと広く信じられていた。

しかし、昭和初期に内田實うちだ・みのるが著した研究書『廣重ひろしげ』(1930年)以降、この「コレラ罹患説」には強い疑義ぎぎが呈されている。第一に、詳細な遺言状ゆいごんじょうの存在である。広重は死の直前の9月2日と3日に、遺品の分配や葬儀に関するきわめて緻密で理路整然とした長文の遺言状を残しており、現在は江戸東京博物館に所蔵されている。コレラは激しい嘔吐おうとや下痢、急激な脱水を伴い、数時間から数日で急死する劇症型げきしょうがたの感染症であり、そのような激烈な病苦のなかで、死の数日前に冷静に財産分与をしたためる余裕があったとは考えにくい。第二に、三代広重さんだいひろしげの回顧録によれば、広重は病床に就く前の約10日間ほど「ぶらぶらと」体調を崩して寝起きを繰り返しており、熱病の症状はあったものの、コレラ特有の激しい症状は一切見られなかったという。第三に、追悼版画である死絵に描かれた広重は、身の回りをしっかりと整理し、穏やかな表情で僧形をまとっている。これらを総合すると、死因は突発的なコレラではなく、流行性感冒りゅうこうせいかんぼうの重症化などであった可能性が高いと結論づけられる。

三代歌川豊国「歌川広重 死絵」
《歌川広重 死絵(追悼肖像)》1858年、三代歌川豊国(国貞)画。広重の死の直後に出版された追悼版画で、僧形そうぎょうをまとい、穏やかな表情を浮かべた在りし日の広重を描く。突発的な頓死とんしではなく、身辺を整えて静かに世を去った広重の最期を伝えている。Utagawa Kunisada (Toyokuni III), Memorial Portrait of Utagawa Hiroshige, 1858 / The San Diego Museum of Art via Wikimedia Commons / Public Domain (PD-Art)

広重が最期に残した辞世の句は、次の通りである。「東路あずまじへ 筆を残して 旅の空 西の御国みくにの 名ところを見ん」。東国(江戸)に絵筆を置いて西方極楽浄土さいほうごくらくじょうどへ旅立つが、浄土に着いたなら、そこにある数々の名所を見てまわろう——生涯を通じて現世の名所を描き続けた広重が、死してなお未知の風景への探求心を失わず、死後の世界への旅立ちを「名所めぐり」になぞらえた、温雅でスケールの大きな辞世である。広重の遺骨は、浅草の東岳寺とうがくじ(現在は東京都足立区に移転)に葬られた。

19世紀後半(死後)ヨーロッパ/ジャポニスム08

ジャポニスムの震源地 ── ゴッホとホイッスラー

広重が遺した木版画は、幕末の開港に伴い、茶器などの包装紙として、あるいは貿易品として海を渡り、19世紀後半のヨーロッパで「ジャポニスム(日本趣味)」という巨大な芸術運動を巻き起こす直接の起爆剤となった。西洋の画家たちは、ルネサンス以来の透視図法とうしずほうや陰影法いんえいほうから自由な広重の平面性、非対称な近像型構図きんぞうがたこうず、そして鮮やかな色彩(広重ブルー)に衝撃を受け、自らの芸術を革新していった。

ポスト印象派の巨匠フィンセント・ファン・ゴッホは、その代表格である。ゴッホは1887年、パリ時代に『名所江戸百景』のうち2点を油彩で克明に模写している。《亀戸梅屋舗かめいどうめやしき》の模写では、手前を遮る梅の古木と背景の赤い空という現実離れした色彩の対比に魅了され、《大はしあたけの夕立》の模写では、雨を無数の斜めの直線で表す浮世絵特有の記号的な描写を油彩で再現した。さらに、独自の傑作《夜のカフェテラス》の極端な遠近法や黄と青の色彩対比にも、広重の『名所江戸百景 猿わか町よるの景さるわかまちよるのけい』からの直接的な着想が指摘されている。

歌川広重「名所江戸百景 亀戸梅屋舗」
《名所江戸百景 亀戸梅屋舗》1857年。手前に梅の古木の幹を大胆に断ち切って配し、その向こうに紅色の空と観梅の人々を覗かせる、近像型構図の代表作。フィンセント・ファン・ゴッホがこの作品を油彩で模写(《花咲く梅の木》)したことで、ジャポニスムを象徴する一枚として世界に知られる。Utagawa Hiroshige, Plum Garden at Kameido, from One Hundred Famous Views of Edo, 1857 / Iris & B. Gerald Cantor Center for Visual Arts at Stanford University, Google Art Project via Wikimedia Commons / Public Domain (PD-Art)

もう一人、広重の造形思想を最も構造的に取り込んだのが、アメリカ人画家ジェームズ・マクニール・ホイッスラーである。彼の「ノクターン(夜想曲やそうきょく)」シリーズは、画面の手前に橋脚を大きく配し、その下から遠景を覗かせる、広重の近像型構図を直接参照したものだった。ホイッスラーが広重から学んだのは、単なる異国情緒ではなく、「夜の闇を微細な青の濃淡だけで表現する」色彩の抽象化と、不要な細部を大胆に省く平面的な画面構成である。「絵画は物語ではなく、純粋な色と線の調和である」という彼の唯美主義ゆいびしゅぎ(芸術のための芸術)の根底には、広重から吸収した日本的な美意識が確かに息づいていた。下級武士から身を起こした一人の絵師の視覚は、こうして国境と時代を越え、現代美術に至る視覚芸術の流れを不可逆的に変えたのである。

CHRONOLOGY & WORKS / 年譜と作品人生と作品を一緒に見る

広重の生涯の主要な出来事と、その時期に生まれた代表作を並べて示す。年は和暦・西暦を併記した。作品の制作年には諸説があり、一般的な推定年を用いている。

寛政9年/1797年1歳
LIFE

江戸・八代洲河岸の定火消同心の家に誕生。

WORKS

―

文化6年/1809年13歳
LIFE

両親を相次いで失い、家督を継ぐ。

WORKS

―

文化8年/1811年15歳
LIFE

歌川豊広に入門。

WORKS

初期の役者絵・美人画

文化9年/1812年16歳
LIFE

画号「歌川広重」を授与される。

WORKS

―

天保初期/1830年代前半30代
LIFE

名所絵・花鳥画へ本格的に傾倒。

WORKS

東都名所、花鳥画

天保4年/1833年頃37歳
LIFE

『東海道五拾三次』で名声を確立。

WORKS

東海道五拾三次(保永堂版)

天保後期/1830年代後半40代
LIFE

近江・京都など、未訪の名所も描く。

WORKS

近江八景、京都名所之内

弘化〜嘉永/1840–50年代40–50代
LIFE

天童藩の依頼で大量の肉筆画を制作。

WORKS

天童広重(肉筆画)、花鳥画

安政3年/1856年60歳
LIFE

生涯最大の揃物に着手。

WORKS

名所江戸百景(〜1858年)

安政5年/1858年62歳
LIFE

9月2・3日に遺言状。9月6日に死去。

WORKS

名所江戸百景(一部は二代広重が完成)

死後/19世紀後半―
LIFE

木版画が欧州へ渡りジャポニスムの震源に。

WORKS

ゴッホ・ホイッスラーらへの影響

LIFE DATA / 生涯データ広重の生涯をデータで見る

広重の生涯を彩った人々と場所

人物・事項関係広重の生涯における役割
安藤源右衛門父定火消同心。1809年に死去し、広重が家督を継ぐ
歌川豊広師歌川派の絵師。画号「広重」の「広」を与えた
保永堂(竹内孫八)版元『東海道五拾三次』を刊行し広重を有名にした
天童藩(織田家)依頼主財政難のなか大量の肉筆画(天童広重)を依頼
三代歌川豊国(国貞)同門・友人広重の死絵(追悼肖像)を制作した
二代広重弟子・後継『名所江戸百景』の一部を完成させた
フィンセント・ファン・ゴッホ後世の画家『名所江戸百景』を油彩で模写した
J.M.ホイッスラー後世の画家近像型構図と色彩の抽象を自作に取り込んだ

広重の名前と号

区分名・号備考
幼名徳太郎誕生時の名
本名(武士名)安藤重右衛門鉄蔵・徳兵衛などとも改名
画号歌川広重1812年、師・豊広より授与
別号一幽斎・一立斎時期により使い分け
誤称安藤広重明治期以降の誤記。学術的には不使用

三つの時期で見る広重の画業

項目初期(1811–1830年代前半)全盛期(1833–1850年代前半)最晩年(1856–1858年)
主なジャンル役者絵・美人画風景画(名所絵)・花鳥画・肉筆画風景画(名所江戸百景)
代表作初期の江戸名所東海道五拾三次、近江八景名所江戸百景
技法・特色歌川派の様式を習得広重ブルー、ぼかし、旅の詩情近像型構図、幕末の世相の記録
社会的立場火消同心との二重生活人気風景画家として確立画業の総決算と死

広重の生涯 主要データ

項目内容
生没年1797年 – 1858年10月12日(享年62・数え年)
生地・没地いずれも江戸
本名/画号安藤重右衛門/歌川広重
出自定火消同心(下級武士)の家
ジャンル浮世絵(木版画)・肉筆画(風景・花鳥・美人・役者)
作品数約8000〜20000点(挿絵・肉筆を含む)
代表的技法ベロ藍(広重ブルー)、一文字ぼかし、当てなしぼかし、空摺
死後の影響ジャポニスム。ゴッホ、ホイッスラーらに影響

図版クレジット

使用した9点はいずれもWikimedia Commons収載のパブリックドメイン画像です。各図版の所蔵先・提供元・ライセンスはキャプションにも記載しています。

  1. Utagawa Hiroshige, Shōno: Driving Rain, from The Fifty-three Stations of the Tōkaidō (Hōeidō edition), c.1833–34 / Suntory Museum of Art, Google Art Project via Wikimedia Commons / Public Domain (PD-Art)
    File: Utagawa Hiroshige (the first) – Shono from the Fifty-three Stations on Tokaido Highway, Hoeido version – Google Art Project.jpg
  2. Utagawa Hiroshige, Nihonbashi: Morning View, from The Fifty-three Stations of the Tōkaidō (Hōeidō design), c.1833–34 / Reproduction from a miniature edition by Takamizawa via Wikimedia Commons / Public Domain (PD-Art)
    File: Hiroshige01 nihonbashi.jpg
  3. Utagawa Hiroshige, Enjoying the Fireworks and the Cool of the Evening at Ryōgoku Bridge in the Eastern Capital, 1847–48 / Van Gogh Museum, Google Art Project via Wikimedia Commons / Public Domain (PD-Art)
    File: Utagawa Hiroshige – Enjoying the fireworks and the cool of the evening at Ryogoku bridge in the Eastern Capital – Google Art Project.jpg
  4. Utagawa Hiroshige, Kanbara: Night Snow, from The Fifty-three Stations of the Tōkaidō, c.1833–34 / The Metropolitan Museum of Art, New York via Wikimedia Commons / Public Domain (CC0)
    File: 東海道五十三次之内 蒲原 夜の雪-Evening Snow at Kanbara, from the series “Fifty-three Stations of the Tōkaidō” MET DP109333.jpg
  5. Utagawa Hiroshige, Daimyō Procession Crossing a Bridge / Visipix via Wikimedia Commons / Public Domain (PD-Art)
    File: Hiroshige, Daimyo procession crossing a bridge.jpg
  6. Utagawa Hiroshige, Geese Flying Past the Full Moon, 1832–35 / The San Diego Museum of Art via Wikimedia Commons / Public Domain (PD-Art)
    File: Geese flying past the full moon (5759417842).jpg
  7. Utagawa Hiroshige, Sudden Shower over Shin-Ōhashi Bridge and Atake, from One Hundred Famous Views of Edo, 1857 / Library of Congress via Wikimedia Commons / Public Domain
    File: Hiroshige, Sudden shower over Shin-Ōhashi bridge and Atake, 1857.jpg
  8. Utagawa Kunisada (Toyokuni III), Memorial Portrait of Utagawa Hiroshige, 1858 / The San Diego Museum of Art via Wikimedia Commons / Public Domain (PD-Art)
    File: Memorial Portrait of Utagawa Hiroshige (5765350019).jpg
  9. Utagawa Hiroshige, Plum Garden at Kameido, from One Hundred Famous Views of Edo, 1857 / Iris & B. Gerald Cantor Center for Visual Arts at Stanford University, Google Art Project via Wikimedia Commons / Public Domain (PD-Art)
    File: Ando Hiroshige – Plum Garden, Kameido – Google Art Project.jpg

REFERENCES / 出典参考文献

生涯・基本資料

  • 浮世絵師「歌川広重」の生涯 — 刀剣ワールド浮世絵 https://www.touken-world-ukiyoe.jp/ukiyoe-artist/utagawa-hiroshige/
  • Utagawa Hiroshige — The Art Institute of Chicago https://www.artic.edu/artists/34946/utagawa-hiroshige
  • Hiroshige — Wikipedia https://en.wikipedia.org/wiki/Hiroshige
  • 「安藤」じゃないなんて!(安藤広重・歌川広重の呼称について)— 御茶の水美術専門学校 https://senmon.ochabi.ac.jp/2015/01/5070/
  • 『東海道五十三次』を描いた歌川広重と安藤広重 — 江戸東京博物館 図書室 https://www.edo-tokyo-museum.or.jp/library/reference/6328.html

学術的検証・研究

  • 広重・五十三次に見るみどころ演出法 — J-Stage https://www.jstage.jst.go.jp/article/jila1934/52/5/52_5_241/_article/-char/ja/
  • 広重定説の成立と崩壊(八朔御馬進献随行説の検証) http://home.catv-yokohama.ne.jp/66/tok53/tok53/53kakuron/teisetu/01.htm
  • 天童と広重 — 広重美術館 https://www.hiroshige-tendo.jp/tendo/
  • 没後160年記念 歌川広重 — 太田記念美術館 https://www.ukiyoe-ota-muse.jp/utagawahiroshige160/

デジタルアーカイブ

  • 名所江戸百景 — 国立国会図書館 NDLイメージバンク https://www.ndl.go.jp/imagebank/theme/meishoedo100
  • ColBase(国立文化財機構) https://colbase.nich.go.jp/
  • Wikimedia Commons — 本文の図版クレジット欄に各ファイル名を記載
最終更新:2026年9月3日

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