エドガー・ドガゆかりの地Places of Edgar Degas: Paris, Italy, Normandy and New Orleans
エドガー・ドガの芸術は、彼が身を置き、観察し、時に逃避した「場所」との強い相互作用から生まれた。彼の生活の大部分は、パリ9区からモンマルトルの丘の麓(ピガール広場周辺)という、きわめて限られた半径のなかで展開された。だがその狭い生活圏を核としながら、彼の視線は、亡命家族の心理を映すイタリアの邸宅、馬の躍動を学んだノルマンディーの城、そして新興資本主義のただなかにあったアメリカのニューオーリンズへと広がっていく。この記事では、生誕地から終の棲家、焼失したオペラ座、カフェ、そして海外の滞在地まで、ドガのゆかりの地を、現在の住所・現状・関連作品とともにたどっていく。
- 生活の核は、パリ9区からモンマルトルの狭い一帯にあった。 ドガは1834年にパリ9区サン=ジョルジュ街で生まれ、生涯の大半をピガール広場周辺で過ごした。アトリエは十数回移り変わったが、その範囲はモンマルトルの丘の麓という限られた半径のなかにほぼ収まっている。この地理的な集中が、都市の室内空間を見つめる彼のまなざしを育てた。
- 「失われた場所」を記憶とアトリエで再構築した。 ドガの代表的なバレエ作品の多くは、1873年に焼失した旧オペラ座「ル・ペルティエ劇場」を舞台としている。《ダンス教室》が完成した1874年、その稽古場はすでに灰になっていた。彼は現実の空間の記憶と、アトリエでモデルにとらせたポーズを組み合わせ、失われた場所を画布の上に再構築したのである。
- 視線は海外にも広がった。 ドガはイタリアの亡命家族の邸宅で心理劇のような家族肖像を、ノルマンディーの城で馬の躍動を、そしてアメリカのニューオーリンズで新興資本主義の現実を捉えた。印象派の主要画家のなかで唯一の北米滞在という点でも、彼のゆかりの地は特異である。
エドガー・ドガのゆかりの地を歩く
ドガにとって空間は、単なる背景ではなく、人間の存在条件そのものを規定する「構造」だった。焼失した劇場を脳内で再構築する執念、カフェの喧騒のなかから孤独を抽出する構図、薄暗いアトリエで人工光を用いて写真術に没頭した探究心。これらはすべて、彼が場所をどう見ていたかを物語る。本記事は、生誕地パリから始め、モンマルトルのアトリエ、オペラ座、カフェ、そしてイタリア・ノルマンディー・ニューオーリンズへと、ドガの足跡を地理的にたどっていく。
パリ ── オスマンの都市とモンマルトルの生活圏
ドガの芸術のインスピレーションの源泉は、オスマン男爵によるパリ大改造(1853–1870年)を経て近代都市へと生まれ変わったパリの街並みと、その内部に広がる半公共的・私的な空間にあった。巨費が投じられ、多くの古い建物が取り壊されて新しい大通りが敷かれたこの時期、パリは巨大な建設現場であると同時に、ブルジョワジーと労働者階級の空間的な再編が進む場でもあった。ギュスターヴ・カイユボットのような画家が新しい広大な街路や鉄橋をカンヴァスに収めたのに対し、ドガは都市の表層よりも、カフェ、オペラ座の舞台裏、帽子屋といった都市の隙間にある室内空間へと視線を向けた。
ドガは1834年7月19日、パリ9区サン=ジョルジュ街8番地に、裕福な銀行家オーギュスト・ド・ガスと、ニューオーリンズのクレオール系フランス人の母セレスティーヌ・ムソンの長男として生まれた。名門リセ・ルイ=ル=グランで古典教育を受けた後、エコール・デ・ボザールでアングルの弟子ルイ・ラモットに師事し、伝統的なデッサン至上主義を学んだ。
イタリア修行から帰国した1859年、ドガはラヴァル街13番地(現ヴィクトール・マセ街13番地、現在はホテル・ミニ)に最初のアトリエを構える。以後、普仏戦争とパリ・コミューンの動乱を経て、彼の住居とアトリエはピガール広場周辺の歓楽街と隣り合うエリアを転々とした。ブランシュ街77番地(1872–76年、第1回印象派展の準備拠点)、フロショ街4番地(1876–77年、カフェ・ド・ラ・ヌーヴェル・アテーヌの目と鼻の先)、ルピック街50番地、ピエール・フォンテーヌ街19番地、ジャン=バティスト・ピガール街21番地──。彼はこの狭い一帯のなかで、絶え間なく移動を繰り返したのである。
終の棲家ヴィクトール・マセ街と写真の実験
ドガの後期芸術を読み解くうえで欠かせない空間が、1890年から1912年までの約22年間、住居兼アトリエとして使ったヴィクトール・マセ街37番地である。画家としての名声が高まるにつれ、ドガはこの広大な空間に引きこもり、パリの街路や社交界から距離を置くようになった。アトリエは、粘土やワックスの塊、崩れかけた小像、パステル、絵の具箱、浴槽などの小道具が散乱する混沌とした空間であり、壁には彼が熱心に収集したアングルやドラクロワ、同世代の画家たちの作品が所狭しと飾られていた。視力の低下が深刻化するなか、彼は油彩から、直接的な触覚性をもつパステルや彫刻へと表現の手段を移していく。
特筆すべきは、この空間がドガの「写真術」の実験場でもあったことである。1895年頃、ドガは写真家シャルル・タセらの協力を得ながら、夜間のアトリエや友人の居間でランプの光を用いた撮影に熱中した。彼が撮ったステファン・マラルメやルノワール、そして自らの姿を捉えた写真は、薄明かりやランプの人工光による強い明暗を特徴とし、彼の絵画に見られる斬新なトリミングや極端な俯瞰・仰角といった空間構成と深く響き合っている。
しかし1912年、この歴史的アトリエが入る建物の取り壊しが決まり、78歳でほとんど失明状態にあったドガは強制的に退去させられる。クリシー大通り6番地へ移ったものの、そこではもはや作品を生み出すことはなく、1917年9月に亡くなるまで、過去の記憶のなかを生きる孤独な遊歩者として、パリの街をさまようのみであった。
オペラ座ル・ペルティエ劇場 ── 焼失した稽古場
都市空間の観察者(フラヌール)としてのドガの視線は、パリ・オペラ座という特定の建築空間において最も鋭く発揮された。重要なのは、ドガの代表的なバレエ作品の多くが、現在のシャルル・ガルニエ設計による壮麗な「ガルニエ宮(1875年開場)」ではなく、その前身である「ル・ペルティエ劇場(Salle Le Peletier)」を舞台にしていることである。1821年に建てられ、舞台をガス灯で照らした最初期の劇場のひとつであるこの建物は、1873年10月に火災で全焼するまで、約半世紀にわたってパリのオペラとバレエの中心だった。
ドガは「アボネ(abonné)」と呼ばれる高額な年間指定席購入者としての特権を利用し、客席だけでなく、舞台裏や稽古場、踊り子たちの楽屋にまで足を踏み入れた。《ダンス教室》(1874年、メトロポリタン美術館蔵)は、名バレエマスター、ジュール・ペローの指導のもとで稽古する少女たちを描いているが、この作品が完成した1874年の時点で、ル・ペルティエ劇場の稽古場はすでに焼失していた。ドガは現実の空間の記憶と、アトリエでモデルにとらせたポーズを組み合わせ、失われた場所を画布の上に再構築したのである。
《オペラ座のオーケストラ》(1868–70年頃、オルセー美術館蔵)では、ル・ペルティエ劇場のオーケストラピットの奏者たちを極端な近景に配し、舞台上で踊るバレリーナたちの頭部を画面の縁で断ち切るという斬新な構図を採用した。手前に演奏する友人たち(ファゴット奏者デジレ・ディオーら)を大きく置き、その上方に脚とチュチュだけが見える踊り子を配するこの空間の切り取り方は、浮世絵や写真から着想を得たもので、ルネサンス以降の伝統的な遠近法を大胆に組み替えていた。
カフェとキャバレーの街 ── ヌーヴェル・アテーヌと帽子屋
ドガのアトリエ群のすぐそば、ピガール広場に面して建っていたのが、芸術家たちの溜まり場「カフェ・ド・ラ・ヌーヴェル・アテーヌ(Café de la Nouvelle Athènes)」である。マネ、ゾラ、ルノワール、批評家デュランティらが集ったこの店は、印象派を生んだ知的な議論の現場だった。ドガの《アブサン》(1875–76年、オルセー美術館蔵)は、このヌーヴェル・アテーヌを舞台にしたとされる。うつろな表情でアブサンを前にする女と、視線をそらす男。並んで座りながら交わらない二人の姿に、近代都市の孤独が凝縮されている。
カフェ・コンセール(歌の出るカフェ)もまた、ドガの重要な観察対象だった。シャンゼリゼ通りのカフェ・デ・ザンバサドゥールを描いた一連の作品では、ガス灯のフットライトに下から照らされる歌手たちの姿が、闇のなかから鮮やかに立ち上がる。人工光に照らされた身体という、ドガが生涯こだわり続けた主題が、ここにも生きている。
さらにドガは、帽子屋(モディスト)という近代の労働空間にも目を向けた。1870年のパリには約1000軒の帽子屋があり、その多くが女性によって営まれていたという。《帽子屋にて》(1882年、メトロポリタン美術館蔵)などの作品で、ドガはファッション雑誌の最新スタイルを注視しながら、労働に没頭する女性たちの姿と、空間の余白(ネガティブ・スペース)とを、鋭い構図で描き出している。
イタリア ── 亡命家族の心理的空間
ドガの空間構成の骨格は、エコール・デ・ボザールでの訓練と、1856年から1860年にかけてのイタリア滞在で形づくられた。彼はナポリ、ローマ、フィレンツェを巡り、ルネサンス期の巨匠たちの作品を模写してデッサンの技術を磨いた。
このイタリア滞在の集大成であり、歴史画から近代社会のリアリズムへと向かう決定的な転換点となったのが、フィレンツェで着想された大作《ベレッリ家の肖像》(1858–1867年、オルセー美術館蔵)である。ドガの父方の伯母ラウラは、ジェナロ・ベレッリ男爵と結婚していたが、ジェナロが1848年のイタリア独立革命に関わってナポリを追放され、フィレンツェでの亡命生活を余儀なくされていた。
ドガはこの作品で、単なる家族の記念肖像という枠を破壊し、家族間の緊張と精神的な亀裂を「空間的な配置」によって可視化するという、高度な心理劇を組み立てた。画面の左には、黒い喪服をまとって威厳をたたえて立つ身重のラウラと二人の娘。対して右に座る夫ジェナロは、背を丸め、家族から目を背けるように孤立している。この物理的な距離と視線の不一致が、夫婦の深い不和と、亡命者である男爵の憂鬱を痛烈に表現している。背後の壁に架かる祖父イレール・ド・ガスの素描は、亡くなった祖父への哀悼と世代の連鎖を示唆する。10年近くをかけて修正が重ねられたこの作品は、ドガが「人間の内面と関係性を、ポーズと空間的な距離で記述する」手法を確立した記念碑となった。
ノルマンディー ── メニル=ユベール城と馬
ドガは生涯独身を貫いたが、リセ・ルイ=ル=グラン時代からの親友ポール・ヴァルパンソンとその家族には深い信頼を寄せた。ヴァルパンソン家は、ノルマンディー地方オルヌ県に広大な所領とメニル=ユベール城(Château de Ménil-Hubert-en-Exmes)を所有していた。ドガは1861年頃から死の直前まで、この地を幾度も訪れている。
特に、1870年の普仏戦争とそれに続く1871年のパリ・コミューンの動乱期、国民衛兵の砲兵として従軍して右目を痛めていたドガは、政治的な混乱と惨劇を逃れるため、メニル=ユベール城に滞在した。彼はこの城の平穏な自然のなかで、ポールの妻マルグリットや幼い娘オルタンスの肖像を描き、精神の回復をはかった。城の撞球室(ビリヤードルーム)を描いた作品も残されており、彼がこの邸宅の室内空間に深い愛着を抱いていたことがうかがえる。
ノルマンディーでの経験は、ドガの芸術に「馬と競馬」という重要な主題をもたらした。彼はヴァルパンソン家の所領や周辺の競馬場で、競走馬のダイナミックな動きを観察し、英国のスポーツ画の伝統を参照しながら、騎手たちの緊張感あふれる姿を描いた。1880年代後半にエドワード・マイブリッジの連続写真『動物の運動』が出版される以前から、ドガはこの地での視覚的な経験を通じて、筋肉の躍動と一瞬の「運動」を平面に定着させる実験を重ねていた。
ニューオーリンズ ── ドガ・ハウスと綿花取引所
1872年の秋から1873年初頭にかけての約5か月間、ドガは母セレスティーヌの故郷であるアメリカ南部・ルイジアナ州のニューオーリンズに滞在した。印象派の主要画家のなかで唯一の北米滞在という点で、美術史上きわめて特異な旅である。彼はエスプラネード大通り2306番地にある伯父ミシェル・ムッソンの邸宅に滞在した。1852年に建てられたこの邸宅は、現在「ドガ・ハウス(Degas House)」として保存され、B&Bおよび美術館として一般公開されている。ドガ個人の住居・アトリエとして一般公開されている、世界で唯一の建物である。ここで彼は、盲目になりつつあった義妹エステル(弟ルネの妻)や家族の姿を描き、18点の絵画と5通の書簡を残した。
滞在中の最大の成果が、《ニューオーリンズの綿花取引所》(1873年、ポー美術館蔵)である。南北戦争後の綿花産業を舞台に、19世紀資本主義のダイナミズムを克明に捉えた作品だ。中央で綿花を検品するのが伯父ミシェル・ムッソン、左で新聞を広げるのが弟ルネ、窓枠にもたれるのがもう一人の弟アシルである。共同経営者や顧客たちは、それぞれ独自の作業に没頭し、互いに視線を交わさない。この「原子化された人物配置」は、資本主義社会における労働の分業と、近代人の心理的な孤立を、空間として見事に描き出している。
皮肉なことに、この資本主義の観察劇は、ドガ自身の運命とも重なった。ムッソンの綿花仲買会社は市場の暴落で破産の危機に瀕しており、さらにドガが帰国した翌年(1874年)、パリの実家の銀行も父の死と不況で多額の負債を抱えて破綻する。一族の名誉を守るため、ドガは実家の借金を肩代わりし、自身のコレクションや財産を売却せざるを得なくなった。ニューオーリンズで資本主義の非情を目撃した旅は、彼自身を「自らの絵を売って生活する」という経済的自立の現実へと引きずり込んだのである。なお《綿花取引所》は1878年にポー美術館へ売却され、印象派の画家の作品として世界で初めて美術館に収蔵された絵画という歴史的な地位を得た。
ゆかりの地一覧
本記事で扱ったドガのゆかりの地を、所在地・現状・関連作品とともに一覧化する。住所は当時の名称と現在の名称を併記した。海外の地点も含む。
| # | 場所 | 所在地(当時/現在) | 現状 | 関連作品・出来事 |
|---|---|---|---|---|
| 01 | 生誕地 | パリ9区 サン=ジョルジュ街8番地 | 市街地 | 1834年、ドガ誕生 |
| 02 | 初期アトリエ | ラヴァル街13番地/現ヴィクトール・マセ街13番地 | ホテル・ミニ | 帰国後の歴史画・家族の肖像 |
| 03 | 終の棲家アトリエ | ヴィクトール・マセ街37番地 | 市街地 | 1890–1912年。写真実験・彫刻・パステル |
| 04 | 最後の住居 | クリシー大通り6番地 | 市街地 | 1912–17年。制作を断ち、孤独に死去 |
| 05 | オペラ座 ル・ペルティエ劇場 | ル・ペルティエ通り | 1873年焼失(現存せず) | ダンス教室、オペラ座のオーケストラ |
| 06 | カフェ・ド・ラ・ヌーヴェル・アテーヌ | ピガール広場 | 界隈は現存 | アブサンの舞台とされる |
| 07 | イタリア(フィレンツェ・ナポリ) | トスカーナ州・カンパニア州 | 都市として現存 | ベレッリ家の肖像 |
| 08 | メニル=ユベール城 | ノルマンディー オルヌ県 | 現存(歴史的記念物) | 馬・競馬の主題、戦禍の避難、撞球室 |
| 09 | ドガ・ハウス | ニューオーリンズ エスプラネード大通り2306番地 | B&B・美術館として公開 | ニューオーリンズの綿花取引所 |
ドガが移り住んだ主な住所
| 居住年 | 住所(当時の名称/現在の名称) | 空間における出来事・特色 |
|---|---|---|
| 1834年 | サン=ジョルジュ街8番地 | ドガの生誕地。芸術的環境のブルジョワ家庭に育つ |
| 1859–1872/73年 | ラヴァル街13番地(現ヴィクトール・マセ街13番地) | 帰国後の初期アトリエ。歴史画・家族の肖像。現在ホテル・ミニ |
| 1872/73–1876年 | ブランシュ街77番地 | ニューオーリンズから帰国後に居住。第1回印象派展の準備拠点 |
| 1876–1877年 | フロショ街4番地 | ヌーヴェル・アテーヌに隣接。カフェ・バレエの主題を本格化 |
| 1877–1878/79年 | ルピック街50番地 | モンマルトルの丘の上層に位置 |
| 1878/79–1882年 | ピエール・フォンテーヌ街19番地 | 近代生活の観察を深めた時期。現在は記念プレート設置 |
| 1882–1890年 | ジャン=バティスト・ピガール街21番地 | パステルの浴女・踊り子の連作が増加 |
| 1890–1912年 | ヴィクトール・マセ街37番地 | 後期の主要アトリエ。写真実験・彫刻・膨大な美術品の収集 |
| 1912–1917年 | クリシー大通り6番地 | アトリエ解体で強制退去した最後の住居。孤独に死を迎える |
ドガの芸術を形づくった4つの地域
| 地域 | 時期 | 空間の性格 | もたらした主題・成果 |
|---|---|---|---|
| パリ(モンマルトル) | 生涯 | 人工光の室内、劇場、カフェ、労働空間 | 踊り子、カフェ、帽子屋、写真実験 |
| イタリア(フィレンツェ・ナポリ) | 1856–60年 | 亡命家族の邸宅、ルネサンスの古典 | ベレッリ家の肖像、心理的リアリズム |
| ノルマンディー(メニル=ユベール) | 1861年頃–晩年 | 城と自然、競馬場、戦禍の避難所 | 馬・競馬、運動の視覚化、静かな室内 |
| ニューオーリンズ | 1872–73年 | 新興資本主義の商業空間、母の故郷 | 綿花取引所、初の美術館収蔵作 |
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 生誕地 | パリ9区 サン=ジョルジュ街8番地(1834年) |
| 生活の核 | パリ9区〜モンマルトル/ピガール周辺の限られた一帯 |
| 終の棲家 | ヴィクトール・マセ街37番地(1890–1912年) |
| 主要な舞台空間 | オペラ座ル・ペルティエ劇場(1873年焼失) |
| 海外滞在 | イタリア・ノルマンディー・ニューオーリンズ |
| 現存・公開施設 | ドガ・ハウス(ニューオーリンズ、B&B・美術館) |
| 没地 | パリ(クリシー大通り6番地、1917年) |
図版クレジット一覧
ドガの絵画作品は著作権保護期間を満了し、パブリックドメインにあります。オルセー美術館所蔵作品の画像はGoogle Arts & Culture等を通じて公開されています。一方、現地写真(ヴィクトール・マセ街、ドガ・ハウス)や古写真(ヌーヴェル・アテーヌ)、古版画(ビュオ)、ドガ本人の写真作品は、撮影者・版元・公開者のライセンス(CC-BY-SA/CC0/PD 等)がファイルごとに異なります。利用時は各ファイルページの表記に従い、商用利用の際は必ず個別に確認することを推奨します。
| # | 使用章 | 種別 | Commons ファイル名 | 内容 |
|---|---|---|---|---|
| 01 | ヒーロー | 古版画 | File:La place Pigalle en 1878 par Félix Buhot.jpg | 《1878年のピガール広場》フェリックス・ビュオ |
| 02 | q1 | 現地写真 | File:Rue Victor Massé, Paris 30 June 2013.jpg | ヴィクトール・マセ街(旧ラヴァル街)の現在 |
| 03 | q2 | 写真作品 | File:Edgar Degas self portrait photograph.jpeg | ドガ自身による自画像写真 |
| 04 | q3 | 油彩 | File:Edgar Degas – The Orchestra at the Opera – Google Art Project.jpg | 《オペラ座のオーケストラ》1868–70年頃(オルセー美術館) |
| 05 | q4 | 古写真 | File:Café de le Nouvelle Athènes. (before 1900).jpg | カフェ・ド・ラ・ヌーヴェル・アテーヌ(1900年以前) |
| 06 | q5 | 油彩 | File:Edgar Degas – The Bellelli Family – Google Art Project.jpg | 《ベレッリ家の肖像》1858–1867年(オルセー美術館) |
| 07 | q6 | 油彩 | File:Edgar Degas – Billiard Room at Ménil-Hubert – Google Art Project.jpg | 《メニル=ユベールの撞球室》1892年頃(オルセー美術館) |
| 08 | q7 | 現地写真 | File:Degas House.jpg | ドガ・ハウス(ニューオーリンズ、エスプラネード大通り2306番地) |
REFERENCES / 出典参考文献
アトリエ・パリのゆかりの地
- Edgar Degas, a Classical Realist Capturing Movement(アトリエ遍歴) — Montmartre Footsteps
- 4 Rue Frochot: Degas’s Studio and Home from 1877 — The Paris Atlas
- Category:Café de la Nouvelle Athènes — Wikimedia Commons
- Salle Le Peletier — Wikipedia
作品と場所
- Edgar Degas (1834–1917): Painting and Drawing — The Metropolitan Museum of Art
- The Orchestra at the Opera — Wikipedia
- The Bellelli Family — Wikipedia
- Château de Ménil-Hubert-en-Exmes — Wikipédia
- A Cotton Office in New Orleans — Wikipedia
ニューオーリンズ・ドガ・ハウス
- Degas House(公式サイト)
- Esplanade Avenue, New Orleans — Wikipedia
画像(Wikimedia Commons 主要ファイルページ)
- File:La place Pigalle en 1878 par Félix Buhot.jpg
- File:Rue Victor Massé, Paris 30 June 2013.jpg
- File:Edgar Degas self portrait photograph.jpeg
- File:Edgar Degas – The Orchestra at the Opera – Google Art Project.jpg
- File:Café de le Nouvelle Athènes. (before 1900).jpg
- File:Edgar Degas – The Bellelli Family – Google Art Project.jpg
- File:Edgar Degas – Billiard Room at Ménil-Hubert – Google Art Project.jpg
- File:Degas House.jpg




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