エドヴァルド・ムンクの生涯The Life of Edvard Munch
エドヴァルド・ムンクの名は、世界的なイコンとなった《叫び》とともに、「孤独」「狂気」「死の恐怖」といったロマン主義的な芸術家像と結びつけて語られてきた。しかし近年の研究が明らかにするのは、彼が単に精神的苦境に翻弄された悲劇の天才ではなかったという事実である。ムンクは、自らの内面の苦悩やトラウマを客観視し、それを普遍的な人間感情の表現へと昇華させる高度な知性と、自らの名声を巧みに構築する自己演出の能力を兼ね備えた、きわめて戦略的な芸術家だった。この記事では、病と死に囲まれた幼少期から、クリスチャニアとベルリンの前衛的知識人たちとの交流、記念碑的連作「生命のフリーズ」の構築、精神的崩壊と再生、そしてエーケリーでの

- 「病と狂気と死」に囲まれた幼少期が、芸術の視座を決めた。 5歳で母を、14歳で姉ソフィエを結核で失い、狂信的な父のもとで育ったムンクは、「病と狂気、そして死が、私の揺りかごを囲む黒い天使であった」と述懐した。この喪失の記憶が、彼の芸術の根源的な原動力となった。
- 彼は「狂気の画家」というイメージを、自ら戦略的に演出した。 クリスチャニア・ボヘミアンのイェーガー、ベルリンのストリンドベリらとの交流のなかで、ムンクは絵を描き、文章を発表し、展示を凝った。1892年ベルリンでのスキャンダル「ムンク事件」すら逆手に取り、名声を築いた。彼は悲劇の天才ではなく、自己神話を構築した戦略家だった。
- 崩壊と再生を経て、「夜」から「昼」の芸術へ転じた。 破滅的な恋愛と拳銃事件、重度の神経衰弱の末、1908年にコペンハーゲンのクリニックへ入院。退院後、内省的で陰鬱な作風から、《太陽》に代表される光と生命力を
讃える 作風へと大きく変貌した。晩年はエーケリーで隠遁 し、膨大な作品をオスロ市に遺贈した。
エドヴァルド・ムンクの生涯
ムンクの絵の前に立つと、われわれは自分自身の内面をのぞき込んでいるような感覚に襲われる。渦巻く赤い空、溶け出す顔、揺れる海岸線。それらは外界の写生ではなく、恐怖・不安・欲望・喪失といった、制御しがたい感情そのものの形である。本記事は、そうした感情の視覚化がどのような生涯のなかから生まれたのかを、幼少期の喪失から死後の遺産まで、時系列にたどっていく。
幼少期と原風景 ── 病と死の影
エドヴァルド・ムンクは1863年12月12日、ノルウェーのヘードマルク県レテンに生まれた。一家はまもなく首都クリスチャニア(現オスロ)へ移る。だが彼の幼少期は、死の影に深く覆われていた。わずか5歳のとき、母ラウラが当時不治の病とされた結核で命を落とす。この最初の喪失が、ムンクの生涯にわたる精神的基盤に、最も深い亀裂をもたらした。
母の死後、家庭を支配したのは、軍医であった父クリスチャン・ムンクである。父は極端に神経質で狂信的なキリスト教徒であり、病や死を「神からの罰」と結びつける強迫的な教えを、幼いムンクと兄弟たちに植え付けた。この宗教的な重圧は、後年のムンク作品に見られる原罪意識や、逃れられない死の恐怖というテーマの温床となった。

さらなる悲劇は、彼が14歳のときに訪れる。母親代わりであり、最も親しい理解者でもあった1つ年上の姉ヨハンネ・ソフィエが、母と同じく結核で世を去ったのである。血を吐き、苦しみながら息絶えていく姉の姿は、ムンクの網膜と精神に焼き付き、後の芸術で反復される強迫的なモチーフとなった。「病と狂気、そして死が、私の揺りかごを囲む黒い天使であった」──ムンク自身のこの述懐は、彼の幼少期が単なる個人的な不遇にとどまらず、彼が世界を認識するための根本的なレンズ(視座)を形づくったことを物語っている。死の予感は常に彼の傍らにあり、自己の存在の
クリスチャニア・ボヘミアンと《病める子供》
1880年、エンジニアになることを望む父の反対を押し切り、ムンクは画家になる決意を固め、クリスチャニアの王立美術デザイン学校に入学した。初期の彼は、ノルウェーを代表する自然主義の画家クリスチャン・クログらから指導を受け、精緻な描写と社会的な題材への関心を身につけた。だが、外的な現実を忠実に再現しようとする自然主義の枠組みは、内面で渦巻く強烈な感情を表現しようと苦闘する若きムンクにとって、次第に窮屈なものとなっていった。
この時期、彼の芸術観に革命的な転回をもたらしたのが、「クリスチャニア・ボヘミアン」と呼ばれる急進的な知識人・芸術家のグループとの出会いだった。その精神的支柱が、無政府主義者であり作家のハンス・イェーガーである。イェーガーは伝統的な道徳やブルジョワジーの偽善を徹底的に批判し、「

その思想的影響が結実した最初の決定的な作品が、1885年から1886年にかけて制作された《病める子供》である。姉ソフィエの死の記憶を直接扱ったこの作品で、ムンクは対象の物理的な正確さではなく、悲痛な感情そのものをカンヴァスに定着させようとした。彼は絵具を厚く塗り重ね、ナイフで削り取り、再び描くという
パリ留学とサン=クルー宣言
1889年、ムンクは奨学金を得てパリへ留学する。ここで彼は、ポール・ゴーギャン、フィンセント・ファン・ゴッホ、ジョルジュ・スーラらの作品に直接触れ、印象派の光の表現や、ポスト印象派の平面的で象徴的な色彩感覚を貪欲に吸収した。外界を写す絵画から、色彩と形態そのものが感情を語る絵画へ──パリでの経験は、彼の方向転換を決定的に後押しした。
このパリ滞在中、セーヌ川沿いの町サン=クルーで、ムンクは後に「サン=クルー宣言」と呼ばれる芸術的信条を書き記す。「もうこれからは、室内で本を読んでいる男や、編み物をしている女を描いてはならない。息づき、感じ、苦しみ、愛する、生身の人間を描くのだ」。これは、当時の自然主義的な風俗描写への決別であり、人間の内面の生を主題に据えるという宣言だった。イェーガーの「

この時期の作風の変化を象徴するのが、《メランコリー》である。友人のヤッペ・ニルセンが海辺で失恋の痛手に沈む姿を描いたこの作品では、波打つ海岸線のうねりと陰鬱な色彩のコントラストによって、風景そのものが人物の心理状態を反響するように描かれている。外界の描写と内面の感情が溶け合うこの手法は、以後のムンク芸術の核心となる。単なる肖像でも風景でもない、「心象風景」という新しい絵画の領域が、ここに開かれた。
ベルリン「ムンク事件」と黒小豚亭
ムンクの国際的な飛躍の契機となったのは、1892年、ベルリン芸術家協会の招待で行われた個展である。しかし、彼の主観的で荒々しい作風は、当時のドイツの保守的な美術界にとって完全な異端だった。展覧会は「芸術に対する侮辱」として、わずか1週間で打ち切られる大スキャンダル──いわゆる「ムンク事件」──を引き起こす。
ここで、近年の批評的な視座が重要になる。美術批評家の

スキャンダルの後もベルリンに留まったムンクは、「黒小豚亭(Zum schwarzen Ferkel)」と呼ばれる酒場を拠点とする、前衛的な芸術家・知識人のサークルに合流する。中心にいたのは、スウェーデンの劇作家アウグスト・ストリンドベリ、サタニズムと心理学に傾倒したポーランドの作家スタニスワフ・プシビシェフスキ、そして彼らを魅了したノルウェーの音楽学生ダグニー・ユールだった。このサークルでは、ニーチェの哲学、深層心理学、オカルティズム、そして愛と性をめぐる急進的な議論が、夜ごと交わされた。ストリンドベリの女性嫌悪的で神秘主義的な思想、そしてダグニー・ユールをめぐる男たちの激しい嫉妬と恋愛の駆け引きは、ムンクの芸術に「魔性の女(ファム・ファタール)」や「愛憎の葛藤」という新たな主題を与え、作品の心理的な深度を決定的に深めた。
「生命のフリーズ」の構想
ベルリン時代の最も重要な成果は、愛・不安・死といった人間の普遍的な感情を連続するテーマとして構成した、一連の絵画群「生命のフリーズ(The Frieze of Life)」の着想と制作である。ムンクは、個々の絵画を独立した作品としてではなく、全体で一つの壮大なシンフォニーを奏でる連作として構想した。彼は展示空間そのものを、一つの精神的宇宙として演出しようとしたのである。
「生命のフリーズ」は、いくつかの主題群から構成される。愛の芽生えと陶酔、愛の開花と不安、そして愛の

この連作の思想を最もよく体現するのが《生命のダンス》である。夏至の夜、月光の下で踊る人々を描いたこの作品では、白い衣の乙女(純潔・愛の始まり)、赤い衣の女(愛の絶頂・官能)、黒い衣の女(愛の終焉・喪失)が、一つの画面のなかに配置される。一人の女性の三つの相、あるいは愛の三つの段階が、同時に示されているのだ。ムンクにとって絵画とは、瞬間の記録ではなく、時間と生の全体を一望のもとに収める装置だった。「生命のフリーズ」は、その思想が最も壮大な形をとった連作である。
《叫び》── 不安の頂点
「生命のフリーズ」の頂点に位置し、そして世界で最も知られた近代絵画の一つとなったのが、《叫び》である。人間の根源的な不安と、自然に対する畏怖を表現したこの作品は、1893年の油彩・テンペラ版に始まり、1895年のリトグラフ、1910年のバージョンなど、繰り返し制作された。
《叫び》の主題は、ムンク自身が体験した幻覚に由来する。彼は日記に、友人二人と夕暮れのフィヨルド沿いの道を歩いていたとき、突然、空が血のように赤く染まり、「自然を貫く果てしない叫び」を聴いたと記している。疲労と不安に襲われ立ちすくむ彼の傍らを、友人たちは何も気づかず歩き去っていった。この個人的なパニック体験を、ムンクは一枚の絵に凝縮した。

画面を見れば、ムンクが何をしたかがわかる。鮮血のような赤い空、うねり流れる青い風景、そして手前に立つ、性別も年齢も定かでない人物。その人物は、頭蓋骨のような顔で耳を塞ぎ、口を開いている。ここには、外部世界の写実的な描写は完全に放棄されている。代わりに、パニックという内面の感情そのものが、形態と色彩によって物質化されている。風景の線は人物の内なる震えと共鳴し、空の赤は恐怖の色として塗られる。近代人が抱える名状しがたい不安を、これほど直接に、これほど普遍的な形で視覚化した絵は、それまで存在しなかった。《叫び》が時代を超えて人々を捉え続けるのは、それが特定の物語ではなく、誰もが心の底に抱える感情そのものを描いているからである。
マドンナと吸血鬼 ── 愛と官能
「生命のフリーズ」の核心をなすもう一つの主題が、女性性をめぐる複雑な心理の探求である。ベルリン時代の愛憎劇のなかで、ムンクは愛と官能、生と死が分かちがたく絡み合う女性像を、繰り返し描いた。
その代表が《マドンナ》である。1894年から1895年の油彩版やその後のリトグラフ版において、ムンクは法悦と死の影が交錯する官能的な裸婦像を描き出した。目を閉じ、身をのけぞらせる女性は、聖母(マドンナ)の名を冠しながら、性的な陶酔のただなかにある。リトグラフ版の画面の縁には、胎児や精子のような形象が描き込まれ、生命の誕生と死が表裏一体であることを象徴している。愛の絶頂の瞬間に、すでに死と新たな生命の影が忍び込んでいる──ムンクにとって、愛とは決して安らかなものではなかった。

もう一枚の《吸血鬼》(1895年)は、その不安をさらに先鋭化させる。赤い髪の女性が、うなだれる男性の首筋に顔を寄せる。一見すると慰めの抱擁のようだが、女性が男の首に噛みついているようにも見えるため、「吸血鬼」の題で知られるようになった。愛が持つ自己犠牲と破滅の二面性、与えることと奪うことの境界の曖昧さが、ここに暗示されている。これらの女性像は、単なる女性嫌悪の表現ではない。それは、愛という制御しがたい力の前で、人間がいかに無力であるかを見つめた、ムンク自身の実存的な問いの記録なのである。
思春期・灰 ── 性と喪失
女性と愛をめぐるムンクの探求は、官能の主題だけにとどまらない。性の目覚めに伴う根源的な恐怖、そして愛が燃え尽きた後の喪失感もまた、「生命のフリーズ」の重要な主題だった。
《思春期》(1894年など)は、ベッドの端に座る裸の少女を描く。両腕で身体を隠すように交差させ、大きく見開いた目でこちらを見つめる彼女の背後には、その


一方、《灰》(1895年)は、愛の終わりを描く。森を背景に、乱れた白い衣の女性が両手で頭を抱えて正面を向き、その傍らで男性が絶望したようにうずくまっている。二人のあいだにはもはや交わりはなく、情熱が燃え尽きた後の冷たい灰のような空虚だけが漂う。タイトルの「灰」は、かつて燃え上がった愛の残骸を指している。ムンクにとって、愛の物語は常に喪失によって閉じられた。目覚めの恐怖から、陶酔を経て、燃え尽きた後の空虚へ。彼が描いた愛の弧は、幸福な結末を持たない。その容赦のなさこそが、ムンクの作品に、慰めではなく真実の手応えを与えている。
精神の崩壊と再生 ── 拳銃事件とヤコブソン療養
19世紀末から20世紀初頭にかけて、ムンクの芸術的評価がヨーロッパ中で高まる一方で、彼の私生活と精神状態は深刻な危機に
以後、ムンクの被害妄想は激化し、過度のアルコール摂取も相まって、幻覚や重度の神経衰弱に悩まされるようになる。放浪と飲酒、他者との衝突を繰り返す日々のなかで、彼の精神は限界へと近づいていった。この時期の自画像には、酒場で孤立する姿や、地獄のような赤い炎に包まれた裸の自身の姿が描かれ、彼が自らの崩壊を冷徹に見つめていたことがうかがえる。

転機は1908年の秋に訪れる。ムンクはついに自身の精神状態が限界に達したことを自覚し、自らの意志で、コペンハーゲンのダニエル・ヤコブソン博士の精神科クリニックに入院した。約8ヶ月にわたる、電気ショック療法や食事療法、そして禁酒による療養生活は、彼のキャリアにおける巨大な転回点となる。ここで注目すべきは、ムンクが自らの崩壊を、受動的に耐えるのではなく、能動的に治療の対象として引き受けたことだ。入院という決断そのものが、自己を客観視し、再構築しようとする彼の意志の表れだった。退院後の彼は、かつての自己内省的で陰鬱な「夜」の作風から、外界の光や自然の生命力を肯定する「昼」の作風へと、大きな変貌を遂げることになる。
「昼」への転換とアウラ壁画
コペンハーゲンでの療養を経て帰国したムンクは、明らかに変わっていた。かつて彼の芸術を支配していた死・不安・愛憎の「夜」の主題は後退し、代わって、光・自然・生命力を
この劇的な変化を象徴するのが、オスロ大学講堂(アウラ)のための、モニュメンタルな壁画プロジェクトである。この公共的な大事業に、ムンクは再生した自らのすべてを注いだ。その中心をなす《太陽》は、水平線から放射状に広がる圧倒的な光を描く。網膜を

アウラの壁画で、ムンクは《歴史》のような作品も手がけた。老人が幼い子どもに語りかける姿を通じて、ノルウェーの歴史や民衆の生活、世代から世代へと受け継がれる知恵を主題とするこの作品は、彼の関心が私的なトラウマから公共的な物語へと広がったことを示している。「生命のフリーズ」で培った、空間全体を一つの思想で満たすという構想は、この講堂という現実の空間で、ついに壮大なスケールで実現された。崩壊を経たムンクは、内向きの画家から、共同体に語りかける画家へと生まれ変わったのである。
エーケリーの隠遁と晩年
1916年、国際的な巨匠としての地位を確立し、経済的にも豊かになったムンクは、オスロ郊外のエーケリーに広大な地所を購入した。彼は生涯の残りの約30年間を、この地で半ば隠遁するように過ごす。かつてのボヘミアン的な交友を絶ち、数頭の犬や馬とともに暮らすなかで、彼の関心は、季節の移ろいや農作業をする人々、そして何よりも「老い」と「死」へと向かう自らの肉体と精神の観察へとシフトしていった。
エーケリーのアトリエで、晩年のムンクは膨大な数の自画像を描いた。それらは、若き日の自己演出的な自画像とは異なる、老いていく自身を静かに、そして容赦なく見つめる痛切な記録である。《壁の前の画家》(1942年)では、色鮮やかなアトリエの壁を背に、絵筆を手にして立つ老いた自身が描かれる。死の予感を

また、晩年のムンクは、過去の主題を放棄したわけではなかった。《生命のダンス》のように、若き日の傑作を新たな色彩感覚と筆致で再解釈し続ける作業を、並行して行っている。同じモチーフに何度も立ち返り、そのつど描き直すこの実践は、《病める子供》以来のムンクの一貫した方法だった。過去の記憶は風化させるものではなく、繰り返し描き直すことで問い続けるもの──晩年のエーケリーで、彼はこの信念を静かに貫いた。孤独ではあったが、それは敗北の孤独ではなく、生涯をかけて築いた芸術世界の内側に深く沈潜していく、自足した隠遁だった。
死と遺産 ── ムンク美術館へ
1944年1月23日、ナチス・ドイツによるノルウェー占領下、エドヴァルド・ムンクはエーケリーの自宅で、80歳の生涯を静かに閉じた。占領期の緊張のなか、彼は最後まで自らの作品を守り抜いた。ナチスが「退廃芸術」として彼の作品をドイツの美術館から撤去していた時代に、ムンクは膨大なコレクションを手元に抱え、その行方を案じながら世を去った。
彼は遺言により、手元に残されていた全作品──絵画約1,100点、版画約15,500点、素描類約4,700点という、途方もない量のコレクション──を、故郷オスロ市に遺贈した。これは、生涯を通じて多くの作品を手放すことを拒み、繰り返し同じ主題を描き直してきた画家の、最後の決断だった。彼の作品は、個人の財産ではなく、公共の遺産となるべきものだった。この国家的遺産を保存し、世界に向けて展示するために、1963年、オスロのトイエン地区にムンク美術館(Munchmuseet)が設立された(現在は新しい建物へ移転している)。

死後、ムンクの評価はいよいよ揺るぎないものとなった。彼が自己の神話を演出し、同じモチーフを
CHRONOLOGY & WORKS / 年譜と作品人生と作品を一緒に見る
ムンクの生涯の主要な出来事と、その時期に生まれた代表作を並べて示す。年齢は満年齢の目安。作品の制作年には諸説があり、代表的な推定年を用いている。
12月12日、ノルウェー・レテンに誕生。まもなくクリスチャニアへ。
―
母ラウラが結核で死去。
―
姉ヨハンネ・ソフィエが結核で死去。
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画家を志し、王立美術デザイン学校に入学。
―
クリスチャニア・ボヘミアンとイェーガーに出会う。
《病める子供》(第1バージョン)
パリへ留学。ゴッホ・ゴーギャンらに触れる。父の死。
サン=クルー宣言(芸術的信条の確立)
ベルリンでの個展が「ムンク事件」に発展。
《メランコリー》
ベルリン「黒小豚亭」のサークルで活動。
《叫び》
「生命のフリーズ」の主題群を展開。
《マドンナ》《吸血鬼》《思春期》《嫉妬》《灰》
連作の思想が円熟。
《生命のダンス》
トゥラ・ラーセンとの拳銃事件で左手中指を負傷。
自画像・愛憎の主題を反復
神経衰弱により、コペンハーゲンのヤコブソン診療所に入院。
《地獄の自画像》(前後)
退院。「昼」の作風へ転換。アウラ壁画に取り組む。
《太陽》《歴史》
オスロ郊外エーケリーの地所を購入、以後
過去作の再解釈を続ける
晩年の自画像を多数制作。
《壁の前の画家》
1月23日、エーケリーで死去。全作品をオスロ市に遺贈。
―
オスロにムンク美術館が開館。
遺贈作品を保存・公開
LIFE DATA / 生涯データムンクの生涯を整理する
ムンクを形づくった人々
| 人物 | 立場・関係 | ムンクへの影響 |
|---|---|---|
| クリスチャン・ムンク | 父(軍医) | 狂信的なキリスト教で死を「神の罰」と教え、原罪意識の温床をつくった |
| ヨハンネ・ソフィエ | 姉 | 14歳のときに結核で死去。《病める子供》の反復モチーフの源泉 |
| クリスチャン・クログ | 師(自然主義の画家) | 初期の精緻な描写と社会的題材への関心を指導 |
| ハンス・イェーガー | 作家・無政府主義者 | 「 |
| アウグスト・ストリンドベリ | 劇作家(ベルリン) | 女性嫌悪的・神秘主義的思想で愛憎の主題を刺激 |
| ダグニー・ユール | 音楽学生(ベルリン) | 「魔性の女」の主題と嫉妬・三角関係の源泉 |
| トゥラ・ラーセン | 恋人 | 破滅的な関係と拳銃事件が精神的危機を招いた |
| ダニエル・ヤコブソン | 精神科医 | 1908年の療養で「昼」の作風への転換を支えた |
三つの時期で見るムンクの画業
| 項目 | 初期(〜1889年) | 「夜」の時期(1890年代–1908年) | 「昼」の時期(1909年–) |
|---|---|---|---|
| 主な拠点 | クリスチャニア | パリ・ベルリン・クリスチャニア | クラーゲル・エーケリー |
| 作風 | 自然主義的な描写 | 内面の心象、 | 明るい色彩、光と生命力の |
| 主題 | 社会的題材・家族の病 | 死・不安・愛憎・性 | 太陽・自然・労働・歴史・老い |
| 代表作 | 病める子供(初版) | 叫び、マドンナ、生命のダンス | 太陽、歴史、壁の前の画家 |
| 背景 | 家族の死、ボヘミアン | ベルリンの知的磁場、精神的危機 | ヤコブソン療養後の再生 |
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 生没年 | 1863年12月12日 – 1944年1月23日(享年80) |
| 出身・没地 | 出身=レテン/没地=オスロ郊外エーケリー |
| 位置づけ | 近代表現主義の先駆者、象徴主義の重要画家 |
| 中心的連作 | 生命のフリーズ(愛・不安・死の主題群) |
| 反復の方法 | 同一主題を油彩・版画で生涯にわたり再制作 |
| 精神的危機 | 1902年 拳銃事件/1908年 コペンハーゲンで療養 |
| 遺贈 | 絵画約1,100点・版画約15,500点・素描約4,700点をオスロ市へ |
| 主な美術館 | ムンク美術館(1963年開館)/オスロ国立美術館 |
REFERENCES / 出典参考文献
所蔵館・研究機関の資料
- Edvard Munch (1863–1944) — Munchmuseet(ムンク美術館 公式) https://www.munch.no/en/edvard-munch/
- Munch Museum: Preserving Edvard Munch’s legacy — Scan Magazine https://scanmagazine.co.uk/munch-museum-preserving-edvard-munchs-legacy-and-norways-cultural-art-heritage/
- Edvard Munch’s Studios, Ekely(エーケリーのアトリエ 公式資料・PDF) https://edvard-munchs-atelier.no/wp-content/uploads/2024/01/Munchs-atelier-hefte-2023-eng-2.pdf
批評・分析・論文
- エドヴァルド・ムンク《叫び》 震える魂(
田中正之 ) — artscape https://artscape.jp/study/art-achive/10150250_1982.html 亀山佑亮 「エドヴァルド・ムンクによる自作《病める子供》の再解釈」 — 美学(J-STAGE) https://www.jstage.jst.go.jp/browse/bigaku/73/0/_contents/-char/ja- 小林明子「エドヴァルド・ムンク 欲望、不安、嫉妬 人間の御し難い心象を表す色彩」 — CiNii Research https://cir.nii.ac.jp/crid/1524232504496448768
- Edvard Munch: the decorative projects(連作・装飾プロジェクト研究) — CiNii Research https://cir.nii.ac.jp/crid/1971993809774590876
参考(日本語)
- 叫び(エドヴァルド・ムンク) — Wikipedia(日本語版) https://ja.wikipedia.org/wiki/叫び_(エドヴァルド・ムンク)
画像(Wikimedia Commons 主要ファイルページ)
- Category:Edvard Munch — Wikimedia Commons https://commons.wikimedia.org/wiki/Category:Edvard_Munch
- File:Edvard Munch, 1893, The Scream … National Gallery of Norway.jpg https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Edvard_Munch,_1893,_The_Scream,_oil,_tempera_and_pastel_on_cardboard,_91_x_73_cm,_National_Gallery_of_Norway.jpg
- File:Edvard Munch – Madonna (1894-1895).jpg https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Edvard_Munch_-_Madonna_(1894-1895).jpg
- File:Munch Det Syke Barn 1885-86.jpg https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Munch_Det_Syke_Barn_1885-86.jpg
- File:Edvard Munch – The Sun – MM.M.00362 – Munch Museum.jpg https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Edvard_Munch_-_The_Sun_-_MM.M.00362_-_Munch_Museum.jpg


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