セザンヌ ゆかりの地

ポール・セザンヌゆかりの地|エクスからサント・ヴィクトワール山へ|アーティストの人生
ゆかりの地南フランス(プロヴァンス)/パリ・イル=ド=フランス主要スポット約12か所原風景/野外の実験場/アトリエ
PAUL CÉZANNE · PLACES

ポール・セザンヌゆかりの地Places of Paul Cézanne: From Aix to Mont Sainte-Victoire

ポール・セザンヌの造形の革新は、アトリエのなかの観念だけから生まれたものではない。それは、南仏プロヴァンスやパリ近郊の、特定の「場所」がもつ地質の構造、光の強さ、そして大気との、身体をともなう直接の出会いから立ち上がった。彼が生まれ育ち、そして没したエクス=アン=プロヴァンスの旧市街とその周辺の丘陵。印象主義に出会ったパリとオーヴェル=シュル=オワーズ。赤い屋根と青い海が対比するレスタック、オレンジ色の石灰岩がむき出しになったビベミュス採石場、そして生涯にわたって描き続けたサント・ヴィクトワール山。これらの土地は、セザンヌにとって単なる背景でも主題でもなく、彼の知覚そのものを形づくり、絵画の構造的な変革をうながした触媒だった。この記事では、彼の足跡を、原風景・近代性・野外の実験場・アトリエと哲学という四つの層でたどり、現在の住所・現状・そこで生まれた作品を対応させながら、その軌跡を追っていく。

サント・ヴィクトワール山の実景
サント・ヴィクトワール山(南仏プロヴァンス、エクス=アン=プロヴァンスの東)。石灰岩の巨大な山塊が、プロヴァンスの強い光のもとに横たわる。セザンヌはこの山を、油彩と水彩あわせて80点以上にわたって描き続けた。現実のこの姿と、彼が色彩のパッチへと解体していった画面とを見比べることが、ゆかりの地をたどる旅の目的となる。彼の芸術における究極のモニュメントを、記事の入口に置く。Montagne Sainte-Victoire, Provence / Photo: Clemsexplo / CC BY-SA 4.0 / Wikimedia Commons
DATAゆかりの地データ
主な活動国フランス(南仏プロヴァンス/パリ・イル=ド=フランス)
生誕地・終焉地エクス=アン=プロヴァンス
最初の実験場ジャス・ド・ブッファン(父が購入した邸宅)
パリの住所生涯で20か所以上を転々
印象主義への転換地オーヴェル=シュル=オワーズ(ガシェ医師の家)
野外の実験場レスタック/ビベミュス採石場/サント・ヴィクトワール山
最晩年のアトリエレ・ローヴのアトリエ(1902年〜)
哲学的な余韻の地ル・トロネ(メルロ=ポンティが『眼と精神』を執筆)
記事内で扱うスポット数約12か所(一覧表参照)
3点でわかるポール・セザンヌのゆかりの地
  1. 足跡は「プロヴァンス」と「パリ近郊」の二つの磁場に分かれる。 セザンヌは、故郷エクスの自然と孤独を愛する一方で、芸術の中心地パリと頻繁に行き来した。パリとオーヴェルでピサロに学んで印象主義の明るい色彩を得たのち、彼は南仏の強烈な光のもとへ帰り、そこで独自の造形言語を築いた。二つの土地の往復が、彼の芸術を鍛えた。
  2. 野外の実験場が、近代絵画の扉を開いた。 赤い屋根と青い海のレスタック、地質学的な根源をたたえるビベミュス採石場、そして生涯の主題サント・ヴィクトワール山。これらの土地で、セザンヌは伝統的な遠近法や明暗法を手放し、色彩の温度差による空間の構築(モデュラシオン)や、輪郭が融け合う「パサージュ」の手法へと至った。その視座はキュビスムへと受け継がれた。
  3. その風景は、哲学者をも呼び寄せた。 哲学者メルロ=ポンティは、1960年にプロヴァンスのル・トロネに滞在し、サント・ヴィクトワール山を仰ぎながら『眼と精神』を書いた。セザンヌがこれらの土地で実践したのは、風景の表面の模写ではなく、人間の身体と世界とが交わる知覚の発生の瞬間を、カンヴァスに定着させることだった。ゆかりの地をたどる旅は、その哲学的な問いにも触れることになる。
PLACES

ポール・セザンヌゆかりの地をたどる

セザンヌの絵の前に立つと、そこに描かれた山や海や岩が、実在する特定の場所であることに気づく。彼は空想の風景をつくったのではなく、故郷プロヴァンスの土地に繰り返し向き合い、その地質と光と大気を、色彩と形態へと翻訳し続けた。だから彼のゆかりの地をたどる旅は、そのまま彼の作品が生まれた現場をたどる旅になる。生まれ育ったエクスの旧市街から、パリ近郊のオーヴェル、赤い屋根のレスタック、採石場、そして生涯の主題となった山まで。彼が歩いた順序で、その土地を訪ねていく。

全体OVERVIEW01

セザンヌの足跡を俯瞰ふかんする ── 風景と知覚

ポール・セザンヌは1839年、南フランスのエクス=アン=プロヴァンスに生まれ、1906年、同じ地で没した。彼の芸術を理解するうえで、この土地の地理的・歴史的な環境は欠かせない要素である。だが同時に、彼の足跡はプロヴァンス一帯にとどまらなかった。芸術の中心地パリと、その近郊のイル=ド=フランスもまた、彼の芸術を決定づけた重要な磁場だった。この記事では、彼の人生と仕事が交わった土地を、層ごとに整理してたどっていく。

第一の層は、原風景となった南仏エクスである。ブルジョワ階級の家庭に生まれ育ったセザンヌは、旧市街の学校で親友エミール・ゾラと出会い、郊外のアルク川で泳ぎ、詩を論じた。父が購入した邸宅ジャス・ド・ブッファンは、彼が壁画を試みた最初の実験場となる。この土地の光と地質が、彼の眼を根本から養った。

第二の層は、近代性と印象主義に出会ったパリとイル=ド=フランスである。彼はパリで20か所以上の住所を転々としながら、ルーヴル美術館で古典を模写し、同時代の前衛画家たちと交わった。とりわけ、オーヴェル=シュル=オワーズでピサロとともに戸外で制作した経験が、暗く重い初期の作風から、明るい色彩の印象主義へと、彼を導いた。

第三の層は、造形の革新を生んだ野外の実験場である。レスタックの強烈な太陽、ビベミュス採石場の岩の物質感、そしてサント・ヴィクトワール山の巨大な山塊。これらの場所で、セザンヌは色彩による空間の構築という、生涯の課題に取り組んだ。そして第四の層として、最晩年のレ・ローヴのアトリエと、彼の風景が呼び寄せた哲学の余韻の地がある。これらの土地をたどることで、一人の画家がいかにして世界の見方そのものを変えたのかが、浮かび上がってくる。

《自画像》1879–80年頃
《自画像》1879–80年頃。故郷プロヴァンスとパリ近郊の風景に向き合いながら、独自の造形言語を築いていった時期のセザンヌ。彼にとって風景は、模写すべき対象ではなく、知覚そのものを鍛える相手だった。これから、その眼を養った土地をたどっていく。Paul Cézanne, *Self-Portrait*, c.1879–80 / Wikimedia Commons, Public Domain
南仏・エクス=アン=プロヴァンス(旧市街)AIX-EN-PROVENCE02

エクスの原風景 ── 旧市街と「不可分な三人」

すべては、エクス=アン=プロヴァンスの旧市街から始まる。1839年1月19日、セザンヌは帽子屋を営み、のちに銀行家として成功する父ルイ=オーギュストのもとに生まれた。生家はオペラ通り(28 Rue de l’Opéra)にあり、その後、一家はマテロン通りの家へと移り住んだ。彼の初期の足跡は、この旧市街に集中している。それは、芸術への野心と、厳格な父親からの重圧という、相反する感情が育まれた空間だった。

とりわけ重要なのが、ブルボン中学校(現在のコレージュ・ミニョン)での経験である。1852年から在学したこの学校で、セザンヌは、のちに自然主義文学の巨匠となるエミール・ゾラ、そしてジャン=バティスタン・バイユと出会い、「不可分な三人(レ・トロワ・アンセパラーブル)」と呼ばれる無二の友情を育んだ。三人は、郊外を流れるアルク川の岸辺で泳ぎ、釣りをし、ホメロスやウェルギリウスの詩を論じ合った。この牧歌的な戸外での体験は、後年の《大水浴図》に見られる、理想郷(アルカディア)のような風景の、遠い原体験となっている。

父の希望に従い、セザンヌはエクス=マルセイユ大学の法学部に進んだが、美術への情熱を断ち切れず、中退する。旧市街には、一族の宗教行事が行われたマドレーヌ教会や、彼の初期作品を今日所蔵するグラネ美術館も残る。プラタナスの並木が心地よい木陰をつくる目抜き通り、クール・ミラボーを歩けば、若きセザンヌが野心と葛藤を抱えて行き交った、19世紀の地方都市の空気を、今も感じ取ることができる。エクスの旧市街は、彼の芸術の最も深い水源である。

エクス=アン=プロヴァンスの目抜き通り、クール・ミラボー
エクス=アン=プロヴァンスの目抜き通り、クール・ミラボー。プラタナスの並木と噴水が続く、旧市街の中心である。セザンヌはこの街で生まれ、親友ゾラと学校に通い、法学部を中退して画家の道を選んだ。旧市街には生家やブルボン中学校(現コレージュ・ミニョン)、グラネ美術館など、彼の青年期のゆかりの地が点在する。Cours Mirabeau, Aix-en-Provence / Photo: Andrea Schaffer / CC BY 2.0 / Wikimedia Commons
南仏・エクス郊外/ジャス・ド・ブッファンJAS DE BOUFFAN03

ジャス・ド・ブッファン ── 最初の実験場

1859年、銀行家として成功した父ルイ=オーギュストは、負債を抱えた前の持ち主から、エクス郊外の広大な邸宅「ジャス・ド・ブッファン(風の棲み家)」を買い取った。この邸宅は、セザンヌにとって最初の本格的な実験場となる。当初、建物の状態は悪く、1階だけが居住に使われていたが、父は、芸術家を志す息子の熱意に押されて、1階の巨大なサロンの壁面を装飾することを許した。

セザンヌはこの壁面に、《四季》を主題とする4枚の巨大なパネル画を描いた。興味深いのは、そこに彼自身の署名ではなく、新古典主義の巨匠「INGRES(アングル)」の名と、「1811年」という年号が、わざと書き込まれていたことである。これは、自身の才能を父に証明すると同時に、権威に対する若き画家の皮肉をこめた表明だった。さらに1866年には、この壁面に《「レヴェヌマン」紙を読む画家の父》を描いている。父が実際に読んでいた保守的な新聞ではなく、友人ゾラが美術批評を寄稿していた急進的な新聞をあえて描き込んだ点に、彼の反抗的で自立した精神が読み取れる。

1880年代に入ると、セザンヌは邸宅の周囲の風景を集中的に描くようになる。マロニエの並木道、温室、そしてライオンの彫像が置かれた水溜めみずため。メトロポリタン美術館が所蔵する《ジャス・ド・ブッファンの池》などの作品群では、油彩でありながら水彩画のように薄く塗り重ねられた層のなかに、葉を落とした木々が、帯状の装飾(フリーズ)のように平面的に配置される。ここには、伝統的な遠近法に頼らず、色彩の並置によって空間の広がりと物質の重量感をともに表そうとする、成熟した視覚の論理が築かれている。父が権威の証として買った邸宅は、こうして、権威を解体していく絵画の生まれる場所となった。

《ジャス・ド・ブッファンの家》1874年頃
《ジャス・ド・ブッファンの家》1874年頃。父が購入したエクス郊外の邸宅を描いた作品。明るい色彩と、家や木々をとらえる平面的な構成に、印象主義を経たセザンヌの視覚が表れている。この邸宅の壁面やその周囲の風景が、彼の最初の実験場となった。Paul Cézanne, *The House of the Jas de Bouffan*, c.1874 / Wikimedia Commons, Public Domain
現在のジャス・ド・ブッファンの邸宅(バスティード/ガリス通り、エクス郊外)
現在のジャス・ド・ブッファンの邸宅(バスティード/ガリス通り、エクス郊外)。1859年に父が買い取り、セザンヌが《四季》のパネル画を描いた1階のサロンや、彼が繰り返し描いた並木・池のある庭園が残る。現在はエクス市が管理し、公開・展示の取り組みが進められている、彼の原点の一つ。Bastide du Jas de Bouffan, Aix-en-Provence / Photo: Bjs / CC BY-SA 4.0 / Wikimedia Commons
パリ/オーヴェル=シュル=オワーズPARIS / AUVERS04

パリとオーヴェル ── 近代性と印象主義

セザンヌは、プロヴァンスの自然と孤独を愛する一方で、芸術の中心地パリと頻繁に行き来し、同時代の前衛画家たちとの交流を通じて、自らの芸術を相対化していった。パリでの生活は、絶え間ない転居と、サロン(官展)やエコール・デ・ボザールからの拒絶という、挫折の連続でもあった。彼は生涯にわたって、パリで20か所以上の住所を転々としている。この頻繁な移動は、都市に対する彼の精神的な落ち着かなさと、探求の激しさを物語る。

パリで、セザンヌは華やかなモニュメントを描くことは稀まれだった。彼が好んで描いたのは、アパートの窓から見える屋根の連なりや、人けのない通りである。同時に彼はルーヴル美術館に足しげく通い、ミケランジェロ、ティツィアーノ、ルーベンス、そしてニコラ・プッサンといった古典を模写して、近代的な感覚と、古典の堅牢けんろうな構造とを、一つに結び合わせようとした。都市の孤独のなかで、彼は過去の巨匠たちと対話していたのである。

決定的な転換は、パリ近郊で訪れた。1872年の初め、息子の誕生を機に、セザンヌは家族を連れて、パリの北西にあるオーヴェル=シュル=オワーズへ移り住む。この地こそ、彼のロマン主義的で暗い初期の作風から、明るい色彩の印象主義へと移行する、決定的な転換点となった。彼は、近隣のポントワーズに住むカミーユ・ピサロとともに、戸外にカンヴァスを並べ、自然の光を捉える技術を学んだ。オーヴェルで最も重要なゆかりの地が、精神科医であり美術収集家でもあったポール・ガシェ医師の邸宅である。のちにゴッホの最期を看取るこの医師は、セザンヌの才能をいち早く認め、彼を庇護ひごした。《オーヴェルのガシェ医師の家》では、印象派特有の明るい緑や黄土色を取り入れながらも、事物の形態を溶かさず、対象の構造を明確に保とうとする、セザンヌ独自の探求がすでに始まっている。彼は印象主義を通過しながら、その先へ歩みを進めていた。

《オーヴェルのガシェ医師の家》1873年頃
《オーヴェルのガシェ医師の家》1873年頃。パリ北西のオーヴェル=シュル=オワーズで、ピサロと戸外制作を行った時期の作品。印象派の明るい色彩を取り入れつつ、家や樹木の形態を溶かさず、対象の構造を明確に保とうとするセザンヌ独自の視覚が現れている。彼が印象主義から独自の道へ歩み出す転換点を示す。Paul Cézanne, *The House of Dr. Gachet, Auvers-sur-Oise*, 1873 / Wikimedia Commons, Public Domain
現在のガシェ医師の家(78 Rue Gachet, オーヴェル=シュル=オワーズ)
現在のガシェ医師の家(78 Rue Gachet, オーヴェル=シュル=オワーズ)。美術収集家でもあった精神科医ガシェは、セザンヌの才能を認めて庇護し、のちにゴッホの最期をも看取った。セザンヌが印象主義へと転換したこの地の、中心的なゆかりの建築で、現在は公開施設となっている。Maison du Docteur Gachet, Auvers-sur-Oise / Photo: ZsuzsiKis / CC BY-SA 4.0 / Wikimedia Commons
南仏・マルセイユ近郊/レスタックL’ESTAQUE05

レスタック ── 赤い屋根と青い海

印象派の技法を吸収したセザンヌだったが、光の移ろいのなかに形態が溶け込んでしまうことに、次第に不満を抱くようになる。「印象派を、美術館の芸術のように堅固で永続的なものにしたい」——その願いを実現するための実験場となったのが、マルセイユ近郊の漁村レスタック(L’Estaque)である。1870年代から1880年代にかけて、セザンヌは高台から見下ろすマルセイユ湾と、赤い屋根の集落の風景に、執着した。

1876年にピサロへ宛てた手紙には、彼の視覚的な革命を裏づける、きわめて重要な証言が残されている。「それはまるでトランプのカードのようだ。青い海に対する赤い屋根。(中略)ここの太陽はあまりにも恐ろしく、対象物は白や黒ではなく、青、赤、茶、紫のシルエットとして浮かび上がっているように思える。これはモデリング(陰影法)の対極にあるものだと感じる」。この言葉が示すとおり、レスタックの強烈な陽光は、伝統的な明暗法による立体表現を、無効にしてしまった。

これに代わってセザンヌが編み出したのが、「色彩のモデュラシオン(変調)」である。彼は、対象の量感を、明暗ではなく、色彩の温度差——暖色が前へ進出し、寒色が奥へ退く視覚効果——と、短く平行に置かれた「構成的筆致」によって、カンヴァスの上に立ち上げた。海面は極端に平面的に塗られ、遠くの山々は視覚的に引き寄せられ、水平線が幾何学的な厳密さで画面を分ける。閉じられていながら永遠をたたえたこの空間は、現実の風景の模写ではなく、画家の内的な知覚を通じた自然の「再構成」だった。このレスタックの空間表現は、次世代に直接の衝撃を与える。1906年から1907年にかけて、ジョルジュ・ブラックがこの地を訪れ、セザンヌの幾何学的な形態把握に触発されて制作を行った。ここでセザンヌが切り開いた「自然を円柱・球・円錐によって処理する」という視座は、ピカソとブラックによるキュビスムの誕生へと、まっすぐつながっていく。

《レスタックから見たマルセイユ湾》1885年頃、メトロポリタン美術館蔵
《レスタックから見たマルセイユ湾》1885年頃、メトロポリタン美術館蔵。高台から見下ろす青い海と、赤い屋根の集落。セザンヌはこの対比を「トランプのカードのようだ」と記した。明暗法を手放し、色彩の温度差(モデュラシオン)と平面的な構成によって空間を築いた、彼の造形革命の実験場。この視座がキュビスムへと受け継がれた。Paul Cézanne, *The Gulf of Marseille Seen from L’Estaque*, c.1885 / The Metropolitan Museum of Art, New York / Wikimedia Commons, Public Domain
南仏・エクス東郊/ビベミュス採石場BIBÉMUS QUARRY06

ビベミュス採石場 ── 地質学的な根源

1890年代の半ばから、セザンヌの風景画は、より重厚で神秘的な様相を帯び始める。その舞台となったのが、エクス=アン=プロヴァンスの東にあるビベミュス採石場(カリエール・ド・ビベミュス)である。この採石場は、ローマ時代から1830年代まで、プロヴァンスの建築のためのオレンジ・レッドの石灰岩を切り出してきた場所だった。セザンヌが訪れた当時、そこは、鋭い幾何学的な切り口と、自然の風化・侵食とが入り混じる、巨大な廃墟はいきょと化していた。人の手が刻んだ直線と、時間が丸めた曲線とが同居する、不思議な景観である。

ビベミュスで描かれた作品群において、セザンヌは、伝統的な風景画のルールを意図的に手放している。視点の明確さ、スケール感、地平線の設定——それらが放棄され、画面は、巨大な岩塊の壁面、崩れ落ちた石材、そして岩の隙間から生える松の枝によって、埋め尽くされる。鑑賞者は、自分がどこに立ってこの風景を見ているのか、その空間的な定位を失ってしまう。奥行きの手がかりが消え、岩の物質そのものが、画面いっぱいに迫ってくる。

学術的な分析において、ビベミュスの風景は、しばしば「世界の始源」や「地質学的な根源」への回帰として論じられる。研究者たちは、セザンヌがプロヴァンスの土壌の、物質的かつ神話的な起源を絵画化しようとした、と指摘している。彼が描こうとしたのは、表面的な自然の美しさではない。岩の重さ、地層の断層、そして物質そのものがもつ抵抗感と実在感を、彼は厚く塗り重ねた絵具の層によって、カンヴァスの上に物質化させた。採石場という、人と自然と時間が交わった特異な場所で、セザンヌは、絵画を「見る」ことから「触れる」ことへと近づけようとしたのである。

《ビベミュス採石場》1895年頃
《ビベミュス採石場》1895年頃。オレンジ・レッドの石灰岩の壁面と、岩の隙間から生える松が画面を埋め尽くす。視点や地平線の手がかりが消され、鑑賞者は空間の定位を失う。岩の物質的な重さと実在感を、厚い絵具の層で物質化しようとした、後期セザンヌの重厚な風景。Paul Cézanne, *The Bibémus Quarry*, c.1895 / Wikimedia Commons, Public Domain
現在のビベミュス採石場(シュマン・ド・ビベミュス、エクス=アン=プロヴァンス東郊)
現在のビベミュス採石場(シュマン・ド・ビベミュス、エクス=アン=プロヴァンス東郊)。オレンジ色の石灰岩が露出し、人の手による幾何学的な切り口と自然の風化が入り混じる景観が残る。セザンヌが繰り返し描いた岩肌と松の世界を、現地の風景として確かめられる。Carrières de Bibémus, Aix-en-Provence / Photo: Camster / CC BY-SA 3.0 / Wikimedia Commons
南仏・エクス東郊/サント・ヴィクトワール山MONT SAINTE-VICTOIRE07

サント・ヴィクトワール山 ── 生涯の主題

セザンヌの芸術における究極のモニュメントであり、近代絵画の歴史で最も重要なモチーフの一つが、サント・ヴィクトワール山である。エクスの東にそびえるこの石灰岩の山を、彼は生涯にわたって、油彩と水彩あわせて80点以上の作品で描き続けた。同じ山を、季節や時間、そして立つ場所を変えながら、繰り返し描くこの営みは、単なる風景の記録ではない。それは、自然という無限に複雑な対象を、いかにして二次元の画面へと築き直すかという、終わりのない実験だった。

1880年代の作品では、手前の松の木の枝がアーチのように画面の上部を覆い、その奥の山へと視線を導くという、ニコラ・プッサン風の古典的な構図が採られている。だが、細部を見ると、中景のアルク川の谷や水道橋は、平面的に塗られた色彩のブロックで構成されており、遠くにあるはずの山が、手前へと迫ってくるような、視覚の逆説が生じている。古典の骨格を借りながら、そのなかで遠近法をひそかに解体していく——ここに、セザンヌの二面をあわせ持つ知性が表れている。

シカゴ美術館が実施した水彩画の赤外線調査は、彼の計算されつくした制作の過程を明らかにしている。セザンヌはまず、薄い鉛筆の線で精密な輪郭を描き、山の稜線りょうせんの部分では、最大6本もの線を重ね合わせて、その起伏と位置関係を探っていた。その上に、エメラルドグリーンなどの透明な水彩を、乾くのを待ちながら重ね、紙の白い余白を意図的に残すことで、そこに光と大気、そして空間のあいまいさを導き入れている。描くことと描かないことのあいだで、彼は山という存在を、慎重に画面へと立ち上げた。一つの山に生涯を賭けたこの探求が、20世紀美術の出発点となった。

《大きな松の木のあるサント・ヴィクトワール山》1887年頃、コートールド美術館蔵
《大きな松の木のあるサント・ヴィクトワール山》1887年頃、コートールド美術館蔵。手前の松の枝がアーチのように画面上部を覆い、奥の山へ視線を導くプッサン風の古典的構図。だが中景の谷や水道橋は平面的な色面で構成され、遠い山が手前に迫る視覚の逆説が生じている。古典の骨格のなかで遠近法を解体していく、セザンヌの知性を示す一枚。Paul Cézanne, *Mont Sainte-Victoire with Large Pine*, c.1887 / Courtauld Gallery, London / Wikimedia Commons, Public Domain
南仏・エクス/レ・ローヴの丘ATELIER DES LAUVES08

レ・ローヴのアトリエと画家の広場

1902年、セザンヌはエクスの北にあるローヴの丘に、新しいアトリエ(アトリエ・デ・ローヴ)を構えた。この最晩年のアトリエから、彼は毎日のように丘を登り、近くの「画家の広場(テラン・デ・パントル)」に立って、遠くのサント・ヴィクトワール山を望んだ。高い天井と大きな窓をもつこのアトリエは、彼が晩年の大作に取り組んだ、静かな聖域だった。現在も当時のまま保存され、彼が使った絵具や道具、静物画のモチーフとなった器や布が、そのまま置かれている。ここは、セザンヌのゆかりの地のなかでも、彼の制作の現場を最も直接に感じられる場所である。

この時期の作品において、事物の輪郭線は完全に消え去る。画面は、モザイクのように置かれた色彩のパッチによって、覆い尽くされる。空の青と、山肌の紫、手前の木々の緑が、明確な境界を持たずに、互いに浸透し合っていく。この「パサージュ(移行)」と呼ばれる手法が、極限まで推し進められている。自然の諸要素が解体され、色彩のリズムとして、カンヴァスという二次元の平面の上に築き直される。

この表現について、セザンヌ自身はこう語っている。「自然は表面にあるのではなく、深さにある。色彩はこの深さの表現である。色彩は地球の根源から湧き上がるものであり、自然の生命そのものなのだ」。レ・ローヴの丘から見つめ続けた山は、もはや遠い風景ではなく、色彩となって画家の身体を通り抜け、画面の上でひとつのリズムへと生まれ変わった。ちなみに、こうして到達した晩年の《サント・ヴィクトワール山》の一つは、2022年のオークションで1億3千万ドルを超える価格で落札されている。孤独な丘の上の探求は、一世紀を経て、絵画史における最も貴重な達成の一つとして、あらためて評価されている。

レ・ローヴのアトリエ(アトリエ・デ・ローヴ/9 avenue Paul Cézanne, エクス)
レ・ローヴのアトリエ(アトリエ・デ・ローヴ/9 avenue Paul Cézanne, エクス)。1902年にセザンヌが構えた最晩年のアトリエで、現在も当時のまま保存・公開されている。高い天井と大きな窓をもつ空間には、彼が使った道具や静物のモチーフが残る。丘を登れば近くの「画家の広場」からサント・ヴィクトワール山を望める、制作の現場そのもののゆかりの地。Atelier Cézanne (Atelier des Lauves), Aix-en-Provence / Photo: Bjs / CC BY-SA 4.0 / Wikimedia Commons
南仏・ル・トロネ/哲学の余韻MERLEAU-PONTY / LE THOLONET09

メルロ=ポンティと『眼と精神』 ── 現象学の風景

セザンヌがゆかりの地の風景を通じて成し遂げた空間の革新は、絵画の領域を越えて、20世紀の哲学にも決定的なインスピレーションを与えた。とりわけ、フランスの現象学者モーリス・メルロ=ポンティの思想が、その最も深い応答である。1960年の夏、メルロ=ポンティは、セザンヌの足跡をたどるように、プロヴァンスのル・トロネ(Le Tholonet)に滞在した。サント・ヴィクトワール山を仰ぎ見ながら、彼は最晩年の重要な論文『眼と精神(メ・エ・レスプリ)』を書き上げた。ル・トロネは、エクスからサント・ヴィクトワール山へ向かう道沿いの村で、セザンヌ自身も愛した風景である。

この論文でメルロ=ポンティは、ルネサンス以来の一点透視図法や、精神と身体を切り離すデカルト的な客観主義の科学を批判し、セザンヌの絵画がいかに人間の「生きた知覚」の真実を捉えているかを論じた。彼によれば、人間の視覚は、カメラのレンズのように世界を客観的に切り取るものではない。知覚する主体の身体は、世界という織物の一部であり、世界を見ることと、世界から見られることは、切り離せない。セザンヌが山やリンゴを描くとき、彼はただ外部の風景を模写しているのではない。「世界が自らの身体を通じて自覚していく過程」そのものを描いているのだ。

セザンヌの絵で遠近法が歪み、複数の視点が入り混じり、輪郭が揺れ動くのは、それが「世界が意味として立ち上がる、その発生の瞬間」を表現しているからにほかならない。彼がゆかりの地でカンヴァスに向かい続けたのは、風景の表面を写し取るためではなかった。視覚の奥に潜む世界の目に見えない構造を、絵具という物質を通じて目に見えるものにするための、現象学的な営みだった。ゆかりの地をたどる旅は、こうして、一枚の絵がなぜ描かれたのかという問いを越えて、私たちがどのように世界を見ているのかという、存在をめぐる問いへとたどり着く。エクスの旧市街に始まったこの旅は、山を仰ぐ哲学者の眼差しのなかで、静かに閉じられる。

《サント・ヴィクトワール山》1890年頃
《サント・ヴィクトワール山》1890年頃。輪郭線が薄れ、空・山・木々が色彩のパッチとして互いに浸透し合う、後期のサント・ヴィクトワール山。メルロ=ポンティは、こうした画面に、遠近法の背後にある「生きた知覚」の真実を見た。風景の表面ではなく、世界が立ち上がる発生の瞬間を描こうとした、セザンヌの現象学的な探求を示す作品。Paul Cézanne, Mont Sainte-Victoire, c.1890 / Musée d’Orsay / Photograph: Sailko / CC BY 3.0 / Wikimedia Commons; artwork Public Domain
PLACES INDEX

ゆかりの地一覧

本記事で扱ったスポットを、性格(原風景/パリ近郊/野外の実験場/アトリエと哲学)ごとに整理した。住所は現在の表記に基づく。公開状況は変更される場合があるため、訪問前に各施設の公式情報を確認すること。

#スポット名性格住所・所在地現状関連する作品・出来事
01生家原風景28 Rue de l’Opéra, Aix-en-Provence市街に現存1839年1月19日、この地で誕生
02ブルボン中学校(現コレージュ・ミニョン)原風景41 rue Cardinale, Aix-en-Provence学校として現存ゾラらと「不可分な三人」の友情
03グラネ美術館原風景Place Saint Jean de Malte, Aix公開施設初期作品・同時代のコレクション
04ジャス・ド・ブッファン原風景・実験場Route de Galice, Aix-en-Provence公開の取り組みが進行《四季》パネル、庭園の連作
05パリの住居(20か所以上)パリ近郊4区・5区・6区・18区ほか一部に建物・記念地が現存転居の連続、ルーヴルでの模写
06ガシェ医師の家パリ近郊78 Rue Gachet, Auvers-sur-Oise公開施設印象主義への転換、ピサロとの制作
07レスタック野外の実験場13016 Marseille港町として現存《マルセイユ湾》連作、モデュラシオン
08ビベミュス採石場野外の実験場Chemin de Bibémus, Aix見学可(要予約等)採石場の連作、地質学的な根源
09サント・ヴィクトワール山野外の実験場Aix-en-Provence 東郊山・自然公園として現存生涯の主題、80点以上の連作
10レ・ローヴのアトリエアトリエ9 avenue Paul Cézanne, Aix保存・公開施設1902年〜の最晩年の制作拠点
11画家の広場アトリエ49 Av. Paul Cézanne, Aix展望地として現存山を望む晩年の制作地点
12ル・トロネ哲学の余韻Le Tholonet, Aix近郊村として現存メルロ=ポンティが『眼と精神』を執筆

性格で見るセザンヌのゆかりの地

性格代表的な地点時期の中心位置づけ
原風景エクス旧市街、ジャス・ド・ブッファン1839年〜生誕・友情・最初の実験場
パリ近郊パリの各住居、オーヴェル1860〜70年代近代性との対峙、印象主義への転換
野外の実験場レスタック、ビベミュス、サント・ヴィクトワール山1870〜1906年色彩による空間構築の探求
アトリエと哲学レ・ローヴのアトリエ、ル・トロネ1902年〜/1960年最晩年の制作と、現象学の余韻

エリア別アクセスの目安

エリア拠点都市移動手段所要の目安徒歩完結の可否
エクス旧市街(生家・グラネ美術館ほか)エクス徒歩半日〜1日可
ジャス・ド・ブッファンエクスバス・徒歩半日ほぼ可
レ・ローヴのアトリエ/画家の広場エクスバス・徒歩(坂道)半日可
ビベミュス採石場エクス見学ツアー等半日現地は徒歩
サント・ヴィクトワール山/ル・トロネエクス車・バス1日要交通手段
レスタックマルセイユ鉄道・バス半日港町は徒歩
オーヴェル=シュル=オワーズパリ鉄道(近郊線)半日〜1日町内は徒歩

作品と現地の対応

作品・主題制作年描かれた/生まれた場所現地の状態
四季のパネル/庭園の連作1860年代〜80年代ジャス・ド・ブッファン邸宅・庭園が現存
オーヴェルのガシェ医師の家1872–73オーヴェル=シュル=オワーズ家が現存・公開
レスタックから見たマルセイユ湾1885頃レスタックの高台港町・湾が現存
ビベミュス採石場1895頃ビベミュス採石場採石場跡が現存
大きな松のサント・ヴィクトワール山1887頃エクス東郊(ベルヴュ等)山・展望地が現存
晩年のサント・ヴィクトワール山(パサージュ)1902–06レ・ローヴの丘/画家の広場アトリエ・展望地が現存
図版クレジット・ライセンス

絵画作品はパブリックドメイン。現地・建築・風景写真、および一部の絵画撮影写真は、下記の撮影者・ライセンス条件に従う。

  • ヒーロー:サント・ヴィクトワール山(実景) — Sainte-victoire landscape.jpg — Clemsexplo / CC BY-SA 4.0 / Wikimedia Commons
  • q1:《自画像》1879–80年頃 — Cezanne – Self-portrait – 1879-80.jpg — Artwork / reproduction: Public Domain / Wikimedia Commons
  • q2:クール・ミラボー — Cours Mirabeau, Aix-en-Provence.jpg — Andrea Schaffer / CC BY 2.0 / Wikimedia Commons
  • q3:《ジャス・ド・ブッファンの家》 — Paul Cezanne, The House of the Jas de Bouffan, c1874.jpg — Artwork: Public Domain / Wikimedia Commons
  • q3:ジャス・ド・ブッファンの邸宅 — Aix-Bastide du Jas de Bouffan-bjs180816-01.jpg — Bjs / CC BY-SA 4.0 / Wikimedia Commons
  • q4:《オーヴェルのガシェ医師の家》 — ‘The House of Dr. Gachet, Auver-sur-Oise’ by Paul Cézanne, 1873.jpg — Artwork: Public Domain / Wikimedia Commons
  • q4:現在のガシェ医師の家 — La Maison du Docteur Gachet, Auvers-sur-Oise 4.jpg — ZsuzsiKis / CC BY-SA 4.0 / Wikimedia Commons
  • q5:《レスタックから見たマルセイユ湾》 — Paul Cezanne, The Gulf of Marseilles Seen from L’Estaque, c1885.jpg — Artwork: Public Domain / Wikimedia Commons
  • q6:《ビベミュス採石場》 — Paul Cezanne Bibemus Quarry 1.jpg — Artwork: Public Domain / Wikimedia Commons
  • q6:現在のビベミュス採石場 — Carrières de Bibémus – 1.JPG — Camster / CC BY-SA 3.0 / Wikimedia Commons
  • q7:《大きな松の木のあるサント・ヴィクトワール山》 — Mont Sainte-Victoire with Large Pine, by Paul Cézanne.jpg — Artwork: Public Domain / Wikimedia Commons
  • q8:レ・ローヴのアトリエ — Aix-Atelier Cézanne-bjs180816-06.jpg — Bjs / CC BY-SA 4.0 / Wikimedia Commons
  • q9:《サント・ヴィクトワール山》1890年頃 — Paul cézanne, montagna di sainte-victoire, 1890 ca.JPG — Photograph: Sailko / CC BY 3.0; artwork Public Domain / Wikimedia Commons
REFERENCES / 出典

参考文献

ゆかりの地・観光の資料

  • The Must See Paul Cézanne Sites In Aix-en-Provence — Afternoon Tea Reads https://afternoonteareads.com/must-see-cezanne-sites-aix/
  • Cézanne’s Studio in Aix-en-Provence — Avignon et Provence https://www.avignon-et-provence.com/en/museum/cezannes-studio-aix-en-provence
  • Cézanne — Provence Beyond https://www.beyond.fr/people/cezanne.html
  • Les adresses de Cézanne à Paris — Société Cézanne https://www.societe-cezanne.fr/2013/10/07/a-cezanne-a-paris-chonologie-et-adresses/
  • L’Estaque — Société Cézanne https://www.societe-cezanne.fr/2013/10/11/lestaque-2/

作品・技法の分析

  • Cat. 1 Auvers, Panoramic View, 1873–75 — The Art Institute of Chicago https://www.artic.edu/digital-publications/47/cezanne-paintings-and-watercolors-at-the-art-institute-of-chicago/342/
  • A Harmony Parallel to Nature: Color, Form, and Space in Cézanne’s Watercolors and Oil Paintings — The Art Institute of Chicago https://www.artic.edu/digital-publications/47/cezanne-paintings-and-watercolors-at-the-art-institute-of-chicago/362/
  • Gasquet’s Cézanne and the Paintings of Bibémus Quarry — Érudit https://www.erudit.org/en/journals/racar/2009-v34-n1-racar05297/1069499ar.pdf

哲学・現象学

  • Merleau-Ponty and Cézanne: Describing and Painting Existence — Revue CIRCE http://www.revue-circe.uvsq.fr/merleau-ponty-and-cezanne-describing-and-painting-existence/
  • Embodied Subjectivity in Cézanne’s Late Paintings — SCIRP https://www.scirp.net/journal/paperinformation?paperid=131468

画像(Wikimedia Commons 主要ファイルページ)

  • Paul Cézanne — Wikimedia Commons https://commons.wikimedia.org/wiki/Paul_C%C3%A9zanne
  • Category:Montagne Sainte-Victoire by Paul Cézanne https://commons.wikimedia.org/wiki/Category:Montagne_Sainte-Victoire_by_Paul_C%C3%A9zanne
  • Category:Atelier Cézanne — Wikimedia Commons https://commons.wikimedia.org/wiki/Category:Atelier_C%C3%A9zanne
  • Category:Carrières de Bibémus — Wikimedia Commons https://commons.wikimedia.org/wiki/Category:Carri%C3%A8res_de_Bib%C3%A9mus
最終更新:2026年8月29日

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