ミケランジェロの生涯Michelangelo di Lodovico Buonarroti Simoni (1475–1564)
ミケランジェロ・ブオナローティは88年生きた。同時代のレオナルド・ダ・ヴィンチが67年、ラファエロが37年で世を去っていることを思えば、彼は二人分の時間を働いたことになる。しかもその長さのなかで、彼は彫刻、絵画、建築、詩という四つの領域に手を伸ばし、そのいずれでも当時の常識を作り替えた。ただし本人は一貫して自分を「彫刻家」だと名乗り続けている。天井画を描いていたときも、大聖堂を設計していたときも、署名は「彫刻家ミケランジェロ」だった。この記事では、その長い生涯を13章に分けてたどる。

Daniele da Volterra, *Portrait of Michelangelo*, c. 1545 / Wikimedia Commons, Public Domain
- 彼は「彫る」ことを、余分を取り除く作業だと考えていた。 大理石の塊のなかにすでに形は存在していて、彫刻家はそれを解放するだけだという考え方である。この定義は、単なる比喩ではなく制作方法そのものだった。彼は正面から掘り進める手法をとり、水面から像が浮かび上がるように形を出していった。未完成のまま残された作品群(ノン・フィニート)は、その過程が途中で止まった標本として、19世紀のロダン以降の彫刻家に決定的な影響を与えた。
- 生涯の大半は「注文主との紛争」でできている。 ユリウス2世の墓廟は約40年間かけて縮小と中断を繰り返し、本人が「墓廟の悲劇」と呼ぶ苦難になった。サン・ロレンツォ聖堂のファサードは着工されず、『カッシーナの戦い』は下絵だけで終わった。彼の代表作の多くは、当初の計画の残骸である。
- 88年という長さが、彼を二つの時代にまたがらせた。 前半は盛期ルネサンスの調和の時代であり、後半は1527年のローマ劫掠と宗教改革によって秩序が崩れた時代である。『ダヴィデ』の静かな緊張と、『最後の審判』の300体の渦巻く肉体のあいだには、約35年と、ヨーロッパ精神史の断層が横たわっている。
ミケランジェロの生涯
ミケランジェロの生涯は、フィレンツェとローマのあいだを何度も往復する線として描ける。少年期と青年期のフィレンツェ、20代のローマ、30代でふたたびローマ、40代から50代のフィレンツェ、そして59歳以降は死ぬまでローマ。移動のたびに政変があり、庇護者が変わり、進行中の仕事が中断された。以下の13章では、その中断の連鎖をたどりながら、そのあいだに何が生まれたのかを見ていく。制作年には研究者によって幅があるため、通説的な範囲を示している。
カプレーゼの生まれ、セッティニャーノの石
ミケランジェロは1475年3月6日、フィレンツェ共和国領の寒村カプレーゼ(現在のカプレーゼ・ミケランジェロ)で生まれた。父ロドヴィーコ・ディ・レオナルド・ブオナローティ・シモーニは、この村とキウージの行政長官(ポデスタ)を務める下級官吏で、家は没落しつつある古い家柄だった。任期はごく短く、一家はまもなくフィレンツェへ戻っている。
彼の幼少期を語るうえで、伝記作者たちが必ず持ち出すのがセッティニャーノである。フィレンツェ近郊のこの村は石切り場の町で、乳母の実家は石工の家だった。乳離れするまでの時期をここで過ごしたミケランジェロは、のちにヴァザーリに向かって、母の乳とともに槌と鑿を吸い込んだのだ、という意味のことを語ったと伝えられる。運命論めいた逸話だが、少なくとも彼の身体が石を扱う環境のなかで育ったことは事実である。
父は息子が芸術家になることに反対した。当時のフィレンツェで、絵画や彫刻は依然として手を汚す職人の仕事であり、官吏の家柄からすれば階級的な下降を意味したからである。この反対は、ミケランジェロが生涯にわたって自分の家柄と社会的地位に神経質であり続けた背景として、しばしば指摘される。彼は後年、成功したあとも一族の土地を買い戻し、ブオナローティ家の名誉回復に執着した。
15世紀後半のフィレンツェは、商人・銀行家として台頭したメディチ家が事実上の支配権を握り、政治、商業、文化の中心として繁栄を極めていた。人文主義の学問が集まり、古典古代を源泉とする芸術が飛躍的に発展していた。この街の空気のなかに、13歳の少年が入っていく。
ギルランダイオ工房とメディチの庭 ── 13歳の徒弟から食卓へ
1487年から翌年にかけて、13歳のミケランジェロは当時フィレンツェで最も繁盛していた画家ドメニコ・ギルランダイオの工房に徒弟として入る。契約書が残っており、この時点で彼が報酬を受け取る立場にあったことがわかっている。ギルランダイオはサンタ・マリア・ノヴェッラ聖堂の大規模なフレスコ連作を手がけていた最中で、少年は本格的な壁画の現場を最初から見ることになった。
しかし彼が本当に学んだのは、絵ではなく彫刻だった。1489年頃、彼はサン・マルコ広場にあったメディチ家の庭園に出入りするようになる。ここはロレンツォ・デ・メディチ(豪華王)が古代彫刻のコレクションを置き、ドナテッロの弟子だった老彫刻家ベルトルド・ディ・ジョヴァンニが若者たちを指導する、事実上の彫刻学校だった。
ロレンツォは彼の才能を認め、自邸に住まわせた。1490年から1492年まで、ミケランジェロはメディチ家の食卓に、家族の一員のように席を与えられている。この2年間の意味は大きい。同じ食卓には、新プラトン主義の哲学者マルシリオ・フィチーノ、詩人アンジェロ・ポリツィアーノ、ピコ・デッラ・ミランドラといった当代最高の知性が並んでいた。美しい肉体は神的なイデアの現れであるという新プラトン主義の考え方は、彼が生涯にわたって裸体表現にこだわり続けた哲学的な根拠になっていく。
この時期の現存作が二点ある。『階段の聖母』(1490年頃、56.7×40.1cm)は15歳前後の作とされる浅浮彫で、ドナテッロの薄肉彫り(スティアッチャート)の技法を消化している。もう一点『ケンタウロスの戦い』(1492年頃、84.5×90.5cm)は、ポリツィアーノが主題を提案したと伝えられる。ラピテス族とケンタウロスの神話的な乱闘を、絡み合う裸体の塊として彫り出した作品で、ここには彼のその後がほぼ出そろっている。奥行きを一枚の平面として扱わず多層的に処理したこと、弓錐を使わずに彫ったこと、そして粗い鑿の跡を最終的な表面として残したこと。未完成に見える表面をそのまま作品として提示するという判断は、この10代の作品で最初に現れている。
ロレンツォは、この浮彫の完成直後、1492年に死去した。

メディチ家追放とボローニャ ── 庇護者を失った4年間
ロレンツォの死は、17歳の彫刻家から後ろ盾を奪った。跡を継いだピエロ・デ・メディチは父ほどの見識をもたず、伝えられるところではミケランジェロに雪像を作らせたという逸話まで残っている。
同じ時期、フィレンツェの空気は急速に変わっていた。ドメニコ会修道士ジロラモ・サヴォナローラが、贅沢と異教的な芸術を糾弾する説教で市民を熱狂させ、1494年にはフランス王シャルル8世の侵攻に乗じてメディチ家が追放される。共和政が復活し、街は宗教的な緊張に覆われた。
ミケランジェロはその直前にフィレンツェを離れ、ヴェネツィアを経てボローニャへ移る。ここで彼は、サン・ドメニコ聖堂にあるアルカ・ディ・サン・ドメニコ(聖ドメニコの聖廟)のために、未完だった小さな彫像を数体制作した。跪く天使、聖ペトロニウス、聖プロクルス。いずれも30〜60センチ程度の像だが、天使の身体には、のちの彼の特徴である緊張した筋肉と重心の傾きがすでに見える。
ボローニャ滞在は、彼にとって古典古代と北イタリアの彫刻、とりわけヤコポ・デッラ・クエルチャの作品に触れる機会でもあった。サン・ペトロニオ聖堂の門に彫られたクエルチャの創世記浮彫は、後年のシスティーナ礼拝堂天井画の構図に反響していると指摘されている。
1495年に一度フィレンツェへ戻るが、翌1496年、彼は決定的な移動をする。眠るキューピッドの大理石像を古代作品と偽って売りさばくという事件が起き、その真相を知ったローマの枢機卿ラファエーレ・リアーリオが、作者を呼び寄せたのである。21歳の彼は、こうしてローマへ入った。
ローマ第一次滞在と『ピエタ』 ── 23歳で刻んだ唯一の署名作
ローマでの最初の主要作は『バッコス』(1496–97年)である。酔いに身体を傾け、重心を失いかけた酒神を等身大で彫ったこの像は、古代彫刻の均衡を意図的に崩している。依頼主のリアーリオ枢機卿は受け取りを拒み、作品は銀行家ヤコポ・ガッリの手に渡った。ローマ第一作は、注文主の期待に応えないという形で始まっている。
そして1498年、フランス人枢機卿ジャン・ビレール・ド・ラグロラスから、サン・ピエトロ旧聖堂のフランス王室礼拝堂のための聖母子像の注文が入る。翌1499年に完成したのが『ピエタ』である。
十字架から降ろされたキリストの遺体を、聖母マリアが膝に抱く。古典的な理想美と徹底した自然主義が、完璧な均衡で融合している。彫刻としての技術的な難題は、成人男性の横たわる身体を、座った女性の膝の上に無理なく載せることだった。ミケランジェロはマリアの衣服の量を意図的に増やし、その襞の広がりを土台として機能させることでこれを解決している。
もう一つ、この作品で古くから議論されてきたのが、マリアの顔の若さである。息子を看取る母の年齢としては明らかに若すぎる。コンディヴィが伝えるところでは、ミケランジェロ自身は、純潔な女性は肉体の若さを保つのだという意味の説明をしたという。神学的な解釈を彫刻の物理的な外観に翻訳した例として、この顔は繰り返し論じられてきた。
この『ピエタ』は、彼が署名を刻んだ唯一の作品でもある。マリアの胸を斜めに横切る帯に、「フィレンツェ人ミケランジェロ・ブオナローティ作」とラテン語で彫られている。ヴァザーリによれば、鑑賞者が作者を別人だと語り合っているのを聞いて、夜中に忍び込んで刻んだのだという。以後、彼は二度と署名しなかった。

『ダヴィデ』と共和国 ── 打ち捨てられた大理石から
1501年、26歳でフィレンツェへ戻ったミケランジェロは、大聖堂造営局から一つの厄介な仕事を引き受ける。40年以上前に別の彫刻家が手をつけて放棄し、以来ドゥオモの工房の庭に横たわっていた巨大な大理石の塊を、彫像に仕上げるという依頼だった。石はすでに削られており、細長く、しかも欠けがあった。
1501年から1504年にかけて彼が彫り出したのが『ダヴィデ』である。高さ5.17メートル。ルネサンス彫刻の頂点の一つに数えられる。
この像の革新は主題の切り取り方にある。ドナテッロやヴェロッキオの先行するダヴィデ像は、ゴリアテの首を踏みつける「勝利のあと」を描いていた。ミケランジェロが選んだのは戦いの直前、投石紐を肩にかけ、相手を見据えて全身を張りつめさせている瞬間である。身体は静止しているのに、筋肉と血管と視線のすべてが次の動作に向けて準備されている。勝利ではなく、決意の像なのである。
完成した像をどこに置くかは、フィレンツェの重要問題になった。1504年1月、市は委員会を組織して設置場所を検討している。この委員会には、当時51歳のレオナルド・ダ・ヴィンチも加わっていた。結論として像は政庁舎パラッツォ・ヴェッキオの正面、シニョリーア広場に据えられる。専制に対する共和国の自由と独立の象徴として、都市の政治的アイデンティティと直接結びついた配置だった。
現在、オリジナルは1873年にアカデミア美術館へ移され、広場に立つのは複製である。

レオナルドとの競作 ── 『ドーニ家の聖家族』と消えた壁画
『ダヴィデ』の成功で、ミケランジェロはフィレンツェで最も注目される芸術家になった。1504年、市は政庁舎パラッツォ・ヴェッキオの五百人広間の壁画を、彼とレオナルド・ダ・ヴィンチの二人に発注する。レオナルドが『アンギアーリの戦い』を、ミケランジェロが『カッシーナの戦い』を、向かい合う壁に描く計画だった。29歳と52歳。同じ部屋の対面する壁で二人が競作するという、美術史でもほとんど例のない状況が生まれた。
しかしどちらの壁画も現存しない。ミケランジェロは下絵(カルトン)を完成させたところで1505年にローマへ召喚され、本制作には入らなかった。彼が選んだ場面は戦闘そのものではなく、アルノ川で水浴していた兵士たちが敵襲の報せに慌てて岸へ上がる瞬間である。裸体が身をよじり、ねじれ、立ち上がる。戦争画という枠を使って人体運動の博覧会を作るという発想だった。この下絵は若い画家たちの学習の場となり、「世界の学校」と呼ばれたが、原本は後に失われ、模写を通じてしか知られていない。
同時期の絵画として現存するのが『ドーニ家の聖家族(ドーニ・トンド)』(1506年頃、直径120cm、ウフィツィ美術館蔵)である。板に描かれた円形のテンペラ画で、彼の板絵としては唯一確実に帰属される作品でもある。
この絵の異様さは、まず色にある。マリアの衣は鮮やかな青とピンクとオレンジで、色の境界が滑らかにぼかされず、明暗が硬く切り替わる。レオナルドがスフマートで輪郭を溶かしていたのと真逆の方向である。次に構図。マリアは身をねじって背後のヨセフから幼子を受け取る、あるいは渡す。三人の身体が螺旋を描き、彫刻の塊のように圧縮されている。そして背景には、主題と直接関係のない裸体の若者たちが並ぶ。彼らの意味については洗礼以前の異教世界の表現とする解釈が有力だが、決着していない。
これは絵画というより、色を塗られた彫刻である。彼が自分を彫刻家と規定し続けた理由が、この一枚に露出している。

「墓廟の悲劇」 ── 40年に及んだ未完のプロジェクト
1505年、教皇ユリウス2世はミケランジェロをローマへ呼び戻し、自らの墓廟の制作を命じた。当初の計画は途方もない規模である。40体の彫像を配し、5年で完成させるというものだった。ミケランジェロはこの依頼に全身で飛びつき、カッラーラの石切り場へ赴いて8か月かけて大理石を選定している。
ところが翌1506年、計画は停止する。教皇の関心がサン・ピエトロ旧聖堂の建て替えへ移り、資金がそちらに回されたためである。面会を拒まれたミケランジェロは激怒してフィレンツェへ逃げ帰った。教皇と彫刻家の対立は、ボローニャでの和解までもつれる。和解の証としてミケランジェロが制作した教皇の巨大な青銅像は、数年後にボローニャの政変で溶かされ、大砲に鋳直された。
ユリウスは1513年に死去した。相続人であるデッラ・ローヴェレ家との間で新しい契約が結ばれ、規模を縮小した第二案が動き出す。この段階で彫られたのが『瀕死の奴隷』と『抵抗する奴隷』(いずれも1513年頃、高さ215cm、ルーヴル美術館蔵)、そして『モーセ』である。しかし契約はその後も1516年、1532年、1542年と改訂を重ね、そのたびに縮小された。
最終的に完成したのは1545年。当初の40体構想から大幅に切り詰められたこの墓廟は、サン・ピエトロ大聖堂ではなくローマのサン・ピエトロ・イン・ヴィンコリ聖堂に置かれている。着手から40年。ミケランジェロ自身がこれを「墓廟の悲劇(la tragedia della sepoltura)」と呼んだ。
その中心に座るのが『モーセ』である。十戒の石板を小脇に抱え、上体をわずかにひねり、髭を指で押さえたまま、視線だけが激しく左へ動く。動き出す寸前で止められた身体が、内部に押し込められた力を外へ押し出している。同時代人はこの質をテッリビリタ(terribilità=凄み、畏怖を起こさせる力)と呼んだ。
ルーヴルの二体の「奴隷」も、この未完プロジェクトの残骸である。『瀕死の奴隷』は眠りとも恍惚ともつかない表情で身体を伸ばし、『抵抗する奴隷』は縛めを解こうとして全身をねじる。どちらも石から完全には切り離されておらず、背後に粗い塊が残る。この未完性がのちに「ノン・フィニート」として美学的に読み替えられ、19世紀以降の彫刻観を変えていくことになる。
| 年 | 契約・出来事 | 規模・内容 |
|---|---|---|
| 1505 | ユリウス2世が依頼 | 自立式の巨大墓廟、彫像40体、5年で完成の予定 |
| 1506 | 計画停止、ミケランジェロ出奔 | 資金がサン・ピエトロ新聖堂の建設へ移る |
| 1513 | ユリウス2世死去、第二次契約 | 壁付き形式へ縮小。『モーセ』『瀕死の奴隷』『抵抗する奴隷』に着手 |
| 1516 | 第三次契約 | さらに縮小。ミケランジェロはフィレンツェの仕事と並行 |
| 1532 | 第四次契約 | 規模縮小が続く |
| 1542 | 第五次契約 | 最終案。彫像の多くを他の彫刻家に任せる |
| 1545 | 完成 | サン・ピエトロ・イン・ヴィンコリ聖堂に設置。中心は『モーセ』 |


システィーナ礼拝堂天井画 ── 彫刻家が4年半かけて描いた天井
1508年、ユリウス2世はミケランジェロに、システィーナ礼拝堂の天井を描くよう命じた。彼は固辞した。自分は彫刻家であって画家ではない、というのがその理由である。しかも彼は大規模なフレスコの実務経験をほとんど持っていなかった。
それでも彼は引き受け、1512年までの約4年半をこの天井に費やす。面積はおよそ800平方メートル。当初の計画は12使徒を描くだけの単純なものだったが、彼はこれを退け、創世記の物語を中心とする巨大な図像プログラムへ拡張した。
天井の中央には創世記の9場面が並ぶ。『光と闇の分離』から『ノアの泥酔』まで。その周囲に預言者と巫女が交互に座り、四隅にはイスラエル救済の場面、窓上の三角形にはキリストの祖先が配される。すべて合わせて300体を超える人物が、実在しない建築の枠組みのなかに収められている。
制作条件は過酷だった。彼は足場の上に立ち、頭を後ろへ反らせて上を向いたまま描き続けた。友人ジョヴァンニ・ダ・ピストイアに宛てた詩のなかで、彼は顎が腹に触れ、髭が天を向き、絵具が顔に落ちてきて、身体はシリアの弓のように反り返っている、と自分の姿を戯画的に描写している。
そして、この天井のなかで最も有名な一場面が『アダムの創造』(1511年頃、280×570cm)である。左に横たわる裸体のアダムが力なく指を伸ばし、右から赤い衣に包まれて飛来する神が指を差し出す。二つの指は触れていない。触れる直前で止まっている。この数ミリの隙間が、生命が与えられる前の一瞬を、絵画のなかで最も有名な余白にした。
なお、神を包む赤い外套の形が人間の脳の断面に酷似しているという解釈が20世紀以降に提出され、広く流布している。ミケランジェロが解剖学に深い知識をもっていたことは事実だが、この一致が意図的なものかどうかについては学術的な合意はない。
天井画は1980年から1994年にかけて大規模な洗浄修復を受けた。数世紀分の煤とニスが取り除かれた結果、現れたのは想像されていた重厚な色調ではなく、鮮烈で明るい色彩だった。この「新しい」色は、公開当時に大きな論争を引き起こしている。

フィレンツェへの帰還と包囲戦 ── 新聖具室、図書館、そして城壁
1513年にユリウス2世が没し、メディチ家出身のレオ10世が教皇になると、ミケランジェロの仕事の中心はフィレンツェへ戻る。メディチ家は自分たちの本拠であるサン・ロレンツォ聖堂の整備を、この同郷の巨匠に託した。
最初の依頼は聖堂のファサード(正面)だった。ミケランジェロは模型を作り、カッラーラとセラヴェッツァの石切り場で数年を費やしたが、1520年に契約は解消される。ファサードは現在も未完成の粗い石積みのままで、彼の設計は一度も実現しなかった。
代わりに動き出したのが、新聖具室(サグレスティア・ヌオーヴァ)、いわゆるメディチ家礼拝堂である。1520年から1534年にかけて断続的に進められたこの空間は、建築と彫刻が分離できないかたちで組み合わされている点で画期的だった。壁面そのものが墓であり、彫像は壁から取り外せない。ネムール公ジュリアーノとウルビーノ公ロレンツォの墓の上には、それぞれ『昼』と『夜』、『曙』と『黄昏』という一日の四つの時間の擬人像が斜めに横たわる。時間の流れそのものが死者を取り巻いているという構成である。とくに『夜』は、身体を折り曲げて眠る女性像として、以後の彫刻に繰り返し引用された。
並行して、1524年からはラウレンツィアーナ図書館(メディチ家図書館)の設計が進む。とりわけ前室の階段は、建築史上の異例として知られる。三つの流れに分かれた階段が、狭い前室いっぱいに液体のように溢れ出し、壁の柱は構造を支えるのではなく壁に埋め込まれている。古典建築の文法を知ったうえで意図的に破るこの操作は、のちにマニエリスムと呼ばれる潮流の出発点の一つと見なされている。
しかしこの時期のフィレンツェは平穏ではなかった。1527年、神聖ローマ皇帝軍によるローマ劫掠が起こり、その混乱に乗じてフィレンツェで再びメディチ家が追放される。共和政が復活し、1529年、ミケランジェロは共和国の防衛のため、城壁と要塞の設計監督に任命された。彫刻家が土木技師として働いたのである。1530年に街が陥落し、メディチ家が復帰すると、彼はしばらく身を隠すことになる。教皇クレメンス7世(メディチ家出身)が彼を許したため、制作は再開されたが、フィレンツェにいることの危うさは残った。1534年、彼はローマへ移り、以後二度と故郷の街に戻らなかった。
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『最後の審判』と検閲 ── 300体の裸体と、ふんどし描きの弟子
システィーナ礼拝堂の祭壇壁に描かれた『最後の審判』(1534–1541年)は、美術史において最も賞賛され、同時に最も激しく批判された作品として知られる。注文したのは教皇クレメンス7世で、その死の数日前のことだった。実際の制作は後継のパウルス3世の治世下で行われている。
この作品には時代が刻まれている。1527年のローマ劫掠と、プロテスタントの宗教改革によって、カトリック教会は根底から揺さぶられていた。従来の『最後の審判』の図像が、天上の秩序ある調和と地獄の混沌を明確な階層で対比させていたのに対し、ミケランジェロの構図は画面全体に動揺と霊的な不安を漂わせている。
筋骨隆々の人物およそ300体が、無限の運動をもって渦を巻く。画面を区切る枠線が存在しない。そのため鑑賞者は、過去の神聖な物語を客観的に眺めるのではなく、自分もいずれ立たされる裁きの場へ引き込まれる。
中央のキリストは、伝統的な髭を生やした慈悲深い姿ではない。ギリシャ彫刻のアポロンを思わせる若々しい裸体で、右腕を高く上げ、厳しい判決を下す裁判官として描かれている。プロテスタントが信仰と神の恩寵のみによる救済を説いたのに対し、この壁画は祈りと善行も死後の運命を左右するというカトリックの教義を、視覚的に再確認する意図をもっていた。
そして論争が起きた。キリスト教神学とギリシャ神話の要素を混ぜたこと、神聖な祭壇壁に無数の全裸像を描いたことに、教会内部から激しい反発が出た。画面右下では、冥界の渡し守カロンが亡者を舟から追い立て、地獄の裁判官ミノスが待ち受ける。異教そのものである。
このミノスの顔は、ミケランジェロの作品を「教皇の礼拝堂ではなく公衆浴場や居酒屋にふさわしい」と酷評した儀典長ビアージョ・ダ・チェゼーナの似顔絵だと広く信じられている。ロバの耳をもち、蛇に性器を噛まれるという屈辱的な姿で描かれたビアージョが教皇に抗議したところ、教皇は自分の権限は地獄には及ばない、と冗談めかして修正を拒んだという逸話が残る。
もう一つ、キリストの左下には、生きたまま皮を剥がれて殉教した聖バルトロマイが、自らの抜け殻のような皮を手に下げている。この皮の顔は、ミケランジェロの自画像だと解釈されている。神の裁きを前にした芸術家の苦悩と、極端な謙遜の表現である。
1564年、彼の死の直前にトリエント公会議は宗教美術における裸体表現を非難し、あらゆる淫らさを避けるよう布告した。これを受けて教皇ピウス4世は、ミケランジェロの弟子であり友人でもあった画家ダニエレ・ダ・ヴォルテッラに、約40体の裸体へ衣服や腰布を加筆させた。この作業のため、彼は「イル・ブラゲットーネ(ふんどし描き)」という不名誉な渾名で呼ばれることになる。
1980年代から90年代の大規模修復では、後世の加筆の多くが取り除かれた。ただし、16世紀後半の精神構造と対抗宗教改革の文化史的な証拠としての価値を考慮し、ダニエレ・ダ・ヴォルテッラによる腰布のいくつかは意図的に残されている。検閲以前の姿は、枢機卿アレッサンドロ・ファルネーゼの依頼でマルチェッロ・ヴェヌスティが1549年に制作した模写によって知ることができる。


ヴィットリア・コロンナとカヴァリエーリ ── 晩年の詩と、贈呈素描という発明
ミケランジェロは詩人でもあった。300編を超えるソネットとマドリガーレが残っており、その多くは晩年に書かれている。この詩作と分かちがたく結びついているのが、二人の人物との関係である。
一人は、トンマーゾ・デイ・カヴァリエーリ。1532年、57歳のミケランジェロはローマの名門貴族出身の17歳の青年と出会い、深い精神的・芸術的な結びつきを持った。この関係は新プラトン主義的な愛と美の探求の極限にあり、彼の晩年の詩と素描に大きな影響を与えている。
ここで彼は新しいジャンルを一つ作り出した。「贈呈素描(Presentation Drawings)」である。制作のための下絵ではなく、それ自体で完結した独立した作品としての素描。カヴァリエーリのために描かれた『クレオパトラ』や理想化された頭部の素描は、卓越した仕上げと装飾的な創意に満ちている。ウィンザー城に残る理想的な頭部の素描には、アテナのような兜をかぶり、男性的な骨格と女性的な柔らかさが混在する両性具有的な特徴が見られ、彼のカヴァリエーリに対する複雑で超越的な感情のメタファーとして分析されてきた。カヴァリエーリ自身もこれらを大切にし、後にメディチ家のコジモ公に『クレオパトラ』を譲らざるを得なくなった際、子供を失うように悲しい、と書き残している。
もう一人が、詩人ヴィットリア・コロンナである。1536年頃に出会ったとき、ミケランジェロは61歳、彼女は40代半ばの未亡人で、カトリック改革の潮流に近い宗教的サークルの中心にいた。二人は詩を交換し、信仰と救済について議論した。この交流は彼の宗教観に深く作用し、以後の作品では、肉体の力による表現から、神の恩寵に身を委ねる姿勢へと重心が移っていく。彼はコロンナのために『十字架のキリスト』や『ピエタ』の素描を贈っている。1547年に彼女が死去したとき、ミケランジェロは深い喪失を詩に書いた。
彼の生涯における人間関係は、こうした精神的な結びつきだけではない。同時代の画家セバスティアーノ・デル・ピオンボとの協働も特筆される。ローマでラファエロと覇権を争っていたミケランジェロは、色彩に優れる一方で素描力に劣るとされたヴェネツィア出身のこの画家に、自らの素描を提供した。ロンドン・ナショナル・ギャラリーにあるセバスティアーノの『ラザロの復活』(1516–1519年)は、ミケランジェロの素描(現在は大英博物館蔵)にもとづいて主要人物の動きと構成が決められており、フィレンツェの形態的な強さとヴェネツィアの色彩が融合した歴史的な作例になっている。個人の天才性だけでなく、芸術家同士の戦略的な協力が盛期ルネサンスの傑作を生んだ事例である。
サン・ピエトロ大聖堂の建築家 ── 無報酬で引き受けた最後の仕事
1546年、サン・ピエトロ大聖堂の造営主任だったアントニオ・ダ・サンガッロ(小)が死去する。教皇パウルス3世は、71歳のミケランジェロを後任に指名した。彼はこれを、神への奉仕として報酬を受け取らないという条件で引き受けている。
サン・ピエトロの新聖堂は、1506年のブラマンテの起工以来、設計者が代わるたびに計画が変わり続けていた。ミケランジェロが行ったのは、サンガッロの案を大幅に整理し、ブラマンテの当初のギリシャ十字形の構想へ引き戻すことだった。装飾的に増殖していた要素を削ぎ落とし、外壁を巨大なオーダー(大オーダー)でひとつながりに束ね、建物全体が一個の彫刻の塊として立ち上がるようにした。
そしてドームである。彼は木製の大模型を制作し、二重殻構造と、外へ張り出すリブによる支持を設計した。着工は生前に果たされたが、完成は1590年、彼の死から26年後のことになる。実際に建てられたドームは、彼の模型よりやや尖った輪郭をもつ形で、ジャコモ・デッラ・ポルタによって仕上げられた。それでも、ローマの空に浮かぶあの輪郭の基本を決めたのはミケランジェロである。
同時期、彼はカンピドリオ広場(カピトリーノの丘)の再設計、ファルネーゼ宮の上層部、ピア門なども手がけている。80代の建築家が、都市の骨格を作り変えていた。
一方で、彫刻はまったく別の方向へ進んでいた。1550年代、彼は自身の墓のために『フィレンツェのピエタ(バンディーニのピエタ)』を彫ったが、大理石に瑕疵を見つけて自らハンマーで破壊しかけ、途中で放棄した。修復されたこの群像には、キリストを支えるニコデモの顔として、老いたミケランジェロ自身の姿が刻まれている。
最後の作品が『ロンダニーニのピエタ』(1552–1564年)である。彼は死の数日前まで、この石に鑿を入れ続けた。キリストと聖母の身体はほとんど溶け合い、輪郭は定まらず、腕の一本は以前の構想の名残として空中に取り残されている。20代で彫った『ピエタ』の完璧な仕上げと比べると、同じ主題、同じ彫刻家とは思えない。技術が衰えたのではない。仕上げるという概念そのものが、彼のなかで意味を失っていた。
死と遺産 ── サンタ・クローチェの墓と、ロダンへの継承
1564年2月18日、ミケランジェロはローマの自宅で死去した。88歳。教皇庁は彼をローマに埋葬するつもりだったが、甥のレオナルドと、フィレンツェのコジモ1世は別の考えを持っていた。遺体は荷物を装って密かにフィレンツェへ運ばれ、サンタ・クローチェ聖堂に埋葬される。墓碑はジョルジョ・ヴァザーリが設計した。
彼が死んだのは、トリエント公会議が宗教美術の裸体表現を非難した年である。時代は彼の芸術がよって立つ前提を、すでに撤回しはじめていた。それでも影響は止まらなかった。
もっとも劇的な継承は、300年以上あとに起きている。19世紀末のフランスの彫刻家オーギュスト・ロダンは、自分をアカデミックな彫刻から解放したのはミケランジェロだ、という意味のことを繰り返し語った。彼は1875年のイタリア旅行でミケランジェロの彫刻に直接触れ、その直後に制作した『青銅時代』で、生きた人間から型取りしたと非難されるほどの徹底した自然主義に到達している。粘土の荒々しい質感、深くえぐられた表面、内面の感情を身体の運動として表現する手法。それらはミケランジェロの「ノン・フィニート」の美学を近代の文脈で開花させたものだった。神話や寓意から離れ、個々の人間の性格と肉体を主題にするという近代彫刻の方向は、ここから始まっている。
研究の現在も動き続けている。2026年、イタリアの研究者ヴァレンティーナ・サレルノは、ローマのサンタニェーゼ・フオーリ・レ・ムーラ聖堂に1590年から安置されてきた作者不詳の大理石胸像『救世主キリスト』を、ミケランジェロ晩年の真筆とする説を発表した。サレルノによれば、ミケランジェロは死の直前、作品が不適切な人物の手に渡ることを避けるため、トンマーゾ・デイ・カヴァリエーリを含む親しい友人に密かに託したとされ、この胸像の顔立ちにもカヴァリエーリの面影が反映されているという。一方、大英博物館のヒューゴ・チャップマンら一部の専門家は、ミケランジェロの品質やスタイルを備えていないとして否定的な見解を示しており、アーカイブ文書の照合を含む検証が待たれている状況である。この帰属論争は、ミケランジェロという巨星の全貌が、いまなお完全には解明されていないことを示している。
CHRONOLOGY & WORKS / 年譜と作品人生と作品を一緒に見る
ミケランジェロの年譜は、教皇と都市の政変によってほぼ説明がつく。以下の表では、出来事とその背景、そしてその時期に進行していた制作を並べた。制作年には研究者によって幅があるため、通説的な範囲を示している。
| 年 | 出来事 | 背景・意味・補足 | この時期の作品・制作活動 |
|---|---|---|---|
| 1475 | 3月6日、カプレーゼに誕生 | 父はカプレーゼとキウージの行政長官 | — |
| 1475頃–1481頃 | セッティニャーノで乳母のもとに預けられる | 石切り職人の村。のちの逸話の舞台 | — |
| 1487–88 | ドメニコ・ギルランダイオ工房に徒弟入り | 13歳。契約書が現存 | フレスコの現場を学ぶ |
| 1489–1492 | メディチ家の彫刻庭園へ。ロレンツォ邸に住む | ベルトルド・ディ・ジョヴァンニに学ぶ。新プラトン主義の知識人と同席 | 『階段の聖母』(1490頃)/『ケンタウロスの戦い』(1492頃) |
| 1492 | ロレンツォ・デ・メディチ死去 | 後ろ盾を失う | — |
| 1494 | メディチ家追放。ヴェネツィア経由でボローニャへ | サヴォナローラの台頭、シャルル8世の侵攻 | アルカ・ディ・サン・ドメニコの小彫像群 |
| 1496 | ローマへ | 眠るキューピッド事件が契機 | — |
| 1496–97 | 『バッコス』制作 | 依頼主が受け取りを拒否 | 『バッコス』 |
| 1498–99 | 『ピエタ』制作 | フランス人枢機卿の依頼。唯一の署名作 | 『ピエタ』 |
| 1501–1504 | フィレンツェで『ダヴィデ』制作 | 40年以上放置された大理石を使用 | 『ダヴィデ』(高さ5.17m) |
| 1504 | 『ダヴィデ』設置場所を委員会が検討 | レオナルドも委員として参加 | 『ドーニ家の聖家族』(1506頃) |
| 1504–1506 | 『カッシーナの戦い』下絵 | レオナルドと同じ部屋で競作。本制作には至らず | 下絵のみ(原本は消失) |
| 1505 | ユリウス2世に召喚され、墓廟を依頼される | 当初計画は彫像40体・5年 | 大理石の選定にカッラーラで8か月 |
| 1506 | 計画停止、フィレンツェへ出奔 | 資金が新聖堂建設へ移る | — |
| 1508–1512 | システィーナ礼拝堂天井画 | 約800平方メートル、300体超の人物 | 『アダムの創造』ほか創世記9場面 |
| 1513 | ユリウス2世死去、墓廟の第二次契約 | 規模縮小の始まり | 『モーセ』『瀕死の奴隷』『抵抗する奴隷』 |
| 1516–1520 | サン・ロレンツォ聖堂ファサード計画 | 契約解消。ファサードは未完のまま現在に至る | 模型と石切り場での作業 |
| 1520–1534 | メディチ家礼拝堂(新聖具室) | 建築と彫刻が分離できない空間 | 『昼』『夜』『曙』『黄昏』ほか |
| 1524– | ラウレンツィアーナ図書館の設計 | 前室の階段は古典建築の文法を意図的に破る | 建築設計・素描 |
| 1527 | ローマ劫掠。フィレンツェでメディチ家追放 | 共和政が復活 | — |
| 1529–1530 | フィレンツェ防衛の要塞設計監督 | 彫刻家が土木技師として従事。1530年に街は陥落 | 城壁・要塞の設計 |
| 1532 | トンマーゾ・デイ・カヴァリエーリと出会う | 57歳と17歳 | 「贈呈素描」というジャンルの創出 |
| 1534 | ローマへ移住。以後フィレンツェへ戻らず | クレメンス7世の依頼が契機 | — |
| 1534–1541 | 『最後の審判』制作 | クレメンス7世が死の数日前に委嘱、パウルス3世治下で完成 | 『最後の審判』 |
| 1536頃 | ヴィットリア・コロンナと出会う | 宗教的な詩の交換。1547年に彼女は死去 | 『十字架のキリスト』素描ほか |
| 1545 | ユリウス2世墓廟が完成 | 着手から40年。サン・ピエトロ・イン・ヴィンコリ聖堂に設置 | 『モーセ』を中心とする最終形 |
| 1546 | サン・ピエトロ大聖堂の造営主任に就任 | 71歳。無報酬を条件に引き受ける | ドームの大模型、大オーダーによる外壁 |
| 1550年代 | 『フィレンツェのピエタ』 | 自身の墓のために制作するが放棄 | ニコデモに自身の顔を刻む |
| 1552–1564 | 『ロンダニーニのピエタ』 | 死の数日前まで制作。未完 | 最後の作品 |
| 1564 | 2月18日、ローマで死去(88歳) | 遺体は密かにフィレンツェへ運ばれ、サンタ・クローチェ聖堂に埋葬 | 墓碑の設計はヴァザーリ |
| 1564 | トリエント公会議が宗教美術の裸体表現を非難 | 『最後の審判』への加筆命令へ | ダニエレ・ダ・ヴォルテッラが約40体に腰布を加筆 |
| 1590 | サン・ピエトロ大聖堂のドーム完成 | 死から26年後。ジャコモ・デッラ・ポルタが仕上げる | — |
| 1980–1994 | システィーナ礼拝堂の大規模修復 | 天井画と祭壇壁画の洗浄。後世の加筆の多くを除去 | — |
23〜24歳の作。横たわる成人男性の身体を、座した女性の膝の上に載せるという構造上の難題を、衣服の襞を土台に転用することで解決している。マリアの胸の帯にラテン語の署名が刻まれた、彼の唯一の署名作。
40年以上放置されていた欠けのある大理石から彫り出された。勝利のあとではなく戦いの直前を選び、静止した身体の内部に運動の予兆を封じ込めた。専制に対する共和国の象徴として、シニョリーア広場に据えられた。
約300体の人物が枠線のない画面に渦を巻く。ローマ劫掠と宗教改革を経た教会の危機が、構図の不安定さそのものに現れている。裸体表現をめぐる論争を招き、死後に腰布が加筆された。
BOOKS & FILM / 書籍・映像もっと知りたい人へ

神のごときミケランジェロ(とんぼの本)
- 著者
- 池上英洋
- 出版社
- 新潮社
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- 4106022478
彫刻・絵画・建築の各分野にわたるミケランジェロの生涯と主要作品をたどる入門書。人物像と作品背景をまとめて把握したい読者に向く一冊です。
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ミケランジェロ(中公新書 2232)
- 著者
- 木下長宏
- 出版社
- 中央公論新社
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ミケランジェロの生涯、時代背景、主要作品を新書の分量で整理した入門書。ルネサンス期の政治状況と制作活動のつながりを確認する際にも使いやすい内容です。
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ミケランジェロの焔(新潮クレスト・ブックス)
- 著者
- コスタンティーノ・ドラッツィオ
- 訳者
- 上野真弓
- 出版社
- 新潮社
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- 4105901915
ミケランジェロの複雑な人格と、家族・パトロン・友人・ライバルとの関係を軸に描く伝記的小説。作品だけでは見えにくい人間関係や苦悩に焦点を当てています。
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ミケランジェロの生涯(岩波文庫 赤556-3)
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- ロマン・ロラン(著)、高田博厚(訳)
- 出版社
- 岩波書店
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ロマン・ロランがミケランジェロの苦悩と孤独を描いた伝記。巨匠としての業績だけでなく、一人の人間としての弱さや葛藤を読みたい人に向く一冊です。
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REFERENCES / 出典参考文献
伝記・研究書
- ロマン・ロラン『ミケランジェロの生涯』高田博厚訳、岩波文庫 https://www.iwanami.co.jp/book/b248052.html
- ジョルジョ・ヴァザーリ『ルネサンス画人伝』平川祐弘ほか訳、白水社
- アスカニオ・コンディヴィ『ミケランジェロ伝』高田博厚訳、岩崎美術社
- アンソニー・ヒューズ『ミケランジェロ』森田義之訳、岩波書店
- アーヴィング・ストーン『ミケランジェロの生涯:苦悩と歓喜』(CiNii) https://ci.nii.ac.jp/ncid/BN05197677
- Britannica「Michelangelo」 https://www.britannica.com/biography/Michelangelo
- Britannica「Michelangelo: The middle years」 https://www.britannica.com/biography/Michelangelo/The-middle-years
- Britannica「Michelangelo: Legacy and influence」 https://www.britannica.com/biography/Michelangelo/Legacy-and-influence
- Oxford Art Online / Grove Art「Michelangelo」 https://www.oxfordartonline.com/groveart/display/10.1093/gao/9781884446054.001.0001/oao-9781884446054-e-7000057716
- Wikipedia (English)「The Last Judgment (Michelangelo)」 https://en.wikipedia.org/wiki/The_Last_Judgment_(Michelangelo)
- Wikipedia (English)「Battle of the Centaurs (Michelangelo)」 https://en.wikipedia.org/wiki/Battle_of_the_Centaurs_(Michelangelo)
- Wikipedia (English)「Madonna of the Stairs」 https://en.wikipedia.org/wiki/Madonna_of_the_Stairs
- Wikipedia (English)「Dying Slave」 https://en.wikipedia.org/wiki/Dying_Slave
- Wikipedia (English)「Rebellious Slave」 https://en.wikipedia.org/wiki/Rebellious_Slave
- Wikipedia (English)「The Creation of Adam」 https://en.wikipedia.org/wiki/The_Creation_of_Adam
- Wikipedia (English)「Auguste Rodin」 https://en.wikipedia.org/wiki/Auguste_Rodin
論文・紀要
- 新倉慎右「ミケランジェロの『復活素描群』:素描の分類およびキリスト像における彫刻的翻案と主題の変容」J-STAGE https://www.jstage.jst.go.jp/article/bigaku/69/2/69_118/_article/-char/ja/
- 小山清男「ミケランジェロ〈審判図〉の空間」J-STAGE https://www.jstage.jst.go.jp/article/jsgs1967/30/4/30_4_13/_article/-char/ja/
- D. Domenici「The Collection of Tommaso de’ Cavalieri」(ボローニャ大学リポジトリ) https://cris.unibo.it/
- 「Ulisse Aldrovandi, Tommaso de’ Cavalieri, and ‘the skull of an Indian king’」Journal de la Société des américanistes https://journals.openedition.org/jsa/pdf/23733
- 「Beyond the Binary: Michelangelo, Tommaso de’ Cavalieri, and a Drawing at Windsor Castle」(Academia.edu) https://www.academia.edu/38270557/
所蔵館・公的機関の資料
- The National Gallery, London「Michelangelo & Sebastiano」展 https://www.artsy.net/show/the-national-gallery-london-michelangelo-and-sebastiano
- Web Gallery of Art「Drawings dedicated to Tommaso dei Cavalieri」 https://www.wga.hu/html_m/m/michelan/4drawing/06/
- The Metropolitan Museum of Art「Renaissance Drawings: Material and Function」 https://www.metmuseum.org/essays/renaissance-drawings-material-and-function
- The Metropolitan Museum of Art「Florence and Central Italy, 1400–1600 A.D.」 https://www.metmuseum.org/toah/ht/08/eustc
デジタルアーカイブ
- Wikimedia Commons「Michelangelo Buonarroti」 https://commons.wikimedia.org/wiki/Michelangelo_Buonarroti
- Wikimedia Commons「Category:Battle of the Centaurs by Michelangelo Buonarroti」 https://commons.wikimedia.org/wiki/Category:Battle_of_the_Centaurs_by_Michelangelo_Buonarroti
- Wikimedia Commons「Category:Tondo Doni」 https://commons.wikimedia.org/wiki/Category:Tondo_Doni
- The Sistine Chapel(公式解説)「Michelangelo’s Last Judgment」 https://www.thesistinechapel.org/last-judgment-sistine-chapel
- Khan Academy「Last Judgment by Michelangelo」 https://www.khanacademy.org/humanities/renaissance-reformation/high-ren-florence-rome/michelangelo/a/michelangelo-last-judgment
- JSTOR Daily「Michelangelo’s Last Judgment—uncensored」 https://about.jstor.org/blog/michelangelos-last-judgment-uncensored/

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