レオナルド・ダ・ヴィンチの生涯Leonardo da Vinci (1452–1519)
レオナルド・ダ・ヴィンチが完成させた絵画は、今日確実に彼のものとされるものだけを数えれば20点あまりにすぎない。同時代のティツィアーノが数百点を残したことを思えば、画家としての生産量は異様に少ない。にもかかわらず彼が「万能の天才」と呼ばれ続けるのは、彼が残したもう一つの遺産、すなわち約7,200ページに及ぶ手稿の存在による。そこには解剖図も、飛行機械も、水の渦の観察も、買い物のメモも、金を貸した相手の名前までが、左右反転した鏡文字で書きつけられている。本記事は、その膨大な記録を残した一人の男の67年間を、生まれた村から死んだ城館まで12章でたどる。

Attributed to Leonardo da Vinci, Presumed Self-Portrait, c. 1510 / Biblioteca Reale, Turin / Wikimedia Commons, Public Domain
- 非嫡出子だったことが、彼を書物から解放した。 公証人の家系に生まれながら私生児であったため、彼は家業を継ぐ道も、ラテン語による正規の学校教育も与えられなかった。自らを「文字を知らぬ人(uomo senza lettere)」と呼んだこの男は、書物の権威ではなく自分の目を情報源にするしかなく、その制約がそのまま観察主義の方法論になった。
- 彼は自分を画家ではなく技術者として売り込んだ。 1482年にミラノのルドヴィーコ・スフォルツァへ送った自薦状で、彼は橋、大砲、装甲車、坑道といった軍事技術の能力を延々と並べ、「絵も描けます」という趣旨の一文を最後に添えている。この順序が、彼の自己認識をそのまま示している。
- 未完こそが彼の常態だった。 『東方三博士の礼拝』も『聖ヒエロニムス』も『アンギアーリの戦い』も未完に終わり、スフォルツァ騎馬像の青銅は大砲に転用された。晩年には右手が麻痺し、『モナ・リザ』さえ手元に置いたまま完成させなかった。生涯で30を超える住所を移り、そのつど仕事を途中で置いてきた人物である。
レオナルド・ダ・ヴィンチの生涯
レオナルドの一生は、パトロンの交代で区切ることができる。トスカーナの農村、フィレンツェの工房、ミラノのスフォルツァ宮廷、ボルジアの軍隊、再びフィレンツェ、フランス支配下のミラノ、教皇庁のローマ、そしてフランス王の城館。彼はそのつど肩書きを変え、そのつど仕事を途中で置いてきた。以下の12章は、その移動の順にたどっていく。年代には研究者によって幅のあるものが多いため、通説的な範囲を示している。
ヴィンチ村の私生児 ── 継げなかった家業
1452年4月15日土曜日の夜、フィレンツェから約35キロ離れたトスカーナの丘陵の町ヴィンチ、またはその近郊で一人の男児が生まれた。祖父セル・アントニオが日記に「4月15日土曜、夜の第三時に、セル・ピエロの息子である孫が生まれた」と記録している。翌日、サンタ・クローチェ教区で洗礼を受けた。
父はセル・ピエロ・ダ・ヴィンチ、フィレンツェで成功した公証人である。「セル」の敬称は、彼が下級の紳士階級に属していたことを示す。母カテリーナ・ディ・メオ・リッピは下層階級の女性で、二人は結婚していなかった。生誕地については、私生児の出産に十分な人目のなさを提供しただろう村落アンキアーノが伝承として語られてきたが、確定はしていない。
この「非嫡出子である」という一点が、彼の人生の設計図を決めた。公証人は代々受け継がれる職であり、正式な婚姻から生まれていない者はギルドの規定によりその道を閉ざされる。長い公証人の家系に生まれながら、レオナルドが受けた教育は俗語の読み書きと算術という初歩的で非公式なものにとどまった。ラテン語による人文学の訓練も、大学教育もない。
しかしこの欠落こそが、後の彼の方法を決定づけたと多くの研究者が指摘する。書物の権威から出発できない以上、彼は自分の目から出発するしかなかった。のちに彼は自らを「文字を知らぬ人(uomo senza lettere)」と署名するように書いている。それは卑下であると同時に、権威主義的な学知に対する挑発でもあった。
両親はそれぞれ、彼の生まれた翌年に別の相手と結婚する。父は生涯に4度結婚し、レオナルドには最終的に16人の異母きょうだいができた。最も年下の弟が生まれたとき、レオナルドは46歳になっていた。彼らとの交流はほとんどなく、父の死後は遺産をめぐって争っている。少なくとも1457年までには父方の祖父アントニオの家に暮らしていたことが税務記録からわかるが、それ以前は母のもとにいた可能性がある。
彼自身が書き残した最も古い記憶は、のちにアトランティコ手稿に記されたものである。鳥の飛行について書いていた最中、彼はふと、揺りかごの中にいた乳児のころ、一羽のトビが降りてきて尾で自分の口を開いた、という記憶を書きつけた。これが実際の記憶なのか幻想なのかは、いまも論争が続いている。
ヴェロッキオ工房の7年 ── 絵も、彫刻も、機械も
1460年代半ば、一家はフィレンツェへ移る。当時のフィレンツェはキリスト教人文主義の思想と文化の中心地だった。14歳ごろ、レオナルドは当時のフィレンツェを代表する画家であり彫刻家であったアンドレア・デル・ヴェロッキオの工房にガルゾーネ(工房の見習い少年)として入る。17歳までに正式な徒弟となり、7年間そこで訓練を受けた。
ヴェロッキオ工房は、現代の感覚でいう「画家のアトリエ」ではない。レオナルドがそこで身につけた技能は、製図、化学、冶金、金属加工、石膏の型取り、革加工、機械、木工にまで及び、その上に素描、絵画、彫刻、モデリングという美術の技能が乗っていた。芸術と工学が同じ作業場のなかで地続きだったこの環境が、後年の彼のあり方を決定的に規定している。
同じ工房、あるいはその周辺には、ギルランダイオ、ペルジーノ、ボッティチェッリ、ロレンツォ・ディ・クレディがいた。いずれもレオナルドよりわずかに年上か同世代である。彼らはヴェロッキオの工房か、メディチ家のプラトン・アカデミーで顔を合わせていたと考えられている。
ヴェロッキオ工房の仕事の多くは助手が担っていた。ヴァザーリによれば、レオナルドは師の『キリストの洗礼』(1472–1475年頃)で、キリストの衣を持つ若い天使を描いた。その出来があまりに師を上回っていたため、ヴェロッキオは筆を折り二度と絵を描かなかったという。この逸話自体はおそらく作り話だが、絵の中に技術的な断層が実在することは確かで、風景の一部やキリストの身体の多くに、当時イタリアへ伝わったばかりの油彩が使われている点がレオナルドの手を示すとされる。
ヴァザーリはもう一つ、若き日の逸話を伝えている。近隣の農夫が自作の丸盾に絵を描いてほしいと父セル・ピエロに頼んだとき、レオナルドはメドゥーサの物語から着想を得て、火を吐く怪物を描いた。あまりの恐ろしさに父は別の盾を農夫に渡し、息子の作品はフィレンツェの画商へ100ドゥカートで売り払ったという。

フィレンツェの若い親方 ── 横顔をやめた肖像画
1472年、20歳のレオナルドは画家と医師の同業組合である聖ルカ組合に親方として登録される。父が自分の工房を用意したあとも、彼はヴェロッキオとの関係を切らず、しばらく師と同居しながら共同制作を続けた。
現存する彼の最も古い日付入りの作品は、1473年のアルノ渓谷を描いたペンとインクの素描である。川、山、モンテルーポ城、その先に広がる農地が細密に描かれ、風景そのものが主題として自立している。ヴァザーリによれば、フィレンツェとピサのあいだのアルノ川を運河化して航行可能にするという発想を最初に提案したのも、若き日のレオナルドだった。
この時期の絵画で決定的に重要なのが『受胎告知』(1473–75年頃、ウフィツィ美術館蔵)と『ジネーヴラ・デ・ベンチの肖像』(1474–78年頃、ワシントン・ナショナル・ギャラリー蔵)である。とくに後者は、女性肖像画の慣習を一つ壊している。当時のイタリアでは、女性の肖像はメダルや硬貨の意匠にならって横顔(プロファイル)で描くのが通例だった。レオナルドは身体をわずかに回し、鑑賞者の側に顔を向ける4分の3正面観を採用する。それによって画面に空間の奥行きと心理的な複雑さが生まれた。加えて、モデルが屋内ではなく屋外の自然のなかに置かれている点も当時としては異例である。
ジネーヴラは、フィレンツェの富裕な銀行家の娘で、詩人としても知られた知的な女性だった。16歳での結婚あるいは婚約を記念して描かれたとされ、絵の裏面には月桂樹とシュロ、そしてジネーヴラ(Ginevra)の名にかけたネズ(Ginepro)の枝が描かれ、「美は美徳を飾る(Virtutem Forma Decorat)」というラテン語の銘文を記した巻物が配されている。外見の模写ではなく、対象の内面的な資質を象徴で語らせるという構想である。この作品は1967年にリヒテンシュタイン侯フランツ・ヨーゼフ2世からワシントン・ナショナル・ギャラリーが購入したもので、当時の絵画取引としては記録的な500万〜600万ドルという価格がついた。アメリカ大陸で常設公開されている唯一のレオナルド作品でもある。
一方、私生活には暗い出来事も記録されている。1476年、24歳のレオナルドは他の3人の若者とともに、男娼が関わる事件で男色の罪により告発された。証拠不十分で告発は取り下げられている。被告の一人がロレンツォ・デ・メディチの縁者であったため、家門の影響力が働いた可能性が指摘されている。


未完という署名 ── 投げ出された二つの大作
1478年1月、レオナルドはフィレンツェ政庁舎パラッツォ・デッラ・シニョリーアの聖ベルナルド礼拝堂のための祭壇画を、独立した仕事として受注する。ヴェロッキオ工房からの自立を示す仕事だった。1481年3月には、サン・ドナート・ア・スコペート修道院の修道士たちから『東方三博士の礼拝』の注文を受ける。
だが、どちらも完成しなかった。とくに『東方三博士の礼拝』は、約250×250センチの大画面に50人近い人物が渦巻く複雑な構成で、遠近法による古代建築の廃墟の詳細な下絵まで用意されている。それでも彼は、これを板の上に木炭とインクで描き起こしたところで手を止めた。
同時期に着手された『聖ヒエロニムス』も未完に終わっている。この作品についてボルトロンは、レオナルドの苦しい時期と結びつけ、彼の日記の一節を引く。「私は生きることを学んでいると思っていた。私はただ、死ぬことを学んでいたのだ」。悔悛者ヒエロニムスは画面の中央に斜めに置かれ、上方から見下ろされる。その足元には象徴である獅子が、身体と尾で二重の螺旋を描いて横たわっている。
未完で放り出された理由は、単なる怠惰ではない。両方の仕事が中断されたのは、1482年、レオナルドがミラノへ向かったからである。ロレンツォ・デ・メディチは彼をミラノの実質的な支配者ルドヴィーコ・イル・モーロのもとへ、いわば外交的な贈り物として送り出した。レオナルドが携えていったのは、馬の頭部の形をした銀製の弦楽器だった。
このとき彼がルドヴィーコに宛てた自薦状は、彼の自己認識を最も端的に示す文書として知られている。運搬可能な橋、攻城兵器、坑道、装甲車、大砲。彼は自分にできることとして、軍事技術の項目を延々と列挙し、そのうえで最後に、絵画も彫刻も他の誰にも劣らずこなせる、という趣旨を付け加えた。30歳のレオナルドは、自分を画家としてではなく、難題を解決する技術者として売り込んだのである。

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ミラノ宮廷の17年 ── 技術者、演出家、そして画家
レオナルドは1482年から1499年までミラノで働いた。人生で最も長く一か所にとどまった期間であり、最も多くの仕事を同時進行させた期間でもある。
彼がこの街で受けた最初の重要な絵画注文は、無原罪の御宿りの信心会のための『岩窟の聖母』だった。エジプトへの逃避行の途上、天使に守られた幼い洗礼者ヨハネが聖家族に出会うという外典の場面が選ばれている。荒々しい岩と渦巻く水の風景のなかで、優美な人物たちが幼子キリストを囲んでひざまずく。約200×120センチというこの絵は、結局2つのバージョンが完成した。1点は信心会の礼拝堂に残り、もう1点をレオナルドは晩年フランスへ持っていった。信心会も共同制作者のデ・プレディス兄弟も、絵と報酬を受け取るまでに次の世紀まで待たされることになる。
肖像画では『白貂を抱く貴婦人』(1489–91年頃)が突出している。モデルはルドヴィーコの愛人チェチーリア・ガッレラーニとされる。頭部が胴体とはまったく違う角度にひねられ、視線は画面の外へ向かう。多くの肖像がまだ硬い横顔で描かれていた時代に、この動きは異例だった。白貂(アーミン)は象徴であり、モデル自身を指すとも、白貂騎士団に属していたルドヴィーコを指すとも解される。
しかしミラノでの彼の仕事は絵画に限らない。宮廷の祝祭のための山車と演出、ミラノ大聖堂の丸屋根の設計競技に出した図面と木製模型、パヴィア大聖堂の建設現場への技術顧問としての招請(1490年、フランチェスコ・ディ・ジョルジョ・マルティーニと同行)、1485年にはスフォルツァの使いとしてハンガリー王マーチャーシュ1世のもとへ赴き、聖母像の注文を受けている。1498年にはスフォルツァ城のサーラ・デッレ・アッセ天井装飾を手がけ、16本の桑の木の枝が絡み合ってパーゴラをなす、葉と結び目の迷路のようなだまし絵で大広間を覆った。
そして最大の未完がある。ルドヴィーコの父フランチェスコ・スフォルツァを顕彰する巨大な騎馬像である。完成すればルネサンス期に存在した2体の大型騎馬像、ドナテッロの『ガッタメラータ』とヴェロッキオの『コッレオーニ』を規模で上回るはずだった。レオナルドは馬の原寸模型を完成させ、鋳造の詳細な計画まで立てた。だが1494年11月、ルドヴィーコはその青銅を義兄に譲り、フランス王シャルル8世から街を守る大砲に鋳直させた。「グラン・カヴァッロ(大いなる馬)」は永遠に馬のままで終わった。
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手稿と鏡文字 ── 公開されなかった科学
レオナルドの科学と工学の記録は、13,000ページに及ぶノートと素描に残された。日々の観察が旅先でも欠かさず書き継がれ、内容は買い物のリストや自分に借りのある人物の名前といった卑近なものから、翼の設計や水上を歩く靴といった突飛なものまでを含む。絵画の構図、衣文の研究、顔と感情の研究、動物、赤ん坊、解剖、植物、岩の層、渦、戦争機械、飛行機械、建築。分類そのものを拒むような広がりがある。
文字の大半は左右反転した鏡文字の筆記体で書かれている。左手で書いていたため、右から左へ書くほうが手が汚れず自然だったと考えられている。彼は独自の略記と記号を使い、ノートに、これらを出版用に整えるつもりだと書いてもいる。しかし生前に出版されることはなかった。理由はわかっていない。
彼の科学の方法は徹底して観察的である。現象を極限まで詳細に記述し描写することで理解しようとし、実験や理論的説明はさほど強調しない。ラテン語と数学の正規教育を欠いていたため、同時代の学者は科学者としての彼をほぼ無視した。それでも彼は独学でラテン語を学び、「太陽は動かない(Il sole non si muove)」といった鋭い観察を書き残している。1490年代にはルカ・パチョーリのもとで数学を学び、パチョーリの著書『神聖比例論』(1509年刊)のために正多面体の骨組み図を描いた。滑り摩擦の法則を最初に記述したのも彼で、1493年のことである。この結果も公表されず、法則は1699年にギヨーム・アモントンによって再発見された。
手稿のその後の運命は数奇である。大半は弟子で相続人のフランチェスコ・メルツィに託された。メルツィの死後、コレクションは息子で法律家のオラツィオへ渡るが、彼はノート類にほとんど関心を示さなかった。1587年、メルツィ家の家庭教師レリオ・ガヴァルディが13冊をピサへ持ち出し、建築家ジョヴァンニ・マジェンタがこれをとがめてオラツィオへ返却したところ、オラツィオはむしろそれをマジェンタに贈ってしまう。失われたレオナルドの著作の噂が広まると、オラツィオは13冊のうち7冊を取り戻し、ポンペオ・レオーニに出版のために委ねた。このとき二巻本にまとめられたものの一つが『アトランティコ手稿』である。残る6冊はすでに散逸していた。オラツィオの死後、相続人たちが残りを売却し、散逸は決定的になる。
現在、手稿はウィンザー城の王立図書館、ルーヴル、スペイン国立図書館、ヴィクトリア&アルバート博物館、そして12巻の『アトランティコ手稿』を所蔵するミラノのアンブロジアーナ図書館、『アランデル手稿』を公開する大英図書館などに分散している。個人所有の主要な科学手稿は『レスター手稿』のみで、ビル・ゲイツが所有し、年に一度、世界各地の都市で公開されている。
| 手稿名 | 所蔵 | 規模 | 主な内容 |
|---|---|---|---|
| アトランティコ手稿(Codex Atlanticus) | アンブロジアーナ図書館(ミラノ) | 1,119葉・12巻 | 力学、水力学、幾何学、植物学、軍事技術など |
| アランデル手稿(Codex Arundel) | 大英図書館(ロンドン) | 1冊 | 力学、物理学ほか。オンライン公開されている |
| フォースター手稿(Codex Forster I・II・III) | ヴィクトリア&アルバート博物館(ロンドン) | 3群 | 幾何学、解剖学ほか |
| レスター手稿(Codex Leicester) | 個人蔵(ビル・ゲイツ) | 1冊 | 水、天文、地質。個人所有の唯一の主要科学手稿 |
| 鳥の飛翔に関する手稿(Codex on the Flight of Birds) | トリノ王立図書館 | 1冊 | 鳥の飛行観察と飛行機械の設計(1505年頃) |
| ウィンザー・コレクション | 王立図書館(ウィンザー城) | 多数 | 解剖図の主要部分を含む素描群 |


『最後の晩餐』という賭け ── フレスコを捨てた代償
ミラノ時代の頂点は、サンタ・マリア・デッレ・グラツィエ修道院の食堂のために描かれた『最後の晩餐』(1495–98年頃)である。主題はキリストが捕らえられる前夜の食事、それも「あなたがたのうちの一人が私を裏切る」と告げた直後の、動揺が波のように広がる一瞬に固定されている。
作家マッテオ・バンデッロがレオナルドの制作を目撃して書き残したところによれば、彼は夜明けから日暮れまで食事もとらずに描き続ける日があるかと思えば、3日も4日もまったく筆を執らない日があった。修道院長にはこれが理解できず、しつこく催促したためレオナルドはルドヴィーコに仲裁を頼んでいる。ヴァザーリは、キリストとユダの顔をどう描くかに悩んでいたレオナルドが、公爵に対して、いよいよとなれば修道院長を裏切り者のモデルに使うかもしれない、と告げたという逸話を伝えている。
技法上、彼は決定的な選択をした。漆喰が乾く前に一気に描き上げる伝統的なフレスコを避け、主に石膏を下地とした乾いた壁の上にテンペラで描いたのである。この選択は、時間をかけて構図を練り直し、光の反射と人物の心理を作り込むためには不可欠だった。フレスコは修正を許さない技法だからである。
代償は早く現れた。画面はかびと剥落に見舞われ、100年後にはある鑑賞者が「完全に廃墟である」と記すまでに劣化した。それでもこの絵は、あらゆる時代を通じて最も多く複製された宗教画であり続けている。
なお、この修道院は1980年にユネスコの世界遺産に登録されている。現在の見学は完全予約制で、入室人数と滞在時間が厳格に管理されている。
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ミラノ陥落と放浪 ── 47歳で職を失う
1499年、フランス軍の侵攻によりルドヴィーコ・スフォルツァが失脚する。17年間の安定した宮廷生活は終わり、47歳のレオナルドはパトロンを失った。彼は助手のサライと、友人である数学者ルカ・パチョーリを伴ってミラノを脱出する。
向かった先はヴェネツィアだった。ここで彼が得た職は画家のものではない。軍事建築家・技術者として、海からの攻撃に対する防衛手段を考案する仕事である。可動式のバリケードによる防御システムを設計したと記録されている。共和国が必要としていたのは絵ではなく、対オスマン防衛の実務だった。
1500年にフィレンツェへ戻ると、レオナルドとその一家はサンティッシマ・アンヌンツィアータ修道院のセルヴィ会修道士たちの客となり、工房を提供された。ヴァザーリによれば、彼はここで『聖アンナと聖母子と幼い洗礼者ヨハネ』の大型下絵(カルトン)を制作する。この下絵は異例の反響を呼んだ。ヴァザーリの記述では、男も女も、若者も老人も、まるで荘厳な祭に行くかのように群れをなして見にきたという。
作品ではなく下絵に人が押し寄せるという現象は、この時期のレオナルドの立ち位置をよく表している。彼は完成品をほとんど世に出していないのに、すでに伝説になっていた。1490年代の時点で、彼はすでに「神のごとき」画家と呼ばれていた。
なお、この時期の彼はマントヴァにも立ち寄り、イザベラ・デステの肖像素描を残している。これをもとに描かれた油彩があったとされるが、現存していない。
チェーザレ・ボルジアの技師 ── 上空から見た都市
1502年、チェゼーナでレオナルドは教皇アレクサンデル6世の子チェーザレ・ボルジアに仕えることになる。肩書きは軍事建築家兼技術者で、パトロンとともにイタリア各地を移動した。
彼がここで残した最も驚くべき仕事が、イーモラの都市図である。城壁に囲まれた街を真上から見下ろした平面図で、堀の形も街路の割付も正確に測られている。航空写真という概念すら存在しない時代に、地上での実測だけからこの図を組み立てているという点で、この一枚は工学史の資料でもある。チェーザレはこれを見てレオナルドを主任軍事技師兼建築家として雇い入れた。同年のうちに彼はトスカーナのキアーナ渓谷の地図も作成している。海からフィレンツェまでダムを築き、季節を問わず運河に水を供給するという構想と連動した仕事だった。
チェーザレの陣営には、外交官としてニッコロ・マキャヴェッリも滞在していた。のちに『君主論』でチェーザレの冷酷さを権力の源泉として描くことになる人物である。レオナルドが1502年に着想したアルノ川の流路変更計画には、マキャヴェッリも関わっていた。
冷酷な軍事指導者と、権謀術数の理論家と、飛行機械を描く技術者。この三人が同じ陣営にいた数か月は、ルネサンスという時代の性格を凝縮している。レオナルドは1503年の初めまでにボルジアのもとを離れ、フィレンツェへ戻った。

二つの戦いと『モナ・リザ』── ミケランジェロとの対決
1503年10月18日、レオナルドは聖ルカ組合に再加入する。そしてこの同じ月に、彼はリザ・デル・ジョコンドという女性の肖像に着手した。『モナ・リザ』である。彼はこの絵を、以後十数年にわたって手放さなかった。
1504年1月には、ミケランジェロの『ダヴィデ』像をどこに設置するかを検討する委員会に加わっている。そして同じ頃から2年をかけ、シニョリーア政庁のためにパラッツォ・ヴェッキオの五百人広間の壁画『アンギアーリの戦い』の設計と制作に取り組んだ。向かい合う壁には、ミケランジェロが『カッシーナの戦い』を担当する。当時51歳のレオナルドと29歳のミケランジェロが、同じ部屋の向かい合う壁で競作するという、美術史上ほとんど例のない構図が生まれた。
レオナルドが選んだのは、1440年のアンギアーリの戦いで4人の男が軍旗をめぐって荒れ狂う軍馬の上で争う場面である。動きの塊としての戦闘を描こうとしたこの構想は、しかし完成しなかった。彼はここでもまた通常のフレスコを避けて実験的な技法を用い、絵は急速に劣化した。今日この構図が知られているのは、16世紀の素描をもとにルーベンスが手を加えた模写と、いくつかの部分模写を通じてである。
対照的に『モナ・リザ』は、彼が生涯手元に置き続けた作品になった。名声は、あの捉えどころのない微笑に集中している。口元と目尻の陰が微妙にぼかされているため、微笑の性質そのものを確定できない。この陰翳の質は「スフマート(レオナルドの煙)」と呼ばれるようになった。装飾のない衣服、流動する状態にあるかのような背景の風景、抑えられた色彩、そして筆跡の識別できないほど滑らかな塗り。ヴァザーリは、この絵の微笑は人間のものというより神のもののようだと書いている。
制作年代については研究者のあいだで幅がある。1503年から1506年頃、あるいは1502年以降、あるいは1503–1506年に加えて1510年頃の加筆、といった具合に諸説が並存している。確かなのは、この絵が彼の死の時点でフランスにあったということである。


解剖と第二のミラノ、そしてローマの不遇
1506年、レオナルドはフランス統治下のミラノ総督シャルル2世ダンボワーズに招かれ、再びミラノへ移る。フィレンツェ政庁は『アンギアーリの戦い』を仕上げさせるために早く戻せと求めたが、ルイ12世の意向により、彼はミラノにとどまることを許された。ここで彼は新しい弟子を取る。ロンバルディアの貴族の子フランチェスコ・メルツィで、のちに彼の全遺産を託されることになる人物である。1508年には、サンタ・バビラ教区ポルタ・オリエンターレの自宅に住んでいる。
この時期、彼は科学の探究にほぼ自由に時間を使えるようになった。とりわけ深く踏み込んだのが解剖学である。すでにフィレンツェのサンタ・マリア・ヌオーヴァ病院で人体解剖の許可を得ていた彼は、ミラノとローマの病院でもこれを続けた。1510年から1511年にかけては、パヴィア大学の解剖学教授マルカントニオ・デッラ・トッレと共同研究を行っている。この間に描かれた詳細な解剖図は240点を超え、解剖学の論考のために書かれた語数は約13,000語に達した。
彼の到達点は現代の目で見ても異様である。骨格の力学的機能と筋肉が加える力を、生体力学(バイオメカニクス)を先取りするかたちで分析した。心臓と血管系、生殖器、内臓を描き、子宮内の胎児を科学的に描いた最初期の図を残した。動脈硬化と肝硬変を最初に定義したのも彼だとされる。溶かした蝋で脳室の模型を作り、ガラス製の大動脈を作って水と草の種を流し、大動脈弁を通る血流のパターンを観察してもいる。もしこれらが公刊されていれば医学史は変わっていた、というのが研究者の一致した見方である。
1512年にはジャン・ジャコモ・トリヴルツィオの騎馬記念像の計画に取りかかるが、スイス・スペイン・ヴェネツィア連合軍がフランス勢をミラノから駆逐し、この計画も潰えた。1513年、彼はメディチ家のヴァプリオ・ダッダの別荘で数か月を過ごす。
同1513年3月、ロレンツォ・デ・メディチの子ジョヴァンニが教皇レオ10世として即位すると、レオナルドは9月にローマへ向かい、教皇の弟ジュリアーノに迎えられた。1516年までの約3年間、彼は使徒宮殿のベルヴェデーレの中庭に暮らす。同じ時期、同じ場所でミケランジェロとラファエロが活動していた。月33ドゥカートの手当を得ていたが、教皇から与えられた絵画の注文は、彼が新しいニスの開発に取りかかったところで取り消された。レオ10世は「この男は何も成し遂げまい。始める前に終わりのことを考えている」と言ったと伝えられる。この時期に彼は病に倒れており、これが死に至る複数の脳卒中の最初のものであった可能性が指摘されている。


フランソワ1世とクロ・リュセ ── 麻痺した右手で
1515年10月、フランス王フランソワ1世がミラノを奪回する。1516年3月21日、教皇庁駐在フランス大使アントニオ・マリア・パッラヴィチーニのもとに、王の顧問ボニヴェ卿がリヨンから送った書簡が届いた。内容は、レオナルドのフランス移住を助け、王が彼の到着を心待ちにしていると伝えよ、という国王の指示である。パッラヴィチーニは、王とその母ルイーズ・ド・サヴォワの双方から歓待される旨をレオナルドに保証するよう求められてもいた。
同年のうちにレオナルドはフランソワ1世に仕える身となり、王の居城アンボワーズ城に隣接する館クロ・リュセを与えられた。両者は500メートルほどの距離にあり、地下通路で結ばれている。年金は総額10,000スクードに達した。王はしばしば彼を訪ねた。
ここでレオナルドが手がけたのは絵ではない。王がロモランタンに建設しようとした巨大な城塞都市の設計図を引き、宮廷の祝祭のために機械仕掛けの獅子を作った。この獅子は行列のなかを王に向かって歩き、杖で打たれると胸を開いて百合の花束を現したという。彼はまた、ロワール川とその支流の運河化についても王と語り合っている。
しかしこの時期の彼の身体はすでに壊れていた。1517年10月、アラゴンのルイ枢機卿の一行が訪ねた際の記録が残っている。秘書はこう書いた。「メッセール・ルナルド・ヴィンチ……70歳を超える白髪の老人が……閣下に3枚の絵を見せた。だが右手が麻痺していたため、これ以上の良い仕事は期待できなかった」。実年齢は65歳だが、右手が麻痺していたという証言は他の資料とも一致する。ジョヴァンニ・アンブロージョ・フィジーノが描いた、右腕を布で包んだ老レオナルドの素描もこれを裏づけている。『モナ・リザ』のような作品が未完のまま残った理由の一つは、おそらくここにある。
1519年4月23日、レオナルドは遺言を口述した。5月2日、クロ・リュセで死去。67歳だった。おそらく脳卒中による。主たる相続人であり遺言執行者となったのはフランチェスコ・メルツィで、金銭のほか、絵画、道具、蔵書、身の回りの品を受け取った。長年の弟子で同伴者だったサライと従僕バティスタ・デ・ヴィラニスは、それぞれブドウ畑の半分を受け取った。兄弟には土地が、召使いの女性には毛皮裏の外套が遺された。遺言に従い、60人の貧者が蝋燭を掲げて棺に付き従った。
8月12日、遺骸はアンボワーズ城のサン=フロランタン参事会教会に埋葬された。だが物語はここで終わらない。フランス革命でアンボワーズ城は大きく損壊し、この教会は1802年に取り壊される。墓も壊され、遺骨は散乱した。1863年、美術監督官アルセーヌ・ウーセーが皇帝の命で発掘を行い、指に青銅の指輪をはめた白髪の不完全な骨格と、「EO」「AR」「DUS」「VINC」と刻まれた石片を発見する。つなげれば「Leonardus Vinci」と読める。頭蓋の8本の歯は年齢的に矛盾せず、近くから見つかった銀の盾には髭のないフランソワ1世が描かれていた。1874年、これらはアンボワーズ城サン=ユベール礼拝堂に改葬された。ただし墓の上の銘板には、その中身があくまで「推定」であることが明記されている。
死から約20年後、金細工師で彫刻家のベンヴェヌート・チェッリーニは、フランソワ1世がこう語ったと伝えている。レオナルドほど多くを知る人間はかつて世に生まれたことがない。絵画や彫刻や建築のことだけではない、彼はきわめて偉大な哲学者であった、と。
CHRONOLOGY & WORKS / 年譜と作品人生と作品を一緒に見る
レオナルドの年譜は、パトロンの交代と都市の移動でほぼ説明がつく。以下の表では、出来事とその背景、そしてその時期に進行していた制作を並べた。作品の年代には研究者によって幅があるため、通説的な範囲を示している。
4月15日、ヴィンチ(またはアンキアーノ)に誕生
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遅くともこの年までに父方祖父の家に居住
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フィレンツェへ移り、ヴェロッキオ工房に入る
工房の技能習得(製図・冶金・木工・彫刻ほか)
20歳で聖ルカ組合に親方登録
『キリストの洗礼』の天使部分(1472–75頃)
現存最古の日付入り素描
『アルノ渓谷の風景』
女性肖像画の構図を刷新
『ジネーヴラ・デ・ベンチの肖像』『受胎告知』
男色の罪で告発、証拠不十分で取り下げ
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パラッツォ・デッラ・シニョリーアの祭壇画を独立受注
(未完)
『東方三博士の礼拝』を受注
『東方三博士の礼拝』(未完)/『聖ヒエロニムス』(未完)
ミラノへ。ルドヴィーコ・スフォルツァに自薦状を送る
軍事技術者としての売り込み
『岩窟の聖母』(ルーヴル版)着手
『岩窟の聖母』
スフォルツァの使いでハンガリーへ
—
『白貂を抱く貴婦人』
ウィトルウィウス的人体図(Uomo Vitruviano)
パヴィア大聖堂の技術顧問として招請
ミラノ大聖堂丸屋根の設計競技案
滑り摩擦の法則を記述
手稿への記録
スフォルツァ騎馬像の青銅が大砲に転用される
「グラン・カヴァッロ」原寸模型のみで終わる
『最後の晩餐』制作
最後の晩餐(Il Cenacolo)
サーラ・デッレ・アッセ天井装飾
スフォルツァ城の装飾
ルドヴィーコ失脚。ミラノを脱出
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ヴェネツィアで軍事技術者、その後フィレンツェへ
『聖アンナと聖母子と幼い洗礼者ヨハネ』下絵
チェーザレ・ボルジアに主任軍事技師として仕える
『イーモラの都市図』『キアーナ渓谷図』/アルノ川流路変更計画
フィレンツェ帰還、聖ルカ組合に再加入(10月18日)
モナ・リザ(La Gioconda)
父セル・ピエロ死去。ミケランジェロ『ダヴィデ』設置委員会に参加
『アンギアーリの戦い』設計
『アンギアーリの戦い』制作
急速に劣化、1560年頃までに失われる
シャルル2世ダンボワーズに招かれミラノへ
科学研究に注力
マルカントニオ・デッラ・トッレと解剖学を共同研究
解剖図240点超、約13,000語の草稿
トリヴルツィオ騎馬像計画が中断
(未完)
ローマへ。教皇レオ10世の弟ジュリアーノに迎えられる
植物学、解剖、声帯の論考、ポンティーノ湿地の排水計画
フランソワ1世の招きでフランスへ
ロモランタン城塞都市の設計、機械仕掛けの獅子
アラゴンのルイ枢機卿一行が訪問
モナ・リザ(La Gioconda)
4月23日に遺言を口述。5月2日、クロ・リュセで死去
8月12日にサン=フロランタン参事会教会に埋葬
遺骨(推定)をサン=ユベール礼拝堂に改葬
現在の墓所
REFERENCES / 出典参考文献
伝記・研究書
- ウォルター・アイザックソン『レオナルド・ダ・ヴィンチ 上・下』土方奈美訳、文藝春秋
- 池上英洋『レオナルド・ダ・ヴィンチ 生涯と芸術のすべて』筑摩書房
- 東京造形大学ダ・ヴィンチ・プロジェクト/池上英洋『よみがえるレオナルド・ダ・ヴィンチ 作品復元プロジェクト』東京美術
- レオナルド・ダ・ヴィンチ『レオナルド・ダ・ヴィンチの手記 上・下』杉浦明平訳、岩波文庫
- Wikipedia (English)「Leonardo da Vinci」
- Wikipedia (English)「List of works by Leonardo da Vinci」
- Wikipedia (English)「Clos Lucé」
- Wikipedia (English)「Studies of the Fetus in the Womb」
- Wikipedia (English)「The Battle of Anghiari (Leonardo)」
- Wikipedia (English)「Ginevra de’ Benci」
- Britannica「Leonardo da Vinci」
論文・紀要
- 池上英洋「赤外線撮影を利用したレオナルド派作品の帰属判定と伝播経路の特定」科学研究費助成事業(KAKEN)
- 池上英洋「『サルヴァトール・ムンディ』とレオナルド・ダ・ヴィンチ(1・2)」『東京造形大学研究報』第23巻・第25巻
- 「レオナルド・ダヴィンチの手稿(キーノートスピーチ)」J-STAGE
- 「空間描画と三次元の体系的再現に関する研究」J-STAGE
所蔵館・公的機関の資料
- Musée du Louvre「La Joconde(モナ・リザ)」コレクションデータベース
- National Gallery of Art, Washington「Ginevra de’ Benci [obverse]」
- National Gallery of Art, Washington「10 Surprising Facts About Leonardo da Vinci’s “Ginevra de’ Benci”」
- Museo del Cenacolo Vinciano「The Last Supper, Leonardo da Vinci」
- The National Gallery, London「Leonardo da Vinci | The Virgin of the Rocks」
- Victoria & Albert Museum「Leonardo da Vinci’s notebooks」
- British Library「Leonardo da Vinci: A Mind in Motion」
- Château du Clos Lucé 公式サイト
- アンボワーズ・ヴァル・ド・ロワール観光局「Leonardo da Vinci at the Chateau du Clos Luce」
デジタルアーカイブ
- Museo Galileo「leonardo//thek@」
- My Modern Met「Leonardo da Vinci’s Largest Collection of Drawings Goes Digital」(アトランティコ手稿デジタル化)
- Sandra Rendgen「Leonardo’s Codex Atlanticus, The Visual Agency」
- COST Action CA24143「LEAF: LEonardo’s Codex Atlanticus and other miscellaneous Folios」
- British Library「Arundel Manuscripts(アランデル手稿)」
- Wikimedia Commons「Leonardo da Vinci(作品ギャラリー)」


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