ドガ 作品

作品油彩・パステル・版画・彫刻制作期 1855–1912年近代生活・踊り子・浴女
EDGAR DEGAS · WORKS

エドガー・ドガの作品The Works of Edgar Degas: Material, Technique and Science

エドガー・ドガの作品は、しばしば「印象派の一員が描いた優美な踊り子」として消費されてきた。しかし、その画面に近づいて素材と技法を精査すると、まったく別の像が立ち上がる。チューブの絵具から油分を抜き取ってマットな質感を得る「パンチュール・ア・レサンス」、友人の秘密の定着液と沸騰した湯の蒸気でパステルを何層にも積み上げる手法、黒く塗りつぶした版から指でインクを拭き取って光を彫り出すダークフィールド・モノタイプ、そして蜜蝋みつろうに本物のチュチュと人毛を組み合わせた彫刻。ドガはメディアの境界を解きほぐし、古典主義的なデッサンの基礎の上に、きわめて前衛的な近代精神を築いた。近年はシンクロトロンや蛍光X線分析といった非破壊科学が、絵具の下に隠れた別の肖像や、彼の執拗しつような描き直しの痕跡まで可視化しつつある。この記事では、ドガの作品を素材・技法・科学・逸話の四つの軸から読み解いていく。

エドガー・ドガ《舞台袖の黄色い踊り子たち》1874–76年
《舞台袖の黄色い踊り子たち(Yellow Dancers, In the Wings)》1874–76年、シカゴ美術館蔵。鑑賞者を舞台の袖に立たせ、出番を待つ踊り子たちを間近に捉える。人物の身体を画面の縁で大胆に断ち切るトリミングと、斜めに切り込む視点には、浮世絵から学んだ空間感覚が色濃くにじむ。ドガが1876年の第2回印象派展に出品するために仕上げ、署名した一枚。Edgar Degas, *Yellow Dancers (In the Wings)*, 1874–76 / The Art Institute of Chicago / Wikimedia Commons, Public Domain
DATA作品データ
主要ジャンル近代生活の主題(踊り子・競馬・カフェ・浴女・肖像・労働)
制作期間約1855年〜1912年(修業期から制作を断つまで)
主な形式油彩/パステル/モノタイプ・版画/蜜蝋みつろう・粘土の彫刻
独自技法パンチュール・ア・レサンス、多層パステル、ダークフィールド・モノタイプ
支持体カンヴァス、紙、ボール紙、絹(扇面せんめん)、蜜蝋・粘土(彫刻)
踊り子の作品数約1500点(全画業のおよそ半分)
死後発見の彫刻約150点(うち73点がエブラール鋳造所でブロンズ化)
主な所蔵館オルセー美術館/メトロポリタン美術館/シカゴ美術館/ナショナル・ギャラリー(ロンドン)/ワシントン・ナショナル・ギャラリー/エルミタージュ美術館/ポー美術館
3点でわかるドガの作品
  1. メディアの境界を解いた「アトリエの錬金術師」だった。 ドガは単一の画材に頼らず、油彩・パステル・版画・彫刻を混ぜ合わせた。油絵具から油分を抜いてマットな質感を得るレサンス、定着液と蒸気で積層するパステル、指でインクを拭き取るモノタイプ。素材そのものを実験の対象とし、新しい視覚的・触覚的効果を生み出した。
  2. 科学分析が「見えない絵画」を可視化しつつある。 シンクロトロンによる蛍光X線分析は、《女性の肖像》の絵具の下に、上下逆さまに描かれた別のモデルの肖像をフルカラーで復元した。X線調査は《ダンス教室》の大幅な描き直しも明らかにしており、完成後もなお生成変化し続けるドガの制作プロセスが浮かび上がっている。
  3. 写真と浮世絵で「視覚」そのものを拡張した。 マイブリッジの連続写真で疾走する馬の脚の真の姿を学び、浮世絵の大胆なトリミングと俯瞰ふかん構図を取り込んだ。ドガにとって光学装置や異文化の美学は、人間の眼の限界を越え、画面の空間構成を組み替えるための道具だった。
WORKS

エドガー・ドガの作品を読む

ドガの作品を理解する鍵は、主題よりもむしろ「どう作られたか」にある。彼は生涯を通じて、既存の画材の制約を破るための実験を重ねた。マットな質感、多層のパステル、黒から彫り出す光、本物の衣装をまとった蝋ろうの少女。本記事は、こうした素材と技法の探求を出発点に、近年の科学的分析が明かした新事実や、作品にまつわる逸話をたどりながら、ドガの作品世界を読み解いていく。まずは、彼が初期から用いた独自の油彩技法から見ていきたい。

素材の実験PEINTURE À L’ESSENCE01

パンチュール・ア・レサンス ── 油分を抜いた絵具

ドガが初期から中期にかけて多用した独自の油彩技法に「パンチュール・ア・レサンス(peinture à l’essence)」がある。これは、チューブから絞り出した油絵具をいったん吸い取り紙の上に置き、バインダーである亜麻仁油あまにゆなどの油分を吸収させて抜き取り、代わりに揮発性の高いテレビン油(エッセンス)で溶き直して描く手法である。

この技法によって、油彩特有のテカりや乾燥の遅さが抑えられ、フレスコ画やパステルのようなマットな質感と、水彩のような流動性が得られた。ドガはこれをボール紙や紙の上に直接塗ることで、絵具の層が濁ることなく素早く重なり合う効果を生んだ。ロンドンのナショナル・ギャラリーが所蔵する《浜辺の情景》(1869年頃)は、この技法の代表例である。海水浴を終えた少女の髪を女中が梳くすく情景を、薄く延ばした絵具でさらりと描いている。

もっとも、顔料を画面に定着させるための油分を意図的に抜き取る行為は、結果として絵画の構造的な強度を損なうことにもなった。紙やボール紙の上に薄く塗られた顔料は剥落しやすく、後世の修復家や保存科学者にとって、レサンス作品の取り扱いはきわめて難しい課題となっている。素材の限界に挑むこと、それ自体がドガの作品の宿命でもあった。

《浜辺の情景(Beach Scene)》1869–70年頃、ナショナル・ギャラリー(ロンドン)蔵
《浜辺の情景(Beach Scene)》1869–70年頃、ナショナル・ギャラリー(ロンドン)蔵。 海水浴を終えた少女の髪を女中が梳き、周囲にはパラソルや帽子、籠が散らばる。油分を抜いた絵具(エッセンス)で薄く延ばして描かれ、水彩のようなマットで軽やかな質感を得ている。髪を梳く主題には浮世絵の影響もうかがえる。Edgar Degas, *Beach Scene*, c.1869–70 / The National Gallery, London / Wikimedia Commons, Public Domain
パステルの革新THE REINVENTION OF PASTEL02

パステルの再定義 ── 秘密の定着液、蒸気、光学的混合

フランス革命以降、パステルは油彩の影に隠れた二次的な画材と見なされていた。ドガは、このパステルを近代的な主要メディアとして完全に蘇らせたよみがえらせた。彼はパステルを単なる素描の道具としてではなく、色彩の層を積み上げるための絵画的素材として扱った。

その多層的な技法を可能にした最大の要因が、友人であるイタリア人画家ルイジ・キアリーヴァが開発した「秘密の定着液(フィキサチーフ)」の存在である。通常の定着液はパステル特有のビロードのような質感や色彩の鮮やかさを暗く沈ませてしまうが、キアリーヴァの製法による定着液は、マットな外観と色の純度を保ったまま顔料を固定できた。ドガはこの定着液を層ごとにスプレーすることで、下の色を物理的に保護しながら、その上にまったく異なる補色を擦り付けることを可能にした。これにより、油彩のグレーズ(透明描法)に近い視覚的な混合効果を、乾いたパステルで実現したのである。

さらにドガは、パステルを沸騰した湯の蒸気に当てて軟化させてから紙に押し付けたり、スティックを完全に粉砕して水やアラビアゴムと混ぜ、筆で泥のように塗る「パステル・ア・ロー」といった過激な手法も用いた。ティッセン=ボルネミッサ美術館が所蔵する《婦人帽子屋にて》の技術研究では、蛍光X線分析によって、帽子や衣服の一点から実に多様な元素が検出された。これは、ドガがパレット上で色を混ぜるのではなく、異なる色のストロークを網目のように幾重にも重ね、鑑賞者の網膜上で色を混ぜ合わせる「光学的混合」を行っていたことを、科学的に裏づけている。

《婦人帽子店(The Millinery Shop)》1879–86年、シカゴ美術館蔵
《婦人帽子店(The Millinery Shop)》1879–86年、シカゴ美術館蔵。 帽子を検分する女性を描いた、ドガの帽子屋主題で最大の作例。緑のドレスや色とりどりの帽子には、異なる色を細かく重ねて網膜上で混ぜる光学的混合の手法が生きている。ドガはこの女性のポーズを、多数の素描とパステルで繰り返し試している。Edgar Degas, *The Millinery Shop*, 1879–86 / The Art Institute of Chicago / Google Art Project via Wikimedia Commons, Public Domain
版画と光DARKFIELD MONOTYPE03

ダークフィールド・モノタイプ ── 黒から光を彫り出す

1876年頃から、ドガは版画家マルスラン・デブータンの影響を受け、モノタイプ(単刷り版画)の制作に没頭するようになる。金属板にインクや油彩を塗り、プレス機で紙に転写するこの技法において、彼は特に「ダークフィールド(暗視野)」と呼ばれる手法を好んだ。

ダークフィールドとは、版面全体を黒いインクで覆い尽くし、そこから筆の柄、布切れ、あるいは自分の指を使ってインクを「拭き取る(減算する)」ことで、ハイライトと形態を暗闇から浮かび上がらせる技法である。これは視覚以上に触覚を優先するプロセスであり、暖炉の火、ランプ、劇場のフットライトといった人工照明を表現するのに最適だった。カフェ・コンセールを描いた《アンバサドゥールのカフェ・コンセール》のような作品では、ガス灯に下から照らされる歌手の姿が、闇のなかから鮮やかに立ち上がる。

さらにドガは、一枚のモノタイプ版を一度だけでなく、二度、三度と連続してプレス機に通し、徐々にインクが薄れていく「コグネート(同族版)」を作成した。最初に刷られた濃いものはそのまま版画として残し、二度目以降の幽霊のように淡くなったインクの跡を「トーンの地図」として下敷きにし、その上から鮮やかなパステルで大胆に加筆した。この版画とパステルを掛け合わせる手法は、彼の連作的な思考プロセスの核心をなしている。

《アンバサドゥールのカフェ・コンセール(Café Concert at Les Ambassadeurs)》1876–77年頃、リヨン美術館蔵
《アンバサドゥールのカフェ・コンセール(Café Concert at Les Ambassadeurs)》1876–77年頃、リヨン美術館蔵。 パステルとモノタイプを掛け合わせた作品。ガス灯のフットライトに下から照らされた歌手たちが、闇のなかから浮かび上がる。人工光の表現に、黒から光を彫り出すダークフィールドの発想が生きている。Edgar Degas, *Café Concert at Les Ambassadeurs*, c.1876–77 / Musée des Beaux-Arts de Lyon / Wikimedia Commons, Public Domain
後期の技法FRAGMENT & THE LATE BATHERS04

後期パステルと断片の美学 ── 支持体を継ぎ足す

1890年代以降、ドガの視力が著しく低下するにつれて、彼のパステルのストロークはより太く、抽象的で表現主義的なものへと変わっていった。学術誌に掲載された研究が指摘するように、後期の浴女(Bathers)の連作において、ドガは作品の物理的な支持体そのものに介入しはじめる。

彼は、描画の途中で空間が足りなくなると、紙の余白に別の紙片(トレーシングペーパーなど)をピンで留めたり継ぎ足したりして、画面の領域を物理的に拡張していった。継ぎ目の上にパステルを塗って滑らかに繋ぐつなぐこともあれば、あえてハイライトを継ぎ目で断ち切り、紙の「亀裂」や「不連続性」を視覚的に強調することもあった。この「断片(フラグメント)」のつなぎ合わせは、単一で完全な「タブロー(絵画)」という古典的な幻想を壊し、鑑賞者の注意を作品の物質的・物理的な構造へと引き戻す、きわめて現代的な試みだった。

視力の衰えは、細部の緻密な描写を不可能にした。しかしその代わりに、燃え上がるような色彩と、幾重にも重ねられた荒々しいハッチングが画面を満たすようになる。太い線と強烈な色の対比は、20世紀のフォーヴィスムや表現主義を予告するものであり、ドガの作品はここで、19世紀のアカデミズムと20世紀の前衛芸術とを結ぶ橋になった。

《湯浴みのあと、身体を拭く女(After the Bath, Woman Drying Herself)》1890–95年頃、ナショナル・ギャラリー(ロンドン)蔵
《湯浴みのあと、身体を拭く女(After the Bath, Woman Drying Herself)》1890–95年頃、ナショナル・ギャラリー(ロンドン)蔵。 複数の紙を継ぎ合わせて画面を拡張した後期の浴女連作の一つ。太く荒々しいパステルのハッチングが身体をかたどり、細部の描写よりも色彩と運動の力が前面に立つ。晩年のドガの造形的革新を示す作例。Edgar Degas, *After the Bath, Woman Drying Herself*, c.1890–95 / The National Gallery, London / Wikimedia Commons, Public Domain
科学的分析THE HIDDEN PORTRAIT05

科学が暴く隠れた肖像 ── シンクロトロンが復元したもう一つの顔

近年の非破壊分析技術の飛躍的な進歩により、ドガが用いた顔料の化学組成や、カンヴァスの下に隠された制作の初期段階が次々と解明されている。その最も劇的な成果が、オーストラリアのビクトリア国立美術館(NGV)が所蔵する《女性の肖像》(1876–80年頃)をめぐる調査である。

この作品では、経年劣化で油彩の隠蔽力が低下した結果、女性の顔に黒ずんだ変色が浮き出し、下層に描かれた別の人物像が透けて見える「ペンティメント(描き直し)」の現象が起きていた。2016年、研究チームはオーストラリア・シンクロトロン(粒子加速器)を用いた蛍光X線分析を実施する。従来のX線ではドガの薄い絵具層を捉えきれなかったが、シンクロトロンの強力なX線ビームによって、絵具に含まれる金属元素の分布を60マイクロメートル単位で特定することに成功した。

33時間のスキャンと3160万画素の解像度で得られた元素分布から、色彩をデジタル復元した結果、表面の絵の下に、上下逆さまに描かれた若い女性の肖像がフルカラーで出現した。顔立ちの比較から、この隠されたモデルは、ドガが1860年代末に頻繁に起用したエマ・ドビニーであると推定された。さらに、ドガが彼女の耳を最初はエルフのように尖らせてとがらせて描き、後に一般的な形へ直した筆の痕跡までが確認されている。天才画家の試行錯誤の過程が、科学の力によって可視化されたのである。同様のX線調査は、《ダンス教室》のような作品でも大幅な描き直しを明らかにしており、完成後もなお変化を続けるドガの制作の本質を、私たちに突きつけている。

顔料と色彩PIGMENTS & COLOUR06

顔料と色彩 ── ヴィリジアンという透明な緑

色彩学の観点において、ドガは「ヴィリジアン(Pigment Green 18)」を革新的に用いた画家の一人である。19世紀半ばまで、鮮やかな緑を得るためには、銅とヒ素を主成分とする「エメラルドグリーン(花緑青はなろくしょう)」が広く使われていた。しかしこれは毒性が高く、化学的にも変色しやすい致命的な欠点を抱えていた。

これに対し、1838年に合成された水和酸化クロムであるヴィリジアンは、耐光性と化学的安定性に優れ、青みがかった透明感のあるクール・トーンを呈した。初期は高価だったが、1860年代以降に価格が下がると、ドガはこの顔料の「透明性」に注目した。彼はヴィリジアンを用いて、下層の暖色を透かして見せるグレーズ(薄塗り)を行い、バレエのチュチュの軽やかな質感、劇場の人工光による微妙な空気感、そして室内の深い陰影を表現した。

この色彩の探求は、前章で見た光学的混合の手法と分かちがたく結びついている。ドガにとって色とは、パレット上で混ぜ合わせる完成した物質ではなく、透明な層の重なりと、鑑賞者の眼のなかで起こる混合とによって、はじめて立ち上がる現象だった。《婦人帽子店》の緑のドレスや、無数の踊り子たちのチュチュに、その繊細な色の設計を見ることができる。

《扇面:バレエ(Fan Mount: The Ballet)》1879年、メトロポリタン美術館蔵
《扇面せんめん:バレエ(Fan Mount: The Ballet)》1879年、メトロポリタン美術館蔵。 黒地に単色で描かれ、舞台には銀の粉、踊り子の輪郭には真鍮しんちゅうの粉を用いた金色の絵具が使われている。日本の漆器の金属的な光沢を思わせる一枚で、ドガの色材と支持体をめぐる実験の幅広さを示す。中央の踊り子は《ダンス教室》の少女と同じアラベスクのポーズをとる。Edgar Degas, *Fan Mount: The Ballet*, 1879 / The Metropolitan Museum of Art, New York / Wikimedia Commons, Public Domain
写真と運動MUYBRIDGE & MOVEMENT07

写真とマイブリッジ ── 連続写真が変えた運動の描き方

1870年代以降、ドガの馬や人間の動きの表現に決定的な革命をもたらしたのが、イギリス出身の写真家エドワード・マイブリッジによる連続写真(クロノフォトグラフィ)の実験である。

マイブリッジの《動物の運動》などの写真により、肉眼では捉えきれないギャロップ中の馬の脚が、特定の瞬間に「4本とも宙に浮き、腹の下に集まる」ことが科学的に証明された。それまでの絵画では、馬が前脚と後ろ脚を前後にピンと伸ばして跳躍する「フライング・ギャロップ」の姿で描かれるのが常識だった。ドガはマイブリッジの写真を熱心に研究し、自らの彫刻や絵画における解剖学的な不正確さを修正するとともに、人間の身体が重力や遠心力とどう作用し合うのかを執拗しつように追求した。

ドガにとって写真は、対象を写し取るための単なる資料ではなかった。それは「人間の視覚の限界」を越え、肉眼では決して見えない一瞬を捉えるための科学的な道具だった。競馬場やジョッキーを描いた一連の作品には、この連続写真の知見が、洗練された運動の描写となって結晶している。

《競走馬(Race Horses)》メトロポリタン美術館蔵
《競走馬(Race Horses)》メトロポリタン美術館蔵。 出走を待つ馬とジョッキーたちを、俯瞰ふかんと斜めの構図で捉えた一枚。ドガはマイブリッジの連続写真を研究し、疾走する馬の脚の運びを科学的に検証したうえで、緊張と静止のあいだの瞬間を描いた。競馬はドガにとって「運動」を探求するための主題だった。Edgar Degas, *Race Horses* / The Metropolitan Museum of Art, New York / Wikimedia Commons, Public Domain
彫刻とスキャンダルTHE LITTLE DANCER08

『14歳の小さな踊り子』 ── スキャンダルと、死後の鋳造をめぐる論争

1881年の第6回印象派展で展示された唯一の彫刻《14歳の小さな踊り子》は、パリの美術界を震撼しんかんさせた。伝統的な大理石やブロンズではなく、解剖学や人類学の標本を思わせる着色された蜜蝋みつろうで作られ、本物の人毛で作ったかつら、木綿のボディス、チュチュ、そしてリネンのバレエシューズを身につけていたからである。

批評家ポール・マンツは、この少女の顔を「早熟な堕落の花」と呼び、激しく非難した。背景には、当時のオペラ座の下層階級の踊り子たちが富裕な男性パトロンの搾取の対象となっていた現実がある。さらにドガは、当時流行したチェーザレ・ロンブローゾの「犯罪人類学(骨相学・観相学)」に関心を抱いており、下層階級特有とされた顔立ちを意図的に強調して造形したと指摘されている。彼は美化された理想像を拒み、冷酷なリアリズムで都市の暗部を提示したのである。ワシントン・ナショナル・ギャラリーの修復調査では、この彫刻の内部の芯組みに、古い絵筆やロープ、コルク材が構造材として再利用されていることがX線でわかっており、ドガのブリコラージュ的な制作の生々しさを伝えている。

ドガの死後、アトリエからは崩れかけた蝋ろうや粘土の彫刻が150点近く発見された。遺族はエブラール鋳造所の職人アルビーノ・パラッツォーロに依頼し、73点のオリジナルからブロンズへの鋳造を行わせた。ところが近年、ヴァルスアニ鋳造所で「未知の石膏せっこう型」が発見され、そこから新たなブロンズ像が鋳造されたことで、美術界を二分する真贋しんがん論争が起きている。「彫刻のオリジナルとは何か」という根源的な問いを、ドガの作品は死後もなお投げかけ続けている。

《14歳の小さな踊り子(Little Dancer Aged Fourteen)》原型1878–81年、ワシントン・ナショナル・ギャラリー蔵(ブロンズ鋳造)
《14歳の小さな踊り子(Little Dancer Aged Fourteen)》原型1878–81年、ワシントン・ナショナル・ギャラリー蔵(ブロンズ鋳造)。 原型は着色蜜蝋で成形され、本物のチュチュとリボン、人毛のかつらをまとっていた。1881年の第6回印象派展で公開されると、その生々しいリアリズムが激しい賛否を呼んだ。ドガが生前に公開した唯一の彫刻。Edgar Degas, *Little Dancer Aged Fourteen*, 1878–1881 (cast in bronze) / National Gallery of Art, Washington / Wikimedia Commons, Public Domain
構図と政治NEGATIVE SPACE & POLITICS09

『コンコルド広場』 ── 空白の政治学

エルミタージュ美術館が所蔵する《コンコルド広場》(1875年)は、ドガの構図の妙と、数奇な歴史的運命を背負った傑作である。画面には、友人リュドヴィック=ナポレオン・ルピック子爵とその二人の娘、そして犬が広場を横切る様子が描かれる。彼らは画面の右下へと歩き、左には見知らぬ背の高い男性が画面の端で断ち切られるように配置されている。中央には広大なネガティブ・スペース(空白)が広がり、写真のスナップショットや浮世絵の影響を強く感じさせる遠心的な構図となっている。

美術史家の研究によれば、この奇妙な空白には深い政治的な寓意ぐういが込められている。ルピックのシルクハットの背後には、本来そこにあるべき「ストラスブールの像」が意図的に隠されている。ストラスブールは、普仏戦争(1870–71年)でフランスがプロイセンに割譲したアルザス=ロレーヌ地方を象徴する都市であり、当時この像は喪に服して黒い布で覆われていた。ドガは、敗戦と内戦という国家のトラウマを直接描くことを避けつつ、人物同士の視線が一切交わらない都市の疎外感と、構図の分断によって、第三共和政下の不安定な社会を暗示したのである。

さらにこの作品は、その所有の歴史においても戦争の暴力を背負った。ドイツの実業家オットー・ゲルステンベルクのコレクションだった本作は、第二次世界大戦末期にベルリンへ侵攻したソビエト赤軍によって略奪され、秘密裏にソ連へ送られた。以後、約半世紀にわたり「戦争で焼失した」と考えられていたが、1995年にエルミタージュ美術館の「隠された至宝」展で突如公開され、世界を驚かせた。作品が背負う運命そのものが、20世紀の歴史を映している。

《コンコルド広場(Place de la Concorde)》1875年、エルミタージュ美術館蔵
《コンコルド広場(Place de la Concorde)》1875年、エルミタージュ美術館蔵。 友人ルピック子爵と娘たち、犬が広場を横切る。中央に広がる大きな空白と、画面の端で断ち切られる人物、交わらない視線が、写真や浮世絵を思わせる遠心的な構図を生む。第二次世界大戦後に半世紀行方不明となり、1995年に再び姿を現した数奇な一枚。Edgar Degas, *Place de la Concorde*, 1875 / The State Hermitage Museum, Saint Petersburg / Wikimedia Commons, Public Domain
労働・資本・受容LABOUR, CAPITAL & RECEPTION10

『綿花取引所』と『アブサン』 ── 労働へのまなざしと、受容の物語

1872年末から翌年にかけ、ドガは母の親族を訪ねてアメリカのニューオーリンズに滞在した。その際に制作されたのが《ニューオーリンズの綿花取引所》(1873年)である。一見するとありふれたオフィスの風景だが、実際にはドガの親族のグループ肖像画であり、手前で綿花の品質を検査するのは叔父のミシェル・ムッソン、新聞で相場を読むのは兄弟のルネである。印象派の画家たちが屋外の陽光や余暇の風景を描くことに注力していたのに対し、ドガは「労働」「商業活動」、そして近代資本主義のメカニズムを、客観的かつ冷徹な視点でカンヴァスに定着させた。この作品は1878年にポー美術館に買い上げられ、ドガの作品として初めて公的コレクションに収蔵されるという記念碑的な役割を果たした。

労働と近代への冷徹なまなざしは、都市の孤独を描いた《アブサン》(1875–76年)にも通じている。カフェ「ヌーヴェル・アテーヌ」を舞台に、女優エレン・アンドレと版画家マルスラン・デブータンが並んで座りながら、視線を交わさない。女性の前には、幻覚作用があり後に禁止される強い酒アブサンが置かれている。この作品は制作から十数年後の1893年、ロンドンのグラフトン・ギャラリーで展示された際に、保守的なヴィクトリア朝の道徳観から「不道徳の極み」として激しい非難を浴び、「アブサン論争」を引き起こした。しかしこの議論は、結果的にイギリスで「芸術のための芸術」を擁護する前衛美術運動の契機ともなった。作品は、描かれた時代だけでなく、それが受け取られた時代の価値観をも映し出す鏡なのである。

《ニューオーリンズの綿花取引所(A Cotton Office in New Orleans)》1873年、ポー美術館蔵
《ニューオーリンズの綿花取引所(A Cotton Office in New Orleans)》1873年、ポー美術館蔵。 ドガの親族が営む綿花仲買商のオフィスを描く。手前で綿を検分する叔父、新聞を読む兄弟。屋外の光ではなく「労働」と「商業」を主題に選んだ点にドガの近代性が表れる。1878年、彼の作品として初めて公的美術館に収蔵された記念碑的な一枚。Edgar Degas, *A Cotton Office in New Orleans*, 1873 / Musée des Beaux-Arts de Pau / Wikimedia Commons, Public Domain

主要作品一覧

本記事で扱った作品を中心に、各所蔵館のオープンアクセス等で画像が公開されている代表作を一覧化した。所蔵・公開元は主要な公開先の一例である。制作年には諸説があり、一般的な推定年を用いている。

#作品名制作年形式・技法特記事項所蔵・公開
01舞台袖の黄色い踊り子たち(Yellow Dancers, In the Wings)1874–76年油彩/カンヴァス舞台袖の視点、浮世絵風のトリミングシカゴ美術館
02浜辺の情景(Beach Scene)1869–70年頃エッセンス/紙パンチュール・ア・レサンスの代表例ナショナル・ギャラリー(ロンドン)
03婦人帽子店(The Millinery Shop)1879–86年油彩/カンヴァス光学的混合、ヴィリジアンの緑シカゴ美術館
04婦人帽子屋にて(At the Milliner’s)1882年パステル/紙ティッセン美術館の技術研究対象ティッセン=ボルネミッサ美術館
05アンバサドゥールのカフェ・コンセール1876–77年頃パステル+モノタイプ人工光、ダークフィールドの発想リヨン美術館
06湯浴みのあと、身体を拭く女(After the Bath)1890–95年頃パステル/紙(継ぎ足し)支持体の拡張、断片の美学ナショナル・ギャラリー(ロンドン)
07女性の肖像(Portrait of a Woman)1876–80年頃油彩/カンヴァスシンクロトロンが隠れた肖像を復元ビクトリア国立美術館(NGV)
08扇面せんめん:バレエ(Fan Mount: The Ballet)1879年金属粉・絵具/絹銀・真鍮しんちゅう粉、日本の漆器を思わせるメトロポリタン美術館
09競走馬(Race Horses)制作年に諸説油彩ほかマイブリッジの連続写真の研究を反映メトロポリタン美術館
1014歳の小さな踊り子(Little Dancer Aged Fourteen)1878–81年着色蜜蝋みつろう・混合素材(後にブロンズ)生前唯一公開した彫刻。死後の鋳造論争ワシントン・ナショナル・ギャラリーほか
11コンコルド広場(Place de la Concorde)1875年油彩/カンヴァス空白の構図、政治的寓意ぐうい、略奪の歴史エルミタージュ美術館
12ダンス教室(The Dance Class)1874年油彩/カンヴァスX線調査で大幅な描き直しが判明メトロポリタン美術館
13ニューオーリンズの綿花取引所(A Cotton Office)1873年油彩/カンヴァス初の公的コレクション収蔵作ポー美術館
14アブサン(L’Absinthe)1875–76年油彩/カンヴァス1893年ロンドンで「アブサン論争」オルセー美術館

メディアの境界を解いた技法の一覧

技法・素材内容作品への効果代表的な作例
パンチュール・ア・レサンス油絵具から油分を抜き、テレビン油で溶くマットで水彩のような質感、素早い重ね塗り浜辺の情景
多層パステル(定着液・蒸気)キアリーヴァの定着液を層ごとに噴霧、蒸気で軟化グレーズに近い視覚的混合、鮮やかさの保持婦人帽子屋にて
光学的混合異なる色を網目状に重ね、網膜上で混ぜるパレット混色にない色の深みと震え婦人帽子店
ダークフィールド・モノタイプ黒く覆った版から指や布でインクを拭き取る人工光・触覚的な光の表現カフェ・コンセール
コグネート+パステル薄れた同族版を下敷きに加筆版画とパステルの掛け合わせ、連作的思考舞台の歌手たち
支持体の継ぎ足し紙片をピンで留め画面を拡張断片の美学、物質性の強調後期の浴女連作
蜜蝋・混合素材の彫刻蝋ろうに本物の衣装・人毛、廃材の芯組み生々しいリアリズム、触覚的な身体研究14歳の小さな踊り子

非破壊調査で判明した主な発見

作品調査・技術明らかになったこと
女性の肖像(NGV)シンクロトロン蛍光X線分析(2016年)絵具の下に上下逆さまのエマ・ドビニーの肖像をフルカラー復元、耳の描き直し
婦人帽子屋にて(ティッセン)X線・XRF分析未精製のレイド紙の素材、一点から多様な元素=光学的混合の証拠
ダンス教室(メトロポリタン)X線調査中央の教師や手前のダンサーの配置を大幅に描き直し
14歳の小さな踊り子(NGA)X線画像内部の芯組みに古い絵筆・ロープ・コルクを再利用

ドガが用いた主な顔料

顔料特性ドガの用い方
ヴィリジアン(水和酸化クロム)耐光性・安定性に優れ、青みの透明な緑暖色を透かすグレーズ、チュチュや陰影の表現
エメラルドグリーン(花緑青はなろくしょう)鮮やかだが毒性が高く変色しやすい19世紀半ばまでの緑。ドガはヴィリジアンへ移行
コバルト系(コバルトブルー等)安定した青隠れた肖像の肌の陰影などで検出
ヴァーミリオン(朱/水銀系)鮮やかな赤唇や血色の表現で検出
鉛白・亜鉛白下地・ハイライト・厚塗り準備層と明部の描写
図版クレジット一覧

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#使用章種別Commons ファイル名内容
01ヒーロー油彩File:Hilaire Germain Edgar Degas – Yellow Dancers (In the Wings) – 1963.923 – Art Institute of Chicago.jpg《舞台袖の黄色い踊り子たち》1874–76年(シカゴ美術館)
02q1エッセンスFile:Edgar Germain Hilaire Degas 041.jpg《浜辺の情景》1869–70年頃(ナショナル・ギャラリー)
03q2油彩File:Edgar Degas – The Millinery Shop – Google Art Project.jpg《婦人帽子店》1879–86年(シカゴ美術館)
04q3パステル+モノタイプFile:Degas – Café Concert – at Les Ambassadeurs 1876-77.jpg《アンバサドゥールのカフェ・コンセール》1876–77年頃(リヨン美術館)
05q4パステルFile:After the Bath, Woman drying herself – Edgar Degas – National Gallery.jpg《湯浴みのあと、身体を拭く女》1890–95年頃(ナショナル・ギャラリー)
06q6扇面せんめん(金属粉・絹)File:Fan Mount- The Ballet MET DT241540.jpg《扇面:バレエ》1879年(メトロポリタン美術館)
07q7油彩ほかFile:Race Horses MET DP131000.jpg《競走馬》(メトロポリタン美術館)
08q8彫刻(ブロンズ)File:Edgar Degas, Little Dancer Aged Fourteen, 1878-1881, NGA 110292.jpg《14歳の小さな踊り子》1878–81年(ワシントン・ナショナル・ギャラリー)
09q9油彩File:Edgar Degas Place de la Concorde.jpg《コンコルド広場》1875年(エルミタージュ美術館)
10q10油彩File:Edgar Germain Hilaire Degas 016.jpg《ニューオーリンズの綿花取引所》1873年(ポー美術館)

REFERENCES / 出典参考文献

技法・素材・保存

  • Hilaire-Germain-Edgar Degas | Beach Scene — The National Gallery, London
  • Edgar Degas. “At the Milliner’s”. Technical study of a pastel — Museo Thyssen-Bornemisza
  • Degas and the secret of his pastels — Museo Thyssen-Bornemisza
  • Edgar Degas’s Experiments in Pastel and Watercolor — National Gallery of Art
  • Monotypes — Clark Art Institute
  • Touch and Vision in Edgar Degas’s Darkfield Monotypes — ResearchGate
  • Degas in Pieces: Form and Fragment in the Late Bather Pastels — 19th-Century Art Worldwide

科学的分析

  • A Hidden Portrait by Edgar Degas — Scientific Reports (Nature)
  • How we used a particle accelerator to find the hidden face in Degas’s Portrait of a woman — The Conversation
  • Edgar Degas’s Portrait of a woman — National Gallery of Victoria

逸話・社会史・作品

  • The Dance Class — The Metropolitan Museum of Art
  • Place de la Concorde(Degas) — Wikipedia
  • A Cotton Office in New Orleans — Wikipedia
  • L’Absinthe — Wikipedia
  • Yellow Dancers (In the Wings) — The Art Institute of Chicago

画像(Wikimedia Commons 主要ファイルページ)

  • File:Hilaire Germain Edgar Degas – Yellow Dancers (In the Wings) – 1963.923 – Art Institute of Chicago.jpg
  • File:Edgar Germain Hilaire Degas 041.jpg
  • File:Edgar Degas – The Millinery Shop – Google Art Project.jpg
  • File:Degas – Café Concert – at Les Ambassadeurs 1876-77.jpg
  • File:After the Bath, Woman drying herself – Edgar Degas – National Gallery.jpg
  • File:Fan Mount- The Ballet MET DT241540.jpg
  • File:Race Horses MET DP131000.jpg
  • File:Edgar Degas, Little Dancer Aged Fourteen, 1878-1881, NGA 110292.jpg
  • File:Edgar Degas Place de la Concorde.jpg
  • File:Edgar Germain Hilaire Degas 016.jpg
最終更新:2026年9月3日

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