ムンク 作品

エドヴァルド・ムンクの作品|生命のフリーズと崩れゆく色彩の科学|アーティストの人生
作品象徴主義/表現主義生命のフリーズ油彩・テンペラ・版画
EDVARD MUNCH · WORKS

エドヴァルド・ムンクの作品The Works of Edvard Munch

エドヴァルド・ムンクの作品は、三つの層で読むことができる。第一に、愛・不安・死という人間の普遍的感情を連作として構成した「生命のフリーズ」の思想。第二に、カゼインや蜜蝋みつろうを混ぜたバインダーの実験、キャンバスを屋外に晒すさらす「馬の治療」、版木を切り分けて刷るジグソー技法の木版画といった、破壊的なまでに実験的な物質と技法。そして第三に、シンクロトロンX線分析やGC-MSといった最先端の保存科学が近年明らかにした、彼が用いた合成顔料の化学的な崩壊のメカニズムである。皮肉にも、ムンクが直感的に選んだ不安定な顔料と特異な制作プロセスは、彼が描いた「崩壊していく心理」や「死の不可避性」と、物質のレベルで呼応していた。この記事では、ムンクの作品を主題と技法と科学の三面からたどり、その深層に分け入っていく。

エドヴァルド・ムンク《叫び》1910年頃
《叫び》1910年頃(テンペラ・厚紙)、ムンク美術館蔵。近代人の実存的不安を象徴する連作の頂点であると同時に、保存科学の最前線でもある一枚。首元や空に使われたカドミウムイエローが湿気と塩化物によって硫酸塩へ変質し、白く退色・剥落する深刻な劣化が、シンクロトロンX線分析によって分子レベルで解明された。ムンクの「崩壊の主題」が、絵具そのものの崩壊と呼応する象徴的な作品である。
Edvard Munch, *The Scream*, c.1910 / Munchmuseet, Oslo / Wikimedia Commons, Public Domain
DATA作品データ
主要ジャンル象徴主義・表現主義(心象絵画)
中心的連作生命のフリーズ(愛・不安・死のテーマ別連作)
主な技法油彩、テンペラ、パステル、リトグラフ、木版画、ドライポイント
特異な素材亜麻仁油あまにゆ・スタンドオイルに加え、蜜蝋みつろう・パラフィン・木蝋もくろう・カゼイン・膠にかわ・鶏卵を混合
独自技法「馬の治療(自然暴露)」、ジグソー技法の多色木版画
顔料の課題カドミウムイエローの硫酸塩化、合成ウルトラマリンの金属石鹸きんぞくせっけん形成
代表作叫び/マドンナ/病める子/メランコリー/生命のダンス/太陽
主な所蔵館ノルウェー国立美術館/ムンク美術館/オスロ大学アウラ講堂
3点でわかるエドヴァルド・ムンクの作品
  1. 個々の絵は「生命のフリーズ」という一つの物語の断片である。 ムンクの主要作は、単独の作品ではなく、愛の芽生え・開花・終焉しゅうえん・不安・死という人間の感情の弧を連続的に描く壮大な連作の一部として構想された。エロス(生と性)とタナトス(死)が不可分に結びつく彼の世界観が、各作品を貫いている。
  2. 彼は素材と技法を破壊的なまでに実験した。 カゼインや蜜蝋みつろうを混ぜた独自のバインダーでマットな質感を追求し、完成したキャンバスを雨風に晒すさらす「馬の治療」を実践し、版木を糸鋸いとのこで切り分けて刷るジグソー技法の木版画を発明した。技法そのものが、心理的な断絶や自然との共作という思想の表現だった。
  3. 最先端の科学が、崩れゆく色彩の謎を解いている。 シンクロトロンX線分析は、《叫び》のカドミウムイエローが湿気と塩化物で硫酸塩へ変質する劣化メカニズムを解明した。合成ウルトラマリンには金属石鹸きんぞくせっけんが形成される。ムンクが選んだ不安定な顔料は、彼の「崩壊の主題」と物質のレベルで呼応している。
WORKS

エドヴァルド・ムンクの作品を読む

ムンクの作品を前にすると、われわれはまず、そこに渦巻く感情の強度に打たれる。しかしその強度は、単なる激情の吐露ではない。愛・不安・死を連ねる緻密な連作の構想、素材と技法への実験的な探求、そして──本人も予期しなかったかたちで──合成顔料の化学的な不安定さ。これらが折り重なって、あの生々しい画面は成り立っている。本記事は、ムンクの作品を、主題(心理)・技法(物質)・科学(保存)の三つの視点から読み解いていく。まず、彼の全作品を貫く「生命のフリーズ」という構想から始めよう。

連作の構想THE FRIEZE OF LIFE01

生命のフリーズ ── 感情の連作

エドヴァルド・ムンクの芸術的探求の中心には、「生命のフリーズ(The Frieze of Life/ノルウェー語:Livsfrisen)」と呼ばれる一連の作品群の構想がある。これは単一の絵画を指すのではなく、1890年代から1910年代にかけて断続的に制作された、愛・不安・恐怖・死といった人間の普遍的感情を網羅する、テーマ別の連作である。ムンクは、個々の絵を独立した作品としてではなく、人生の循環的な性質と、それに伴う感情の起伏を連続的な物語として提示する、一つの壮大なシステムの部分として構想した。

「生命のフリーズ」は、一般に「愛の芽生え」「愛の開花と終焉しゅうえん」「不安」「死」という四つの主要なテーマ的セクションに分類して論じられる。愛の芽生えと開花を扱うセクションには《声》や《接吻せっぷん》が、愛の終焉とファム・ファタールのテーマには《灰》《マドンナ》《吸血鬼》が、不安には《叫び》が、そして死には《病める子》が配置される。これらの作品を一つの空間に並べて展示することで、ムンクは鑑賞者を、人間が生まれてから死ぬまでにたどる感情の弧の中へと導こうとした。

《接吻》1897年頃、ムンク美術館蔵
《接吻》1897年頃、ムンク美術館蔵《接吻》1897年頃、ムンク美術館蔵。抱き合う二人の顔が完全に溶け合い、個人の境界線が消失している。肉体を超えた魂の結合を象徴すると同時に、自己が他者へと吸収されていくことへの潜在的な不安(自我喪失の恐怖)をも示唆する。「生命のフリーズ」の「愛の芽生え」を代表する一枚。Edvard Munch, *The Kiss*, c.1897 / Munchmuseet, Oslo / Google Art Project via Wikimedia Commons, Public Domain

重要なのは、この連作が、ムンク個人のトラウマ的経験を、普遍的な人間の実存的危機へと昇華させたものだという点である。母と姉の死、破滅的な恋愛、精神の危機──それらの私的な体験を、彼は誰もが共有しうる感情の型へと翻訳した。「生命のフリーズ」は、ヴィクトリア朝期の価値観から20世紀の近代的な不安へと移行するヨーロッパ社会の精神的変容を、如実に反映している。以下の章では、この連作を構成する主要な主題を、一つずつたどっていく。

愛とエロスEROS & THANATOS02

愛の主題 ── エロスとタナトスの融合

ムンクにとって、愛は決して安らかなものではなかった。彼の描く愛の主題には、生と性の歓喜(エロス)と、死の影(タナトス)が、常に分かちがたく結びついている。この融合を最も濃密に体現するのが《マドンナ》である。

《マドンナ》において、ムンクは法悦に浸る官能的な裸婦を描いた。目を閉じ、身をのけぞらせる女性は、「聖母」の名を冠しながら、性的な陶酔のただなかにある。しかも版画版では、画面の縁を、精子のような形象と、骸骨のような胎児のモチーフが取り囲んでいる。生命が受胎する、まさにその瞬間に、すでに死の影が忍び込んでいる──ムンクは、愛の絶頂を、生と死が交差する一点として描いた。エロスとタナトスの不可分性という、彼の世界観の核心が、ここに視覚化されている。

《マドンナ》1895–1902年頃(カラーリトグラフ)
《マドンナ》1895–1902年頃(カラーリトグラフ)《マドンナ》1895–1902年頃(カラーリトグラフ)。法悦に浸る官能的な女性の周囲を、精子のような形象と骸骨のような胎児が取り囲む。受胎の瞬間に死の影が忍び込む、エロス(生と性)とタナトス(死)の融合が、版画の縁取りによって明示されている。Edvard Munch, *Madonna*, 1895–1902 / 写真:Dr. Alexey Yakovlev/Wikimedia Commons, Public Domain/CC BY-SA 2.0

このような女性像には、ヴィクトリア朝期の家父長制社会が抱いていた、「有能で自立した女性」に対する男性の無意識の恐怖が投影されているとも指摘される。ムンクの描く女性は、しばしば男性を破滅へと導く絶対的な力を持つ存在として立ち現れる。これは、当時流行したブラム・ストーカーの『吸血鬼ドラキュラ』における女吸血鬼の、性的自己主張と有能さの二面性に対する社会的不安と同根であり、ジークムント・フロイトの精神分析的な図式とも深く共鳴する。男性は自らの欲望に溺れることで、家父長制の基盤である自己統制力を失う恐怖に直面する──ムンクの愛の絵は、その心理的なドラマの記録なのである。

ファム・ファタールTHE FEMME FATALE03

ファム・ファタール ── 愛の終焉しゅうえん

「生命のフリーズ」の「愛の終焉」を扱うセクションでは、愛の破滅的な側面が前面に出てくる。その象徴が、《吸血鬼》と《灰》である。

《吸血鬼》では、赤い髪の女性が、うなだれる男性の首筋に顔を寄せる。一見すると慰めの抱擁のようだが、女性が男の首に噛みついてかみついているようにも見えるため、後に「吸血鬼」の題で知られるようになった。女性の赤い髪は男の身体に覆いかぶさり、逃れられない束縛のように広がる。愛が持つ自己犠牲と破滅の二面性、慰めと支配の境界の曖昧さが、ここに凝縮されている。男性を包み込むその姿は、優しさとも捕食ともつかない。

《吸血鬼》1895年、ムンク美術館蔵
《吸血鬼》1895年、ムンク美術館蔵《吸血鬼》1895年、ムンク美術館蔵。赤い髪の女性がうなだれる男の首筋に顔を寄せる。慰めの抱擁とも、首に噛みつく吸血とも見える構図が、愛のもつ自己犠牲と破滅の二面性を暗示する。「愛の終焉」を象徴する作品。Edvard Munch, *Vampire*, 1895 / Munchmuseet, Oslo / Google Art Project via Wikimedia Commons, Public Domain
《灰》1895年、ノルウェー国立美術館蔵
《灰》1895年、ノルウェー国立美術館蔵《灰》1895年、ノルウェー国立美術館蔵。森を背景に、乱れた白い衣の女性と、絶望してうずくまる男性。情熱が燃え尽きた後の冷たい空虚を、「灰」という題が指し示す。愛の下降の弧の終点を描く。Edvard Munch, *Ashes*, 1895 / Nasjonalmuseet, Oslo / Wikimedia Commons, Public Domain

一方《灰》は、愛が燃え尽きた後の情景を描く。森を背景に、乱れた白い衣の女性が両手で頭を抱えて正面を向き、その傍らで男性が絶望したようにうずくまる。二人のあいだにはもはや交わりはなく、情熱が燃え尽きた後の冷たい空虚だけが漂う。タイトルの「灰」は、かつて燃え上がった愛の残骸を指している。ムンクにとって、愛の物語は常に喪失によって閉じられた。歓喜から破滅へ、結合から離別へ。彼が繰り返し描いたこの下降の弧は、感傷ではなく、人間関係の避けがたい真実として提示されている。その容赦のなさこそが、ムンクの作品に、慰めではない手応えを与えているのである。

不安ANXIETY / THE SCREAM04

不安の主題 ── 叫び

「生命のフリーズ」の「不安」のセクションの頂点に位置し、そして世界で最も知られた近代絵画の一つとなったのが《叫び》である。この作品は、ムンク自身が体験した幻覚的なエピソードに基づいている。彼は日記に、友人二人と夕暮れのフィヨルド沿いの道を歩いていたとき、突然、空が血のように赤く染まり、「自然界を貫く果てしない叫び」を感じたと記した。疲労と不安に立ちすくむ彼の傍らを、友人たちは何も気づかず歩き去っていく。

《叫び》の画面では、外部世界の写実的な描写が完全に放棄されている。うねるように歪むゆがむ線と、血のように赤い空。手前に立つ、性別も年齢も定かでない人物は、頭蓋骨のような顔で耳を塞ぎ、口を開いている。ここで描かれているのは、風景ではなく、パニックという内面の感情そのものである。風景の線は人物の内なる震えと共鳴し、空の赤は恐怖の色として塗られる。ムンクは、近代人が抱える名状しがたい実存的な不安と疎外感を、形態と色彩そのものによって物質化した。

《叫び》1895年(リトグラフ)
《叫び》1895年(リトグラフ)《叫び》1895年(リトグラフ)。油彩・テンペラ版の色彩を白黒の線描に還元した版画版。画面下部にはムンク自身の手で「私は自然を貫く大きな叫びを感じた」という一文が刻まれている。複製によってイメージを流布させ、不安の構造をむき出しに提示する。Edvard Munch, *The Scream* (lithograph), 1895 / Wikimedia Commons, Public Domain

特筆すべきは、ムンクがこの主題を、油彩・テンペラだけでなく、パステルやリトグラフといった複数の技法で繰り返し制作したことである。とりわけ1895年のリトグラフ版は、《叫び》のイメージを白と黒の線だけに還元し、版画として複製・流布させることを可能にした。画面の下部には、ムンク自身の手で「Ich fühlte das grosse Geschrei durch die Natur(私は自然を貫く大きな叫びを感じた)」という一文が刻まれている。色彩を失ってもなお、あるいは色彩を失ったからこそ、この線描版は不安の構造をむき出しに提示する。反復と複製もまた、ムンクにとって、感情を普遍化するための手段だった。

風景と記号LANDSCAPE AS INDEX05

記号としての風景

ムンクの作品において、風景は決して単なる背景ではない。それは、人物の内面的な精神状態を視覚化する「記号的指標(インデックス)」として機能する。哲学的・美術的な分析が指摘するように、彼の描く海岸線や森は、物理的な地形の描写であると同時に、心理の流動性を具現化する装置なのである。

その典型が《メランコリー》である。海辺で失恋の痛手に沈む人物を描いたこの作品では、波打つ海岸線が大きくうねりながら画面奥へと後退していく。この曲線は、実際の地形を写したものであると同時に、「境界の標識」として機能している。現世と彼岸を分け隔てる線であり、対象者の心に渦巻く精神的緊張と不安の流動性を具現化する線でもある。人物のうつむいた姿勢と、うねる海岸線とが呼応し、風景全体が一人の人間の憂鬱を反響させる。

《メランコリー》1894–96年頃
《メランコリー》1894–96年頃《メランコリー》1894–96年頃。海辺でうつむく人物と、大きくうねって奥へ後退する海岸線。この曲線は地形の描写であると同時に、現世と彼岸を分ける「境界の標識」として、心の緊張と不安の流動性を具現化している。Edvard Munch, *Melancholy*, 1894–96 / Wikimedia Commons, Public Domain
《離別》1896年、ムンク美術館蔵
《離別》1896年、ムンク美術館蔵《離別》1896年、ムンク美術館蔵。去りゆく白い衣の女性と、胸を押さえる男性。女性の長い髪が男性の心臓へと糸のように伸び、別離という心理的出来事が画面上の線の力学として表現されている。Edvard Munch, *Separation*, 1896 / Munchmuseet, Oslo / Google Art Project via Wikimedia Commons, Public Domain

同じ原理は《離別》にも見られる。去りゆく白い衣の女性と、胸を押さえてうなだれる男性。二人を隔てる空間には、やはり流れるような曲線が走り、女性の長い髪が男性の心臓へと糸のように伸びている。別離という心理的な出来事が、画面上の線の力学として表現されているのだ。ムンクにとって絵画とは、人物と風景を対等な「記号」として配置し、その関係の総体によって内面を語る言語だった。風景を読むことは、そのまま心理を読むことなのである。

死と反復DEATH & REPETITION06

死の主題 ── 病める子と反復

「生命のフリーズ」の「死」のセクションの根底には、ムンク自身の強烈なトラウマがある。幼少期に母と姉を結核で亡くしたこの体験は、《病める子》や《死の床のそばで》といった作品に、直接的に表象されている。これらの作品では、死の不可避性と、残された者の抗いようのない悲哀が、極めて内省的に描かれている。

最も重要なのが《病める子》である。結核で世を去った姉ソフィエの死の記憶を扱ったこの作品を、ムンクは対象の物理的な正確さではなく、悲痛な感情そのものをカンヴァスに定着させるために描いた。だが真に特筆すべきは、彼が生涯にわたってこの構図を反復し続けたことである。1885–86年の最初の油彩に始まり、1896年のリトグラフや油彩、1907年、1925年、1927年と、彼は同じ主題を、異なる技法とバリエーションで幾度も制作した。

《病める子 I》1896年(リトグラフ)
《病める子 I》1896年(リトグラフ)《病める子 I》1896年(リトグラフ)。1885–86年の最初の油彩を、版画として再制作したバージョン。ムンクは姉の死を主題とするこの構図を、油彩・リトグラフで生涯にわたり反復した。反復は、トラウマの記憶に抗い、それを自己治癒へと昇華させる儀式的な実践だった。Edvard Munch, *The Sick Child I* (lithograph), 1896 / 写真:Dr. Alexey Yakovlev/Wikimedia Commons, Public Domain/CC BY-SA 2.0

美学研究が示唆するように、この自己模倣とも言える反復は、アイデアの枯渇や商業的な要請によるものではない。それは、トラウマ的な記憶の風化に抗い、自己の原点を再確認し、芸術を通じて過去の喪失を自己治癒へと昇華させるための、意識的で儀式的な実践だった。精神分析の対象関係論の観点からは、母と姉の死による初期の喪失体験が引き起こした強烈な不安と緊張を、ムンクは芸術的昇華によって統制しており、その心理的防衛機制こそが彼の旺盛な創作の原動力だったと解釈される。同じ絵を描き直すたびに、彼は過去の傷にもう一度触れ、そのつど少しだけ、それを生き延びる。反復は、ムンクにとって、生きるための方法だったのである。

素材と技法BINDERS & MATERIALS07

革新的マテリアル ── バインダーの実験

ムンクの先駆性は、心理描写の深さだけにあるのではない。彼の斬新な素材使いと物理的な技法もまた、当時としてはきわめて実験的だった。彼はキャンバス上で、多様な結合材(バインダー)と顔料を混合して用いる実験を、繰り返し行っている。

近年のガスクロマトグラフィー質量分析(GC-MS)やフーリエ変換赤外分光法(FTIR)による調査から、ムンクの作品からは、驚くほど多岐にわたるバインダーが検出されている。亜麻仁油あまにゆやスタンドオイルといった乾性油に加えて、蜜蝋みつろう、パラフィンワックス、木蝋もくろう(ジャパンワックス)、さらにはカゼイン(乳タンパク質)、動物膠どうぶつにかわ、鶏卵まで。彼は一つの標準的な技法に縛られることなく、求める表現に応じて素材を自在に調合した。

《ハンス・イェーゲルの肖像》1889年、ノルウェー国立美術館蔵
《ハンス・イェーゲルの肖像》1889年、ノルウェー国立美術館蔵《ハンス・イェーゲルの肖像》1889年、ノルウェー国立美術館蔵。クリスチャニア・ボヘミアンの思想的支柱だった作家を描く。初期のこの油彩から、ムンクは薄く溶いた絵具でマットな質感を探求していた。後年の多様なバインダー実験へと連なる、素材への関心の出発点を示す一枚。Edvard Munch, *Hans Jæger*, 1889 / Nasjonalmuseet, Oslo / Wikimedia Commons, Public Domain

とりわけ特徴的なのが、未加工の綿やリネンのキャンバスに直接描画し、絵具をテレビン油で極度に薄める手法である。これにより顔料はキャンバスに染み込み、フレスコ画のような艶消しの質感(マット仕上げ)が達成される。ムンクの死後、彼のスタジオからは、チューブ絵具や顔料のほかに、カゼイン水溶液のボトルが複数発見されており、彼が意図的にカゼインをバインダーとして調合し、独自のマットな表面効果を生み出していたことが裏づけられている。この、光を吸い込むような艶のない画面こそ、ムンク作品の視覚的な質感を決定づけている。ただし、この低濃度のバインダーと高い顔料体積濃度の組み合わせは、絵具層の多孔性を高め、皮肉にも、後年の剥落や劣化を招く大きな要因ともなった。表現のための選択が、そのまま脆さもろさの原因になっている。

自然暴露THE HORSE CURE08

「馬の治療」── 自然暴露と劣化

ムンクの素材への態度を最も鮮烈に示すのが、彼が「馬の治療(hestekur)」と呼んで実践した、特異なプロセスである。彼は、完成したキャンバスを屋外に持ち出し、長期間にわたって雨風や雪に直接晒したさらした。自然による意図的な風化や物理的なダメージを、作品の完成プロセス、あるいは自然との共作の一部と見なしていたのである。

この結果、彼の野外スケッチや一部のキャンバスには、水ジミ、苔こけ、木の葉、鳥やネズミの糞ふん、昆虫の死骸などが付着することになった。ムンクにとって、これらは作品の汚損ではなく、絵が自然の一部として生きた証だった。人工的に保護された美術品ではなく、時間と天候に晒されて変化していく生き物として、彼は自分の絵を扱った。この思想は、崩壊や死を主題とした彼の作品世界と、深く響き合っている。

《生命のダンス》1899–1900年、ノルウェー国立美術館蔵
《生命のダンス》1899–1900年、ノルウェー国立美術館蔵《生命のダンス》1899–1900年、ノルウェー国立美術館蔵。大画面のキャンバスに、薄く溶いた絵具でマットな質感を追求した作例。ムンクはこうした大作を含め、キャンバスを屋外に晒す「馬の治療」を実践し、自然による変化を作品の一部として受け入れた。その思想が、後年の保存科学に難問を残している。Edvard Munch, *The Dance of Life*, 1899–1900 / Nasjonalmuseet, Oslo / Wikimedia Commons, Public Domain

しかし、この「馬の治療」は、現代の保存科学に困難な問いを突きつける。微生物学的な分析によれば、ムンクのキャンバスからは6種類もの異なるカビ(真菌)の胞子が特定され、キャンバス繊維は酸性化してセルロースの劣化が進行していた。さらに、カゼインをバインダーとする作品では、カゼインを栄養源とするタンパク質分解性の細菌が繁殖し、絵具層の構造的破壊を加速させていることも判明している。ここで修復家は、深刻なジレンマに直面する。どこまでが「アーティストの意図的なプロセス」であり、どこからが「除去・修復すべき劣化」なのか。ムンク自身が劣化を作品の一部として受け入れていた以上、それを「修復」して取り除くことは、彼の芸術的意図に反するのではないか──「馬の治療」は、作品とは何か、保存とは何かという根本的な問いを、今日なお投げかけ続けている。

版画の革新THE JIGSAW TECHNIQUE09

ジグソー技法 ── 木版画の革新

ムンクの実験精神は、版画の領域で最も体系的な革新へと結実した。「ジグソー技法(パズル技法)」と呼ばれる、独自の多色刷り木版画の手法である。1894年以降ベルリンで版画制作を始めたムンクは、ドライポイント、エッチング、リトグラフ、木版画とあらゆる技法を習得したが、なかでもこのジグソー技法による木版画こそが、彼の表現主義的な内面描写を最も直接的に体現するメディアとなった。

通常の多色刷り木版画では、浮世絵のように、色ごとに異なる版木を緻密に彫り分け、順に重ね刷りを行う。しかしムンクの方法は根本的に異なっていた。彼は糸鋸いとのこ(ジグソー)を用いて、一枚の版木をモチーフ(たとえば人物と背景)ごとに物理的に切り離す。そして分割されたそれぞれのピースに異なる色のインクを乗せた後、再びパズルのように組み合わせ、一度にプレス機へ通して刷り上げる。一枚の版木が、切り分けられ、彩色され、組み直される。この手法は、複数の版木を精密に重ねる伝統的な労力を省くと同時に、まったく新しい視覚効果を生み出した。

《接吻 IV(Kiss IV)》1902年(木版)
《接吻せっぷん IV(Kiss IV)》1902年(木版)《接吻 IV(Kiss IV)》1902年(木版)。ムンク美術館蔵。版木を切り分けて刷る木版表現を確認できる作例で、色面と輪郭の分断が人物同士の心理的な隔たりを強調する。ジグソー技法を扱う本章の内容に直接対応する図版として採用した。Edvard Munch, Kiss IV, 1902, woodcut / Munchmuseet, Oslo / Google Art Project via Wikimedia Commons, Public Domain

その効果とは、色と色の境界に生じる、版木の切断面による特有の白い隙間(余白の線)である。ムンクは、この物理的な隙間を、単なる技法上の副産物として放置しなかった。彼はそれを、登場人物間の心理的な断絶、孤独感、あるいは自己と外界との隔絶を強調する、視覚的表現として意図的に利用した。人物と背景を隔てる白い線は、二人の人間が同じ画面にいながら決して交わらないという、ムンク的な孤独そのものを可視化する。技法上の必然が、そのまま主題の表現になる──ジグソー技法は、ムンクにおいて素材と意味が完全に一致した、稀有けうな達成だった。

保存科学THE SCIENCE OF COLOUR10

色彩の科学 ── 崩れゆく叫び

ムンクが多用した19世紀後半の新しい合成顔料は、彼の求める強烈な色彩を可能にした一方で、化学的にはきわめて不安定だった。近年、シンクロトロン放射光を用いた最先端の分析が、これらの顔料が引き起こす劣化のメカニズムを、分子・原子レベルで詳細に解明している。

その最大の焦点が、ムンク美術館所蔵の1910年頃の《叫び》である。中央の人物の首元、背景の湖、夕暮れの空に使われたカドミウムイエロー(硫化カドミウム)が、白っぽく退色し、絵具が剥落する深刻な劣化に見舞われていた。イタリア学術会議やアントワープ大学、欧州シンクロトロン放射光研究所(ESRF)らの国際研究チームは、非破壊のマイクロX線分析を実施し、その原因を突き止めた。鮮やかな黄色の硫化カドミウムが、絵具層に含まれる塩化物化合物の存在下で酸化し、無色の硫酸カドミウムへと変質していたのである。しかも決定的だったのは、この反応が、光の当たらない暗所であっても、相対湿度95%以上の高湿度環境であれば進行するという発見だった。この事実は、《叫び》が2004年に強奪され、約2年間にわたって劣悪な環境に隠匿されていたという事件と符合する。その期間の高湿度が、化学的変質を致命的に加速させたと結論づけられた。現在、ムンク美術館では、この作品の展示・保管の相対湿度を45%以下に厳密に管理することが、これ以上の劣化を防ぐ必須条件とされている。

《太陽(The Sun)》1910–13年、ムンク美術館蔵(油彩・カンヴァス)
《太陽(The Sun)》1910–13年、ムンク美術館蔵(油彩・カンヴァス)《太陽(The Sun)》1910–13年、ムンク美術館蔵(油彩・カンヴァス)。オスロ大学アウラ講堂の《太陽》と同主題の作品で、ムンクが大画面で追求した強烈な光と色彩を示す。アウラ壁画群の保存研究を扱う本章と対応する図版である。Edvard Munch, The Sun, 1910–13 / Munchmuseet, Oslo / Wikimedia Commons, Public Domain

顔料の崩壊は、黄色だけにとどまらない。ムンクが用いた合成ウルトラマリンブルーの絵具層からは、顔料中の金属イオンと結合材の遊離脂肪酸が反応して生成される「金属石鹸きんぞくせっけん」が広範に検出されている。金属石鹸は、絵画表面に白い塊を突出させ、絵具層を脆くもろくする。さらに、ムンクが1909年から1916年にかけてオスロ大学アウラ講堂のために制作した《太陽》《母校》《歴史》を含む巨大な壁画群は、長年の大気汚染で表面に重度の汚れが蓄積していた。これに対し、非破壊分析を駆使した「ムンク・アウラ絵画プロジェクト(MAP)」が、絵具層を傷つけない最適なクリーニング手法を模索している。これらの科学的知見が浮かび上がらせるのは、一つの皮肉である。ムンクが直感的に選び取った合成顔料の不安定さと特異な制作プロセスが、彼の描いた「崩壊していく人間の心理」や「死の不可避性」と、物質のレベルで呼応しているという事実だ。ムンクの芸術は、美術史・心理学と、マテリアルサイエンスが交差する学際的な領域において、今なお新たな洞察をもたらし続けている。

LIST / 一覧主要作品一覧

本記事で扱った作品を中心に、公的機関のオープンアクセス等で高解像度画像が公開されている代表作を一覧化した。所蔵・提供元は主要な公開先の一例であり、同一主題が複数のバージョン・技法で存在する場合が多い。制作年には諸説がある。

#作品名制作年技法・素材特記事項所蔵・公開
01叫び(The Scream)1893油彩・テンペラ・パステル(厚紙)実存的不安の象徴。国立美術館版ノルウェー国立美術館
02叫び(The Scream)1910年頃テンペラ(厚紙)カドミウムイエローの劣化研究の対象ムンク美術館
03叫び(The Scream)1895リトグラフ白黒線描の版画版、複製・流布各所
04マドンナ(Madonna)1894–95/1895–1902油彩/カラーリトグラフエロスとタナトスの融合、胎児の縁取りノルウェー国立美術館ほか
05接吻せっぷん(The Kiss)1897頃油彩/木版画ほか溶け合う顔。ジグソー木版でも制作ムンク美術館ほか
06吸血鬼(Vampire)1895油彩愛の自己犠牲と破滅の二面性ムンク美術館
07灰(Ashes)1895油彩燃え尽きた愛の空虚ノルウェー国立美術館
08メランコリー(Melancholy)1894–96頃油彩記号としての波打つ海岸線各所
09離別(Separation)1896油彩髪が糸のように伸びる別離ムンク美術館
10病める子(The Sick Child)1885–86/1896ほか油彩/リトグラフ姉の死の反復的再制作ノルウェー国立美術館ほか
11生命のダンス(The Dance of Life)1899–1900油彩愛の三段階を一画面にノルウェー国立美術館
12ハンス・イェーゲルの肖像1889油彩ボヘミアンの支柱、初期の油彩ノルウェー国立美術館
13太陽(The Sun)1909–16油彩(カゼイン等)アウラ壁画、保存研究の対象オスロ大学アウラ/ムンク美術館

作品を成り立たせた実験的な技法

項目内容作品への効果・帰結
バインダー混合乾性油に蜜蝋みつろう・パラフィン・木蝋もくろう・カゼイン・膠にかわ・鶏卵を併用多彩な質感。GC-MS/FTIRで検出
マット仕上げ未加工キャンバスにテレビンで薄めた絵具を染み込ませるフレスコ画のような艶消し/多孔性による脆化ぜいか
馬の治療(Hestekur)完成キャンバスを屋外で雨風・雪に晒すさらす自然との共作/カビ・細菌・酸性化による劣化
ジグソー技法版木を糸鋸いとのこで切り分け、彩色して組み直し一度に刷る色の境界の白い隙間=心理的断絶の表現
版画の多用リトグラフ・木版・ドライポイント・エッチング主題の反復・複製・普遍化

崩れゆく色彩の科学

顔料・対象劣化の内容解明した手法・要因
カドミウムイエロー(叫び1910)硫化カドミウムが硫酸カドミウムへ変質、白色化・剥落µ-XRD/µ-XANES。湿度95%以上と塩化物が要因
カドミウムイエロー(一般)焼成不足由来のナノ結晶相の表面欠陥が光腐食を誘発時間分解フォトルミネッセンス(PL)イメージング
合成ウルトラマリン金属石鹸きんぞくせっけんの形成、白華はっか・脆化金属イオンと遊離脂肪酸の反応を分析
アウラ壁画大気汚染による表面の重度の汚れFTIR・ハイパースペクトル(MAPプロジェクト)
保管環境の指針叫び(1910)は相対湿度45%以下で管理高湿度が暗所でも劣化を進行させるため
図版クレジット一覧

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#使用章種別Commons ファイル名内容
01ヒーロー作品File:Edvard Munch – The Scream, 1910 (Munch Museum).jpg《叫び》1910年頃(テンペラ)
02w1作品File:Edvard Munch – The Kiss – Google Art Project.jpg《接吻せっぷん》1897年頃(油彩)
03w2作品File:Edvard Munch. Madonna (1895–1902) (24664883709).jpg《マドンナ》1895–1902年(リトグラフ)
04w3作品File:Edvard Munch – Vampire (1895) – Google Art Project.jpg《吸血鬼》1895年
05w3作品File:Edvard Munch – Ashes (1895).jpg《灰》1895年
06w4作品File:Munch The Scream lithography.png《叫び》1895年(リトグラフ)
07w5作品File:Edvard Munch – Melancholy (1894-96).jpg《メランコリー》1894–96年
08w5作品File:Edvard Munch – Separation – Google Art Project.jpg《離別》1896年
09w6作品File:Edvard Munch. The Sick Child I (Det syke barn I). 1896 — Lithograph (25075586795).jpg《病める子 I》1896年(リトグラフ)
10w7作品File:EdvardMunchHansJæger1889.jpg《ハンス・イェーゲルの肖像》1889年
11w8作品File:Edvard Munch – The dance of life (1899-1900).jpg《生命のダンス》1899–1900年
12w9作品(版画)File:Edvard Munch – Kiss IV – Google Art Project.jpg《接吻 IV》1902年(木版)
13w10作品File:Edvard Munch – The Sun – MM.M.00362 – Munch Museum.jpg《太陽》(アウラ壁画)

REFERENCES / 出典参考文献

作品・主題の分析研究

  • “The Frieze of Life” by Edvard Munch: Philosophical and Art Analysis(Seredkina & Kistova, 2019) — ResearchGate https://www.researchgate.net/publication/337189317_The_Frieze_of_Life_by_Edvard_Munch_Philosophical_and_Art_Analysis
  • The Frieze of Life by Edvard Munch — DailyArt Magazine https://www.dailyartmagazine.com/edvard-munch-and-the-frieze-of-life/
  • 亀山佑亮かめやまゆうすけ「エドヴァルド・ムンクによる自作《病める子供》の再解釈」 — 美学(J-STAGE) https://www.jstage.jst.go.jp/browse/bigaku/73/0/_contents/-char/ja
  • Edvard Munch, The Scream — Nasjonalmuseet(Collection) https://www.nasjonalmuseet.no/en/collection/object/NG.M.00939

技法・素材・版画

  • Investigation of Materials Used by Edvard Munch(Singer et al., 2010) — ResearchGate https://www.researchgate.net/publication/272309159_Investigation_of_Materials_Used_by_Edvard_Munch
  • Biodeterioration in art: a case study of Munch’s paintings(PDF) — Universidade de Évora https://dspace.uevora.pt/rdpc/bitstream/10174/31936/1/8d35584f-1d27-4064-82c0-cd6d045f0a7b.pdf
  • Edvard Munch’s Groundbreaking Contribution to Printmaking — Ningyo Prints https://ningyoprints.wordpress.com/2013/09/02/edvard-munchs-groundbreaking-contribution-to-printmaking/

保存科学(顔料劣化)

  • A two-length scale spectroscopic approach … CdS paints in The Scream(Monico et al., 2020) — PMC https://pmc.ncbi.nlm.nih.gov/articles/PMC7228759/
  • Researchers find the key to preserving The Scream — ESRF https://www.esrf.fr/home/news/general/content-news/general/researchers-find-the-key-to-preserving-the-scream.html
  • The Scream by E. Munch — 1910 version — University of Antwerp https://www.uantwerpen.be/en/projects/the-scream-munch/
  • Ultramarine Blue in Edvard Munch’s Collection: A Multi-Analytical Study — Heritage (MDPI) https://www.mdpi.com/2571-9408/7/8/190
  • The Munch Aula Paintings project (MAP) — University of Oslo https://www.uio.no/english/about/culture/collection/aula/aula-project/

画像(Wikimedia Commons 主要ファイルページ)

  • Category:Edvard Munch — Wikimedia Commons https://commons.wikimedia.org/wiki/Category:Edvard_Munch
  • Category:Woodcuts by Edvard Munch — Wikimedia Commons https://commons.wikimedia.org/wiki/Category:Woodcuts_by_Edvard_Munch
  • File:Edvard Munch – The Scream, 1910 (Munch Museum).jpg https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Edvard_Munch_-_The_Scream,_1910_(Munch_Museum).jpg
  • File:Edvard Munch – The Kiss – Google Art Project.jpg https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Edvard_Munch_-_The_Kiss_-_Google_Art_Project.jpg
最終更新:2026年8月28日

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